作品名 |
作者名 |
カップリング |
「笑顔」 |
ピンキリ氏 |
アヤナ×マサヒコ |
晩春の午後の日差しが家々の隙間を縫って、道路と、そして私を優しく照らす。
風も穏やかで、とても気持ち良い。何だか心も体もウキウキとしてくる。
ふと目を上に向けると、番いの蝶がひらひらと舞っている。彼らもとても楽しそうだ。
何とは無しに、自然と歩調が軽やかになり、
普段ならバス亭から十数分のところを、その七割程の時間で目的地に着くことになった。
門を入り、『小久保』と書かれた表札の脇にあるチャイムに手を伸ばす。
一度で良いところを、思わず二連続で押してしまったのは、まあ、陽気に中てられた為だとしておこう。
中から「ハーイ」と声が聞こえてきて、それから数秒の間があって、ドアがガチャリと開く。
「あらー、先生いらっしゃい。今日は早かったじゃないですか」
「すいません、時間通りでなくて」
急いだわけじゃないんですけどね。
「いえいえ、そんなことないですよ。さぁ、上がって下さい。今、呼んでくるから」
そう言うと、パタパタとスリッパの音を立てて、お母さんは家の奥へと歩いていく。
それにしても、いつ見ても言葉使いも容姿も若々しい人だ。
とても中学生の子どもがいるとは思えない。感心してしまう。
「おーい、先生が来たわよー」
ややあって、ドタドタと元気の良い足音が、階段の上から近づいてくる。
あーあー、踏み外さなきゃいいけど。あっ、今滑りかけた。危ないなあ。
「先生、いらっしゃい」
「はい、こんにちは」
声の調子も笑顔も、お母さんそっくりだ。
家庭教師として就いた当時は、少し引っ込み思案なところが目についたけれど、最近はすっかり明るくなった。
うん、良い傾向ね。ちょーっとはしゃぎ過ぎな部分も目につくようになってきたけどね。
「それじゃ、早速勉強に取り掛かりましょう」
「はい」
縦に並んで階段を上る。
「一時間程したら、オヤツを持っていきますね」
中程まで上がったところで、後ろからお母さんが声をかけてくる。
このお母さん、料理がとても上手で、オヤツ作りにかけてはまさに天下一品。
正直、お店に出しても恥ずかしくないレベルだと思う。
「今日は特製だから、楽しみにしていて下さいよ」
「いつもすいません、ありがとうございます」
いやまあ、体重計の表示がグラム単位で気になる立場としては、
諸手を上げて歓迎するというわけにはいかないのだけれど。
それでも、厚意はきちんと受けておかないといけない。こういう場合は断る方が失礼に当たる。
……とか何とか、理屈をこねても仕方が無い。美味しいから食べたい、そういうことなんだけれど、さ。
「先生、今日は数学でしたっけ」
「そうよ。苦手な部分を今日は徹底的にやります」
会話をしながら、部屋の中へ入る……はぁ、やれやれ。
読みかけのファッション誌やら蓋の開いたDVDやら、あちこちにポイポイと。
埃ひとつまで目こぼしするなとは言わないが、もう少しキレイにしておいてほしいものだ。
女の子なら女の子らしくしないと。まぁ、今日は小言を言う気分ではないからスルーしてやるか。
「さあ、教科書と参考書を出して」
「はーい」
机の前に座り、教科書やノート、筆記具を用意すると、ペコリと馬鹿丁寧におじきをしてくる彼女。
「よろしくお願いしまーす、アヤナ先生」
その仕草が何とも可愛らしい。
「フフ、よろしくね。マサコちゃん」
「ここの式が間違ってるわ。だから後の計算が全部おかしくなってくるのよ」
「あ、そうか……えと、こうですか?」
「そう、それであってる」
「えへへ、やったー」
素直に間違いを認め、すぐに理解し、きちんとやり直す。ホント、手のかからない良いコだ。
『ジリリリリリリ……』
机の上の時計がけたたましい音をたてる。ってことは、もう一時間経ったのか。
「さて、丁度問題も解けたことだし、一休みしましょうか」
「はーい」
「はーい、オヤツですよー」
ドアが開いて、お母さんがオヤツの乗ったお盆を手に部屋に入ってくる。
……あまりにドンピシャ過ぎる。マサコちゃんの「はーい」とお母さんのそれが見事に重なっていた。
きっとドアの前でタイミングを計っていたに違いない。お茶目な人だ。
「どーぞ」
今日のオヤツはガナッシュケーキとホットレモンティー。
「さあ、先生どうぞ食べてみて下さいな」
お母さんの目がキラキラと輝いている。それにマサコちゃんの目も。
特製とのことだけれど、一体何だろう?
