作品名 作者名 カップリング
「ただいま」 ピンキリ氏 -

 私の財布には、常に一枚の写真が入っている。
男の写真だ。
別に、有名なスポーツ選手や映画俳優なんかじゃない。
何の変哲もない、ただの少年のだ。
もちろん、財布に入れてあるのには、きちんとした理由がある。

 まったく、これだからアメリカ人は、などと短絡的な結論を出すつもりはないが、
やっぱりお国柄の違いと言うか何と言うか。
ハイスクールに通っていた三年間、私は何人もの男性から言い寄られた。
まだ若いから、とか、興味が無いから、てな感じの言葉は、撃退にまったく効果が無かった。
連中のしつこさ、そして屈託の無さは間違いなく日本の男のそれより上だろうと思う。
と言うより、性行為に対する価値観がどうも根本的に違うような気がする。
口では日本人女性は貞淑だとかエキゾチックだとか言っておきながら、
連中の目線は例外無く私の胸に、しかも露骨にジロジロと注がれていたりするのだ。
処女で、恋愛経験の無い私でもわかるくらいに、連中の体全体から発せられていた「ヤラせろオーラ」。
本当、ふざけるなと言いたい。
無論、真面目に交流を望んでくる男もいたことはいた。
だが悲しいかな、それらは例外的存在、つまりは極僅かしかいなかった。
……で、中には何度断ってもしつこくつきまとってくる男どももいるわけで、
それらにいい加減うんざりした私は、一計を案じた。
「日本に恋人がいるのよ!」と、一枚の写真を突きつけてやったのだ。
一人の少年が写っている写真を。
それでまあ、ソイツは君には似合わないとか、日本は離れてるから関係ないとか、
好き勝手なことを言ってきたけど、何とか最終的に撃退は出来た。
引き下がるってことは、やっぱり私のカラダだけが目当てだったんだなってことで、また腹立たしいのだが。
それにしても、何と役に立ってくれた写真であることか。
同じクラスのボブ・デービッドソンから、何故か女教師のマリア先生まで、言い寄る連中は全てこの一枚で追い払った。
お守りと言うか、魔除けと言うか……男除けというか。
たいした御利益ではあった。
 
 まあ、つまり口実に過ぎなかったのだ。
寄ってくる連中を追い払うための、口実に。
誰でも良かったわけで、家にあった同年齢の男の写真は彼のものしかなかったわけで。
 
 その写真に写っている少年の名前。
それは、小久保マサヒコ。
私の中学生時代の同級生。
私の終生のライバルの―――恋人。






 私は到着出口に着くと、まず大きく深呼吸をしてみた。
空港は、その国、その都市ごとに『ニオイ』が違うという。
例えば、インドの空港ならカレーのニオイ、日本なら味噌汁と沢庵という風にだ。
……嘘か真かで言えば、間違いなく嘘なのだろう。
いや、最初からわかってると言えばわかってるんだけど……。
飛行機の中で暇つぶしに読んでた本にそんな類のことが書かれていたので、まあ、ちょっと気になっただけ。
「ふぅ……」
 それでもいちいち確認してしまう辺り、私も大人気ないと言うか、変にこだわりが強いと言うか。
それとも、そんなことをしてしまうくらい、緊張してしまっているのだろうか。
いやいや、緊張する理由なんてない。久しぶりの日本、というわけではないのだし。
大体、この三年間、何度も友人知人に会うために帰ってきている。
しかも、前回の帰国はたった三ヶ月程前。
……まあ確かに、気が昂ぶっていないと言えば、嘘になる。
何せ、今回は一時帰国じゃない。
一時じゃなくて、完全帰国。
文字通り、『帰って』きたんだから。
「……」
 手荷物引渡場でトランクや鞄を受け取ると、私は到着ロビーへと歩を進めた。
私と同じように、他所の国から日本に帰ってきた人、そして出迎えの人で、ごたごたとしている。
飛び交う日本語を聞くと、改めてここが日本であること、帰ってきたことを実感する。
アメリカもいいところだったと思うが、やっぱり生まれ育った国は違う。
パズルのピースがぴったりはまった時の感覚、落ち着くところに落ち着いた、という安堵感がある
「ふぅ……」
 さて。
この私にも出迎えに来てくれている人がいるのだが。
その人は、ソイツは―――家族ではないし、親戚でもない。
強いて言うなら、友人。
いや、強いて言わなくても『友人』に間違いないんだけど。
何て言うか、『友人』という言葉で簡潔に片付けてしまっていいものかどうか。
……私が若干緊張気味なのは、正直、ソイツのせいでもある。
「……いや」
 私は、頬をペチペチと掌で叩き、気を引き締めた。
頬が緩みそうになるのを止めたわけではない。
大体、何で私がアイツのことでそんな―――





