作品名 |
作者名 |
カップリング |
『タイムカプセル』 |
長時間座ってると腰にくるね氏 |
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本当は、アイ先生に子供が生まれた時に掘り起こそうと思っていた。
それが本来の目的だったからだ。
その予定が早まったのは、アメリカから懐かしい顔が帰国してきたからだ。
小久保マサヒコと天野ミサキは、空港で一人の同窓生を待っていた。
程なくして、若田部アヤナがロビーに現れた。
「久しぶりね、天野さん、小久保君」
その隣に男性は立っていなかった。アヤナは若干悔しそうな顔を見せた。
「こっちに戻ってくる時には、素敵な彼氏を連れてくるつもりだったんだけどね……」
そう言って、チラリとミサキの方を見る。
「そう言えば、以前もらった手紙にそんな事書いてたっけ……。
でも若田部さん、私なんかより余程魅力的だから、恋人なんてそのうち……」
マサヒコと手を繋いでいたミサキは、ばつが悪そうに、握った手を少し緩めた。
そしてすぐに、別に気を遣う事も無いと思い直して、またマサヒコの手を少し強めに握った。
ミサキから手紙を読ませてもらっていたマサヒコは、二人の心境を読み取った。
しかし、やはりアヤナに気を遣う必要は無い。逆に無礼というものだ。
「……でね、私の友達がバイトしているお店に、買い物に行ったのよ。
レジに行くとその友達が喜んでくれて、急にその友達が店内を歩き回って、いろんな商品を袋に入れて戻ってきて
『これも全部持っていきなよ』って言い出したのよ。最初は驚いちゃったけど、向こうではそれ程珍しい事じゃないみたい。
日本人の勤勉な姿勢を外国人は高く評価するっていうけど、本当ね。
お店の商品をアルバイトの一存で、タダで客にあげるなんて、日本じゃ考えられないもの」
「へぇー、気前良いっていうか、テキトーっていうか……」
地元への帰宅の道々、マサヒコとミサキはアヤナの土産話に耳を傾けていた。
「他にもね、ある友達の家に遊びに行くと、その家の冷蔵庫にはキャベツ一個しか入ってなかったのよ。
それで『お腹が減ったら、何でも好きなもの食べて良いよ』って、言われてもねぇ……」
アヤナが話す内容は、アメリカでも極端な例なのかもしれないが、それでも
概ね日本より遥かに適当な人が多いらしい事はわかった。
従業員が過労死しかねない程働かせる日本と、店が潰れかねないような雑な経営をするアメリカ。
どちらが正しいとは一概に言えないが、その国民性の違いが、両者の技術力に現れているのだろう。
即ち、アメリカは革新的な技術を開発する事に長け、日本はそれを進化させる事に長ける。
細かな精度を実現する事は日本の企業の得意技だが、大規模な事業はアメリカの方が上だ。
そんな中で、日本人であるアヤナの父が、その勤勉な姿勢で、アメリカの職場でも高い信頼を得る事は自明の理だった。
先ごろ、アヤナの父が勤める会社は、輸入事業の拡大を決定した。
と同時に、日本に詳しく、日本に顔のきく、それでいてアメリカの本社とも強い繋がりと信頼を確保している、
若田部氏が、再び日本の支社に転属する事になったのだ。
左遷ではない。本社にとって、日本に彼という男が、切実に必要だったのだ。重要な架け橋と言える。
転属先の支社にとっても、若田部氏の帰国は朗報だった。
彼がいれば、関係各省や企業との交渉、輸出入の対象となる商品の発注数にはじまって、
本社と支社の情報の疎通、起こりうる偶発的な問題への迅速で正確な対応など、
全てが安定して滞り無く円滑にすすむであろう事が、存分に期待出来たからだ。
元々二年前に若田部氏がアメリカの本社に転属になった時、日本の支社の者達は内心戸惑ったものだ。
若田部氏は有能で、だからこそ本社に転属になったのだが、同時に、
彼が抜ける穴を埋められる人材が、その時点で日本にあまりいなかった。
