作品名 作者名 カップリング
『アイのかたち』第三話 ピンキリ氏 マサ×アイ

 青い空の真ん中で、太陽が燦々と輝いている。
蝉は休むことなく声を振り絞り、アスファルトの表面近くはゆらゆらと揺れている。
「……暑い」
 炎天の下、マサヒコは汗をかきかき庭の手入れをしていた。
草引き、水やり、花壇の修理。
緑化委員ならお手のものでしょ、というよくわからない理由で、母から命じられたのだ。
最初は「何で俺が」と抵抗したのだが、そこは親の立場と子の立場、逆らいきれるはずもない。
なお、その母は「町内会の用事で」とさっさと外出してしまった。
おそらく、今頃はクーラーの効いたカラオケボックスの一室で気持ちよくマイクを握っていることだろう。
「しかし、本当に暑いな……」
 昨日の晩に降った雨のせいで、湿気が高い分、より暑く感じる。
土いじりなんぞをしているのでなおさらだった。
「……」
 マサヒコは左右をキョロキョロと見回した。塀の向こう側も覗き込む。
そして、誰もいないのを確認すると、汗でべとついたTシャツを脱いだ。
ホースから水を出すと、そのTシャツを濡らして軽く絞り、それで体を拭いていく。
その場凌ぎではあるが、額、うなじ、胸、背中、脇腹と、タオルで拭いたところがひんやりとして気持ちよい。
「いてっ」
 マサヒコは顔をしかめた。
昨日アイの爪によって出来た背中の傷に、タオルが触れたのだ。
染みるようにズキリとする。かさぶたが取れてしまったかもしれない。
「いててて…」
 アイの手前、強がりを言ったが、肉が削がれたのだから、傷はそれなりに深い。
痕が残るとまではいかないだろうが、治るのには時間がかかりそうだった。

 結局、昨夜マサヒコはずぶ濡れになった。
そのまま電車に乗り、家へと帰った。道中、背中の傷がずっと痛んだ。
鍵を開けて家へ飛び込むと、ただいまのあいさつもそこそこに風呂場へ駆け込み、シャワーで汗と雨を洗い流した。
上がったあと、もう一度傷を消毒して、ベッドに倒れこむとそのまま眠りについた。
そして、今朝母に叩き起こされ、庭仕事を命じられたのだ。
 マサヒコが夜遅く帰ってきたのは承知しているのだろうが、庭仕事の件以外は、母は何も言わなかった。
アイとつきあっていることはまだ伝えていないのだが、もしかすると薄々感づいているのかもしれない。
ただ、それならそれで、母の性格からして絶対に何か言ってくるはずであり、言わないということは、
やっぱり何も知らないという可能性もある。ここら辺は、マサヒコにはよくわからない。
 父は、絶対に気づいていないだろう。元々、そちら方面にはあまり頓着の無い人である。
息子が年上の女子大生と交際していると知ったら、果たしてどのような反応を見せることだろうか。

「ふぅ……」
 最後に頭をぐしぐしと拭いて、マサヒコは一息ついた。
出来るならホースから直に水を被りたいところだったが、さすがにそれはやめておいた。
マサヒコは頭を振ると、髪の毛に残った水滴を飛ばした。
首筋には、もう汗が滲み始めている。
「あ……しまった」
 タオルが無かったから、という理由で、Tシャツを使ったはいいものの、替えの服も手近なところに無い。
家の中へ取りに帰らなければならないが、そのためには玄関から入るしかない。
当然、門の前を通る必要があるが、そこには塀が無いので、外から見られてしまう確率が上がってしまう。
いくら夏だと言っても、上半身裸でそうウロチョロ出来るわけではない。
「……」
 マサヒコはしばし考えた後、濡れTシャツをもう一度着ることにした。
これなら裸を晒さずに、新しい服を取りに行ける。
「ん……あれ?」
 しかし、水に濡らしたことで、Tシャツが張り付き易くなり、上手く腕を通らない。
「あれ、ありゃ」
 右肘のところで引っかかってしまった。
マサヒコがそれをひっぺがそうとして両腕を上げた瞬間―――背後で何かが落ちる音がした。
「?」
 マサヒコは首だけを曲げて、後ろを見た。
「あ!」
 そこに立っていたのは、幼馴染の少女だった。
「ミ、ミサキ!?」
 ミサキの足元には、回覧板が落ちている。
それを届けに来て、チャイムを押したが反応が無く、庭の方へと回って来たのだろう。
「……」
「……」
「………」
「………」
 その体勢のまま、二人は数秒間立ち尽くした。

