作品名 |
作者名 |
カップリング |
『少年と少女の平行線』 |
ヤギヒロシ氏 |
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ガチャン。
小久保君は小母さんを追い出すかのようにドアを閉め鍵をかけると、腰に両手を当て大きな溜息を
ついた。
「……ったく、何言ってんだか……」
軽く頭を振り、やれやれという風情で漏らす。
―― その背中を、私はどんな表情で見つめていたのだろう。
小母さんの言いかけていた言葉が、私の頭の中でグルングルン回っている。
『安全日』。
それの意味するところは、きっと一つしかない。
小母さんは、私と小久保君が――その、アレ――しちゃう時のことを考えてるんだ。
ああ、何てことだろう。
たしかに、彼の家に泊まるということで、多少は、期待していたかもしれない。
でも、小母さんもいるし、きっとそんな事にはならないだろうなって諦めかけていた。
それが一転して、二人っきりで彼と一夜を過ごすという事態になった。
期待と、それ以上の緊張感が私の胸をぎゅっと締め付ける。
鼓動が猛スピードで高鳴る。
身体の奥が熱い。
呼吸が苦しい。
視界が霞む。
……私の暴走がちな想像力は、既に睦み合う二人の姿を模り始めていた。
ベッドの上で寄り添いながら、その重ねあった両手を、緊張に震えながら互いの衣服に伸ばし、
ゆっくり肩の上を滑らせる。やがて、二人の影が相手を求め一つに――
「……天野? どうかしたか?」
気がつけば、小久保君がこっちを見ていた。少し怪訝そうな表情で小首を傾げている。
我に返った私は後ずさりながら、はしたない妄想に走った自分を誤魔化すように慌てて目の前で
両手を振った。
「な、何でもないよ! うん本当に、ホントに何でもないから!」
無理矢理に笑みを作る。背筋を冷や汗が滑り落ちる。口の端辺りが引き攣ったような気がした。
そんな私に、彼もまた、無理に作った苦笑いのような笑みを返してくれる。
「……あのさ、天野」
「な……なに?」
「そんな緊張して硬くなんなくていいよ」
ポリポリと頬を掻く彼の声は、とても優しい。
「お袋やエロメガネがおかしな事吹き込んだかもしれないけどさ――」
……私を気遣い、不器用に微笑む彼は、本当に――憎たらしいほどに――優しい。
「――俺は別に、お前に何かしようだなんてこれっぽっちも思ってないから」
冷蔵庫の上に置かれたテレビの中で、二人のコメディアンが織り成す軽妙なやり取りを耳に素通り
させながら、俺はテーブルを挟んで斜め前に座る天野に声をかけた。
「あー……最近こいつら面白いよな?」
「……そうね、面白いね」
「……」
「……」
「……」
「…………フゥ」
……おかしな事になった。いや、天野と二人きりで晩飯を食っているこの状況がもう既におかしいと
言えばおかしいのだが、それに輪をかけておかしいのが天野の様子だ。
お袋が用意してくれた晩飯を食べている間、いきなり溜息をついたり、気がつけば、悟りを開いた
かのような覇気の無い目で俺の面を眺めたりしている。話し掛けても返るのは気の抜けた生返事ばかり。
一体、俺が何をしたって言うんだ。
一体、天野は何が不満だと言うんだ。
彼女は、普段は大人しく温厚な性格だが、怒る時は鬼のように徹底的に怒る。
以前、本気の彼女を前にした時、あの気の強い若田部がガタガタ震えて涙を浮かべていたくらいだ。
だが、今回は明らかな怒気ではない分怖くは無いが、不気味でたちが悪い。
食事中、ずっと自分の行動を振り返りながらその原因を探ったが、思い当たる節が全く無い。
それでも、天野は黙々とご飯を口に運びながら、息の詰まるようなプレッシャーを俺にかけてくる。
俺はひたすらに、早くこの拷問のような食事風景が終わる事を祈って、斜め前から視線をそらしつつ
自分の分のおかずを急いでかき込んだ。
いつになく、今夜の肉じゃがは味気なかった。
さっきの小久保君の言葉には、正直言ってへこんだ。
彼のことだから、この突然のシチュエーションに戸惑う私を気遣ったつもりなのだろうけど、
