作品名 作者名 カップリング
「アイのカタチ」第五話 ピンキリ氏 -

「よし」
 マサヒコは洗面台の鏡の前で、自分の服装と髪をチェックした。
あまりファッションに頓着の無いマサヒコだったが、デートとなると適当に服を選ぶわけにはいかない。
「いってきます」
 玄関のドアを開け、マサヒコは奥にいる父と母に声をかけた。
いってらっしゃい、という声がハモってマサヒコの耳に返ってきた。
次に母が「遅くなるようだったら電話してきなさい」と言ったようだったが、
ドアを閉める音と重なったために、マサヒコははっきりと聞き取れなかった。
「ふぅ」
 マサヒコは門を出ると、空を見上げた。
空には雲ひとつ無かった。快晴と言ってよいであろう。
九月に入ってからしばらくはぐずついた天気が続いていたが、今日は違った。
天気予報では雨の降る確率は午前中は0%、午後から10%と言っていた。
外出するのに、傘を持っていく必要は無いだろう。
だいたい、雨なんぞに降られては困る。
何と言っても、今日は久しぶりのアイとのデートなのだから。


 集合場所はいつものところ、駅前の時計塔の下だ。
マサヒコはバスから降りると、その方向へと歩いていった。
時計塔がマサヒコの視界に入ってきた。
その電光表示は【9/11(SUN) AM9:31】、約束の時間の三十分前を示している。
「あっ」
 マサヒコは声を小さくあげると、時計塔の下へと駆け寄った。
時計塔の下にいる、女性のところへ。
「アイ先生……」
 まただ、と思い、マサヒコは頭をポリポリとかいた。
デートの時は男性が早く待ち合わせの場所に着き、
後から女性が遅れてやってくるというのが、デートというもののイメージのひとつになっている。
ドラマやマンガの中では、大抵そうだ。
もちろん、現実は違ってくる。
二十分早く着いたマサヒコの目の前には、それよりも前に来ていたアイがいる。
マサヒコは別に時間にルーズな方ではない。
約束の時間に一分足りとも遅れたことはない。
だが、マサヒコが来た時には、絶対にアイが既にそこにいるのだ。
一回目のデートからずっと、それは変わらない。
今日こそは、と思ってかなり早めに家を出たのだが、それでも結果はこうだった。
「おはよう、マサヒコ君」
「おはようございます、アイ先生」
 やはり、男が遅れてやってくるというのは格好がつかないものだ。
恥ずかしい、という気持ちにすらなってくる。
と、そんな思いが顔に出たのだろう。
アイはニコリと微笑むと、慰めるようにマサヒコに言った。
「私が早かったわけじゃないよ。マサヒコ君も十分早かったよ」
 聞き様によっては男にとってかなりショックな台詞である。
「十分前くらいには着くつもりでいたんだけど、たまたま一本前の電車に間に合っちゃって、それで」
「はぁ……そうですか」
 マサヒコはアイの瞳を見た。
アイが嘘をついているかどうかを見抜く時は、目を合わせればいい、とマサヒコは知っている。
アイは動揺して必ず視線を外すのだ。
だが、今回は逸らすことなく、じっとマサヒコを見つめ返してきた。
意図的に早く来た、というわけでは無さそうだった。


