作品名 |
作者名 |
カップリング |
「天然少女と純情少年」 |
ピンキリ氏 |
一応マサヒコ×ミサキ |
「なぁ小久保」
「ん?何だ?」
場所は英稜高校の一年B組、時は放課後掃除の時間。
掃除と言っても、当番だけがしているわけではない。
今日は一月に一度、月末の教室大掃除の日だ。
B組の生徒が皆、手に手にホウキやモップ、雑巾を持ってあちらこちらを掃いたり拭いたりしている。
何でこんな日があるのかというと、先代の校長先生が過度のきれい好きで、
『大掃除が学期末のみというのは不衛生だ』と言い出したことが発端になっている。
その後に、『清潔で整った環境であれば勉強が進んで云々』とか、
『健全な精神は健全な肉体に宿る、健全な肉体は健全な環境があってこそ云々』とか、
色々と理由がくっついてきたのだが、まあぶっちゃけ先代校長の潔癖症に全てが帰結する。
確かに、教室や廊下がキレイなのは見ていて気持ちがいいし、気分も清々しい。
だが、だからと言って、月に一度とは言え、全校一斉に駆り出される生徒の心中はいかばかりか。
夏休みや冬休み前、試験の後くらいしかなかった大掃除が、毎月あるのだ。
終日というわけでは当然なく、放課後の一時間ちょっとなのだが、
クラブ活動や自治会活動に青春を燃やしている人間や、早く帰りたい人間にとっては、苦痛以外の何物でもなかった。
先代校長は、生徒会予算を増やしてくれたり、ロッカーを新調してくれたりと、英稜の歴史の中では名校長の部類に入るのだが、
ただ一点、この大掃除を取り決めたことのみをもって、生徒からの評価は総じて低かった。
それはそれとして。
男子生徒が一人、マサヒコに話しかけたのは、そんな掃除の最中だった。
その声は、周囲の掃除の物音に紛れて、聞き取れるか取れないかというくらい小さかった。
「あのな……ちょっと、こっちへ来てくれないか」
「?」
首を傾げたマサヒコを、その生徒は教室の隅へと引っ張っていった。
そして、声が他に漏れないように、口の横に手をあてて、マサヒコの耳元にポツリと一言囁くように尋ねた。
「お前……的山とつきあってんの?」
「はぁ? 俺が的山とふんがっくっく」
「ちょ、声が大きい大きい!」
男子生徒は大慌てでマサヒコの口を塞ぎにかかった。
次に、右手の人差し指を一本突き立てて、「シーッ」の合図を送る。
「……いや、友達ってだけで、つきあってはいないけど」
「……マジ?」
「マジも何も、マジ」
「いや、的山見てると、何かつきあってるとしか思えないくらい距離が近いし」
マサヒコは苦笑した。
リンコはそこら辺の壁が低いというか、全然気にしていないというか。
馴れ馴れしいと言ってしまえばそれまでなのだが、友達にさえなってしまえば、
男だろうが女だろうが、関係なく擦り寄ってくる仔猫のような性格、つまりは純心な天然さんなのだ。
「仲が良いっちゃ良いけどさ……。つか、お前何でそんなこと聞いてくんの?」
「え? その……」
男子生徒は顔を赤くして俯いた。
「ははあ……」
初々しい思春期真っ盛りの反応。いくら鈍感なマサヒコと言えど、こうも判り易く態度に出るとピンとくる。
「お前、的山が好きなのか」
「お!? ぐ、は、おおおお」
赤い顔から一転、喉に物を詰まらせたかのように、青くなったり白くなったりする男子生徒。
「うーん……」
マサヒコは腕を組んで考え込んだ。
察するに、恋の橋渡し役をしてくれ、ということなのだろう。
それは別に構わない。
だが、リンコをよく知る人間として、この純情な同級生男子の背中を「おう、頑張れよ」と押してあげてもいいものか。
何せ天然である。そして高純度のエロボケである。
わけのわからん行動力を持ち、時に周囲の人間を脱力させる言葉を放つ。
本人に悪気がない、邪気がないのだから、また性質が悪い。
いや、かわいいかどうかと聞かれれば、かわいい方に入るのだろう。