その優しさに対する嬉しさよりも、その声音に本心を偽る響きが無かったことの方がショックだった。
確かに、彼は去年の夏祭りの時に言っていた。私を含めた5人の女の子を全て女性として見ていないって。
多分、それは本音なんだろう。
でも、だからって、アプローチする意思が皆無だなんて真正面から言われれば、例え小久保君に
気がない女の子でも多少は傷つくと思う……ましてや、私は、本気で小久保君の事が好きなのだから。
「………………フゥ」
知らず知らずのうちに漏れてくる溜息と一緒に、こんな不毛な期待感も吐き出せればいいのに。
けど、そんな簡単に解消できる想いであるなら、10年も彼を好きでなんていない。
もう、何で小久保君の事が好きなのかなんて分からなくなるくらい、小久保君が好き。
いつから好きかだなんて、もう忘れてしまうくらい前から、ずっと小久保君が好き。
私が私でいる事は、小久保君を好きである事と同義なくらい……マサちゃんが大好き。
「………………フゥ」
こら、マサちゃん。テレビばっか見てないで、もっと私の方を見てよ。
私はいつだって、マサちゃんのことを――マサちゃんだけを見てきたんだから。
「………………フゥ」
……って、無理だよね。
私が想い続けたのと同じだけの時間、『ただの』幼馴染みであり続けた小久保君だもの。
「あー、食った食った。じゃあ、先に風呂入っちまうから、天野はゆっくり食っててくれよ」
「……あ――」
食器類を流しに片付けると、テレビの音声だけが響く台所から逃げ出すように、というか俺は本気で
逃げ出した。さすがにもう、この沈黙は耐えられなかった。
一つ屋根の下に二人きりという状況は変わらないが、せめて最前線からは撤退したい。
二階に駆け上がると自室に飛び入り、替えの下着と寝巻きのスウェットを手早く用意し、風呂場に向かう。
だが、まだ危機はそこにあった。
我が家の構造上、風呂場に行くには台所の前を通らざるを得ない。
「小久保君――」
そう、天野がルームガーダーの如く、風呂へ向かう通路の途中で俺を待ち構えていたのだ。
壁に凭れ掛かり、正面で組んだ両手を小さく前後に揺らしている。
ただその表情は、影でも差したかのように暗く、冴えない。
「……あ、天野、もう飯食ったのか?」
ううん、と頭を振ると、ちらと上目遣いに俺を盗み見る天野。
「じゃあ、トイレか?」
ううん、と頭を振ると、チラと上目遣いに俺を盗み見る天野。
またもや、沈黙の帳が下りる我が家。
ど……どないせいっていうんじゃ!?
「……じゃあ――」
俺は、最終手段に出た。
「――一緒に風呂にでも入るか?」
「……え?」
弾かれたように大きな瞳を見開いた天野は、一瞬表情と全身を強張らせると
「……え……と……」
もじもじと上着の裾をつかみながら、耳の先まで真っ赤になって俯いてしまった。
「ちょちょ、ちょっと待ってくれ!」
「……え?」
再び、弾かれたように大きな瞳を見開く天野。
「そーゆうリアクションじゃなくて、昼間みんなにやったみたいにツッコんでくれよ!」
「あ……え……はっ」
呆けた天野の表情が、やがて安堵したかのような柔らかなものに変わって、
「や……やだなぁ小久保君っ、それってセクハラだよっ?」
とん、と俺の胸元を押す天野は、何処か無理矢理な感じだが突っこんでくれた。言葉とは裏腹の笑顔で。
そして、俺もまた安堵の溜息を吐く。
「……あー、よかった」
「え? 何が?」
「いやお前、さっきっからやけに暗かったからさ。ちょっとは元気になった?」
「あ……ああ、ちょっと、突っこみ疲れちゃってたかな?」
あははは、と困ったような笑顔で天野は頭の後ろをポリポリかいた。
「それならいいんだけどさ。俺も元気な天野のほうが好きだからな――」
うん。分かってる。
マサちゃんが、私の「好き」と同じ意味で「好き」って言ってくれた訳じゃないって。
それでも、彼の一言は私の心をふわふわした無重力状態にするのに十分な破壊力を持っていた。
夢見心地で台所に戻り、いつの間にか残ったご飯を平らげても、にやつく口元を戻せないままの私。
―― あんた、今年から受験生なのにちょっと浮かれすぎなんじゃない?