他の社員達が無能というわけではない。彼が有能過ぎたのだ。
日本全国を見れば、若田部氏に匹敵する人材は確かにいたが、それらの者を優先して
関東の支社にまわす事は中々出来ない。人材が必要なのは、関西も九州も東北もどこでも変わらないのだ。
結局この二年間、若田部氏がかつて所属していた関東の支社は、
「こんな時彼がいれば……」という状況を、何度か経験する事となってしまった。
若田部氏がいなくなったからと言って、取引先の企業が手を抜いてくれるワケはないのだ。
取引先は取引先で、彼という信頼できる窓口がいなくなった事で、いくらか苦労はしたに違いない。
若田部氏は、周囲が望む結果を必ず上回る成果を出してくれていたからだ。
知らずと、それと同様の成果を他の者にも求めていれば、若干の失望は避けられまい。
たとえその者達が、望み通りの結果を出していたとしても、だ。
そんなわけで今回の若田部家の帰国は、誰よりも日本の者達が一番喜んでいた。
そしてそれは、事情は違えど、マサヒコ達も同様だった。
若田部家の帰国は、一ヶ月程前から話題にのぼっていた。
正式な帰国予定日が決定すると、アヤナはすぐさま祖国の旧友に手紙を送った。
予定通りの時間に、マサヒコとミサキが迎えに来ていた。
「お姉さまと濱中先生と的山さんは?」
「あぁ、先生達は仕事があるから、まだこっちに来られないってさ。的山は、居残り補習。
勿体無いよなぁ、せっかくの放課後に」
「アイ先生は、まだ裏づけって言って、正式に担任クラスを持った教師にはなれてないみたいだけどね。
学校の先生って、枠が空かない限りは、教員免許もってても、正式な教員にはなれないらしいから」
「そうなの?てっきり、教員試験をパスしたら、それですぐに教師になれるものかと思ってたわ」
「まぁでも、団塊の世代ってやつが、一気に抜ける時期だからな。そろそろ枠がいっぱい空くんじゃないか?」
そんな事を言っているうちに、小久保家の前に着いた。
ドアをくぐると、マサヒコの母親が出迎えた。
「あらぁ、若田部さん、お久しぶりね。元気そうじゃない」
「ご無沙汰してます、小久保君のお母さん。私の事覚えてらしたんですか?」
「何度かうちに遊びに来てくれてたでしょ?綺麗な顔してて羨ましいから、印象に残ってるわ。
中学の時より随分大人っぽくなっちゃって。胸も一層大きくなったんじゃないの?」
「も、もうっ……セクハラですよ、それ。同い年の男の子が直ぐ傍にいるのに……」
「あははっ、ごめんなさい。でも、この程度でそんなに慌ててるようじゃ、まだ子供かしらね。
もっと女を磨けば、軽くいなせるようになるわ。そうして女はより魅惑的になるものよ」
こんな会話を目の前でされて、一番困るのがマサヒコだ。
男である自分には、中々話題に入り込めない。もっともこんな話題に参加したいとも思わないが。
「皆が揃うのは、夕方を過ぎてからになるわね。
暗くなるから、タイムカプセルを掘り起こすのは明日の昼間かしら」
「でも良いのかな。アイ先生のタイムカプセル、あれってアイ先生が
将来子供をもった時に開ける予定じゃなかったっけ……」
「でもせっかく久しぶりに全員揃うんだから、良いタイミングじゃないかしら?」
小久保家の庭にタイムカプセルを埋めた時の事が思い出された。
スコップでカマを掘られてしまったマサヒコとしては、気持ちの良い思い出ではない。
しかし時が経てば、そんな記憶も多少は美化される。
当時、苦痛に喘ぐマサヒコを尻目に、他のメンバーも授業を脱線してタイムカプセルを埋めたものだ。
面白がった中村とリンコはすぐさま自宅に帰って埋めるものを探して来た。
中村のケータイで呼び出されたアヤナは、嫌味なほど高級そうな菓子の缶を
タイムカプセル用に持参して小久保家に来訪した。
缶は大きく、ちょうど良いサイズだったので、全員分の一括のタイムカプセルとして使われた。