取り敢えず、言われるままにフォークでひとかけらを切り取り、口に運ぶ。
……ふむふむ、こ、これは……。
「うわあ、おいしい!」
「「やったー!」」
両手をパーンと打ち合わせる母娘。ああ、そういうことだったのか。
「それ、私も作るの手伝ったんだよっ」
成る程、文字通りの特製ってわけね。
「へぇ、そうだったんだ」
「えへへ、アヤナ先生においしいって言ってもらえて良かったぁ」
嬉しそうに笑うマサコちゃん。お母さんも隣でうんうんと頷いている。
親子というより、年齢の離れた姉妹って感じ。ふふ、微笑ましいったらありゃしない。
お母さんが部屋から出て行って、しばしマサコちゃんと雑談する。
学校のこと、友達のこと、趣味のこと、その他諸々。
六つ程歳は違うが、女二人いればかしましいとはよく言ったもので、話のネタは尽きない。
と、マサコちゃんが不意におしゃべりを止めて、んんーっと目を細めて私の首筋の辺りを凝視する。
な、何かしら。まさか、さっきのケーキの食べかすでも付いてる?
「何?マサコちゃん」
「前から思ってたんですけど……そのペンダントって」
「ん、ああ、これ……」
手に取り、持ち上げてみる。銀の鎖に、三日月の形の飾りのペンダント。
「アヤナ先生にしては、地味っぽいって言うか……あ、ご、ごめんなさい、失礼なこと言っちゃって」
口を押さえて、あたふたとするマサコちゃん。
「別にいいのよ。……そうね、そうかもね」
そう、確かに地味かもしれない。ちゃちかもしれない。
でも、このペンダントは常に身に着けておかねばならないのだ。そうする理由が、しっかりとある。
「……アヤナ先生、怒ってない、ですか?」
マサコちゃんが申し訳無さそうな表情で、こちらを伺う。叱られた子猫みたいだ。
「怒るわけないじゃない」
「ふぅ〜、良かったぁ」
大きく息を吐いたかと思うと、にぱっとマサコちゃんは笑う。
全く、気持ち良いくらいに、コロコロと表情が変わるコだこと。
このペンダントは、彼からの初めてのプレゼントとして貰った。
それからもうだいぶ時間が経っているから、輝きもかなり落ちている。
大体が、たいした品物ではない。露店で売っているものと大差無い安物だ。
だけど、いや、だからこそ、私にとっては何にも代え難い大切なもの。
彼が私のものである、私が彼のものであるという、証明。
それに、嬉しい、楽しい、そして、少し悲しい思い出が詰まっている『箱』でもある。
そう簡単に外せるものではない。体の一部と言っても良いぐらいだ。
「……アヤナ先生?」
いけない、ちょっとボーッとしてしまったらしい。
「どうかしましたか?」
「ううん、何でもない」
それにしても、不思議なめぐりあわせだと思う。
大学でのバイトに家庭教師を選んだのは、尊敬する人に影響されてのことだけれど、
その教え子が、まさか彼の名前にそっくりだとは。何とも運命的な香りがするではないか。
いやまあ、どう運命的なんだと聞かれると上手く答えられないし、実際ただの偶然なんだとは思うが。
……と、もうそろそろいい時間ね。
「さ、それじゃ」
両の掌を勢い良く合わせる。ん、いい音だ。
「休憩時間終了!後半戦に入るわよ」
私、若田部アヤナが、小久保マサヒコと付き合い出してから二年が過ぎた。
今が大学二年生だから、高校三年生の時に交際を始めたことになる。
ずっと想っていたわけではない。不意に好きになったわけでもない。
一枚一枚薄紙が重なるように、色んな出来事を経ていくうちに、
その存在が大きくなってゆき、気がつけば心の中央に不動の構えで落ち着いてしまった。
人に惚れるってのは理屈じゃないんだな、と今更ながらに思う。
好きになってしまったんだから仕方が無い、そういうことだ。
私と彼の関係を語るのに、避けては通れない人がひとり、いる。
天野ミサキ。私の中学時代からの親友にしてライバル、そして彼の幼馴染。
彼女が小久保マサヒコのことを好きだということは、高校に進学する頃には薄々とだがわかっていた。
私と彼女が聖光女学院という女子校、彼はまた別の共学校にそれぞれ進学したのだが、
距離が離れたことで、彼女は益々想いを強めたようだ。
その時は何も感じなかった。むしろ、あんまり熱を上げるあまり、
学力勝負の件が疎かになっては困るとさえ考えていた。
それがどうだろう、さっきも述べた通り、私も間も無くマサヒコに捕らえられてしまった。
全く、何て勝手な女だろう、と自分でも思う。
私は最初から、諦めていた。
想いの強さの話では無い。立ち位置の問題だ。
天野ミサキは幼馴染という、彼にとってある意味最も近い場所にいる女性。
幼馴染、それは、私が埋めることは決して出来ない広さの堀。
彼女ははっきりと意思表示はしていないけれど、事あるごとに彼の側にいて、時間を、空間を共有している。
私はどうだろうか?