ふと、昼間リョーコさんに言われたセリフが脳裏を過ぎった。
うん、確かに今の私は、自分でも浮かれまくってるって思う。
でもせめて、彼がお風呂から上がるまでくらいは幸せに浸ってても、学問の神様もバチを当てないよね?
さてと、食器を片付けようとして、まだ彼の分が流しに残っている事に気がついた。
よし、折角だから一緒に洗っちゃおう!
スポンジに台所用洗剤をかけて、2・3回握り締めると泡立ち始めた。
それを右手に、プラスチック製のタライに入った食器を一つ左手に取ったところで、背後から
「あれ、天野? 洗い物なんて俺がやっとくからいいよ。」
お風呂上りのマサちゃんがやってきた。
ほんのり上気気味のマサちゃんに色気を感じてしまうのは、ちょっと贔屓目なのかな?
「いいからいいから。お世話になってるんだからこれぐらいさせてよ」
「いや悪いって。天野はお客さんなんだから、その辺でテレビでも見てろって」
「だーめ。私がやるの」
「おい、それ貸せよ」「いやー」「こらー」
勝手に洗い始めた私の手から、食器を奪い取ろうとするマサちゃんと、全身を使ってガードする私。
マサちゃんは怒ったような顔を作ってるけど、目は笑っている。
うふふ。なんか、こういうのいいな。
同棲しているカップルがいちゃいちゃしているような、こんなマサちゃんとの触れ合い。
やがて、マサちゃんが私の左手首を掴んで正面を向けさせた。
「あ……」
「さあ、掴まえたぞ……と」
私達は、いつしか互いに抱き合うような格好になっていた事に気づく。
「……マサちゃん」
「……ミサキ」
マサちゃんの左手が優しく撫でるように、私の背中に回される。
緩められた手首を下げて、私は食器を流しに置き、そのままマサちゃんの首の後ろで両手を絡める。
爪先立ちになった私を支えるように、マサちゃんは私の身体を両腕で抱きとめた。
絡まる視線と視線。触れ合う吐息と吐息。そして、微笑みあう二人は当たり前のように両の瞳を閉じ――
「あっそ。じゃ、いいや」
……あれ? ……あ、まずい。また、想像が一人歩きしちゃったみたい。
私の想像と違って、あっさりと引くマサちゃん。……ちょっと、残念。
「う、うん。じゃ、私が――」
「けどさ」
マサちゃんが私の横に並んで台所用タオルを手にした。
「お前が食器を洗って、俺が拭いて食器棚に並べる。それぐらいならいいだろ?」
「……うん!」
「……はいっ、小久保君♪」
「おう」
「……はいっ、小久保君♪」
「おう」
洗い終えた食器を一つ手渡すたびに、俺の名を呼び微笑みかけてくる天野。
どうやら、天野の機嫌はすっかり直ったらしい。終始ニコニコ顔で油汚れに立ち向かっている。
安堵感に胸をなでおろしながら、テストで難解な方程式を後回しにしたような気分にもなった。
全くもって、女心というのは分からない。
長年、付き合ってる天野ですらこうなら、他の女の子の気持ちなんてなおさら分かりそうもないな。
ガラスコップにタオルを突っこみながら、俺はぼんやりとそんな事を考えている。
「……あれっ、もう終り?」
天野が、なぜか残念そうな声を出すのを背中越しに聞く。
食器棚の戸を閉めると、振り向いた俺と天野の視線がぶつかった。
「ほい、お疲れさん。天野も風呂入って来たらどうだ?」
「その辺に並んでるのも洗いなおそうか?」
「なんでやねん」
「折角だから」
「だから、なんでやねん」
余計な親切を繰り出そうとする天野の背を押して台所から追い出した。
