作品名 作者名 カップリング
『Warp 対岸の兄妹』 白帯侍氏 マサヒコ×アヤナ

「私、近いうちに・・・・言おうと思っているんです」
お世辞にも綺麗と言えない部屋。そこで二人の女性が向かい合って座っている。
真摯な眼差しを正面に座る女性へと向け、アヤナが告げた。
「本気で言ってるの?」
アヤナの正面に向かい合っている女はそう呟き、下に向けていた視線を正面に向けた。
その眼差しは鋭い。心の中が見透かされてしまいそうな瞳だ。
だがアヤナは目を逸らさない。顔は強張っているが目の力は揺るがない。
時間が永遠に引き延ばされる。時が止まったかのように二人の間に動きがなかった。
その沈黙を最初に破ったのは女—中村リョーコだった。
「あんたからそういう事聞けるなんてね」
「・・・・お姉様、こういう話嫌いでしたね」
「はっきり言ってね。でも・・・不思議と今は嫌な感じはしないわ」
リョーコの顔が微笑みに変わる。滅多に見せない優しさに満ちた微笑だった。
「まぁせいぜい頑張ってみなさい。あ、でも避妊はしっかりしなさいよ」
「はははは・・・・」
リョーコの言葉にアヤナは困ったような、照れているような笑顔をみせた。

「・・・あと少しで大体分かるからさ・・・うん・・・・ん、じゃあ」
スタンドの仄かな明かりしかない薄暗い部屋。
男は電話先の相手に別れをつげて電話を置く。そして盛大にため息をついた。
全く・・・ここ最近は電話を掛けられっぱなしだ。
まぁ、娘を心配するのは分かるから強く批判することはしないが。
男はテーブルの上に置かれている写真に目をやる。
「アイツはこういう奴が好みなのかね?」
誰に言うともなくそう呟いて、テーブルの上に置いてあったウイスキーを口に運ぶ。
男はグラスの中を飲み干し、ベッドの中にもぐる。
スタンドの明かりを消すと部屋は完全な黒に包まれた。
そしてその闇の中、男はぼんやりとした頭で思考をめぐらせた。
彼にはいつ会いに行こうか。今週は忙しいから来週になるか。
なるべく早く済ませたいものだ。
妹の件でいつまでも母から電話をもらうのは、いい加減うんざりだ。


講義が終わりマサヒコは大きく息をついた。
今日の講義はこれで終わりだ。バイトも今日は入っていないのでこの後は何をするも自由だ。
帰る準備をしていると友人の高橋がマサヒコの所にやってきた。
高橋の顔は綻んでいる。それでマサヒコは大体の用件を掴んだ。
「なぁ小久保。今日夜空いてるか?」
「・・・・合コンか」
「そうそう。今日は寛院大の女。あそこは上玉多いぞ〜」
うりうりと肘でマサヒコを突いてくる。マサヒコは思わず苦笑を浮かべた。
こういう誘いは大学に入ってからは少なくはなかった。
整った顔立ちで、女性との会話もそつなくこなすマサヒコはよく重宝された。
そしてマサヒコも、このような誘いをなるべく受けるようにしていた。
別に異性と知り合いたい訳ではない。友人との良い関係を保つためだ。
が、最近は少し様子が違っていた。
「悪い。今日はちょっと用事があるから無理」
「マジかよ〜〜今日お前が来てくれないとちょっとキツいんだよ〜」
「だから悪いって。次は絶対付き合うからさ」
両手を合わせて謝る格好をとる。
高橋は仕方ないなと息をつき、その場から離れていった。

マサヒコは遠ざかる友人の後ろ姿に心の中でもう一度謝った。
今日は金曜日。この日は外せない用事がある。だからバイトのシフトも変えてもらった。
適当に街をぶらついて帰ろう。そうすればちょうどいい時間に家に着くだろう。
マサヒコは腰を上げる。出口に向かって真っ直ぐと歩く。
今日は金曜日。この日は決まって彼女が来る。
廊下を進むマサヒコの足取りは、自ずと軽くなっていた。