中学の頃に知り合い、親友とは言えないまでも、クラスメイトとしてそれなりの仲になった。
しかし、誤解から殴ったことも蹴ったこともある。
ただの偶然の悪戯を根に持ち、責任を取れと迫ったこともある。
彼にとって、付き合い易い友達ではなかったはずだ。
そんな身で、いきなり告白出来ようはずも無い。彼の心を勝ち取る自信も無い。
学力勝負なら、怯むことは決してないが、これは別問題だ。
最初から敵う戦いでは無い。そう思っていた。
だけど、彼女がついに彼に告白したと聞いた時は、やはりショックだった。
来るべきものが来た、そんな感じだった。
これで踏ん切りをつけるべきなのだろう。
強がって祝福してあげるべきなのだろう。
だけど。
だけど……。
「アヤナ先生、さよーならーっ」
「先生、ご苦労様でした」
「それじゃ、失礼します。お疲れ様でした」
マサコちゃんとお母さんは、毎回毎回、家の外まで出てきて私を見送ってくれる。
嬉しいことは嬉しいし、ありがたいのだけれど、少し面映い。
何時ぞやなんかは、二人してバス亭まで着いてきてくれたが、さすがにそれはVIP待遇過ぎるというものだ。
腕時計を見ると六時ちょっと過ぎ。
行きは陽気に釣られて早足気味になってしまったが、帰りは帰りでまた事情が異なる。
塀の上で寝ている野良猫をからかってみたり、わざと一区画分遠回りしてみたり。
行きの倍以上の時間をかけて、バス亭への道を歩く。
私の住んでいるマンションの方面へ行くバスが、丁度バス亭に停まっていたが、私は急がない。
目的のバスはあれではない。もう一本後に来る、別の行き先のバスに乗りたいのだ。
しかし、これだけゆっくりでも、まだギリギリ間に合ってしまうくらいなのか。
さっき通り過ぎたケーキ屋か本屋に、冷やかしに入れば良かった。
元来せっかちな性質だけに、時間を潰すという行為はいまいち上手くないんだな、私って。
「〜次は東町商店街北口前、東町商店街北口前」
……東なんだか北なんだか。だいたい商店街に前と後ろがあるのか。
いや、それよりも素直に東町商店街、というバス亭名ではいけないのか。
まぁいいや、そんなことどうでも良い。目指す先がそこなのだから、ストップのボタンを押して降りりゃいいだけのことだ。
はい、まずバス代二百円也。そして二人分の晩御飯の買い物だ。
えーと、角のお肉屋で豚の薄切りロース肉を300g、次に八百屋でニンジンとアスパラガス、カボチャ、玉葱。
卵は……いくら何でも卵くらいは冷蔵庫に入っているだろう。
いや、何たってアイツのことだから古くなったのをそのままにしてる可能性もある。やっぱり買っていこう。
……まさかお米も無いなんてことはないわよね。やっぱり電話して確認しておくべきだったかしら。
あー、でもそれじゃ意味無い。好き嫌いが多いから、あれがダメだのこれが食べられないだのウルサイんだから。
不意打ちで食材を持っていくから、食べてくれるわけであって。
全く、ホントにもう。
「世話が焼けるヤツよねー」
「誰が?」
………………。
そりゃ、決まってるでしょう。
他に誰がいるって言うのよ。
勢いをつけて振り向き、顔があると思われる場所に人差し指を突きつける。
ん、ぴったり。丁度鼻の頭の上だ。
「……」
びっくり、きょとん、目をパチクリ。いやいや、そう驚かれても困るわけだが。
驚くとしたら、不意に後ろから声をかけられた私の方であるべきなんだけど。
ここでばったり会うことになるとは思ってもいなかったし。
「……オレ?」
「そうよ」
食材の入ったビニール袋を彼の胸に押し付ける。
偶然とはいえ、会った以上は荷物持ちをしてもらう。
「あなたのことよ、小久保マサヒコ」
週に一度、彼のマンションへ行き、晩御飯を作り、夜をともに過ごす。
これが、現在の私と小久保マサヒコの恋人としての付き合い方だ。
いや、無論休日には二人で出かけたりはしているのだが、
何分にも通う大学が違うし、バイトのこともあるし、常に一緒に居るというわけにはいかない。
同棲する、という選択肢は、今のところ私にもマサヒコにも無い。
いずれ機があれば、そうなるかもしれないけど。
「お皿用意してくれない?」
「どのお皿?」
「中ぐらいの、ほら、黄色い縁取りがしてあるやつ」
料理に関しては、マサヒコはほとんど戦力にならない。