……ほんと、全くもって、女心というのはよく分からん。
新婚さんのようなウキウキした気分の余韻を残しながら、いそいそと衣服を脱ぎ、脱衣籠に畳んで
入れた。
生まれたままの姿になって、浴室に入る。
出迎えてくれた湯煙に少しだけ息苦しくなりながら、戸を閉めた。
うちより、少し広めのお風呂。そういえば昔、マサちゃんと一緒に入ったこともあったっけ。
ふと、ここにさっきまでマサちゃんが裸でいたんだなぁと想像しかけて、それを打ち消すように
ブンブンと頭を振った。
いけないいけない。このままじゃ、ちょっぴりエッチな女の子から立派な痴女さんになってしまう。
気を取り直してシャワーのコックを捻り、少し熱めなお湯を全身に浴びせかけた。
そのままボディソープをお風呂用タオルに垂らして、身体をゴシゴシ擦る。
心持ちいつもより丁寧なのは余計な雑念を取り去るためであって、それ以上でもそれ以下でもない。
多分。きっと。
もう一度シャワーを浴びて泡を流し落すと、湯船に片足から入る。
ちょっと温いかな。マサちゃんは温めの方が好きなのかも。覚えておこうっと。
「……」
そんな事を考えていたのが悪かったのか、肩までお湯に沈めて、ふと、さっきまでマサちゃんが
この湯船に浸かっていたということを意識し始めてしまった。
マサちゃんのエキスが、このお湯の中に溶け込んでいるんだ……。
……湯面を眺める。
……凹凸のない見慣れた体が歪んでいるのが見える。
ピチャ。
……手を顔の前に出し、濡れた指先を眺める。
……舐めてみた。
……お湯の味がした。
……い。
「 い や あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ 〜 〜 〜 〜 !! 」
ものすごい勢いの足音が響き、脱衣所の前で止まった。
「どうした天野!! 大丈夫か!?」
「違うの! 大丈夫なの! だから来ないで! お願い来ないでぇ!」
「……いや、でも、何かすごい悲鳴が聞こえたんだけど」
「虫! おっきな虫がいたの! でももうどっか行っちゃったから大丈夫!」
「そうなのか? なら、いいけど」
少しずつ、マサちゃんの足音が小さくなっていく。
ゴメンねマサちゃん。
マサちゃん、本気で私のこと心配してくれたのに……私、嘘ついちゃった。
でも、『痴女なんてすっ飛ばして、変態さんになってしまった自分に驚いて悲鳴をあげた』なんて
言える訳がないよ……もう。
それに……近づいてくる足音に、もしかしたらこの浴室まで飛び込んでくるんじゃないか、なんて
少しだけ期待していたなんて……。
……ああ、もう、私は、エッチで、痴女で、変態で、最低な女の子です。
ゴメンね、マサちゃん。
もう、マサちゃんの知っている天野ミサキはいないかも。
イヤだよね。こんな幼馴染みに好かれているなんて。
……胸も小さいし。
でも、それでも、私は……マサちゃんのこと……
「……ぅん……んん……はぁ……」
若田部さんのような発育のいい子と比べなくても、私の身体がお子様体型なのは明らかだ。
それでも、胸や女の子の所に触れれば、思考が止まり、お腹の奥がジンと熱くなることがある。
『貧乳は感じやすい』とか、何かの拍子で見たマンガに描いてあったけど、私はどうなのかな。
他の子と比べた事なんてないから、分からない。今は、分かりたくもない。
「……あぁん……マサ……ちゃぁん……」
荒くなった呼吸の切れ間に、愛しい幼馴染みの名が零れる。
その度に、自分の身体を弄るこの両手が彼のものかのような錯覚を覚え、更なる昂ぶりに溺れそうになる。