ピンポーン

マサヒコがベッドに転がりながら雑誌を見ていると、安っぽいチャイムの音が部屋に響いた。
時計に目をやる。いつもとほとんど同じ時間だ。
雑誌を床に捨てて急いで玄関の方に行く。早く出迎えないと機嫌を損ね兼ねない。
ドアを開けると予想通りの来客がいた。
「お邪魔しまーす」
スーパーの袋を手に提げた女はそう言いながら、ドカドカと部屋の中に上がり込んだ。
そのまま真っ直ぐ台所に向かう。
「お腹減ってるでしょう」
持ってきた食材を取り出しながら女は尋ねた。
「餓死しそう」
「何か適当につまんでいればよかったのに」
「せっかく美味いものが食えるんだから思いっきり腹減らしてたんだよ」
「あら。それじゃあ手を抜いて作れないわね」
台所に立つ女——若田部アヤナはマサヒコの方を見て得意げな笑みを浮かべた。


アヤナが日本に帰ってきてすでに2ヶ月が過ぎようとしていた。
彼女は週に1,2度ほどマサヒコのアパートにやってきては自分の料理を振舞った。
特に金曜日には必ずといっていいほど、彼女は顔を出した。
何故アヤナはそんなことをしにくるのであろうか。
以前マサヒコがその理由を聞くと、彼女はこう答えた。
『自分だけのために料理を作るのって結構億劫なのよね。だから誰かと食べた方がいいと思って。
小久保君自炊してないって言っていたし。私にとってもあなたにとっても悪い話じゃないでしょ?』
マサヒコはとりあえずこの理由で納得してみせる素振りを見せた。
これだけが理由ではないだろうが、言っている事に偽りはないだろう。
自分としても美味い飯が食えるのだ。文句を言う理由などない。
すでに台所にはアヤナが料理に使う様々な調理器具、調味料などが置かれている。
そんな光景もすでにマサヒコの生活に溶け込もうとしていた。

今日のメニューはモッツァレラとトマトのパスタとサラダだった。
アヤナの作る料理はどれも外れる事がない。
今日の料理も例に漏れることがない出来だ。マサヒコはそれらの料理に舌鼓を打つ。
「小久保君、今でもお姉様や濱中先生とあったりする機会あるの?」
向かいに座るアヤナがパスタをフォークに巻きつけながらマサヒコに尋ねた。
「アイ先生はここから近い所に住んでるから結構会う機会はあるな。
中村先生はときどき。酒飲むのに付き合わされたりしてる」
「さらっと言うわね未成年」
「文句言うならあの眼鏡に言ってくれ。無理矢理誘われてるんだから」
「でも楽しそうね。今度誘われたとき私も誘ってくれない?」
「止めとけよ。あの人うわばみだから付き合ったら二日酔い確定だぞ。
大体お前酔っ払ったらまた大変なことになるんじゃないか?」
「また?」
「忘れたのか?お前中村先生の内定決定祝いの時・・・・」
そこまで言うとアヤナの耳がみるみる真っ赤になっていった。
優等生であった彼女にとって、あの出来事は今でも汚点らしい。
「分かった!もう言わなくていいわ!」
「俺が入ってくるなり」
「止めてったら!」
「ショタ・・・」
「だから・・・・止めなさい・・・・!」
豪腕一閃。
身を乗り出して繰り出されたアヤナの右フック。
マサヒコのこめかみを打ち抜いた拳は彼の意識を奪いかけた。
その場にマサヒコは力なく崩れ落ちる。
「もう・・・・」
むくれてパスタを口に運ぶアヤナ。マサヒコのことを気にかける気はないようだ。
結局マサヒコはこの後、痛む頭をさすりながらアヤナのご機嫌取りに取り掛かった。
それが終わった頃には、パスタはすっかりと冷たくなっていた。

食事の後、2人はいつも通りに時間を過ごした。
テレビを一緒に眺め、それに飽きたら会話を交わす。
それは自分の近況やら、離れていた3年間にあった出来事やら、中学時代の思い出話やら。
マサヒコとアヤナはお互いの話に、顔を緩めたり、しかめたり、苦笑いをしたりした。