彼に作れるものといったら、インスタント食品の他には、せいぜいお粥かカレーくらいのものだろう。
今日のメニューは、ニンジンとアスパラガスの豚肉巻きにカボチャと玉葱の和風スープ、ポーチドエッグ。
野菜類が多いのを見て、マサヒコがげっとした表情をするが、そんなの無視無視。
一週間に一度のこのまともな食事のおかげで、栄養がちゃんと補給出来ているということをもっと自覚して欲しいものだ。
マサヒコの普段の食生活がいかに貧しいものであるかは、
カップラーメンの容器や菓子パンの袋でいっぱいになったゴミ箱を見ればすぐわかる。
「お箸とお茶、湯呑みも出しておいて。あ、その前にテーブルをきちんと拭くこと!いいわね!」
わかったよ、と口の中でモゴモゴと言いながら、マサヒコは布巾でテーブルを拭く。
ま、素直なのはいいところなんだけど。
あれ、まさか……逆らっても無駄、なんて思ってるんじゃないでしょうね。
ご飯食べ終わったらちょっと問い詰めてやろう。
問い詰めてやる、はずだったのだが。
食事の最後に「とても美味かったよ」なんてニコッと笑われたりしたもんだから、そんな気も殺がれてしまった。
私も甘いわね、まだまだ。て言うか、あの笑顔は反則よホント。
「……」
「……」
後片付けも終わり、ベッドを背もたれにして肩を並べて、私とマサヒコはテレビを観る。
正確には、“マサヒコだけ”がテレビを観ている。
テレビの中では、サッカーの日本代表がブラジルだかどこかの国と試合をしている。
マサヒコの話だと、この試合は今年南アフリカで開かれるワールドカップのための重要な試金石なんだとか。
いやいや、そんなのどうでもいいんだけど。
恋人が部屋に来てるってのに、ムードもへったくれも無くテレビに噛り付いてる男ってのはどうなのよ。
さっきから横顔をじーっと見つめているのに、一向に気づきもしない。
まあ……こういう無邪気と言うか、変にカッコつけないところも含めて、好きになったんだけどね。
大学の友達に、マサヒコを紹介したり、写真を見せたりする度に、曖昧な笑顔を返される。
で、必ず後になってこう言ってくるのだ。
「アヤナってさ、男の趣味は普通なんだね」
……色んな意味にとれる言葉だこと。
確かに、マサヒコは美形という程の容姿ではない。背丈だって、世間一般で見たら並のレベルだ。
でも、美男子じゃないかもしれないが、私は十分だと思う。近くで見ると結構目鼻立ちは整ってるし、肌はきれいだし。
身長だって、私より高いんだからそれで良い。ちょっと華奢かもしれないけど。
だいたい、私はマサヒコの外見だけに惚れたわけじゃない。
臭い表現だが、中身に惚れたのだから。
「よし、いけ!そこだ、スルーパス、よし、よし、よーっし、やったーっ!」
不意にマサヒコがテンションを高める。
テレビ画面に目をやると、スタンドの大歓声を浴びながら、日本の選手が固まって抱き合っている。
どうやらゴールしたらしい。
アナウンサーも解説者もはしゃいだ感じで叫んでいる。
『チャンスを確実にモノにしました、日本代表!』
『相手のミスを見逃さずにつけ入り、そして奪い取ってそのまま速攻、見事でした』
……チャンス、つけ入る、奪い取る。
はは、まるであの時の私みたいだ。
天野ミサキが小久保マサヒコに告白した。
その話を聞いた翌日から―――教えてくれたのは的山さんだ―――彼女は学校を休んだ。
私は妙な不安感を抱いた。
まさか。もしかして。いやそんな…………。
彼女を最悪の結果が襲ったとでも言うのだろうか。
そんなことは無い。無いはずだ。絶対に。彼女がフラれるなんて、そんなことは無いはずだ。
だけど、心の奥底で湧き上がってくる、黒い期待感。
もしそうだとすれば、私にもチャンスがあるんじゃないのか。
駄目だ、そんなあさましいことを考えていては。考えちゃいけない。
だけど。
だけど……。
彼女が休んでから一週間が経ち、ついに私は我慢しきれなくなった。
直接家に押しかけて、事情を確かめに行ったのだ。
そして、彼女を見て、私は絶句した。
目蓋は赤く腫れ、頬はやつれ、瞳には力が無い。
もはや、彼女の身に何が起こったかは疑う余地が無かった。
怒り、やるせなさ、哀れさ、様々な感情が噴きあがってきて、私は泣いた。彼女を抱き締めて、泣いた。
一時間程二人で涙を流した後、彼女はか細い声で、ポツリポツリと経緯を話してくれた。
