作品名 |
作者名 |
カップリング |
『アイのかたち』第一話 |
ピンキリ氏 |
マサ×アイ |
「私、教師になりたいんです」
アイが自分の将来について、一番最初にこう語ったのは、はたしていつのことだっただろうか。
周囲の人間は覚えてはいないし、アイ本人にも正確な記憶は無い。
確かなのは、彼女がしていた家庭教師のアルバイトがその思いの出発点であったことだ。
そして、その思いを加速させたのは、人にものを教える楽しさ、素晴らしさを知ったこと以上に、
その教え子との関係を深めていったことによる部分が大きい。
小久保マサヒコ。
彼が、アイの中でただの教え子以上の存在になったのは、はたしていつのことだっただろうか。
周囲の人間は当然知るわけはないし、アイ本人にも、正確な記憶は―――無い。
「アイ先生、就職先決定、おめでとうございます」
「せんせー、おめでとー」
「おめでとうございます」
「良かったわね、アイ」
「おめでとうございます、本当に」
皆が口々に、アイを祝う。
「ありがとう、みんな」
アイはニッコリと微笑んだ。
その直後に、クラッカーがパンパンと鳴り、アイの頭上に紙吹雪が舞い落ちた。
アイは一瞬驚いた表情をしたが、それを払いのけようとはせず、またもう一度顔をほころばせた。
「……ありがとう、ミサキちゃん、リンコちゃん、アヤナちゃん、先輩……マサヒコ君」
瞳が、少し潤んでいた。
皆が心から祝福してくれている。
それが、とても嬉しいのだ。
「教師になるという夢、叶えましたね」
ミサキが、シャンパンの注がれたグラスをアイに差し出した。
アイはそれを受け取ると、今度は少し照れたような笑みを見せた。
「うん……でも教師じゃなくて、講師という方が正しいんだけどね」
◆ ◆
教師になりたい。
それは、アイが家庭教師のアルバイトを続けるうちに、自然と胸に湧いてきた夢。
だが、文学部所属で、専門の課程を経ていないアイが教職に就くのは、なかなかに難しい。
さて、どうしたものかと頭を悩ませていた時、天の声がかかった。
「来年、新規に塾を開校するので講師を募っているんだ。希望するなら、採用試験を受けれるよう担当者に話をしてみるが」
大学四年になってすぐのことだった。
英学グループの関係者から、アイにこのように電話があったのは。
何でも、事業の拡大とかで、JRや私鉄の各駅の周辺にいくつか建物を確保し、
小学生の低学年から中学生までを対象に、かなりの規模の塾を開くということらしかった。
学校行事を生徒とともに楽しむことは出来ないし、当然、成果もアルバイト時代以上に必要とされるだろう。
多人数を相手にするので、家庭教師のアルバイトのノウハウが生かせる保証もない。
だが、学校の教師でも、塾の講師でも、人にものを教えるということに関しては同じだ。
アイは、その問いに対し、即座に答えた。
「ぜひ、お願いします」と。
採用試験は時事問題や基礎学問等を問われる一般的なものだったし、
集団面接もごくありきたりのことしか聞かれなかった。
アルバイト仲間と「本当に私達、必要とされてるのかな?」と会話を交わしたほど、あっさりとしたものだった。
その次の個人面接も、何やかやと突っ込まれることもなく、スムーズに終わった。
そして、その数週間後、一通の封筒がアイのもとへと届いた。
濱中 アイ 様
この度、次年度の新規職員採用試験の最終選考の結果、
下記の通り決定しましたので通知致します。
記
選考結果 採用
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
同封のはがきで、期日までに諾否のご返事を下さい。
中に入っていたのは、選考結果の通知書だった。
アイは文面を読んで、ぽかんとした。
まさか、こんなに簡単に就職が決まるとは思ってもいなかったのだ。
他に、『受けられる場合は指定の病院で改めて健康診断を』とか、『採用者の集いのご連絡』とか、