ちっちゃい背丈も、丸くて大きな目も、よく響く高めの声も、チャームポイントと言えなくはない。
しかし、それより何より、中身が大きく問題なのだ。
「……」
あたふたする友人を目の前にして、マサヒコは本気で躊躇った。
つきあって上手くいけば、問題がないどころが万々歳だ。
それで二人が幸せになってくれれば、友人関係にあるマサヒコにとっても嬉しいことだ。
だが、今時珍しいくらいの純情少年であるこの男子生徒が、リンコとがっちり交際出来るかと言えば、
マサヒコには到底そうは思えなかった。
恋愛とは忍耐である、とは古人の言だが、おそらく、リンコとつきあうにあたって、
常人の遥か上のレベルの忍耐力を要求されるのはまず間違いない。
浮気するとか、尻が軽いとか、そちら方面の心配ではなく、
ただただ常識の範疇をぶっちぎったエロボケがホイホイ出てくることに対して、
神経をすり減らすことになるのは目に見えている。
それを大きく包んで上げられるだけの力が、また、完全にスルー出来るだけの余裕が、
目の前で赤くなったり青くなったりしている同級生にあるとは、マサヒコは思えなかった。
「あー、的山、なぁ……」
ホウキを手に、マサヒコは斜め上を見上げた。
だからと言って、「お前にゃ無理だ、やめとけ」とズバリと宣告するのも、違うような気がした。
「的山、かぁ……」
「……いや、その、好きだとかそんな、ハッキリしたもんじゃなくて」
「私がどうかしたー?」
「いや、どうしてもってんなら、骨を折らないでもないけど」
「い、あ、その、ど、どうしてもっていうか、は、話をちょっとしたいな、っていうか」
「ねーねー、私がどうかしたの?」
「いや、別に何でもないよ。うーん、そうか、お前が的山と、なぁ……」
「だだ、だからそんなに大きな声で言うなよ」
「ねーってば、小久保君」
「あー、ちょっと待ってくれよ。今、考えをまとめてるんだからさ」
「い、いや、別に今すぐでなくても……って、小久保、お前誰と話してるんだ?」
「へ? 誰って、お前と……」
「ねーねーねー、こ・く・ぼ・く・ん・!」
「……」
「へ?」
マサヒコは爪先立ちになり、目の前の友人の背後を見た。
そこには、モップを片手に、マサヒコを見上げるリンコの姿があった。
「まとや、ま……」
「へ、は、お、おおおおおおおう!?」
男子生徒は、天地が引っくり返ったかのように驚き―――いや、文字通り自身がひっくり帰った。
ホウキを放り出すと、尻餅をついて勢いのままに、埃っぽい床の上をゴロンと後転する。
「ねー、さっきから私の名前を言ってたけど、何を話してたの?」
きょとんとした表情で、リンコはマサヒコと、男子生徒に問いかけた。
「や、そ、その……だな」
ここで、全部語ってしまう程、マサヒコは愚かではない。
リンコの言葉から、彼女が肝心な部分を聞き逃していると判断して、誤魔化しにかかった。
それが、床の上でテンパっている友人のためでもある。
「ほ、ほれ。俺とお前がよく喋るけど、中学の時から仲が良かったのか、って話」
……マサヒコは愚かではない。
だが、機転が利きまくるというわけでもない。
完全に先程の会話の内容を逸らしきれていなかった。
「あー、そうだよね。私と小久保君、仲いいもんねー」
リンコは嬉しそうに、にぱっと笑った。
「あ、ああ、そうだよな」
刹那、マサヒコはしまったと思った。
床の上にへたり込んでいる友人が、明らかに固まったからだ。
さっき、交際を否定したのに、これではまた疑惑を浮上させるようなものではないか。
「と、友達だからな」
「うんっ」
と、ここで会話が終わっていれば、マサヒコにとっても、へたり込んでいる男子生徒にとっても、
ダメージは最小限で済んだだろう。
ところがどっこいしょ。相手はあのリンコである。
天然で遠慮がなくて、思ったことが素直に、飾らない言葉で口に出ちゃう人間である。