「若田部!」
「ひゃう!」
 ……驚いた。
心臓が飛び出るかと思った。いや、誇張でも何でもなくて。
その、飛び出し損ねた(?)心臓の鼓動が、急激にアップするのがわかる。
首の後ろ辺りがカーッと熱くなっていく。
耳たぶがジンジンしてくる。
いけない、いけない。このままじゃ、いけない。
「……ッ」
 不意打ちに負けちゃいけない。
いや、何に負けるかって、とにかく負けちゃいけない。
一秒、二秒、三秒、しっかりと足を踏みしめ、呼吸を整える。
そして、肩を少しいからせて、勢いをつけて……振り向く。
相手の顔を直視しないように瞳を操作し、やや荒めの口調で。
「迎えなら正面から来なさいよ、小久保君!」
 あ。
失敗した。
声が上ずってしまった。
恥ずかしい、とても恥ずかしい。恥ずかし過ぎる。
「あ、う……」
 外していた視線を、ゆっくりと、ソイツの顔へと持っていく。
ソイツは、目を大きく見開き、ポカンと口を開けていた。
何で怒鳴られたのか、まるでわからないといった感じに。
いや、そりゃまあ、わからないのも無理ないけど。
自分でも、今のは結構不自然だったかもって自覚はある。
だが、その、後ろから声をかける方も、気遣いが無いと言うか、何と言うか。
真正面から徐々に近づいてきてくれていれば、雰囲気が出た……じゃない、心に余裕を持って対応出来たのに。
「……いや、その、そんなに怒ることか?」
 きょとんとした表情で、彼は―――小久保マサヒコは答えた。
「う……そ、その、背後から声をかけないで、ってことよ! いきなり!」
「……そ、そうか。そりゃ悪かった」
 ああああ、違う。
やっぱり決定的に何か違う。
負けるとか何とかじゃなくて、素直に「迎えに来てくれてありがとう」と言うべきだった。
軽く自己嫌悪。
「と、とにかくさ。駐車場に車を停めてあるから、そっちへ行こう」
 そう言いながら、私の手から荷物を取り、ひょいと肩に担ぐ小久保君。
いかにも「気にしてないよ」って態度だけど……。
こっちは気にしてしまう、うううっ。
「じゃ、行こうか」
「え、あ……うん」
 私は結構重たいと感じていたのだが、男と女の力の差か、彼に担がれた鞄は妙に軽そうに見えた。
「……」
 今、鞄の向こうにある彼の顔。
それは……写真の中より、ずっとずっと大人っぽい。
そんなの当たり前だし、度々帰国しては会っていたのだから、今更驚くことでもないのだけれど。
でも、だけど。
「って、若田部? 何突っ立ってるんだ?」
「あ……ご、ごめん」
 だけど、だけど。
眩しかった。
とても、とても眩しかった。
直視出来ないくらいに、眩しかった。