色々と書類が入っていたのだが、アイはそれらを手に取ってじっくりと読みはしなかった。
彼女が、採用通知を受けて最初にした行動、それは、ある人物に電話をかけることだった。
「……」
携帯電話の、ボタンを押す指が上手く定まらず、四、五回程、打ち間違えた。
逸る心を抑えつつ、アイは何とか、その電話番号を打ち終えた。
『トゥルル、トゥルル……』
相手が、出る気配は無い。
だが、アイは切らなかった。
十数度目の呼び出しで、ようやくその人物が出た。
『トゥルル……ピッ、はい、もしもし、小久保マサヒコですが……』
「あ、あ、あ、マ、マサヒコ君?」
指だけでなく、声もアイは震えていた。
『濱中先生、どうかしましたか?次に会うのは……』
「あ、あ、あ、あ、あのね」
『はい?』
「わ、わ、わ、私、就職、き、決まった」
『はぃい?』
「え、え、え、英学の、塾に、ににに」
『……ホ、ホントですか?』
「う、う、うん、ほ、ほ、ほんと」
アイはここまで話すと、へなへなと、両手をついて床に座り込んだ。
『もしもし、先生、もしもーし!濱中先生ー!』
下の方から、マサヒコの声がアイの耳へと登ってきたが、それに言葉を返す気力は、アイには残っていなかった。
◆ ◆
「それで、アイ先生は何を教えることになるんですかぁ?」
リンコがアイに尋ねた。
「あ、私も知りたい」
「私も」
ミサキとアヤナも、興味深々といった態だ。
「まだ、決まってないのよ」
「え、そうなんですか?」
アイの答に、リンコは不思議そうな顔をした。
「うん。これから、適正審査や研修などがあって……決まるのは、大学を卒業する一ヶ月くらい前かな」
「へえ、そうなんですか」
「ずいぶんとゆっくりとしてるんですね」」
アイと三人娘とのやりとりに、脇からリョーコが口を挟んだ。
「逆よ、みんな」
「逆……?」
アヤナが首を傾げた。
逆とは、どういうことなのだろうか、と。
「それはね」
リョーコはそこでいったん言葉を切ると、缶ビールを口へと運んだ。
んく、んくと一気に飲み干し、ぷはーっと親父臭い息を吐く。
「ゆっくりじゃなくって、急いでるのよ」
「……ゆっくりじゃなくて」
「急いでる……?」
「???」
三人はお互いの顔をそれぞれ見合わせ、眉根を寄せた。
どうも、いまいちリョーコの言っていることが理解出来ないようだ。
リョーコは、にへら〜と笑うと、次の缶ビールへと手を伸ばした。
宴が始まってまだそれ程時間は経っていないのに、すでに五本、缶を空にしている。
「英学は家庭教師派遣だけじゃなくて、教材用のテキストやDVDの販売もしているのは知ってるわね」
三人は頷いた。
近頃、有名なタレントを起用してテレビCMを派手にやっているから、嫌でも目に入る。
「その売れ行きが良くてねー、んくんく、上層部がイケるって判断したのよ、新規の塾開校を、んくんく、ぷはー」
リョーコは中身が無くなった六本目をテーブルに置き、七本目を手に取った。
「前々から計画はあったそうだけど、この少子化が叫ばれてる世の中で、思い切ったことをしたものよね」
プシュ、とタブを開け、ビールを喉へと流し込んでいく。
まったく、ペースが落ちる気配がない。
「それで、大投資して土地と建物を確保し、塾業界に殴りこみ、と」
「……何となく」
「わかってきました」
ミサキとアヤナは、どうやらうっすらとリョーコの言いたいことを掴んだようだ。
一方、リンコはまだ首を捻っている。
「塾を開くはいいけど、講師の数が足りない」
「ヘッドハンティングしても、それだけじゃまかなえない」
「それで、来年大学卒業予定のアルバイトに一斉に声をかけた」
「当然、新人ばかりになるので、指導力の面で心もとない」
「英学にとって、これだけ大掛かりな事業をコケさせるわけにはいかない」
「開校までの期間を、講師育成にあて戦力を充実させよう……ということですね、お姉様」