これで終わるわけがなかった。
「私、小久保君のこと、好きだし」
「あ!?」
「が!!」
男子生徒だけではない。マサヒコも固まった。
いや、マサヒコはわかっている。この場合の「好き」は、特別な意味を持っていないものだということを。
『親しい友人=好きな人』であるということを。
愛だの恋だのではなく、友好関係の表現であるということを。
「小久保、お前……」
「いやっ、違う!」
泣き出しそうな友人を前に、マサヒコは手を振って否定しようとした。
もし、この場にマサヒコとリンコ、そして友人しかいなければ、それは成功しただろう。
だが、ここは教室である。大掃除の最中である。他のクラスメイトがたくさんいる。
そして、リンコの、まるでアニメ声優のようなキャピキャピした声は、これまたよく通ってしまうのだ。
「おい、今の聞いたか?」
「き、聞いた聞いた!」
「的山さん、小久保君のこと好きって言ったわ!」
「えー、マジ?」
一瞬にしてざわめく教室。
今度は、マサヒコが顔面を蒼白にする番だった。
「なぁ、的山。お前、小久保のこと好きなのか?」
で、こういう場合、余計なことをする奴が絶対に一人はいるものだ。
皆の先頭に立って、事の真偽を確かめようとするやっかいな奴が。
「うん、好きだよ」
それで、リンコもリンコで、こんな感じで答えちゃうわけで。
「「「おおおおおおおおおお!」」」
揺れた。
間違いなく、教室が揺れた。
高校一年生といえば、自分の色恋だけでなく、他人の色恋にも興味がある年頃だ。
ちょっとでも噂が流れれば、食いつきたくなってしまう。
それで、今、ここに絶好の餌がある。
「すげー! 告白だ告白!」
「げー、マジかよー」
「やだー、私も実は……ブツブツ」
「でも、教室内で告白って、大胆」
教室の温度が、少し上がった。
冷静に考えれば、そう、あとほんのちょっと、冷静さがあれば、経過のおかしさに皆気づいただろう。
だが、先述のように、恋愛には敏感な高校一年生。
リンコの「好き」という言葉に引っ張られて、どんどんとあらぬ方向へと話が広がっていった。
「それで、コクられたマサヒコさんのお答えは?」
またまた、いらんことをする奴出現。
一人の男子生徒が、ホウキの柄をマイクに見立てて、マサヒコの顔面に突きつけた。
それに伴い、皆の目がマサヒコの口に集中していく。
「……」
マサヒコは眩暈を覚えた。
まさか、こんな事態に発展しようとは。
YESと答えるわけには、当然いかない。その理由もちゃんとある。
だが、NOと言える空気でもない。
どうする、どうすればいい。
冷や汗を背筋に垂らしながら、マサヒコはどう答えるべきか、迷いに迷った。
時間が、一秒、二秒、三秒と、容赦なく流れていく。
「んー? 告白じゃないよ?」
と、ここでリンコから助け舟が出た。
マサヒコは心の中でガッツポーズをした。
そう、混乱を引き起こした本人が、「好き」の意味を解説してくれれば、それで丸く収まるのだ。
「好き、ってのは友達としてだよ」
安堵の溜め息を、マサヒコはそっとついた。
急激に教室の温度が下がっていく。
これで、全てはカタがつくはずだ。
「だって、私がもし小久保君を好きでもつきあえないよ。小久保君、ミサキちゃんて彼女がいるもの」
……つくはず、だった。
「……」
「……」
「……」
「……」
静寂が、教室内を支配した。
それも束の間、次の瞬間、さっきの数倍の大きさで、どよめきが爆発した。
「「「なにぃいいいぃいいいい!!」」」
一度は冷めた熱が、また再び上昇し始めた。
「ちょ、おま、小久保! お前、彼女いたのか!」
「そんなこと、一言も教えてもらってないぞ!」
「こ、小久保君って手が速かったんだ!」
「いやー、そんなのいやー」
眩暈だけではない。マサヒコはリアルによろめいた。
まさか、まさか、まさかこんな展開になろうとは。