「じゃあ、行きましょうか」
 マサヒコはそっとアイに向かって手を差し出した。
躊躇うことも、恥ずかしがることもなく、アイはその手を握り返してくる。
「予定通り、映画を見に行ってから食事をするということでいいですか?」
「うん」
 マサヒコとアイは手を繋ぎ、隣町の映画館へ行くために、駅の中へと入っていった。
「でも、晴れて良かったですね」
「そうだね」
 マサヒコは背が伸びたし、顔つきも大人っぽくなった。
アイはもう成長しきっているので、これ以上大きくならないし、生来童顔だ。
周囲から見れば、何となくアイの方が年上だなという感じはするが、それでも六歳の差があるとは思えないだろう。
不釣合いだとか、違和感だとかは全く無かった。
それだけ二人のカップルぶりが板についてきた、という証明なのかもしれない。
「【神様仏様と呼ばれた男】【恋のラッキーゾーン】だと神宮シネマ、【アパッチ野獣軍VSアストロ集団】だったら川崎ホール」
「【インディ・バースの冒険〜三つの宝冠の伝説〜】と【ボビー・ザ・マジシャン】は藤井寺一番館ね」
 事前に情報を仕入れて、おもしろそうな映画を選び出してから観に行くというのが普通だろうが、
マサヒコとアイはそれをしなかった。
映画程批評が別れるモノも無い。
おもしろいという評判の大作でも、あまりのつまらなさに途中でグーグー夢の中へ、ということもある。
それに、当日現地に行ってみてから考えるという場当たり的な選び方も、結構楽しいものだ。
ドキドキ感があるし、何より外した時のショックが少ない。
もっとも、これは比較的おおらかな性格のマサヒコとアイだからこそ出来るデートの仕方だ。
デートはきっちりスケジュール通りに、というカップルにはお勧め出来ない。喧嘩別れの元になる。
「やっぱり恋愛モノがいいですか?それなら、【恋のラッキーゾーン】かなぁ」
「アクション系でもいいよ。【インディ・バース】も何かおもしろそう」
「感動モノだと【神様仏様と呼ばれた男】【ボビー・ザ・マジシャン】ですよね」
「【アパッチ野獣軍VSアストロ集団】は……戦争モノね。さすがにこれは私はパス」
 切符を買ってゲートをくぐり、ホームで電車を待つ。
その間、ずっと二人は笑顔で楽しそうに、映画のことについて話をした。
話題は何でもいい、こうやって言葉を交わすこと。
それが、デートという行為をより充実したものにしてくれるのだ。


                 ◆                     ◆

 マサヒコとアイが駅の改札口に消えてから一時間程後、
二人が待ち合わせをした時計塔の下に、三人の少女が集まった。
「おーい、ミサキちゃーん、こっちこっちー」
「遅いわよ。あと数分で時間オーバーじゃない」
「うん……ごめん」
 リンコとアヤナ、そしてミサキだ。
「じゃー早速行こうよ」
「そうね、まずどこかでお昼を食べましょう」
「……」
 新学期が始まってから、ミサキの変調に真っ先に気づいたのはアヤナだった。
日中、学校で顔を合わせているからすぐにわかったのだ。
おかしいと思って声をかけても、どうにもハッキリしない答しか返ってこない。
ハッパをかけるように挑発気味の言葉を浴びせても、全く反応してこない。
アヤナとしても、ミサキの元気が無いことには、勝負の売りようも無いわけで……。
とにかく、原因を探るしかないとアヤナは考えた。
「まず、隣町に行きましょう。あそこの駅前のビルの最上階にいいフランス料理のレストランがあるのよ」
 それで、リンコを巻き込んで、女三人で遊びに行こうというプランを立てたのだ。
「えー、でも高いんじゃ……」
「そうでもないわ。ランチメニューなら一万円もあれば足りるわよ」
 アヤナのサラリとした台詞に、リンコとミサキは思わず仰け反った。
一万円が高くない、とはさすがに良家のお嬢様である。
「……私、一万円ピッタリしか持ってきてないよう……」
「私も、一万五千円しか……」
「あら、それだけしか持ってきてないの?」
「アヤナちゃんはいくら持ってるの?」
 アヤナは財布(もちろんブランド品)を取り出すと、中の紙幣を数えた。
「うーん……十万円ってとこかしら。いざとなったら銀行からお金を引き出すわよ」
 リンコとミサキはまたまた仰け反った。
いくら最近の学生が金を持っているとはいえ、十万円を財布に入れている高校一年生がいていいのだろうか。
「仕方ないわね、私がおごってあげるわよ」
「え、え、え、いいの?そのランチ、一万円近くするんでしょ?」
「別に構わないわよ。今日は、私が声をかけたんだし」
 まったく、とんでもないお嬢様である。
リンコとミサキがよくよく見てみれば、アヤナは服装も上から下までバッチバチに高級品ぽい。
きっと、二人が今身につけている服を全部足して、さらに二倍してもおいつかない額のシロモノに違いない。
「……」
「……」
 リンコとミサキは思わず目を合わせた。
家は金持ち大豪邸、学業スポーツともに優秀、その上美人でスタイル抜群。
今更ながらに、若田部アヤナという人間が『どえらい』存在なのかわかった気がした。