 しばらくして、庭に悲鳴と何かを叩くような音が響いた。
木に止まっていた蝉が数匹、驚いたように飛び去っていった。

「はい、お茶」
 マサヒコは冷たい麦茶の入ったコップを盆に乗せて持ってくると、ミサキへと差し出した。
「あ……ありがと」
 ミサキは小さな声でお礼を言うと、マサヒコからコップを受け取った。
「……」
 ゆっくりと口につけ、よく冷えた液体を喉の奥に流し込む。
体の中がすーっと涼しくなるようで、気持ちが良い。
ミサキは、目の前で自分と同じように麦茶を飲んでいるマサヒコをじっと見た。
その左頬は、掌の形が赤く張り付いている。
さっき、彼女が思いっきり平手で叩いたのだ。
何故そんなことをしたのか、と問われたとしたら、ミサキは「わからない」と答えただろう。
ドラマやマンガの中では、着替えを覗かれた女性がバシンと覗いた者をひっぱたくというシーンが時々あるが、
先程のマサヒコとミサキはその構図が逆転していた。
「……」
 ミサキは一度マサヒコから視線を外し、窓枠から吊り下げられている風鈴を見た。
風が無いので、風鈴は揺れてはいなかった。部屋に入ってから、一度も鈴は鳴っていない。
「……なあ」
 マサヒコとミサキの間で会話が途切れた場合、次に口を開くのは大抵マサヒコのほうだ。
「夏休みの課題、大変か?」
 ミサキが通う聖光女学院は、近隣でも一流の進学校である。
卒業生のほとんどが、浪人無しで六大学クラスの名門に行くとさえ言われている。
その分、出る課題の量は他の高校に比べ桁違いに多い。
また、夏休み中にも勉強会が何度か開かれたりもしている。
自主参加だが、休む生徒はほとんどいない。ちょっとでもサボれば、あっという間に置いていかれるからだ。
「うん……大変だけど、やり甲斐があるから……」
 ミサキは学習という行為を苦に感じない。
大好き、というわけではないが、難解な問題が解けた時は嬉しいし、
色々と知識を身につけていくのは、結構楽しい。
「マサ君は……?」
「ああ、見ての通りだよ。ボチボチやってるさ」
 幼馴染なんだから、何時でも訪ねてきたらいい。
高校生になったらまた疎遠になってしまうのか、と気に病むミサキに、マサヒコはかつてそう言った。
しかし実際、高校生になってしまうと、お互いの生活リズムが合わず、顔を合わせる回数は減ってしまった。
こうして至近距離で会話を交わすのは、アイの就職内定祝いの時以来だ。
「あのね……マサ君」
「何?」
「その……頬っぺた、ゴメンね」
 マサヒコは左の頬を指でそっと撫でた。
まだ何となく痺れているような気もしないでもない。
「ああ、気にすんな。あんなカッコしてた俺にも責任はある」
 例え相手の非が大きかろうと、マサヒコは一方的に責めたりはしない。
高圧的になるでもなく、下手に出るでもなく、双方の立場を見て、穏やかな口調で話して聞かせる。
それがマサヒコの『優しい』ところなのだと、ミサキは思う。

「ね……マサ君」
「ん?」
「あの……その、ね」
 マサヒコは首を傾げた。
ミサキが突然モジモジしはじめたからだ。
「あの……せ、背中の……」
「背中の?」
「……背中の、傷なんだけど……どうしたの?」
 そこまで言うと、ミサキは顔を染めて俯いてしまった。
「ああ……これ、な」
 マサヒコは頭をポリポリとかいた。
まさか、本当のことを言うわけにもいかない。
「ちょっと、背中をかき破っただけだよ」
「……そう?結構、大きい傷だったけど……」
 ミサキは心配そうな表情で、マサヒコを見た。
「……大丈夫だよ」
 マサヒコは、すっと顔を横に向けた。ミサキの目から逃れようとするかのように。
アイと交際するようになってから、今まで解らなかった女性の心というものが、
マサヒコは少しずつわかるようになってきた。
マサヒコ自身が恋をしたことで、人を好きになったことで、幼馴染の、ミサキの気持ちにようやく気づいたのだ。
彼女が自分を見る時、その瞳の奥にどんな感情が込められているのか、今更だが知ったのだ。
(ミサキ……)
 実は俺、今、濱中先生とつきあってるんだ。
言葉にすれば、数秒もかからないだろうが、それがどうしても口に出来ない。
ミサキが嫌いなわけではない。しかし、マサヒコが愛しているのは、アイだけだ。
自分のためにも、アイのためにも、ミサキのためにも、はっきりと言うべきなのはわかっている。
だけど、言うことが出来ない。
幼馴染という関係が壊れてしまうかもしれないという恐れもある。
だが、それよりももっと恐れているのは、ミサキを傷つけてしまうかもしれない、ということだった。
ミサキは長い間、自分を好きでいてくれた。今も好意を寄せてくれている。
もしマサヒコがミサキを撥ねつけたらどうなるか。
きっと、ミサキは打ちひしがれ、相当悲しむだろう。マサヒコの相手がアイと知ったら、なおさらそうだろう。
ミサキの立場で考えてみれば、それがよく理解出来る。
自分がアイを失ったら、と思うと、心臓が凍りつきそうになる。