彼女、天野ミサキは、小久保マサヒコに告白をし、そして……。
「……ごめん、天野……。オレ、お前を、その、異性として見ることが出来ないんだ……」
彼女が前々から危惧していたこと。
小久保マサヒコは、私を幼馴染以上の存在として見ていないのでないか。
兄妹的な関係としてしか考えていないのでないか。……残酷なことに、それは的中していたのだ。
「それでね……アヤナちゃん、マサちゃんの返事、その、続きがあるの……」
それを聞かされた時、大袈裟でなく、私は天地が引っくり返るかと思った。
「……それに、オレ、好きって言うか」
「……気になってる人が、いるんだ」
「……若田部なんだ」
サッカーの中継も終わった。あの1点を守りきり、日本代表が勝った。
その後マサヒコは、この時期に日本がブラジルに勝つことの意義が何たらとか熱く語っていたが、
いや、だからそんなことはどうでもいいんだってば。
この試合に関して私が言えるのは、
マサヒコが喜んでいるのでちょっとは嬉しい、ということと、
それでもやっぱりこっちにも気を使ってよ、の二つぐらいだ。
とにもかくにも、9時を回り、二人ですることはもうあと一つだけ。
私が先にシャワーを使い、バスタオルを巻いただけの姿でベッドに座り、マサヒコが来るのを待つ。
やがてバスルームのドアが開き、マサヒコがトランクス姿でこちらに来る。
もう何度も体を重ね合わせたし、今更臆するような要素は何も無いはずなんだけど……、
説明出来ない感情が、心の中にある。
恥ずかしさ、期待感、快楽への欲求、それらが全て一緒くたになったような。
「ん……ぷ……」
「む……はぅ……」
最初はキスから。
別にルールとして決めてるわけじゃない。
それでも、こういうのは、踏む手順ってものが、ね。
「はふぅ……」
舌を絡めあい、お互いの唾液が混ざり合う。
「ねぇ、マサヒコ……」
「ん?」
「胸で……してあげよっか」
「ふぁあ?」
さっきの試合中、ほったらかしにされた報復だ。
ここからは手順無視、私がペースを握ってやる。
だってやっぱりさ、悔しいじゃない!
「んっ……ねえ、気持ちイイ?」
マサヒコのペニスを両の乳房で挟み、手で押さえ、上下に扱く。
小刻みにしたり、左右に揺らしてみたり、動きに変化をつけるのも忘れない。
「う……ああ、いいよ、アヤナ……」
顔を見なくても、その口調で十分昂っているのがわかる。
私の胸で気持ちよくなっている、そう思うと、嬉しさで体の芯が熱くなってくる。
以前の私は、自分の胸にコンプレックスを持っていた。
人より幾分大きいことで、異性から好奇の視線で見られ、電車などでは時に痴漢行為も受けた。
胸が大きいからって、良いことなんて無い、むしろ恥ずかしいし、嫌だ。そう思っていた。
だけど、今こうやって、マサヒコを悦ばすことが出来る。優しく包んであげられる。
「うっ……はぁ……っ」
マサヒコの声が切羽詰まった感じになってくる。マサヒコが私の胸でイキそうになっている。
ああ、凄い。体の奥底から、言葉では言い表せない快感が、ビシビシと脳を直接刺激してくる。
より滑りを良くするために、舌を出して唾を胸の隙間に垂らす。
そして、乳房を押さえる手に力を込め、擦り上げるスピードを上げる。
「う、ううっ!アヤナッ!」
瞬間、熱い液体が、私の胸元から鎖骨、首、顎を叩く。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
乳房の上を、トロリという感じに精液がこぼれ落ちていく。
マサヒコがイッてくれた。とても、とても嬉しい。
「んむ……ちゅぶ……」
放出し、やや固さを失ったマサヒコのペニスを口内に含む。
もう一度元気になってもらえるように、無心で舌を動かす。
同時に、精液の残滓も舐め取る。んー、生臭い。
けど、マサヒコの出したものだと思うと、嫌悪感はこれっぽっちも沸いてこない。
「はむ……ぷは、れろ……」
「う……アヤナ……」
舌と連動して、右手で棹の付け根を撫で上げる。
そして、左手は自身の秘所にあて、連動させるように動かす。
一瞬、私がマサヒコに、マサヒコが私になった錯覚に陥る。
口の中のモノが、段々と勢いを取り戻してくる。
私の胸で、舌で、手で、マサヒコが感じてくれて……。堪らない、本当に堪らない。
マサヒコの全てを支配している、そう思えてくる。