全員の写真を一枚ずつと、最後に全員集合の写真を一枚、マサヒコの母に頼んで撮影してもらった。
笑顔で写る女性陣と、呆れたように素っ気無い表情で写るマサヒコ。
それらは密閉されたビニール袋の中にいれられ、その周りを新聞紙でかため、
缶の蓋はさらにガムテープでグルグル巻きにされた。
思えば、あれ程授業を脱線し続けていて、よく志望校に合格出来たものだ。
家庭教師を雇う以前のマサヒコとリンコの成績を考えれば、あれが二人の素の実力でない事は明らかだった。
高校にあがってからも、そのレベルについていく為に二人は勉強を続けた。
リンコは時折、ミサキに教えを請うていた。そして当然の様にマサヒコの部屋で授業をすすめる二人。
自分は関係無い筈なのに、ベッドの上に寝転がって漫画を読んでいると「マジメにやろうよ」と(何故か)注意されたものだ。
兎も角そんな風にして、マサヒコとミサキとリンコの関係は続いていた。
しかし、社会人となったアイと中村とは、疎遠になって当然だった。
急に、アヤナからの手紙の内容を思い出した。
いつまでも一緒にはいられない、そんな風な事がそこには書かれていた。
卒業以来、何度か元家庭教師達と元教え子、それにミサキを交えたメンバーで集合した事はあったが
それも回数を重ねるうちに、いつしか月に一度も集まらないようになっていった。
ひょっとすると、全員が揃うのは今回を含めて、そう何回も無いかもしれない……。
そんな感傷が、この場にいた三人の中に、ほぼ同時に染み渡った。
やがてアイと中村と、何故か豊田セージが到着した。
「と、豊田先生……」
「ひ、久しぶりだな、小久保、元気にしてたか……?」
何故豊田先生までもがここに来たのか……というより、連れてこられたのか。
その首からぶら下げられた首輪の鎖の端をしっかりと握った中村の悪女のような笑顔を見れば、大体想像はついた。
「わぁ、豊田先生、ナナコみたーい!」
リンコが面白がって、セージの首輪を引っ張る。
「わ!ま、的山!やめろ、こらっ」
「駄目だよぅ。犬はちゃんとワンッて鳴かなきゃぁ」
その言葉に、リンコと中村を除く全員が凍りついた。
リンコには悪意も邪気も全く無いのだろうが、そもそもこの娘は中村の教え子なのだ。
アイと中村は同じ家庭教師派遣会社に所属しいた。一歩間違えば、マサヒコの担当は中村だった可能性もある。
それを考えると、マサヒコは陰鬱な気分になった。
下手をすれば、ミサキと結ばれる前に中村に童貞を奪われていた可能性すら……
そこまで考えて、マサヒコは考える事をやめた。
リンコの処女膜は大丈夫だったのかも気になったが、その問題も振り払った。
「さて、とりあえず居酒屋にでも行きましょうか。セージ、勿論全額アンタのオゴリよ」
やはり中村は、そのために……つまりは金銭的な負担を任せるために、セージを連れてきたようだった。
「仮にも教員である俺が、未成年者に飲酒をすすめるワケにはいかんだろ」
「黙認してりゃバレないわよ。あんただって、成人するまで飲まなかったワケじゃないでしょ?」
そう言われた途端、セージの顔が青ざめた。逆に中村の顔は嬉々としている。
「あれは付き合ってた頃、お前が無理やり俺に飲ませたのが始まりだろうが!」
「あらぁ、代わりにあんたの苦いのを飲まされてたんだから、おアイコでしょ?」
余計にセージの顔が青ざめ、余計に中村の顔が嬉々とする。
「ま、全員分アンタのオゴリってのは冗談よ。今日は大人三人で全員分を割りましょ」
同席したセージとアイは教員免許を剥奪されるだろう。
マサヒコとアヤナは兎も角、ミサキと、特にリンコは、成人には見えない。店員を誤魔化す事は出来ないだろう。
結局全員で中村を説得して、近所のコンビニで酒を何本か購入後、再び小久保家に集まって飲む事に決まった。
「市販のアルコールって、居酒屋で飲むのと違って、あんまりおいしくないのよねぇ……」
「我慢しろよ、某カラオケ店で飲める、タダだけど薄いカクテルよりはマシだろ」