「あ、もうこんな時間?」
「え?」
 ミサキはコップに残ったお茶を一気に飲み干すと、立ち上がった。
マサヒコはテレビの上の置時計を見た。針は丁度午後三時を指している。
「お母さんから買い物を頼まれてるの。行かなきゃ……」
 何となく、名残惜しさが声から感じられる。
もうちょっと話をしていたい、そう顔に書いてある。
「あ、ああ……そうか」
 マサヒコも立ち上がった。
玄関までミサキを見送りに行く。
「……それじゃ、またね。マサ君」
「……また、な」
 ミサキは手を振ると、ドアを開けて外へ出て行った。
ミサキの姿が見えなくなっても、マサヒコは玄関にしばらく立っていた。
「……」
 マサヒコは顔を上げた。目に入るのは天井と蛍光灯だけ。
(俺は……)
 話をするなら、今が絶好の機会だったかもしれないのに。
傷つけるとか、嫌だとかじゃなくて、ケジメをしっかりつけなきゃいけないのに。
結局、逃げてるだけなんじゃないのか。甘えてるだけなんじゃないのか。
(俺、は……)
 マサヒコはサンダルを履くと、外へ出た。
まだ、庭の手入れは残っている。蝉の声が聞こえる。やはり、暑い。
「あ」
 花壇の側に寄って、気がついた。周囲が水浸しでべしょべしょになっていた。
見ると、ホースの先からチョロチョロと水が出ている。どうやら、蛇口をしっかりと閉めなかったらしい。
「……やれやれ」
 マサヒコは蛇口を捻り、水を止めた。
「どうしたもんかな……」
 花壇の周りの土は、泥状になっている。
「……ふぅ」
 マサヒコは溜め息をついた。
庭仕事なんぞ早く終わらせたいのだが、まだ終わりそうにない。
自分の不注意なのだから、誰に文句の言いようも無いが。
「……」
 マサヒコはスコップで少し土をすくってみた。
トロ、とスコップの先から泥が零れ落ちる。
「しまった、な……」
 土が元の状態に戻るには、時間が必要みたいだった。

「ええと、じゃがいもと、ニンジンと……」
 小久保邸から退出した後、ミサキは駅前のスーパーに行った。
そこで、母から頼まれたものを色々と買い込む。
じゃがいも、ニンジン、タマネギ、牛肉、とくれば、いかにミサキが料理オンチだとしても、
何を母が作るのかはすぐにわかる。カレーかシチュー、どちらかだろう。
メモにはどちらのルーの名前も書かれていないので正確にはわからない。家にあるのを使うのだろう。
肉じゃが、という可能性もあるが。
「あとは、ペットボトルのお茶……」
 ミサキは飲料水コーナーへと向かった。
たくさんの銘柄のペットボトルが並んでいるが、いつも買っている麦茶をチョイスする。
「あ……」
 麦茶を手に取ったとき、不意にミサキの脳にマサヒコの姿が浮かび上がってきた。
小久保邸で一緒に麦茶を飲んだ、その前。庭でのこと。
「……」
 上半身裸のマサヒコ。うなじ、肩、二の腕、背中、腰、脇腹……。
ミサキの頬に、朱が差す。
海やプールで見てきたのと、同じはずなのに、違う身体。
すっかり、男として逞しくなった身体。
「……!」
 ミサキは頭を振った。
自分はこんな場所で何を思い出し、何を考えているのだろう。
軽く深呼吸をして、マサヒコの像を頭から消す。
「これで……頼まれたのは全部、よね……」
 麦茶のペットボトルを籠に入れると、ミサキはレジへと向かった。
心を静めるために、ゆっくりと歩く。
レジは込んでいた。その中でも、一番人の並びが少ない列の後ろへとつく。
「あら、ミサキじゃない」
 背後から突然呼びかけられ、ミサキは振り向いた。
この声、この口調は。
「……中村先生!?」
「よっ」
 そこにいたのは中村リョーコだった。
「久しぶり……というわけでもない、かね?」
 リョーコは手を挙げて掌をひらひらさせると、ニイッと笑った。