陶酔感がさざ波のように、背筋を駆け上がっていく。
マサヒコのペニスはもう十分な固さを取り戻していた。
私も、さっきの自慰ですっかり潤っている。
私は唇を離すと、顔を上げてマサヒコと視線を合わせる。
「ねぇ、マサヒコ……」
そこから先は言葉が出てこない。
これだけやっておいて何だが、自分から求めるのは、やはり恥ずかしい。
「ああ……」
マサヒコはわかってくれている。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
数秒の間。
いや……わかってないようだ。
さっきの視線は、ここからはあなたがリードして欲しいという意味だったのだけど……。
どうやら、マサヒコはまったく逆の方向で捉えたらしい。
「ふぅ……」
ちょっと腹が立つけれど、またそれもマサヒコらしい。
それならそれでいい。今日はとことんまで私が主導権を握ってやろう。
ベッドサイドからコンドームを取り出すと、マサヒコのペニスに着けていく。
「そ、それくらいオレが」
「黙ってなさい」
「……はい」
素直でよろしい。
よし、無事装着完了。
私は生理が規則正しく定期的に来るので、安全日を予測し易い方なんだけど、
安全日だからと言って、確実に大丈夫なわけではないのも知っている。
マサヒコと直でセックスしたのは、数える程しか無い。
そこら辺はきちんとしておかないといけない。
マサヒコのためにも、私の体のためにも。
そして何より、生命という神聖な領域のためにも。
「いくよ……マサヒコ」
脚をM字に開き、マサヒコの上に圧し掛かる。
コンドームに包まれたペニスに手を添え、納まるように位置を合わせる。
先っちょが、アソコに当たるのがわかる。
「ふ……んん……ッ!」
ゆっくりと腰を下ろしていく。
「あッ……入ってッ……くぅ!」
入ってくる。マサヒコが私の体の中に、入ってくる。深く、奥へ奥へと。
「……はぁっ……ふはぁ」
マサヒコの腰と、私のお尻が密着した。もうこれ以上は進まない。
マサヒコを完全に包んでいる。また背骨を快楽の波が登っていく。
動き易いよう、体勢を整えるため、両手を自分の膝の上に置く。
その格好で、太股に力を入れ、腰を上げる。
「ううっ……」
体を上げているはずなのに、下に引っ張られるような感覚。
「かはっ!」
「うっ!」
抜けきる直前で止め、足と手の力を抜いて、再び腰を落とす。
ベッドのスプリングがギシギシと音をたてる。
もうまともに頭は働かない。ただ、快楽を貪りたいという欲求しかない。
パチンと何かが弾けた。もう、体の制御が効かない。
「あっ、ああ、ああ、あああっ、ああっ……」
「くうっ、ア、アヤナ……」
私とマサヒコの声が、他人のもののよう。遥か遠くから聞こえてくるみたい。
マサヒコの手が、私の胸を揉む。いや、掴む。潰す。
とても愛撫と呼べるような代物でな無い。だけど、その乱暴さが、たまらなく刺激的だ。
より結合の度合いが増すように、脚をややすぼめ、動きを深くする。
「く……うッ……!」
「アッ、アヤナ……ッ、も、もう……!」
イク、マサヒコもイクんだ。私も、私も、もうそこまでキテる。
「はあっ……はあっ……マサヒコ、マサヒコぉ……!」
乳房を掴むマサヒコの手に、自分の掌を重ねる。
「う、ううっ!」
「あ、あああっ!かはあっ、るはっ、はぁ、はぁ、はぁ……」
「ハァ……ハァ……」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
……凄い。真っ白、頭の中が真っ白だよ、マサヒコ……。
「う〜」
「……何だよ、何ブスッとしてんだよ」
とことんまで主導権を握ってシタのはいいのだが……。
勢いまかせって感じで、何かこう、しっぽりと大人の交わりってのにはならないんだな……。
私もマサヒコも、まだ若過ぎるってことなのかなぁ。
マサヒコを感じることが出来たし、気持ち良かったから、まぁいいとしとくけど。
「あっ、いっけねーっ!」
な、何なのよ。
ってか、跳ね起きずにゆっくり起きろ。枕代わりの腕を思い切り引っこ抜くんじゃないッ。
鞭打ちになるかと思ったじゃない、もう。
「レポートの課題がどんなのか、チェックするの忘れてた!」
そう言うとマサヒコはパソコンの前に駆け寄り、電源を入れる。いや、下着くらい先に穿け、おい。
……んん?課題?どんなの?チェック?