「さ、何時までも突っ立ってるわけにいかないわ。行くわよ!」
「う、うん」
「あ……」
 アヤナはミサキの手を取ると、引っ張るように歩き始めた。
「ほら、今日はあなたのために外出の計画を立てたんだからね。もう少しピシッとしてよ」
「あ、うん」
 自分の言葉に照れているのか、アヤナはミサキの方を振り向こうともせずにずんずんと歩いていく。
「あー、待ってよ二人ともー」
 その後をリンコがすてててと小走りで追いついてくる。
「あの……若田部さん」
「ん?なあに?」
「あの……ありがとう」
「……礼を言われる程のことじゃないわ」
 きっと、頬が赤くなっているのだろう。
アヤナは若干顎を上げて、斜め前を見るような姿勢を取った。
「天野さんが元気が無いと、私は誰と勝負すればいいって言うのよ」
「……うん、そうだね」
 アヤナの優しさを感じて、ミサキは、少しだけ心が軽くなったような気がした。
日頃はツンツンしていてやたらと勝負に拘るけど、アヤナは本質は優しい少女なのだ。
ただ照れ臭さが、常にそれが表に出るのを阻んでいるだけで。
「とにかく、何を悩んでいるのか知らないけど、今日で忘れなさい。それで、明日からいつも天野さんに戻るのよ!」
「……」
 ミサキはその言葉には答えなかった。
それは、絶対に無理だろう。マサヒコのこと、アイのこと、考える度に辛くなる。今朝だって少し泣いた。
マサヒコとアイがつきあっているという事実、それはミサキの心臓に突き刺さった、決して抜けない氷の針だ。
これからどうすればいいのか、何をしたらいいのか、全然わからない。
ただ、悲しさだけが心と背中の上に降り積もっていく。
「五分後に電車が来るわ、的山さん、ほら早く切符を買って!」
「わわわ、急かさないでようアヤナちゃん、今お財布出すから」
 だけど、今日一日だけなら。
「さ、行きましょう」
「ちょ、ちょっと待ってってばー」
 アヤナとリンコと一緒にいる間だけなら、ミサキは、その辛さから解放されそうだった。