アヤナの傲慢なアメリカ人の話を聞き終わり、マサヒコは時計に目をやる。
いつも通り、アヤナが帰るのにちょうどいい時間になっていた。
「今日もありがとう。じゃあな」
マサヒコは玄関の前でアヤナを見送る。これもいつも通りのことだ。
靴を履いたアヤナは振り向いてそっと目を閉じた。
マサヒコは軽く息をつき、アメリカ風さよならをしてやった。
これもいつも通り。最近はこれをやる役は交代交代だ。
短い口付けが終わるとアヤナはそっと目を開け、にっこりと微笑んだ。
マサヒコにとって何度見ても飽きない笑みだった。
「小久保君・・・・」
「ん?」
「あの・・・その・・・・」
「うん」
「・・・・今度また部屋の掃除してあげるわ。最近また汚くなってきたでしょ?」
「はぁ・・・まぁ、そうだな」
突然の申し出に少し面を食らったマサヒコ。
心なしか少し赤い顔で明後日の方向を見るアヤナを不思議そうに見つめた。
「じゃあ来週ね。次の金曜、ちょっと早めに来るから」
アヤナはそう言うと逃げるように部屋を出て行ってしまう。
玄関には怪訝顔のマサヒコだけが残された。
「変な奴・・・」

部屋から出たアヤナは早足でアパートの通路を通り過ぎていった。
階段を降りてから少し歩き、そしてアパートの方へ目をやった。
「・・・意気地なし」
アヤナは軽くため息をついて、再び歩みを進める。
頼りない影が少し肌寒い夜道に伸びていた。

次の日の夕方、マサヒコは夕食を買いにスーパーに来た。
カゴの中は例のごとく惣菜のオンパレードだ。
マサヒコはアヤナに最近、自炊をするようにと口をすっぱくして言われている。
しかしマサヒコは、上手い具合にいつもそれをはぐらかしてきた。
自分で作ったものなどたかが知れている。普段の食事はこれくらいでいいのだ。
一通りのものを買ったのでレジに向かおうとする。が、そこであることを思い出して足を止めた。
「オリーブオイル、切らしたとか言ってたな」
自分で使う機会はないが、自分の部屋で使われるものだ。
それならば部屋の主が買っておいても問題ないだろう。
「おっ」
オイルが陳列される棚まで来てマサヒコは、元家庭教師の女性の姿を見つけた。
「あ、マサヒコ君」
アイもマサヒコに気付いたらしく、ひらひらと手を振ってきた。
アイの隣に並び買い物カゴに目をやる。今ではマサヒコの視線の先にはちょうど彼女の頭がある。
「相変わらず・・・」
アイの買い物カゴの中を見て、思わず言葉が詰まる。とても一人暮らしの女性が買う量ではない。
「今日ポイントが2倍で・・・やっぱり多いかな?」
「すごく・・・・多いです・・・・」
「やっぱそうかな?でも、そういうマサヒコ君はお惣菜ばっかりだね」
アイの切り返しに、ハハハとマサヒコは乾いた笑い声を上げる。
遠回しにだらしないねと言われた気がした。


「・・・・まぁそれは置いといて、先生。こういうのってどんなの選べばいいんですかね?」
マサヒコはオリーブオイルの棚に目をやって尋ねる。
来てみたはいいが予想以上に種類が多い。
料理に関しては無知であるマサヒコにはどれがいいのかが分からない。
「何を作るの?」
「ん〜・・・・取りあえず何でも合うものが」
「ずいぶんアバウトだね・・・・でも、まぁ・・・・・これがいいかな」
そう言ってアイは棚から一本ビンを手に取り、マサヒコの買い物カゴへと入れた。
ありがとうございますとマサヒコは軽く頭を下げた。
「でもマサヒコ君。何でこういうの買いに来たの?」
「あ〜〜それは‥‥」
そこで言葉が止まった。喉に何かをつめられたような、そんな気がした。
言葉に詰まるマサヒコを見て、アイはにんまりといった感じの笑顔を作る。
「ははぁ〜ん・・・もしかしたら、彼女さんが?」
「ち、違いますよ!」
「じゃあどうして?」
「・・・こ、こういうのがあれば、自分でも何か作る気になるかなぁ、って」
マサヒコは頭を掻きながら愛想笑いを浮かべた。
アイは一瞬きょとんとする。が、すぐにうんうんと首を縦に振った。
「そういう発想は大事だよ。やっぱりオカズは自分で作った方が・・・・
あっ、このオカズってのは食べる方であって、あっちの方じゃないからね?」
「分かってます。大体そっちじゃ意味がわかりません」
あいも変わらずな漫才をする2人。中年の女性が、気まずそうにそそくさと彼らの横を通り過ぎる。
お互いもういい年なのだが、この流れだけは中学の頃のままだった。