ミサキとアヤナの回答に、正解、という風にリョーコはウインクしてみせた。
「おおむねそういうこと。採用者が少数なら、優秀な人材ということで心配しないだろうけど」
「あ、わかったーっ」
リンコが飛び上がった。ここで、ようやく得心したらしい。
「みんな素人なので、ダッシュで仕込まなければならない。で、開校ギリギリまでやっつけで詰め込むってことですね?」
「……ひどい言い様だけど……ま、当たりね。急ぎ、ってのはそういうことなのよ」
リョーコは、今度はサラミをつまむと、口の中へ放り込んだ。
「ぶっちゃけ、試験受けた連中はほとんど通ったみたいよ。……残念ながら、アイが優れていたというワケじゃないのよね」
リンコとリョーコのあまりの台詞に、ミサキとアヤナはアイの方へと目を向けた。
アイが落ち込んでいるのでないか、と思ったからだ。
だが、アイは苦笑とも照れ笑いともつかない顔で、ポリポリと頬をかいていた。
「あ、ははは……」
その辺りは、アイはすでに承知していた。
マサヒコやミサキたちが来る前に、リョーコからほぼ同じ内容の話を聞かされていたからだ。
やや空気が微妙な方向に行きかけたが、
何はともあれめでたいことに変わりはないと、仕切り直され、宴は続けられた。
アイはほどほど、リョーコはカパカパと酒を飲んだ。
さらに、アルコールにすさまじく弱いミサキとアヤナもシャンパンをひっかけてしまった。
こうなると、もう場が荒れるのは避けられない。
リンコも混じって、ケタケタと笑い、オラオラと絡み、オイオイと泣き―――アイのお祝いパーティーなのか、
それとも単なる宴会なのか、区別がつかないようになった。
そんな中でも、マサヒコは冷静だった。
ミサキをたしなめ、アヤナをなだめ、リンコをあやし、
場を、少しずつ、しかし確実に、お開きの方向へもっていった。
実に見事な手腕であり、将来、社会に出たとき、幹事役や調整役として重宝されるであろう。
……もっとも、その技術は、マサヒコが望んで身につけたものではなかったが。
時計は、十時を少しまわっていた。
明日が休日だとはいえ、帰宅がこれ以上遅くなるのは、高校生としてはいささかまずい。
いや、今の世の中では、これくらいの時間は高校生ならまだまだ活動範囲内かもしれないが、
ミサキとアヤナは進学校で有名な聖光女学院の生徒である。
しかも、酒が入っている。
そんな姿を、深夜に警察にでも見られたりしたら、下手をすれば退学処分になってしまう可能性もある。
「俺、タクシー呼びますよ」
お皿の片付けをするアイとリョーコの横で、マサヒコは電話帳を手に取った。
「もしもし……」
ミサキとアヤナは酔いが過ぎて、壁にもたれ、肩を寄せあい眠っていた。
リンコも疲れたようで、床で丸くなってすやすやと寝息をたてている。
叩き起こして追い立てれば、帰宅途中で問題を起こすかもしれないし、何より、後が怖い。
このまま泊まってもいいような状況だが、全員で泊まるのには、さすがにアイの部屋は少し狭すぎた。
「あと、十分程で来るそうです」
「そう、ご苦労」
リョーコは、缶ビールをゴミ袋に詰めながら、マサヒコに返事をした。
時々、缶を覗いては、底に残ったわずかなビールをすすっている。大変にお行儀が悪い。
「それじゃ、アイ。また今度ね。仕事が休みの日には連絡するわ」
「……せ、先生、それじゃ」
マサヒコの息が多少荒くなっているのは、三人をタクシーの中へと力づくで詰め込んだからだ。
一人ひとりを抱え上げ、アイの部屋とタクシーを三往復するのは、いくら若くて元気なマサヒコといえど重労働だった。
「今日はありがとうございます。先輩……マサヒコ君」
「はい、先生……」
「じゃね、アイ…………ん……」
リョーコはアイに何かを言いかけ、やめて、玄関から離れた。
その背中に、マサヒコがついていく。
二人の後ろで、アイがゆっくりと、ドアを閉めた。