                 ◆                     ◆

 西の空に浮かぶ雲が、夕焼けで赤く染まり始めた。
半身を雲と同じように赤く染めながら、マサヒコとアイは商店街を歩いていた。
「アイ先生、疲れましたか?」
「ううん、大丈夫。マサヒコ君は?」
 二人が選らんだ映画は、【インディ・バースの冒険〜三つの宝冠の伝説〜】だった。
インディ・バースという名前のゴツイ白人男性が主人公で、タイガーガーデンと呼ばれる古代の遺跡を舞台に、
集めると大いなる名誉と栄光を得られるという三つの伝説の宝冠を巡って、悪党達相手に大暴れ―――
という内容で、まぁそこそこ楽しめた。
 その後、映画館の隣のカフェレストランで昼食を食べ、CD屋で視聴をしたり、
ゲームセンターでぬいぐるみを取るのに悪戦苦闘したり、甘味屋で餡蜜を食べたり……。
そんなこんなで楽しい時間を過ごした。
 そして、陽も傾いてきたことだし、そろそろデートもお開きの時間となったわけだ。
「……」
「……」
 マサヒコとアイは、しっかりと指を絡めあって、歩調をあわせて商店街を進んでいった。
これからどうするのか、二人は決めかねていた。
駅に着くまでに、答を出さないといけない。
このまま、電車に乗って今日は終わりにするのか。
晩御飯をどこかで食べて行くのか。
アイの家に行くのか。
それとも……。
「あっ」
 アイの体が不意に揺れた。
マサヒコが立ち止まったからだ。
「マサヒコ君?」
 マサヒコは、商店街から外れる一本の道を見ていた。
細い路地だ。
そこを通って、抜けると。
「……」
「……」
 二人が、過去に一度体を重ねた、ラブホテルの裏門に出る。
「……」
「……マサヒコ君?どうしたの?」
 アイは気づいていないようだった。
マサヒコはきょとんとしているアイの顔に目をやった。
そして、ひとつ首を振ると、アイに笑いかけた。
「何でもないです。さ、帰りましょうか」
「……ふぅん。ヘンなマサヒコ君」
 マサヒコは、本当はアイを抱きたかった。
アイの体を感じたかった。
裏路地へ進み、ラブホテルの前に来て、アイに求めたら、アイはおそらく拒絶しなかっただろう。
だけど、踏み出すことが出来なかった。
言葉で表すことの出来ない何か、それが、マサヒコにストップをかけた。
「マサヒコ君、何だったの?」
「別に、たいしたことじゃありませんよ」
 マサヒコは、アイのマンションに行くのも止めておこうと思った。
恋人なんだから、つきあっているんだから、遠慮なんてしなくてもいいのだが。
それでも、今日は素直にさよならして帰ろう、と。
今日は、ここまででいい。
楽しいデートだけでいい。
理由は無い。
今日は、それだけで、いい。
マサヒコは、そう思った。


「ねー、アヤナちゃん、ホントにこっちの道で駅に着くの?」
「大丈夫よ、夕陽がある方向、そちらへ行けば間違いなく駅に着くわ」
「でも、さっきの道は行き止まりだったでしょ」
「あああ、あれはしょうがないじゃない」
「それに、妖しいお店やラブホテルがあったし」
「だ、だから何?」
「お店の前に立ってた人に、ジロジロ変な目で見られたし」
「あーっ、道に迷ったのは私のせいよ!それは謝るわよ!とにかく、今は歩きなさい!」
「はーい」
 ギャアギャアと大きな声で会話しながら、
アヤナ、リンコ、ミサキの三人(大声を出しているのはアヤナとリンコだけだが)は夕焼けに染まった路地を歩いていた。
「ねー、何か曲がりくねってるよ」
「いつか大きな道に出るわよ。全ての道はローマに通ず、歩いていればどこか場所がわかるところに出るわ」
「いつか、っていつ……?」
「いつか、よ!」
 ミサキは小さくため息をついた。
まさか、このまま家に帰れないということはないだろうが、この分ではかなり時間がかかりそうである。
十分に楽しい時間を過ごせていたのだが、それにしても、最後の最後でこんなことになるとは。
「まさか、迷子になるなんて……」

 駅前のビル、その最上階のフランス料理レストラン。
リンコとミサキ、特にリンコは最初はビビリまくっていた。
どれだけハイソな人たちが集う超高級店かと思いきや、中に入ってみると結構普通の格好の客が多かった。
ガッチガチに固くならずにちょっと贅沢してみたい、そんなお客のためのお店なのだろう。
さて味の方だが、アヤナのオススメだけあって素晴らしくおいしかった。
貝の種類が何たらとかソースが何たらとかアヤナが解説してくれたが、二人の耳にはほとんど入らなかった。
目の前の料理をどう攻略するか、それで精一杯だったのだ。
何とかデザートまで食べ終え、勘定をアヤナに甘えた後、ファンシーショップへと向かった。
ぬいぐるみをはじめとした可愛らしいものは、ミサキは大好きだし、アヤナもリンコも大好きだった。
ナンパ男をかわしつつ(時にアヤナが眼光で撃退)商店街を色々と見て回った。喫茶店にも寄った。
ミサキにとって、あの出来事以来、初めて心から笑うことが出来た時間だった。