「やー、毎日毎日暑いねー、あ、私アイスコーヒー。ミサキはどうする?」
「あ……私はアイスレモンティーで」
「ん。じゃアイスコーヒーひとつにアイスレモンティーひとつ。よろしく」
 ウェイトレスは頷くと、カウンターのほうへと引き返していった。
「やー、ほんと暑いねー」
「ええ、そうですね」
 ミサキはリョーコと、スーパーの隣にある喫茶店へと来ていた。
リョーコが「どう、お茶でも」と誘ったのだ。小久保邸、スーパー、喫茶店と、妙にお茶に縁がある日である。
「どう、勉強は忙しい?」
「え、ええ」
「私も覚えがあるけど、聖光の夏の課題の量は半端じゃないからねー」
「そうですね」
 ここで、ウェイトレスがアイスコーヒーとアイスレモンティーを持ってきた。
リョーコはウェイトレスに礼を言うと、早速ストローに口をつけた。
「あの……中村先生は、仕事じゃないんですか?」
 ミサキもそうだが、マサヒコとリンコもまだアイとリョーコを“先生”で呼ぶ。
癖と言うか、呼び方というものはそう簡単に変わらないし変えられない。
「あ?ああ、言ってみれば、私も夏休みよ。ちょっと数日、まとめて休み貰ったの」
「へえ……」
「別にどこに出かけるでもないんだけどね……」 
 リョーコは窓の外を見た。クラブ帰りと思われる学生の一団が、自転車で横切っていく。

 二十分程話して、ミサキとリョーコは腰を上げた。
話は尽きないが、コーヒーとレモンティー一杯でそう粘れるものではない。
ミサキはアイスレモンティーの代金は払うと言ったが、リョーコはそれを遮った。
「ここは社会人が払うもんよ。レモンティーくらい、痛い出費でもなし、オゴらせなさい」
 ミサキはリョーコの好意に甘えることにした。
ありがとうございます、と言って、ペコリと頭を下げる。
「さて、行こうか」
「はい」
 またおこし下さい、というウェイトレスの声を後ろに、二人は喫茶店を出た。
「はー、やっぱり外は暑いねぇ」
「ほんと、暑いです……ん?」
 リョーコはミサキの方へ顔を向けた。ミサキの返事が少しおかしかったからだ。
「何?どしたの?」
 ミサキは、リョーコの右手をじっと見ていた。
「あ、いいえ、その……手の甲の傷、どうしたんですか?」
 リョーコの右手の甲には、引っかいたような傷が三本、ついていた。
別にリョーコが隠していたわけではないのだろうが、話をしている間はミサキは全く気づかなかった。
「ああ、これねー」
 リョーコはちょっと恥ずかしそうに笑った。
「その……私のマンションの横の空き地にね、捨て猫がいるのよ」
「捨て猫……ですか?」
「そう。それもまだ小さい……ね」
「へえ……」
「昨日、コンビニの帰りに、ちょろちょろと足元にじゃれついてきて……可愛らしかったもんだから」
「……」
「その、ツマミのつもりで買った蒲鉾をあげたのよ。そしたら」
 リョーコはガリガリッ、と両手で引っかく真似をした。
「横から母猫が出てきて、こうよ」
 そして、ミサキの鼻先に、手の甲をぐいっと近づける。まだ傷跡は赤みがあり、何とも痛々しい。
「……!」
 リョーコの手の甲の傷を見るうち、また、ミサキの頭の中に小久保邸での場面が蘇ってきた。
マサヒコの右肩の下辺りにあった傷と、目の前の傷が重なったような気がした。
「中村先生……?」
「んん?」
「背中の……肩甲骨の下なんですけど……どんなかき方をしたら、傷がつきますか?」
 何故、それを尋ねたのか、ミサキ自身にもわからなかった。
マサヒコが心配だったから、たまたまリョーコの傷がマサヒコの傷と似ていたから。
色々と理由はあるだろうが―――強いて言うなら、ミサキの女性としての勘、だろうか。
「背中の……傷?」
「ええ……」
「ははぁ、そりゃ……決まってるじゃない!」
 リョーコはビシッ、とミサキに人差し指を突きつけた。
「合体よ!」
「は?」
「すなわち交合!セックス!」
「え?え?え?」
 ミサキはリョーコの話についていくことが出来ない。目を白黒させるミサキに構わず、リョーコは続ける。
「いい?正面からこう抱き合って……そして女が頂点に近づいたその時!こう!ガリッと!」
「!!」
 ミサキの手からスーパーの買い物袋がアスファルトへと落ちた。
(……まさか!?)
 よく考えてみれば、あの位置はそう簡単に手でかける場所ではない。自分では。
「後は肩口に噛み付くとか、激しい行為の時は結構あるものよ」
 ミサキはもう、リョーコの言葉を聞いていなかった。
頭の中を、マサヒコの傷がどうやってついたか、という疑問が占領している。
「でもどうしたの?ミサキ、あなた……」