マサヒコはその後会計を済ませ、自分のアパートへの帰路についた。
一陣の風がマサヒコの首筋を撫でた。
思わず身をすくめる。温かくなってきたと思ったが、夜の風はまだ寒い。
「なんか馬鹿みてぇ・・・」
右手に提げられたスーパーの袋の中に向かって呟く。
ビニールの袋の中にはオリーブオイルとスーパーの惣菜だけだ。
マサヒコの顔に自然と苦笑いが浮かぶ。
アイが不思議がったのも無理はない。
家々から洩れる暖かな光と楽しげな談笑の中を、マサヒコは歩いていった。

分かっているのだ。自分がしなければいけないことは。
この関係はどちらかが一言『好きだ』とでも言えば、すぐに変えることが出来るのだ。
それこそ、先生にも堂々と本当のことを言える関係に。
十中八九、告白は失敗しないだろう。
いくら自分が鈍いといっても、若田部のしていることが普通の男にすることではないことくらい分かる。
そして、告白をすべきなのは男である自分なのだ。
こんな曖昧な関係は一刻も早く終わらせるべきなのだ。
若田部の為にも。そして自分の為にも。


首を竦め下を見ながら歩いていると、前から二つの影が近づいてきたのが見えた。
マサヒコは顔を上げる。
二人の男女が向こうから歩いてきていた。何か楽しげに話しながらじゃれあっている。
すれ違う時にちらりと目をやる。固く繋がれた手が見えた。
また風がマサヒコを通り抜けていく。ぶるりと身を震わせた。
吹き付ける風は一段と冷たくなったように感じた。

月曜日、バイト帰りのマサヒコは駅の前にいた。
マサヒコはバイト先からちょうど今帰ってきたところだった。
時計は8時を示しているが、季節絵あまり空は暗くない。
「ちょっと君」
家路につくために足を進めようとした時、背後から誰かに呼び止められた。
声が聞こえた方へと目を向ける。
そこには見たことがないスーツ姿の男が立っていた。
男は小走りでマサヒコの方に向かってきて、少し前で止まった。
何かの勧誘であろうか、とマサヒコは思った。
が、男の顔がはっきり見えるようになると、途端に妙な思いを感じた
(ん?この人・・・・)
端整な顔立ちをした男だった。化粧をすれば女と間違えるかも知れない。
マサヒコはこの人物に会ったことなどはなかった。
これだけ顔のいい男だ、知り合いなら忘れるような事はないはずなのだ。
だというのに何故か目の前の男と初めて会ったような気がしない。
そう、最近どこかで・・・・
「どうかした?俺の顔になんかついてる?」
「え?あ、別に何も・・・」
話しかけられて意識が戻ってくる。思わず自分の世界に入っていたようだ。
「あの、どちら様で?」
「あ〜ごめん、いきなりだったね。俺はこういう者なんだけど」
男はブランド物のサイフから名刺を抜いて、マサヒコの前に差し出した。
マサヒコは名刺を受け取り、それに目をやる。
そして、小さな紙に書かれている名前を見て思わず目を見開いた。
『若田部 シノブ』
驚いた顔をそのまま前へと向ける。男——若田部シノブは好意的な笑みを浮かべていた。
「初めまして。アヤナの兄のシノブです」

マサヒコはシノブに促されるまま近くの喫茶店へと入った。
2人は人が近くにいないテーブルに向かい合って座った。
マサヒコは席につく前に視線を周囲に向けてみる。自分がひどく場違いな所にいる気がした。
どこを見ても私服とスーツの組み合わせの2人組などいない。
シノブはマサヒコに何を頼むと聞かれ、同じものでいいです、と簡単に返した。
シノブは軽く手を上げる。
それを見たウェイトレスが注文を取るため、マサヒコたちのテーブルにやってきた。
「じゃあこの・・・・」
マサヒコは、不思議な気持ちで目の前で注文を頼む男を見た。
アヤナの兄の情報はほぼ無いに等しい。
あるといえば合宿に言った時のものくらいしかない。
が、目の前の男がダッチワイフを持っているなんて、とてもじゃないが信じられなかった。
アヤナの兄だというだけに、確かに彼女に似ている。
それでいてシノブは妹とは違った穏やかな雰囲気を湛えていた。
これほどのルックスなら女性関係には困らないだろうに。