 駐車場に停まっていたのは、可愛らしい、明るい黄色の軽自動車。
アメリカでは、こんなタイプの車はほとんど見なかった。
ピックアップトラックかごついバンタイプばっかりだった。
まあ、私の住んでた街がそうなだけかもしれないけれど。
「これ、小久保君の車?」
「いや、父さんのだよ。まあ、父さんは滅多に乗らないし母さんは免許無いし、もう俺のものみたいなもんだけどな」
「へぇ……って、小久保君、運転免許持ってたっけ」
「そりゃ、持ってなきゃ運転できないだろ」
「う、そ、それは確かにそうだけど」
 そっか、小久保君、運転免許取ったんだ。
しかし、車か。そうね、これからは車があったほうが便利かもしれない。
何と言っても、一人暮らしをするわけだし。
買い物に行くのだって、遊びに行くのだって、車があるのと無いのとでは、行動範囲が全然違ってくる。
機会を見つけて、教習所に通ってみよう。
それくらいの時間的余裕はある。
大学の帰国生入試を受けるにしても、来春に保育士の専門学校を受験するにしても。
「荷物、後ろの席でいいか?」
「あ、え、うん、構わないけど」
 ……えーと、ちょっと待て。
私が持っている、衣類の入ったトランクと、小物が入っている肩掛けの小さい鞄。
そして小久保君が担いでいる、コマゴマとした生活必需品が入っている鞄。
これだけで後部座席はきゅうきゅうになってしまうのだが。
「じゃ、若田部は助手席に乗って」
 あ、やっぱりそうなるのか。
「……うん」
 問題は無い。
たかが助手席に座るくらい、何だと言うのだ。
おかしいことはない、至って普通だ。
だけどしかし。
どうして私は、こんなに緊張しているのだろうか。
「えっと、あの地図の通りに行けばいいんだよな? ミサキに送ったメールに添付してあったアレで」
「あ、う、うん。そう」
「ミサキと的山は先に行ってるから、向こうで会えるはずさ」
「……ねえ、小久保君」
「ん?」
「……ううん、何でもない」
 馬鹿馬鹿しい。
私は今、何を彼に聞こうとしたのだろう。
わかりきっていることじゃない。
今、私が座っているこの席に、天野さんが座ったことがあるか、なんて。
恋人同士なんだから、つきあっているんだから。
一緒にドライブに行ってるに決まっている。
座ったことがあるに、決まっている。
「それじゃあ、出すよ」
「うん……」
 彼の方から目を反らし、窓の外を見る。
空は雲も無く、どこまでも青い。
空にアメリカも日本も違いは無いはずだが、それでも、「日本の空」という感じがする。
不思議なものだ。本当に、不思議なものだ。
「あっ、そうだ、若田部!」
「ふぇ!?」
 またしても不意打ちだ。
ぼーっとしてると、ついつい右側を向いてしまいそうで、頑張って外を見ていたのに。
この強襲っぷりでは、どうにも反応しないわけにはいかない。
「な、何よ!?」
「あー、いや……忘れてたよ」
「だから、何、が……、っ」
 声を荒げて糾弾しようとしたが、出来なかった。
彼の顔が、小久保君の顔が、とても、とても優しいものだったから。
「これを言うのを忘れてた。……おかえり、若田部」


「あ……」
 あ、ああ。
何だろう、爪先から、何かがすーっと上がってくる。
胸の奥がじわじわと熱くなる。
顔が、顔の制御がきかない。
目蓋が痺れ、口が緩む。
そして、半ば自動的に、喉から舌へと、言葉がせりあがっていく。
「……うん、小久保君……ただいま」




 私の財布のには、常に一枚の写真が入っている。
男の写真だ。
そう、それは口実に過ぎなかった。
寄ってくる連中を追い払うための、口実に。
誰でも良かったわけで、家にあった同年齢の男の写真は彼のものしかなかったわけで。

 だけどある日、不意に気づいた。
いや、気づいてしまった。
言い寄ってくる連中を追い払う以外にも、その写真を取り出していたのを。
ちょっとしたミスを犯してしまい、先生に怒られた時。
しつこい男を退けた時。
そして、日本が恋しくなった時。
その度に、写真を手に取っていたのを。
ただ、ぼうっと写真の中の少年を見つめているのを。
見つめている時間が、日に日に増えていっていたのを。

 その写真に写っている少年の名前。
それは、小久保マサヒコ。
私の中学生時代の同級生。
私の終生のライバルの恋人。
そして―――

 私が、好きになってしまった人。
中学の頃は気づかなかった、アメリカに行って、離れてみて改めてわかった、初恋の人。



 写真の縁は何時の間にか―――ボロボロになってしまっていた。

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