リンコの天然ぶり、恐るべし。
「そっ、それでっ、お前どこまでいった!? ヤッたのか? え?」
「小久保、卑怯だぞ!」
「不潔よ、不潔過ぎるわ!」
「いやー、そんなのいやー」
怒涛のようにマサヒコに押し寄せるクラスメイトたち。
そしてまた、変に気の回る奴がいるもので。
本丸のマサヒコを攻めるよりも、口の軽いリンコを追求するべきだと考えたのだろう。
別の男子生徒が、皆に聞こえるような大声で、リンコに尋ねた。
「なぁ、的山教えてくれよ。そのミサキって誰なんだ?」
そう聞かれて、はぐらかしたり黙ったりするようなリンコではない。
マサヒコが必死に止めようと、両手で×の字を作ってサインを送ったが、残念、リンコはそれを見ていなかった。
「小久保君の幼馴染だよ。で、私の友達なの。聖光に通ってるんだよ」
「「「なにぃいいいいいいいいいいいぃいいいいいいい!!!!」」」
数倍どころか、十倍くらいの大きさで、さらにどよめくクラスメイト連中。
「おっ、幼馴染だぁ!? ゆ、許せん、許せんぞ小久保!」
「それに聖光だとォ!? 滅茶苦茶イイトコじゃねーか! かわいい制服じゃねーか!」
「それ何てエロゲーよ!」
「いやー、そんなのいやー!」
胸倉をつかまれ、髪の毛をひっぱられ、揉みくちゃにされるマサヒコ。
マサヒコは抵抗を放棄した。
今更、どうにもならない。中学三年間でマスターした、完全無抵抗の極みを行使するだけだ。
流れに逆らわず、もがかず、嵐が過ぎ去るのを待つ。
ここで終われば、せいぜいあと半月程からかわれるくらいで済むだろう。
だが。
「小久保君とミサキちゃん、すっごく仲良いよ。この前なんかラブホテルから出てきたもんね」
最大の爆弾投下。
ああ、リンコはどこまでもリンコか。
邪な心はない。悪気も企みも、嫌がらせの思いもない。
ただただ、天然過ぎる程に天然だった。
「「「なぁぁぁぁにぃいいいいいいいいいいいぃいいいいいいいいいぃいいっ!!!!!」」」
大爆発。
マサヒコは死を予感した。
確かに、マサヒコは幼馴染の天野ミサキとつきあっている。
そして、その仲が深いものになっているのも事実。
先日、ラブホテルに行ったのも事実。
一応用心して、電車で五つ程離れた街のラブホテルを利用したのだが、
いったい、リンコはどうしてその場面を目撃し得たのだろうか。
「先輩の家に遊びに行ったんだけど、その帰りに見ちゃったの。声かけるの悪いかなと思ったから、しなかったけど」
てへ、と舌を出してリンコは微笑んだ。
マサヒコには、その微笑が死神のものに見えた。
「許せねー、何を軽々と童貞の壁を突破してやがるんだ!」
「そそそ、それでマサヒコ、どうだった、どうだったんだあ?」
「卑猥!淫猥!風紀が乱れまくってるわ!」
「いやー、そんなのいやー!」
数多の手が、足が、マサヒコに伸びてくる。
嗚呼、哀れ小久保マサヒコ、クラスメイトに手にかかってズタボロに―――は、ならなかった。
「あー、ミサキちゃんだあ!」
何時の間にか窓際に寄っていたリンコが叫んだからだ。
皆の動きが、その声に制されてピタリと止まった。
「おーい、ミサキちゃーん!」
窓を開けて、リンコは手を振った。
一年B組の窓からは、グラウンドを挟んで、校門が丁度真正面にくる。
「うげ」
マサヒコは蒼白を通り越して、土気色の顔面になった。
そう、今日は一緒に帰る約束をしていた。
明日からゴールデンウィークに突入するが、どこにデートしに行くか相談するつもりだった。
大掃除の日だから、聖光まで迎えに行けない。良かったら、お前が来てくれ。
昨日マサヒコは、ミサキに電話でそう伝えたのだ。
「な、ほ、本人が来てるのか!」
「マジか!?」
ドドドド、と埃を舞い上がらせて、マサヒコを除く全員が窓際に殺到した。
「おおおお、確かに聖光の制服着てるぞぉ!」
「おい、結構カワイイじゃねーか!」
「あ、あのコと小久保君が……!」