 前を歩く二人の掛け合いを見ていると、少しだけ元気が沸いてくるような気がする。
ミサキはそう思った。
本当に、親友というものはありがたい。
マサヒコのこと、アイのこと。
結局、二人には一言も喋らなかった。
話すべきだったのだろうか。
胸の内をぶちまけ、悲しみを、辛さを吐露すべきだったのだろうか。
それは、わからない。
そうしたとしても、二人は困惑するだけかもしれない。
数学みたいに、式があって、必ず答が出るような問題ではないのだから。
このまま、ずっとずっと喋ることが無いのかもしれない。
逆に、明日、打ち明けるかもしれない。
やっぱり、何もかもがわからない。
でも
「待って、二人とも」
 それでも、今日のこの時間だけは、少し救われたのだ、天野ミサキという存在は。
若田部アヤナと、的山リンコという、かけがえの無い親友二人によって。


「こっちよ、こっちに違いないわ」
「ホントにー?」
「二人とも、あんまり大きな声を出さないで」



「アイ先生、次はいつにしますか?」
「マサヒコ君はいつがいい?」



「ほら、あのビルの看板、あれ、見たことがあるでしょ」
「あ、確かに」
「駅が近いみたいね」



「じゃあ、次にすれ違った人が男だったら、俺が決めます」
「女だったら、私ね?」



「ここまで来たらもう大丈夫でしょ」
「でもまた迷うかもしれないよー、あそこにいる二人に道を聞こうよ」
「……最初から聞いてれば良かったかも」



「あ、女の人ですね。それじゃアイ、せん……」
「……どうしたの、マサヒコ君?」



「すいませーん、道を……あれ?」
「あ……」



「……あ、あ」









「……ミサ…キ……」

「……っ!」


「マ、サ、君……」

「え……?」

「濱中、先生……と、こくぼ、くん?」


パ、パッと、街灯に灯りがともった。
太陽が西の空に沈み、徐々に周囲が暗くなり始めている。
 駅まであと数百メートル。
出会ったマサヒコとアイ、そしてミサキ。
無言で立ち止まる五人。
その周りを、前から後ろから、人が通り過ぎ、追い越していく。
 マサヒコは、アイと結んでいた指を解いた。
口を開く。だが、言葉が出てこない。
 ミサキは口を掌で押さえた。
胸の奥から、凄まじい勢いで、熱い何かが駆け上っていく。
「ミ、サキ……」
 マサヒコはミサキの方へ手の伸ばした。
さっきまで、アイを握り締めていた、その手を。
「……」
 ミサキは半歩、後退した。
マサヒコの手の角度が上がるにつれて、後ろへ下がる歩数が増えていく。
 そして。

「あ、あ、ああ、あああああ、ああああああっ!!」
 怒り、悲しみ、悔しさ、やるせなさ、虚しさ。
それらが全て入り混じった声をあげ、ミサキは走り出した。
マサヒコとアイに背中を向けて。
涙の粒が頬から飛び、街灯に反射してキラキラと光る。
周囲の人間が、何事かという風に五人を見る。
「ミサキッ!」
 マサヒコはミサキの後を追おうとした。
だが。
次の瞬間、左の頬に熱い痛みを感じて、足を進めることが出来なかった。
「わか、たべ……」
 アヤナがマサヒコの前に立ち塞がり、その頬を思い切り平手で叩いたのだ。
「わか……」
 マサヒコは喋ることが出来なかった。
もう一度、アヤナが平手を叩きつけてきたからだ。
マサヒコはグラリと体を傾かせた。
「……わかったわよ」
「……え……」
「天野さんが元気が無かった理由が、今、わかったわよっ!」
 マサヒコは頬を押さえ、アヤナへと顔を上げた。
そこに三度、アヤナの平手が振ってきた。
「ぐっ……!」
 マサヒコは避けなかった。避けることが出来なかった。
「小久保君、アンタ、濱中先生と」
 アヤナの声が不意に弱々になった。
アヤナもまた、泣き始めていた。