コイツ……また講義サボったな。
それで、友達にレポートの内容を教えてくれってメール打ったに違いない。
あの慌てぶりからすると、提出が急ぎらしいけど……。
まさか、手伝えってんじゃないでしょうね。
「…………」
あれ、マサヒコ……どうしたんだろう。何固まってんのかしら。
もしかして、メールが来てなかったとか?どれどれ……何だ、来てるじゃない。
ん?アメリカから?
……え?ウ、ウソ、ホントに?
ホント、に……?
差出人の欄にあった名前、それは。
【Misaki,Amano】
俄かには信じられなかった。
「マサちゃん……アヤナちゃんのことが好きなんだって」
信じられるわけもなかった。そんなこと、有り得ない話だった。
小久保マサヒコが、私のことを好きだなんて。
「アヤナちゃんも、マサちゃんのこと……好きなんだよね?」
「……!」
気づかれていた。彼女は、私の気持ちを知っていた。
そして―――その時の彼女の表情を、私は一生忘れないだろう。
笑っていた。目を、大きな目を潤ませたまま、優しく、悲しく。
背中に手が回された。ぎゅっ、と強く抱き締められた。私も抱き締め返した。
さっき、二人で泣いた時とは、何かが違う抱擁。
「アヤナちゃん、マサちゃんのこと」
耳元で彼女が小さく呟いた。
そこから先は嗚咽に阻まれ、言葉に、声にならなかった。
もう一度、私達は泣いた。
心のままに、泣いた。
次の日、マサヒコを呼び出した。
来るや否や、思いっきり頬っぺたをぶん殴ってやった。
そして、胸倉を掴んで引き摺り上げ、泣きながら―――「好き」って伝えた。
『小久保君、お久しぶりです。
長い間連絡しなくてごめんなさい。
私は、戸惑いながらも何とかやっています。
今も、ちゃんと若田部さんと付き合っていますか?
別れてはいませんか?
とりあえず、語学の勉強に一区切りつきました。
気持ちにも、区切りがつきました。
皆の顔が見たいです。
来週、一度日本に帰国するつもりです。
詳しい日時は、また連絡します。
それでは。
P.S
若田部さんにもメールを送っておきました。
さらにP.S
若田部さんと別れていたら、私はあなたを許しませんよ?』
私とマサヒコは、付き合うことになった。
嬉しかったけど、同時にもの凄い罪悪感があった。
天野ミサキの失恋につけ入っただけではないのか。
小久保マサヒコを彼女から奪い取ったのではないのか。その思いが、私に重く圧し掛かった。
……中村リョーコと濱中アイ、この二人のケアが無かったら、
きっと私とマサヒコはすぐに関係を壊していただろう。
天野ミサキをこれ以上傷つけたくなかったら、決して別れちゃいけない、二人はそう教えてくれた。
『もしもし、マサヒコだけど』
「はい……なぁに?」
『今、オレのところに天野からメールが来た。多分、そっちにも行ってると思う』
「……」
『……今度の水曜日だってさ』
「え?」
『天野が帰ってくるのは』
「そう……」
『迎えに……行く、よな?』
「……当たり前じゃない。講義もサークルもバイトも全部キャンセルしてやるわ」
『ハハ……わかった、また今夜電話するよ。それじゃ』
「うん……ありがと、マサヒコ」
『……ああ』
天野ミサキ本人も、私達からあえて距離を置くなど、気を使ってくれた。
いや、気を使ってくれたという表現はおかしいかもしれない。
やっぱり、彼女も辛かったに違いない。耐えていた、と言う方が本当だろう。
高校に入ってから、お互いを苗字でなく、名前で呼び合うようになっていたが、
これ以降、彼女は私をまた“若田部さん”と言うようになった。
出来る限り、私とマサヒコの間に立ち入らないように、邪魔しないように。
そのために敢えて他人行儀な態度を取る、そんな感じだった。
「もしもし、アヤナだけど」
『んー、どうした?』
「的山さんと、お姉様とアイさん、どうしても都合が着かなくて一緒に行けないんだって」
『……そっか、残念だな』
「あ、でもご飯を食べに行く時には間に合うみたい」
『ああ、それなら良かった。……てかさ』
「なに?」
『お前、いつまでリョーコさんのこと“お姉様”って呼ぶつもりだ?』
「うっさいわねー、お姉様はお姉様なのよ。尊敬の証よ」