「いやー、そんなのいやー!」
「おーい、ミサキちゃーん、ミサキちゃーん!」
外にいる者からすれば、それは異様な光景に映っただろう。
体を押し合いへし合いしながら、窓の顔をくっつけて校門を凝視する生徒たちというのは、尋常なものではない。
で、皆その態勢でギャアギャアと口々に騒ぎたてたが、それも長くは続かなかった。
男子生徒を中心に、殺気を漲らせ、マサヒコのいる方へと振り向いた。
「おい、このクソ幸せ者!」
「正直許せん、一発殴らせろ!」
「縁起物だ!」
「そうだそうだ……って」
「ああ?」
さっきまでマサヒコが居た場所には、ホウキが一本ポツンと転がっているだけだった。
他に、何もない。
「に」
「にに」
「逃げ」
「逃げやがったあああ!」
再々度、教室は爆発した。
そう、完全無抵抗主義をこれまたあっさり放棄し、マサヒコは遁走したのだ。
背に腹は代えられないと言うか、やっぱり誰でも命は惜しい。
「追え! まだ遠くには行っていないはずだ!」
「校門を押さえろ! そいで彼女の周りを張れ! そこに必ず奴は来るはずだ!」
「お、俺は裏門へ行く!」
「俺は通用門だ!」
「いやー、そんなのいやー!」
地響きを立てて、男子生徒のほぼ全員と、女子生徒の一部が教室を飛び出た。
教室には、リンコと、さすがにそこまではやる必要はない、と熱を自力で冷ました生徒が何人か残った。
「俺はあっちからだ!」
「じゃあ俺はこっちから!」
教室の前で、ばっと散らばる追撃者たち。
キレイに掃除されたはずの廊下を、ドカドカと足音を響かせて駆けていく。
そのあまりのスゴさに、他の教室の生徒も、先生たちも、圧倒されて制止出来なかった。
厳格な教師が何人か、「こらぁ、何やっとるか!」と怒声を飛ばしたようだが、
マサヒコ追撃で思考一色になった連中に届くはずもない。
あたかも、時代劇の御用提灯のごとく、学校中を捕り手たちは駈けずり回った。
妬み、悔しさ、青い性のほとばしりを燃料にして。
◆ ◆
「ハァ、ハァ、ハァ……な、なんで俺がこんな目に……」
学校の裏手、焼却炉の真後ろで、マサヒコは腰を落とし、息を整えた。
最初は何でもない出来事のはずだった。
同級生の恋愛相談に過ぎなかったのに、何故こんなことになってしまったのか。
いや、リンコを挟むと、物事の流れがガラリと変わるのは、マサヒコも経験上嫌という程知っているのだが。
まさか、ここまで大きな騒ぎに発展しようとは、マサヒコだろうと誰だろうと、予測出来ようはずもなかった。
「まったく、的山は……」
マサヒコはリンコに悪態をつこうとして、やめた。
リンコを責めるのは簡単だが、それはちょっと違うと思ったからだ。
リンコは別に、マサヒコを陥れようとしたわけではない。
ただ、天然がゆえに、自然なるままに、言葉を発しただけだ。
リンコは悪くない。悪くない、のだが。
「……ハァ、ハァ……も、もうちょっと、時と場合を考えて欲しい……」
ポケットからハンカチを出すと、マサヒコは額の汗を拭いた。
と、その時、真横から不意に声をかけられた。
「おい、小久保」
「ひゃう!」
マサヒコは飛び上がると、くるりと声の方に背を向けて、逃げようと足を動かした。
だが、動かなかった。ここまでの逃走で、足の力を使い果たしていたのだ。
「だ、大丈夫だ。俺だ、俺だよ」
「へ?」
マサヒコは振り返った。
そこには、リンコのことを聞きに来た、あの男子生徒がいた。
「あ、お、お前か」
「……俺は敵じゃないよ、落ち着け小久保」
「あ、ああ……」
「ほら」
男子生徒は、マサヒコに学生鞄と外靴を手渡した。それは、マサヒコの物だった。
「今、連中は校内を探し回ってる。出口は全部塞がれた」
「……」
「着いてこいよ」
「え?」
「……自転車置き場の裏の金網のフェンス、壊れてるところがあるんだ。そっからなら逃げれる」
マサヒコは一瞬、罠かと思い、男子生徒の顔を見た。