「濱中先生と、アンタは」
 ミサキがマサヒコに背を向けて走り出した時、アヤナは全てを瞬時に理解した。 
ミサキが新学期から、元気が無かった、そのわけを。
目の前にいる、小久保マサヒコと、濱中アイ。
その、固く結ばれた手。
答は、ひとつだ。
「アンタは……ッ!」
 アヤナは、服の袖で涙を拭った。
「……最低よ」
「……!」
 その言葉は、マサヒコに衝撃を与えた。
三発のビンタよりも、はるかに強烈に。
 アヤナは身を翻すと、ミサキが逃げた方へと走り出した。
ミサキを探すために。
「アヤ、ナちゃん、マサヒコ君……!ミサキちゃん……!」
 呆然と立っていたアイが、アヤナの背中を追うように足を数歩前に出した。
しかし、それもまた止められた。リンコによって
「リンコちゃん……」
「濱中先生、小久保君……」
 リンコは泣いてはいなかった。
だが、その表情は悲しさであふれているように見えた。
「私、ミサキちゃんが小久保君のことを好きだって、高校生になるまで知りませんでした」
「え……」
「アヤナちゃんも、そう言ってました」
 リンコの声は、表情とは裏腹に淡々としていた。
「中村先生からは、鈍感過ぎるって笑われました」
 マサヒコとアイは、声帯が麻痺したかのように、一言も喋ることが出来なかった。
決して大きくないリンコの声が、周囲の人垣のざわめきを通り越し、二人の耳に突き刺さってくる。
「新学期になってから」
「ミサキちゃんの元気が無いとアヤナちゃんから聞かされたとき」
「体調が悪いんだ、くらいに思ってました」
「それで、今日は三人で外出して、励ましてあげようと」
 ここで、ポロリ、とリンコの目からも涙が零れた。
「……今、わかりました。全部。ミサキちゃんが元気が無かったわけを」
「ま、とやま……」
 腹の底から、搾り出すようにマサヒコが呟いた。
だが、後が続かない。
「ミサキちゃんは、知ったんですね」
 マサヒコとアイは、ビクリと体を震わせた。
「夏休みの間に、小久保君と、濱中先生がつきあってるってことに」
「それは……!」
 そんなはずは、とマサヒコは言おうとしたが、声にならなかった。


「……」
 リンコもまた、二人に背を向けた。
ミサキとアヤナ、二人が走り去っていった方向へ歩き出していく。
人垣が、リンコを通すようにさっと割れる。
「……追ってこないでね」
「え……?」
 リンコは振り向かずに、二人に言った。
「教えてくれなかった人は、ミサキちゃんの気持ちを無視した人は、追ってきちゃ、ダメ」
「……!」
 リンコの最後の言葉は、マサヒコとアイの肺腑をえぐった。


 リンコが去り、野次馬が散っても、二人はそこを動くことが出来なかった。
三人が行ってしまった方をただ、じっと見つめることしか出来なかった。
追わねばならない。
追って、追いついて、全てを話さなければならない。
そうしなければいけない。
 しかし。
二人の足は、地に縫い付けられたように、固まったままだった。


 遠くで、雷の音がした。
行き交う人々の動きが、せわしなくなった。
また、雷の音がした。
さっきよりも、近いところで。


 マサヒコとアイの横を通り過ぎた、会社帰りと思われる男性が、
折り畳み傘を鞄から取り出した。


 雨が、降ってきた。

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