不満を言いつつも、全メンバー中最も速いペースで缶をあける中村と、冷静なセージ。
酒よりもむしろ食べ物に手をつけまくるアイと、すぐに眠るリンコ。
甘酒でさえ酔ってしまうミサキはビールをほんの一口飲んだだけでダウンし、マサヒコの肩に寄りかかっていた。
結局俯瞰してみれば、マサヒコ、アヤナ、セージという、
比較的マトモな神経の持ち主だけがニュートラルな状態だった。
マサヒコの肩に寄りかかっているミサキを見て、アヤナは少し羨んだ。
「はぁ……結局、向こうに行っても良い人見つからなかったわねぇ……」
「何だ、若田部。まだそんな事言ってんのか。ミサキも言ってたけど、お前ならすぐ彼氏ぐらい作れるさ」
「でも私、理想が高すぎるような気がするのよねぇ……向こうで何度か告白はされたけど、どれもイマイチ……」
言いつつアヤナは、コンビニで買ってきた安物のワインを紙コップに注いだ。
安物とは言えたかが部屋での飲み会にワインを平然と買える経済力は、さすが若田部家の娘だ。
「ワインを紙コップで飲むなんて、ある意味贅沢だなぁ」
「いや、実はそうでもないんだぞ、小久保。たとえばドイツのシュトゥットガルトという街では、クリスマスマーケットで
紙コップに入ったワインを飲ませてもらえるし、ワインとは本来そんなに気取った飲み物じゃないんだ」とセージ。
「でも小久保君の言う通り、日本の感覚だと何か贅沢な気がしてしまうわね。私もやっぱり日本人って事かしら」
「おいこらっ、何冷ややかな顔して飲んでんだテメーらぁ!」
セージの隣で壁にもたれかかっていた中村が、瓶ビール一本をセージの口に無理やり押し付けた。
「むごっ!ご、ごふぉっ、ぐ……ご……っっっ!」
ラッパ飲みというが、いきなりビール瓶をあてがわれたセージの口からは、かなりの量のビールがこぼれていた。
「と、豊田先生!大丈夫ですか!?」
「つーかアンタ何やってんだ!シャレんなんねーぞ、人の部屋で!」
殆どはセージの服の上にこぼれたからまだ良かったようなものの、ある程度は床にもこぼれ落ちていた。
「あーあー、誰が掃除すると思ってんだ、この人……」
「す、すまん、小久保……」
「いや、豊田先生は何も悪く(((ボカッ!)))
マサヒコの言葉を遮るように、ミサキがマサヒコの頬に殻のビール缶を投げつけた。
「マサ君も飲みなよー、ほらほらぁ」どうも完璧に酔っ払っている。
「マサヒコ君、さっきから全然食べも飲みもしてないねー。サラミ食べる?」とアイが言い、
目を覚ましたリンコだけが一人でボーッとしている。
ちょうどその頃、回覧板をまわしに来たお隣さんがマサヒコの母に
「久しぶりに小久保さんの家が賑やかになりましたねぇ」と笑っていた。
一通り馬鹿騒ぎして、落ち着いてきた頃。
「アヤナ、アンタさぁ……」中村が口を開いた。
「彼氏出来ない事が、そんなに嫌なの?」
「えっ……いや、その……ただ、天野さんに先に彼氏が出来た事が悔しいっていうか……」
我ながらしょうもない理由だとアヤナも思った。
「本当にそれだけが理由?」
「……どういう、事ですか?」
「未だにマサの事が忘れられないんじゃないかなーって、思ってね」
しばし沈黙。
その場にいた誰もが口をつぐんだ。
「わ、私は別に、小久保君の事が好きだったわけじゃ……」
「うん、確かにそうでしょうね。でも、意識はしてたでしょう?もう時効なんだから、誤魔化さなくて良いのよ」
「……」
「ねぇ、マサ。それと、ミサキちゃん。あたしから一つ提案なんだけど……」
「な、何ですか?」マサヒコとミサキの中に、嫌な予感が駆け巡った。
「今日ぐらい、アヤナに思い出をあげるわけにはいかないかしら?」
その言葉の意味をいち早く察知したセージが、冷や汗をかきながら中村をとめようとする。
「なによ、当事者でないアンタには関係の無い事でしょう?」
「しかし、特定の女の子と付き合っている小久保に、そんな……わかってるのか?