だが、その表情から、嘘の気配は感じ取れなかった。
「一緒に行こう」
「あ、ああ」
マサヒコは信じることにした。
溺れる者は藁、ではないが、四面楚歌のこの状況で、頼れそうなものは目の前の友人しかいない。
焼却炉から自転車置き場まで、距離にして十メートルもなかった。
二人は、追っ手に見つかることなく、無事にそのフェンスの破損箇所までたどり着いた。
そこで、マサヒコは意外な人物と顔をあわせた。
「ミ、ミサキ!」
「マサちゃん!」
思わず目が点になるマサヒコ。
校門にいるはずのミサキが、どうしてここにいるのか。
「……ゴメンね、小久保君」
ひょこ、とミサキの背後から申し訳なさそうな顔で現れたのは、何とリンコだった。
「ま、的山?」
「……ゴメンね。ペラペラと喋っちゃって。私、酷かったね……」
目を潤ませて、リンコはマサヒコに謝った。
「……いや、その」
マサヒコはどう答えていいかわからなかった。
まさか、天然のリンコが、自分の非に気づいて、こうも素直に頭を下げてこようとは。
それは、マサヒコが知っているリンコではなかった。
「あー、その……べ、別に俺は怒っちゃいないよ」
「ホント……?」
「……う、うん。まぁ」
マサヒコとしては、そう言うしかないところだ。
「で、でも何でミサキがここに?」
「私が連れてきたの。あそこにいたままだと、ミサキちゃんが皆の質問攻めにあっちゃうと思って……」
リンコの横で、ミサキはコクリと頷いた。
その顔は、『何がなんだかわからない』といった感じだったが。
「……でも、的山もこのフェンスが壊れてること、知ってたのか」
「あ、うん。遅刻しそうになると、私よくこっから入るんだよ」
「……なるほど」
マサヒコは納得した。リンコの家から歩いてくると、校門に回るより、ここからの方が学校の中に早く入れる。
「私が見つけたんじゃなくて、人から教えてもらったんだけどね」
そう言って、リンコは目の下に溜まった涙を指で拭き取り、男子生徒を見た。
「あー……」
男子生徒は、顔を真っ赤に染めると、顔を背けた。
「朝、ここでよく一緒になるんだよ」
「……うう」
顔は逆の方向のままで、男子生徒はコクコクと数度、首を縦に振った。
「さ、小久保君もミサキちゃんも、早く行った方が良いよ。ここにも来るかもしれない」
「そ、そうだな」
マサヒコはミサキの手を取ると、引っかからないように体を屈め、フェンスをくぐった。
「本当にゴメンね、小久保君」
また、リンコが頭を下げた。
「……いいよ、ホントに」
マサヒコは微笑むと、リンコの顔を真っ直ぐ見た。
もしかしたら、とマサヒコは考えた。
天然だ、周囲のことはあまり気にしない人間だ、とばかりリンコのことを思ってきたけど、そうじゃないのかもしれない、と。
いや、そうじゃなくなってきたのかもしれない、と。
自分も、アイやミサキのおかげで人間的に成長したように、
リンコも、天然の部分は天然のままだけど、その他は自分と同じように、成長しているのかもしれない。
少なくとも、中学時代のままのリンコなら、ここには絶対にいなかったはずだ。
教室で、何故マサヒコが逃げたのか、そして、どうして皆が追いかけていったのか、
その理由がわからずに首を傾げていただろう。
「じゃ、またゴールデンウィーク後にな」
マサヒコは手を挙げて、リンコと男子生徒にさよならの挨拶をした。
「うん、またね」
「じゃあ、な」
ミサキと手を繋いだまま、数十歩歩いて、マサヒコは後ろに振り向いた。
「……応援するから、頑張れよ」
ミサキにも聞こえないくらい、小さな小さな声で、マサヒコはエールを贈った。
その先、金網の向こう側には、リンコに話しかけられて、真っ赤になって俯いている男子生徒の姿があった。
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