胸の控えめな隆起の先で固くとがった乳首の先に、指の腹を擦りつけるとぞくっと電気のようなものが
身体を駆け抜けていく。強く抓れば一気に高みに上りつめる事ができることを知っているからこそ、
私はやわやわと、このしこった感触をこね続けた。
「……イィ……いいよぉ……」
じわじわと身体の奥底から生まれてくる熱が思考を溶かし、唇の端から何かが零れ落ちる感触にすら
心地よさを覚えてしまう。
でも、はしたなく涎を零すのは唇だけではない。
湯に浸かりながらも、あそこからは周りと比べて一際高い温度の液体が漏れ出しているのが分かる。
その感覚は疼きとなり、焦らされた分の刺激を貪欲に求めていた。
「……ふぁ!」
そっと脚と脚の間の一点に触れると、それまでとは比べ物にならない感覚が指先まで貫いていく。
思わず身を捩ってしまうが、それもいつもの事。
指先が別人の動きで擽るように優しく撫でると、蜜のような液体があそこからじわりと溢れ出した。
「……マ……サ……ちゃあんっ……」
びくんびくんと背中が細かく痙攣する。
だが、まだ私は達していない。
一番熱い部分に、私は中指を挿入した。
「くぅん!」
深く入れすぎると痛みを伴うが、第二関節くらいまでならもうすっかり慣れていた。
中指をゆっくり出し入れしながら、親指で固くなった突起をこねる。
「ひゃっ!」
……もう、止まれなかった。
左手は乳房を周囲の皮膚を巻き込みながら鷲掴みし、その指の股に乳首を挟み込んで揉みしだいた。
右手は股間の突起を摘み上げ、絞り上げるように細かい振動で断続的な刺激を与え続ける。
込みあがる快感が理性のたずなを切り落とすまで、そう、長い時間は要らなかったように思う。
そして、目の前の霞みが溢れる涙だという事に気づいた瞬間、世界が弾けた。
「イッちゃうよぉ……マサちゃあぁん!!」
ニュース番組のスポーツコーナーが終わり、ふと時計を見ればもうすぐ11時。
天野は、まだ風呂から出てこない。
確か、洗い物が終わったのが8時頃だったから、都合3時間近く風呂に入っていることになる。
女の子は1時間くらい平気で風呂に費やすということを聞いたことがあるが、3時間って言うのは
ちょっと長すぎやしないか?
さすがにおかしいと思った俺は、様子を見に行く事にした。
とはいえ、普通に浴室まで入ってしまえば俺は完全に痴漢男になってしまう。
風呂場に到着した俺は、ひとまず、脱衣室の外から声をかけることにした。
「おーい。天野ー」
…………。
……。
へんじがない。ただのしかばねのようだ。
「……って、そりゃまずいだろ!」
一人ツッコミを入れた後、戸をノックする。
「おーい。天野ー。まだ入ってるのかー?」
もう出ているのかとも思ったが、擦りガラスの向こうの電気はまだ点いているようだ。
あのしっかり者の天野が、電気を消し忘れるような事はないだろう。
「天野ー? 返事しないと入っちまうぞー?」
…………。
……。
へんじがない。ただの――
「だからそれは、もういいっちゅーの」
意を決し、俺は脱衣所に足を踏み入れた。
……身体がふわふわする。
頭はぼんやりしている。
首の下や額がひんやりして気持ちいい。
全身を撫でる優しいそよ風が心地良い。
ずっと、このままでいたかったけど、両の瞼はうっすらと視界を広げてしまっていた。
「お……天野、起きたか?」
あ……マサちゃんの声だ。
ということは、ここはマサちゃんの部屋なのかな?