「いろいろ聞きたいことはあると思うけど、何から話したらいいかな?」
注文を終えたシノブはマサヒコの方に向き直り、笑顔のままでそう尋ねた。
マサヒコは少し考えてみたが、結局自分が今一番知りたい事を訊いた。
「・・・・俺に会いに来た理由ですかね」
マサヒコがそう言うと、シノブは意外そうな顔でマサヒコの顔を見返した。
そしてそれはすぐにまた笑顔に変わる。
しかしそれは先ほどの愛想笑いではなく、違った意味合いを含んでいる笑顔だった。
ウェイトレスがやってきてコーヒーのカップを2つ置いていく。
シノブは何も加えていないコーヒーに口をつける。マサヒコは黙ってそれを見つめた。
「せっかちだね、君も」
「世間話するつもりで会いに来たわけじゃないですよね?」
「ん、まぁね。用件は大体察してるかな?」
「若田部・・・妹さんのことですよね」
そういえばこの人も若田部だったなと思い、マサヒコは差しさわりがない呼び方で言い直す。
シノブはマサヒコの言葉に小さく頷いた。
予想がついていた答えだったが、自分の身体が少し強張るのをマサヒコは感じた。
「どういう経緯でアイツがこっちに戻ってきたかは・・・知ってるか。
まぁやっぱりあんな別れ方でも娘が可愛いんだろうな。先日親から連絡があってね。
どうにかして連れ戻してくれ、って頼まれたんだよ。
こっち来てるのはあいつから聞いていたし、別に本人の自由にさせてやりたかったけど。
俺もこっちで好きにやらせてもらってるから、流石に親に同情しちゃって」
「俺の質問の答えになってないんですけど」
的を得ない会話に思わずマサヒコは口を挟む。
不安に駆られていたせいか、口調が思ったよりも刺々しいものになってしまった。
しかしシノブはそれに気を悪くした様子も見せず、コーヒーをまた口に運ぶ。
そしてカップをテーブルに置いたシノブは、妹に似た鋭い眼光で目の前のマサヒコに視線をやった。
「君はアヤナと付き合ってるのか?」
「えっ・・・」
マサヒコはシノブの変化と、彼の言った言葉に思わず声を上げた。
彼の言葉が直接身体に入ってきて心臓を握ったような錯覚を受ける。
シノブの口調は静かだった。そしてそれは、底冷えするような響きを孕んでいた。
「・・・分かってるよ。気を悪くするかもしれないけどアヤナの周辺のことは
調べさせてもらったんだ。どうやって調べたかは想像に任せるよ」
悪びれた様子も見せずにシノブは言葉を紡ぐ。
あまりにも淡々と語られたので、怒るべきなのか戸惑うべきなのかもマサヒコは分からなかった。
分かったのは、シノブがどれだけ本気なのか、という事だけだ。
「まぁ、それでだ。だから当然、君と妹の関係も知っている。
君はアヤナとは付き合っていない。そうだろ?」
これにマサヒコは答えない。いや、言葉を発する事ができなかった。
シノブはそれを肯定と解釈し、また話を続けた。
「俺が言うのもなんだけど、アイツはいい女だよ。
どこに出しても恥ずかしくない、俺と違って出来た妹だ」
「・・・・・」
「小久保君、さっき俺に聞いたね。どうして会いに来たのか、って」
「・・・はい」
マサヒコは喉から何とか言葉を搾り出す。
シノブは目を瞑って、少し間を空けた。
そして目を開いたシノブは、真っ直ぐマサヒコの目を見つめながら口を開いた。
「俺はな、君に妹の、アヤナのことをよく考えてもらいたいんだ」
「若田部の・・・こと・・・?」
「そう・・・あいつのこれからのこと・・・」
「若田部の、これから・・・・・」
もともと静かだった店内の音が、完全になくなった。
少なくとも、マサヒコの聴覚には何も訴えかけてくるものはなかった。
2人で向かい合っているというのに、シノブがとてつもなく遠くにいるような気がした。