お前はこの子達に、浮気をすすめようとしてるんだぞ?」
そこでやっと、中村の意図が全員に判然とした。
「だから、本人達に了承を得れば良いんでしょ?現に今あたしが打診してんじゃん」
そこでようやくアヤナが口を挟んだ。
「お、お姉さま、そんなの、私……っ」
マサヒコも、呆れたように中村を見やる。
「……アンタが変な人だとは思ってたけど、まさかそんな真顔でこんな事言う人だとは……」
「真顔にもなるわよ。あたしは今真剣に言ってるんだから。
言っとくけど、いつものノリの冗談なんかじゃないわよ」
「……」
「と言っても、一番大事なのはアヤナ、あんたの心だけどね。
確かにミサキやマサの言う通り、焦る必要なんか無い。あんた綺麗なんだから。
ちょっと妥協すればいくらでも良い男は見つかるわ。
それに、あんたがこの先もずっと日本にいられるとは限らない。
またいつ、お父さんの仕事の都合で外国にわたるかもわからない。
まぁ大学に進学すれば、親が外国にわたっても、仕送りに頼ってあんた一人で日本に住んでいる事は出来るでしょうけど。
少なくともあんたがそういう風に一人で生活出来るようになるまでは、安易に彼氏なんか作らない方が良いかもしれない。
つくってもすぐに会えなくなる可能性が、無いわけじゃないんだからね。
どちらにしろ、今焦る必要が無いのは確かだわ。
あんたの大事なバージンは、将来のいつか、本当にずっと一緒にいられる男性とめぐり合えた時のために
大事にとっておくべきかもしれない。
そもそも女ってのは、あたしみたいな淫乱でない限りは、何度違う男と付き合おうとも
その度に、あぁ、この人が初めての相手だったらなぁって、後悔するものよ。
……それでも、もしそういった諸々の事情をふまえた上でも、あんたがマサから思い出をもらいたいと願うんだったら
少なくとも、あたしは止めないわ……」
これにはさすがに、リンコすらも黙ってしまった。
と言っても、彼女も含めて殆どの者は、先ほどからずっと言葉を詰まらせていたが。
しばらくして、アイが沈黙を破った。
「先輩、そんな事……大人である私達が、そんな事を推奨するわけにはいきません。
子供に分別を教えるのが、私達の責任の筈です」
「だから、アヤナさえその気なら、の話よ。あたしは強制はしない。勿論、推奨してるわけでもない。
あたしだって、良い事だとは思っちゃいないわよ。でもね……」
でもね……と言ったまま、中村は黙り込んでしまった。
その先の言葉が続かないのか、或いはわざと言葉を切る事で心理戦を展開しているのか。
「私は……別に、小久保君に特別な好意を寄せてるわけじゃありません。
また、彼に私の初めてを捧げたいとも思っていません。
私にとって、彼はそんな、そんな……」
「……そんな?」ミサキが問いただした。
「……そんな、わかりやすい感情じゃないから……恋とか友情なんていう、説明しやすい感情じゃ……」
アヤナがマサヒコに向けるソレが、恋愛感情でない事は本人にも確かだった。
かと言って友情というには何かが違う。
以前、男女間で真の友情は成り立たないという説を聞いた事がったが、それが関係してるのだろうか?
友情とも愛情とも違った、しかしアヤナの胸を少しだけチクッと刺すには十分な感情。
トキメキとかドキドキといったものとは程遠いが、感傷を誘う何か。
その正体がわからないまま、今まで生きてきた。それで困りはしなかった。
モヤモヤした嫌な感覚が心臓にへばりつくような、そんな事も無かった。
ただ、わからない、という感想だけが、しつこく気管支のあたりに根ざしていたのは事実。
たとえば、天野ミサキがいなかったら、自分はどうしていただろう?