 ……リョーコは想像出来なかった。出来るはずもなかった。
「でねぇ、まあシテても余裕があればそんなこと無いんだけど、そうじゃない時は……」
 自分の軽口が、今後のアイと、マサヒコと、ミサキの関係にどれほどの影響を与えることになるか、を。

                 ◆                     ◆

「ごめんねー、マサヒコの奴、緑化委員の仕事とか何とかで……もう帰ってくると思うんだけど」
「あ、あの……」
「とりあえず、マサヒコの部屋で待ってて。あ、冷たいもの持ってくるわね」
「は、はい……」
 ミサキは、マサヒコの部屋に入ると、ペタンと腰を下ろした。
そして周囲を見回す。主がいない部屋というのは、どこか物寂しい。
(私……どうして……)
 昨日は、リョーコの言葉が気になって、ほとんど眠れなかった。
(マサちゃん……)
 マサヒコを疑っているのだろうか、マサヒコが嘘を言っていると、自分は思っているのだろうか。
そして、今日、彼に会って、何を聞こうというのか。
あの傷は本当に自分でつけたものなのか。
誰か、友達と喧嘩をして負ったのか。 
それとも、違うのか。リョーコの言葉の通りなのか。
(私は……)
 と、その時、軽やかなメロディが部屋に鳴り響いた。
「?」
 ミサキは立ち上がると、その音のする方へと移動した。
「あ……」
 それは、マサヒコの携帯電話だった。
マサヒコが学校へ持っていくのを忘れたのだろう。
メールだったらしく、メロディはすぐに切れた。
「……」
 ミサキは携帯電話を手に取った。
液晶画面には、男性の名前が表示されている。
その名前に、彼女は覚えが無い。高校の友人と思われた。
 いくら幼馴染とは言え、勝手に人の携帯をいじくってはいけない。
マナー違反だ。失礼な行為だ。やっちゃいけないことだ。
「あれ……私……」
 しかし、そう思っているのに、ミサキの手は、彼女の意思にしは従わなかった。
衝動が、ミサキを突き動かす。
ポチポチとボタンが押され、通信とメールの履歴が画面に表れる。
「あ……!?」
 そこに並んだ名前の大半、それは、彼女がよく知る人物のものだった。
「ア、イ……せんせ、い……?」
 もう、コントロールが効かなかった。
震える指で、受信BOXの一番上、昨日の午後に届いているメールを開く。
「……!」

TIME:2006/8/12
SUBJECT:ごめんね
――――――――――――
昨日は、雨に濡れなかった?
風邪を引いてない?大丈夫だ
ったらいいけど…。
遊園地、楽しかったね。また機
会があったら、行こうね^^
次のお休み、また連絡するね。
それじゃ、体調には気をつけて
…。

P.S
今度はちゃんと順序良くしよう
ね?キスからのスタートを、私
は望んでいます^^

さらにP.S
背中の傷…ゴメンね


 ミサキはパタン、と携帯を閉じた。
机の上にそっと置き、ふらふらと部屋を出る。
「……アイ先生が……マサちゃんと……」
 力の入らない足で、何とか階段を降りきると、挨拶もせずに小久保邸から出た。
「……まさか、そんな……マサ、ちゃ、ん……」
 自宅の門をくぐる時、その頬はすでに涙に侵されていた。
玄関で、母が何か言ったようだが、耳には入らなかった。
「く……ううっ……」
 自分の部屋に飛び込むと、ミサキは床にへたり込んだ。
ぬいぐるみ、本棚、ベッド、ゴミ箱、全ての物が歪んで見える。
「マサちゃん、マサちゃん……何で……あ、あああ……!」
 