どれくらいの沈黙が流れただろうか。
喧騒は、シノブが言葉を発するのと同時に戻ってきた。
「・・・・・まぁ君も全く考えてないわけじゃないだろうけど。改めて頼むよ」
それを言うと、シノブはにっこりと笑顔を作って立ち上がった。
「用件はそれだけだ」
そう言って歩き出そうとする。いつのまにか彼のカップの中身がなくなっていた。
「ちょっ・・・」
席を立ったシノブに続くようにマサヒコも腰を上げようとする。
が、シノブは手をつき出しマサヒコが立ち上がろうとしたのを制す。
「とりあえず今日はここまで。考えが纏まったら連絡をくれ。
名刺の方に携帯の番号がついてる。あと勘定は俺の方で済ますから」
言いたいことだけを言って、シノブはレジの方へと歩いていった。
彼は二人分の勘定を済ませて、一度もマサヒコの方を振り返らないでスタスタと行ってしまった。
テーブルにはただその場にたたずむことしか出来ないマサヒコと、冷めかけたコーヒーだけが残された。

シノブは店から出た後、レストランで食事を済ませ、行きつけのバーに行った。
ゆったりした時間が流れている店内には数人の客しかいない。
静かに囁きあう男女が1組、1人でグラスを傾ける客が3人ほど。
馴染みのバーテンにいつも頼んでいるバーボンロックを頼む。
シノブはグラスを傾けながら、今日話をした青年のことを思った。
彼には正直酷な事をした。あまり好きなやり方ではない。
『将を射んとすればまず馬を射よ』というが、今日したことはまさにそれだった。
いきなりアヤナに帰れと言っても十中八九、いや、確実にいう事を聞かないだろう。
しかしマサヒコからアヤナに言ってくれれば、様子は変わってくるだろう。
多分彼は、アヤナのことを諦めてくれる。
今日会ってみて分かったが、彼は思ってたよりもずっと人間的に頭が良さそうだった。
あのような言い方だったが、自分が言いたかった事は察してくれたに違いない。
住む世界が違うもの同士が一緒になれば、必ず何か問題に突き当たるだろう。
それならば最初からそのような関係にならなければ・・・・
二人には気の毒だが仕方ない。世の中には仕方ないと割り切るしかない事があるのだ。
シノブはグラスを傾ける。
が、喉を何も流れていかない。いつの間にかグラスの中は氷だけになっていた。
バーテンは何も言わずに、シノブのグラスに2杯目のバーボンを注いだ。


マサヒコはシノブと別れた後、コーヒーに口をつけずに店を出た。
そして気がついたら家に着いていた。手にはカップ麺と数本のビールの缶が入った袋が提げられていた。
湯を沸かしてさっさと食事を済ませた後、マサヒコはビール缶のタブを開ける。
そして中の液体をちびちびと口に含みながら、今日の出来事を思った。

『アヤナのことをよく考えてもらいたい』
言葉にすればとても短いというのに、それに込められた想いは実に雄弁だった。
若田部からはシノブのことをあまり聞いたことがなかったが、
彼がどれだけ妹を大事に思っているのかというのが感じ取れた。
そう、あの時シノブが見せた顔。あれが妹を思う兄の顔なのだろう。
自分は若田部のことを考えているつもりだった。
この曖昧な関係に終止符をうたなければと常々考えていた。
が、それは根本的な思い違いだったということを、今日思わぬ人物から突きつけられた。
確かに、今の関係は変えることは簡単かもしれない。
でも、自分はそれをしてしまっていいのだろうか。
それは彼女にとって本当に幸せな事なのだろうか。
彼女は過去の記憶に縛られていて、人生の選択を誤ろうとしているのではないか。
関係が変わったからといって、いつまでもそれが続く保証はない。
が、同時にそれは、いつまでも続くという可能性の裏返しでもあるのだ。
彼女の将来を考えるなら、こんな冴えない自分が彼女の男になってはいけないのではないか。
彼女がいるべき所は、自分なんかが手を出せない世界なのではないだろうか。

それを考えるとマサヒコの頭の中に、今までは考えた事もなかった思いが生まれた。
それは今までアヤナに抱いていた思いより、遥かに小さなものだった。
が、アヤナのことを思えば思うほど、それは確実にその体積を、重みを増していった。

あいつのこれからを思うなら、いっそ・・・・

気がつくと、マサヒコが口をつけていた缶はすでに空っぽになっていた。
テーブルの上に適当に空き缶を転がして、袋の中に入っている缶に手を伸ばす。
マサヒコは缶を眺めて少し逡巡した後、ゆっくりとプルタブに手をかけた。


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