でも、いつの間に私、マサちゃんの部屋に――
「はっ!?」
飛び起きた私は千切れそうな勢いで首を左右に振り、周囲を確認した。
左手、真っ白な壁。右手、マサちゃんの部屋の備品&マサちゃん。
間違いない。ここはマサちゃんの部屋。
でもでも私は確かお風呂に――
「無理すんな天野。これ飲んで、もうちょい寝てろ」
マサちゃんが、スポーツドリンクのペットボトルを取り出し、その口を私の唇にくっつけた。
反射的に口を開くと、少しだけ傾けて一口分くらい注ぎ込んでくれる。
それをゴクリと飲み干すと、漸く意識がはっきりしてきた。
でも、熱っぽさは残っていたから、マサちゃんの言うとおり、もう一度身体を横にする。
マサちゃんは座布団の上に胡座をかいたまま、何も言わずに団扇で私を扇いでくれた。
強すぎず弱すぎず、まるで冷えた羽毛に包まれているような感じで、すごく気持ちいい。
暫くこの感覚に浸っていたかったけど、さすがに、訊かずにいられなかった。
「ねぇ……マ……小久保君……私……一体どうしたの?」
小久保君は、苦笑いを浮かべながら、応えてくれた。
「いやぁびっくりしたぞ。お前が湯船で伸びてたのを見た時、冗談じゃなく心臓止まるかと思った」
……うわぁ……私、最低……。
小久保君ちのお風呂で一人エッチしたあげく、のぼせて小久保君に助けてもらったんだ。
アイスノンと氷枕で冷えた頭に、またカーッと血が上ってくる。今度は恥しさのせいだけど。
でも……という、ことは……もしかして……ううん、きっと……
「……小久保君?」
「な、なんだ?」
小久保君は、団扇を揺らす動きを止めて、あとずさるような姿勢になった。
「………………見た?」
小久保君が、顔を赤くする。
「…………見たの?」
小久保君が、視線を逸らす。
「……見たのね?」
小久保君が、天を振り仰ぐ。
「見たんでしょ?」
小久保君が、こくりと頷いた。
「い、いや、でも、事は急を要する事態だったから! それになるべく見ないように服着せたし!
そう、第一、慌ててたからほとんど覚えてないから! いやホントに何も見てないのと同じ――」
ゴツン☆
そーですかそーですか。ちょっと慌ててたくらいで記憶から無くなるような貧相な体躯ですか。
まあ、そうですね。それは確かですからね。えーえーどうせ私はお子様体型ですよーだ。
相変わらず論点のずれた弁解を続けているけど、君はもう暫くそのまま反省してなさい。
小久保君は、私が臍を曲げたままなので諦めたのか、黙って再び団扇であおぎ始めた。
……うん。本当に気持ちがいい。
なんだか、南国のお姫様か女王様にでもなったような気分。
「……小久保君」
「な、なんだ?」
「ありがとう」
「……気にすんな」
「うん、気にしない」
小久保君がちょっと変な顔になった。そんな表情も、好き。
「……小久保君」
「なんだ?」
「ずっと、このまま一緒にいられたらいいね?」
小久保君がちょっと困ったような顔になった。そんな表情も、好き。
「……俺はずっと、お前を扇いでいなきゃいけないのか?」
……知りません。でも、そんな鈍チンな小久保君が……マサちゃんが……大好き――
ちゅんちゅん。
小鳥の鳴き声に目を覚ます。
既に、周囲は陽の光が満ち、朝の訪れを告げている。
枕もとのデジタル時計は『05:17』を示していた。
ああ……結局、昨晩は小久保君のベッドで寝ちゃったんだ。
身体を起こして目尻を擦り、んーっ、と背筋を伸ばすと、
「……あ……」
小久保君が、ベッドにもたれかかるようにして眠っていた。
その左手にはしっかりと団扇が握られている。
全く、この人は……。
起こさないようにそっと身体を掛け布団から引き抜いて、小久保君の背中に毛布を掛ける。
「……ん……」
むずがるように寝息を漏らすマサちゃん。折角なので、その寝顔を観察してしまおう。
……うーん。特別美形って訳じゃないんだけど、見てるだけでドキドキしちゃうのは、ホントに私は
小久保君が……マサちゃんの事が大好きだからなんだなぁ。
「……んん……」
マサちゃんの口が開き、軽く唇を濡らした。
艶やかなピンク色の唇が、朝日を浴びて煌く。
あーっ!我慢できない! どーせ私は変態さんなんだから、少しくらい暴走したっていいじゃない!