 マサヒコが帰ってきたのは、ミサキが小久保邸を出てから十分後のことだった。

                 ◆                     ◆

 小久保邸から戻ってきて、ミサキはずっと自分の部屋に閉じこもっていた。
母が何度か晩御飯のために呼びに来たが、ミサキは食べる気になれなかった。
何をするでもなく、ただ学習机に突っ伏して、泣いて時間を過ごした。
時間はすでに九時を回っている。灯りをつけていないので、部屋は真っ暗だ。
「……どう、して……」
 頭の中では、メールの文、マサヒコの傷、リョーコの言葉、それらがごちゃ混ぜになって渦巻いている。
メールは、見間違いではない。
マサヒコとアイはつきあっている。それは、ほぼ100%事実。
マサヒコの背中の傷は、アイがつけたもの。
アイが、その傷をどうやってつけたのかは―――
「う……っ」
 また、ミサキの目に涙が滲んでくる。
悲しかった。ただ、ひたすらに悲しかった。
マサヒコがアイとつきあっていること。
その関係が、どうやらかなり進んでいること。
そして、二人が交際していることを、マサヒコもアイも自分に何ひとつ教えてくれなかったこと。
「……や、ぁ、ぁ……」
 ピカリ、と窓の外が光り、ミサキの半身を照らした。
続いて、ゴロゴロという響きが聞こえてくる。
「……う、ううう……」
 雨粒が窓ガラスを叩き始めた。
その音は、次第に強くなっていく。
「あ……め……」
 昨日は、雨に濡れなかった?風邪を引いてない?
あのメールには、そう書かれてあった。
「……マサ、ちゃん……」
 マサヒコは今と同じ時間に、アイのマンションを出て、濡れて家に帰ったのだろうか。
そして、マンションを出る前、マサヒコは、アイを。

「う……あ……」
 二人が体を重ねているシーンが、ミサキの頭の中に浮かび上がってくる。
マサヒコはアイを激しく求め、アイもそれに応える。二人の息が荒くなっていく。
と、アイがぶるりと震え、マサヒコをぎゅっと抱き締める。そして、アイの爪が、マサヒコの右肩に食い込み……。
「ひゃ……く……!」
 ミサキはぴくり、と背中を揺らした。
また、体が自分のコントロールから外れようとしている。
「あ……あ……!」
 左手は服の上から乳房を。
右手はスカートの中に潜り込み、敏感な部分を。
それぞれ、一定のリズムで擦り、撫であげる。
「あ……やぁ、マ、マサ……ちゃあん……っ!」
 脳内では、マサヒコとアイの絡みが何度も何度もリフレインされる。
それに合わせて、ミサキの手の動きも強くなっていく。
「くぁ、うぁ……マサちゃん、マサちゃ……ん!」
 悲しい快感。辛い悦楽。
涙を流しながら、ミサキは自慰を続ける。
それで、何が解決するわけでもない。
だが、ミサキはその行為に溺れた。
「きゃぁ、う……はぅう、ひぐ……!」
 服の上からでも、乳首が立っているのがわかる。
ショーツはすでにぐっしょりと濡れている。
「あ、あ、あ、あ……っ!」
 想像の中のマサヒコが、アイが、絶頂を迎える。
二人は抱き合って、しばし息を整える。
ゆっくりと、マサヒコがアイから離れる。
マサヒコがアイからズルリと自分の分身を引き抜いた時、
白濁の液が、アイの秘所からこぼれ落ちる。
「はううっ!マ、マサ……ち、ちゃんっ!」
 ミサキも、達した。
知らず知らずのうちに、脳内のアイと、自分を重ねて。
「……う、うぅ……」
 学習机の上は、涙と涎に塗れていた。
淫らに濡れた右手を、秘所から離す。
虚しさが、包むようにミサキを襲う。
「……ああ……マサちゃん……」
 自分は、何をしているのだろう。何故、こんなことをしているのだろう。
何で、こんなことになったんだろう。どうしてなんだろう。
自分が悪いんだろうか。
マサヒコが悪いんだろうか。
アイが悪いんだろうか。
「……教えてよ……マサちゃん……」

 また、窓の外で稲光が舞った。
雨は、激しく降り落ち、当分止みそうになかった。

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