タクシーまであと数歩というところで、リョーコは足を止め、振り向かずに、マサヒコへ話しかけた。
「ねぇ、マサ……まだ、伝えるつもりはないの?」
リョーコの視線の先には、タクシーの後部座席で、眠っている三人の少女があった。
「……」
マサヒコは、答えなかった。
「……隠し続けるのは、良くないわ……。それが、長くなればなるほど」
その後に続く言葉を、リョーコはあえて声には出さなかった。
「……わかっています、それは。でも、まだ」
「勇気が、出てこない?」
「……はい」
「怖いの?」
「…………」
最後の問いかけに、マサヒコはまた答えなかった。街灯に羽虫がたかる音だけが、リョーコの耳に入る。
「……ふぅ」
リョーコは首を振ると、タクシーの前の座席のドアを開けた。
そして、今度はしっかりとマサヒコの方を向き、さっきより少し強い口調で言った。
「いいわね、なるべく早く伝えなさい。それが……」
再び、リョーコは言葉を飲み込んだ。
マサヒコは黙って、ゆっくりと頷いた。
「長くなるほど」と「それが…」に続く言葉が何なのか、マサヒコはわかっている。
わかっては、いるのだ。
「はい、中村先生」
マサヒコは、もう一度、頷いた。
リョーコはそれを確認すると、座席へと体を滑り込ませた。
それぞれの家の場所を、運転手へと伝える。マサヒコに、「乗っていく?」とは聞かない。
「じゃ……また、ね」
リョーコが窓ガラスを開け、マサヒコに手を振る。
同時に、ブルロロロ……とエンジン音が響き、マサヒコの前から、タクシーが動き出していく。
「……」
排気ガスだけを後方に残して、タクシーは進み、夜の闇の中へと、溶け込んでいった。
完全に視界からタクシーが消えると、マサヒコは歩き出した。
アイの、部屋の方へと。
皆が去り、静けさに覆われた部屋で、
アイは何をするでもなく、テーブルの前に座って待っていた。
時計は、皆が出て行ってから、十分程経っている。
と、ピンポン、とチャイムが鳴った。
アイは軽やかな足取りで、玄関へと向かい、ドアを開けた。
「おかえり、マサヒコ君……戻ってくるって、思ってた」
そこに立っていたのは、さっき引き上げたばかりのはずのマサヒコだった。
「おかえり、はおかしいですよ。先生」
「ふふっ」
アイは微笑むと、体を端に寄せ、マサヒコを中へと招き入れようとした。
しかし、マサヒコは玄関には入ったものの、靴を脱ごうとはしなかった。
代わりに、壁を背にしたアイに近づくと、そっと両手でその肩を抱いた。
「あ……」
「今日は……これで、もう帰ります。明日、学校で用事があるので」
戻ってきたのは、二人きりで少しでも話がしたかった、顔が見たかったから―――とまでは、マサヒコは口に出さなかった。
アイも、そこは解っている。
「うん……マサヒコ君」
「先生……」
アイとマサヒコは、至近距離でお互いを見つめあった。
最初に会った時は、アイの方が背が高かったのだが、
今では、マサヒコと視線を合わせるのに、アイは斜め上を見上げなくてはならない。
僅かな沈黙の後、どちらからともなく、そっと顔を寄せ、唇を合わせた。
「……」
「……」
数秒後、二人は離れた。
マサヒコは、部屋の中へ上がりたい衝動を必死に抑えた。
アイも、「泊まっていって」と声をかけるのを堪えた。
抱きしめたい。
心をぶつけ、乱れ、愛を確認しあいたい。
だけど。
「……ふうっ」
マサヒコは、熱い息をひとつ、吐いた。
「また……今度、二人きりで……先生」
マサヒコは笑った。
さっきの宴で、ミサキやアヤナ、リンコに見せた笑顔より、もっともっと優しく。
「うん……じゃあね、マサヒコ君」
アイは右手を差し出した。
マサヒコも左の掌を前に出し、それに被せ、指を絡めた。
「……」
「バイバイ……」
マサヒコは指をほどくと、ドアの外に出た。
アイは、ゆっくりとドアを閉めた。
マサヒコの靴音が、金属のドアの向こうで、遠ざかっていき、そして消えた。