……でも、さすがに唇はまずいから、ほっぺだけにしとこ。
「……マサちゃん……」
私は髪を耳の後ろにかき上げ、瞳を閉じた。
ちゅっ。
パシャパシャ!
「……………………え?」
爽やかな朝に似つかわしくない、盗撮っぽいシャッター音。
恐る恐るその方向に顔を向けると、昨日ひたすらボケ倒した三人組が戸の隙間から縦に並んでいた。
そのうち二人はカメラ付き携帯電話のレンズをこっちに向け、もう一人はふらふらと左右に危なっかしく
揺れている。
「あ……あ……あ――」
『シーッ!』
二人の女子大生が人差し指を唇の前に立て、携帯電話の先で小久保君の方を指す。
起こしちゃいけないという意思表示なんだろうが、この人達がやられると無性に悔しい。
気色ばんだ私は、にやついている2人と半分寝ている1人に詰め寄った。
(何やってるんですか3人して!)
(いやね、焚付けた立場上、その成り行きを最後まで見届ける責任が私達にはあるかと)
(一切ありません!)
(えっと、私は先輩を止めたんだよ? でもね、教え子達の行く末を案じる親心と言うか)
(同罪です!)
(ミサキ……ちゃん……大人……なった……の……?)
(いいからアンタもう帰って寝なさい!)
……今日も朝から、突っこまなきゃならないの?
(ところで、どうやって入って来たんですか? 鍵はちゃんと掛けたは――)
(じゃじゃーん)
リョーコさんが自信満々に、テレビとかで紹介する時にはモザイクがかかりそうな金属製の道具を
私の目の前に差し出す。あなた達、立派な不法侵入者です。
(そんなことより……)
(……なんですか?)
(この様子を見ると、どうやらロストバージンはまだみたいね。一晩同じ部屋で寝てたっつーのに)
リョーコさんは、期待を裏切った教え子に失望するような表情で携帯の写真を見せてくる。
うわー、綺麗に撮れてる……ぎこちない感じが良く出てて……じゃなくて!
(そ、そんなのいいじゃないですか! それより、それ消して――)
携帯電話を奪おうとする私を軽くかわして、
(ちゃんと誘惑したの? マサだって男の子なんだから、乳の一つでも見せてやれば襲ってくるっての)
言うに事欠いて、一体何を言い出すんでしょうかこの人は。
(だめですよ先輩。ミサキちゃんは真面目なんだからそんな事出来ません)
そうです。そんな事(結果的には同じような状況になったけど)できませんが、何で朝っぱらから
普通のテンションでそんな会話してるんですかあなた達――
(……それに、実は本当に裸見せたのに、何もされなかったんだとしたら可哀想じゃないですか)
ピクン。
(そっかなー。多少貧乳だろうが、相当魅力のない裸じゃない限り、普通襲ってくるわよ?)
ピクピクン。
(あ……ミサキ……ちゃん……タテスジ……入ってるよ?)
プッチーン!
「だああああ!! あんたらとっとと帰れえええええええ!!」
朝っぱらからの、穏やかでない喧騒に自然と目が覚めてしまった。
変な姿勢で寝たせいか、首と腰が痛い。
起き上がり喧騒の原因に視線を移すと、ギャーギャー喚き散らす天野がキャーキャー言ってる先生達を
追い掛け回している。
ふと、視線を下に移せば、的山が俺の膝の上に凭れながらすうすう寝息を立てている。
「……やれやれ」
慣れというのは怖い。
朝っぱらからこんな状況なのに、全く慌てていないとは俺も随分と図太くなったものだ。
受験生の緊張感からは無縁な、異常でいて日常の風景。
だけど、それもそれでいいか、なんて思い始めている俺がいる。
できれば、このままずっとみんなと一緒でいたいだなんて……贅沢な望みなのだろうか。
「さて……」
事情はよくわからないが、とにかく今日も元気な天野を止めるため、俺は的山を座布団の上に寝かし
立ち上がった。
(おしまい)