『いやいや、中学生がそう言うならまだしも……大学生になってもまだ、なあ』
「別に誰にも迷惑かけてないでしょーが」
『いや、リョーコさんももうお姉様って歳じゃないし……』
「あーっ、言ってやろーっと、マサヒコがお姉様のことオバサンって言ってましたーって」
『な、ちょ、待て、誰もオバサンなんて一言も言ってないだろーがっ!』
「言ってるようなもんじゃない。それじゃ今から早速報告するから、切るわねー」
『お、おいコラ待てったら、頼む待っ』
それから、彼女に会うことは出来なかった。
家に何度も行ったし、電話もかけた。
だけど、直前で全てお母さんにブロックされた。
「ゴメンね、若田部さん。今は、あの子のやりたいようにやらせてあげて」
そう言われると、もう私には何も言い返せなかった。
後で聞いた話だけれど、彼女に向こうの大学に進むことを勧めたのはお姉様だったとのことだ。
「色々とあってね」
問い詰めた私に、お姉様は寂しそうな顔で、そう一言だけ答えくれた。
彼女が渡米する日、それは私の第一志望大学の受験日だった。
もしかすると、意図的に彼女が日にちを合わせたのかもしれない。
その前日、彼女はマサヒコに合いにいったらしい。お母さんが教えてくれた。
どんな話をして、何をしたのか、マサヒコは一言も言わない。
私も聞かない。聞いちゃいけないことだと思うから。
私とマサヒコの目の前を、到着出口から出て来た人がぞろぞろと通り過ぎていく。
「ねぇ、ホントにこの時間で良いの?」
「間違いないって、だいたい、お前のところにもメールが来てただろうが」
そりゃ、そうなんだけどさ。
……ん?
あの、ツアー帰りらしき客の一団の後ろに……。
「マサヒコ、あれ……」
「……あ」
日本人とは思えない、薄い色の髪、そして大きな瞳。
髪型は以前のようにおさげではなく、肩口までそのままで伸ばしてある。
最後に別れた時と、姿形が変わっているのは当たり前だが、そんなのは全然関係無い。
私と、マサヒコにはわかる。と言うことは、向こうも私達がわかるはずだ。
ほら、気づいた。
ゆっくりと、しかし確実に、こちらに近づいてくる。
「……やあ」
「……」
「……久しぶり、二人とも……」
言葉が上手く出てこない。
彼女は変わった。その、何て言うか、キレイになった。
果たして、向こうには私達はどう映っているのだろう?
「オ、オレ、タクシー捕まえてくるよ」
あ、軟弱者が逃げ出した。
「……」
「……」
ホント、何を話せばいいのだろう。
いや、話したいことは山程あるのだが、順序立てて話せない。
胸がいっぱい、とはこういう状況を指すのだろうか。
再開を祝して抱き合うでもなく、手を取り合うでもなく、ただただ、彼女と私は無言で見つめあう。
多くの人が、二人の周りを流れていく。
「……フフ」
あ……。
あの時の、笑顔。
いや。
違う。
それよりも、もっと優しくて、そして、悲しみの欠片さえも無い、笑顔。
―――気持ちにも、区切りがつきました―――
最初のメールに書かれていた一文が、脳内で蘇る。
「アヤナちゃん」
「!」
名前を、呼んでくれた。
あ、いけない。駄目だ駄目だ。
泣いちゃう。泣いてしまう。
「ミ…サキ、ちゃん……」
彼女の手が、私の頬に触れる。
「アヤナちゃん、今……幸せ?」
もちろん。全力で、全霊で、答えることが出来る。
「うん、とても」
そして、もう一度、さっきの笑顔。
私も、それに負けないくらいに笑ってみせる。
泣きながらだから、もの凄くヘンな顔になってるかもしれないけど、構うもんか。
ああ、止まらない、止まらないよ、涙が。ハンカチで必死に頬を拭うけど、追いつかない。
彼女の笑顔の向こう、頭を掻き掻き、私の愛しい人が戻ってくる。
どうやら、タクシーを確保出来たらしい。
ぐいっ、と重くなったハンカチで涙を拭き取ると、
私は、彼女に、ミサキちゃんに、掌を差し出した。
「さ、行こう。みんな待ってる」
「うん」
ミサキちゃんは、微笑むと、私の手を取った。
おかえり、ミサキちゃん。
ありがとう、ミサキちゃん。
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