何も気兼ねする事なく、彼に恋愛感情を向ける事が出来たかしら?恐らく違う。
ミサキに対する遠慮から感情を封印しているのかと一瞬考えたが、どうもそうではないようだ。
「別に、良いんじゃないかな」
再び沈黙を破ったのは、今度はリンコだった。
「言葉じゃ説明出来ない事があってもさ。……私は、良いと思うんだけどなぁ……」
天然故の素直な感情か、或いは哲人の悟る妙諦か。不思議な響きをともなって、それは全員の心に染み渡った。
その言葉に意を決してか、ミサキはふいに立ち上がった。
「リンちゃん、おつまみ足りなくなってきたから、買いに行こっか」
その言葉の真意を読み取って、中村とセージも立ち上がった。
「あんたら金もってんの?今日は大人がオゴるって言ったでしょー」
「女性だけで夜道を歩くのは危険だ、俺も行こう」
アイは何も言わなかったが、やはり無言で立ち上がると、他の者についていった。
部屋には、マサヒコとアヤナだけが取り残された。
「それじゃ、マサ君、ちょっと行ってくるね。30分くらい、かかるかも……」
30分。
長いのか短いのか。
気まずい空気が、残された二人の間に流れた。
マサヒコは迷っていた。戸惑っていた。
ミサキが、自分とアヤナの二人だけを残して、部屋を出て行った。
その意味するところは大体読める。
読めるが、それを果たして実行すべきか。
もし実行するなら、どこまで?
いやそもそも、アヤナの気持ちは?
「……なに、言ってるのかしらね、皆」
「……あぁ」
「……ワイン、飲む?」
「……あぁ」
「……それしか言えないの?」
「………………あぁ」
アヤナはマサヒコの紙コップにワインを注ぐと、自分の紙コップにも注ぎなおした。
「乾、杯……」
紙コップを心持ち高く掲げ、アヤナはそれをゆっくりと飲み下した。
「……お前は、どうしたいんだ?」
また沈黙。
「別に。私はあなたに何も望まないわよ。さっきからずっと言ってるでしょ?
別にあなたの事は好きじゃないから」
「でも……そうね、今何もしないままだと、一生悔やむかもしれない。
ううん、悔やむというより、寂しがる、と言った方が正しいかしら。
この先私にちゃんと良い人ができて、結婚して、子供をもったとしても……
どこかが欠けたような感覚を、引きずらなきゃいけない気がする……」
「じゃあ……どうすれば良い?」
「そんな事、男の方から聞かないでよ……」
「……」
「……」
「……」
「……キス、してもらっても良い?」
「え?」
「勘違いしないで。別に唇にして、て言ってるんじゃない。
私のファーストキスも、バージンも、あなたにあげる気は全く無い。勿体無いからね。
でも……オデコにぐらいなら、天野さんも許してくれるでしょ?」
「……酔ってんのか?」
「そうかもね」
言いながらも、アヤナはマサヒコの方に体を傾けた。
マサヒコはしばし逡巡した後、意を決した。
片手でアヤナの前髪をふわりと持ち上げると、その理知的な額に、軽く口付けした。
「……ありがと。ごめんね、迷惑な事頼んじゃって……」
「……礼なら、ミサキに言ってやってくれ。多分、あいつの方が辛い……」
「ふふっ、そうね。後で、充分彼女を愛してあげて。私には、そのぐらいしか言えないけど」
そう言って笑った後、アヤナは、いつかの手紙でも予告していた通りに
マサヒコの前で、少しだけ泣いた。
本当に微かな涙だった。ほんの少し、瞼の端がきらめく程度の……。
マサヒコには、それを拭ってやる事は出来なかった。
拭う程の涙も流れていなかった。
しかし、確実に少しだけ、その目の光が蜃気楼のようにゆらめいているのを、見逃しはしなかった。
「この事は、もう忘れましょう。私も忘れる。次に今日のこの事を思い出すのは、そう……
いつか私に、心から信じられる恋人が出来た時ね。
未来の私の彼氏には悪いけど、その時だけ、少しだけ、今日の事を思い出させてもらう。
そうして、私が確実に良い未来に向かって歩んでいる事を再確認させてもらう。
今日のこの記憶は、その時まで封印しておく、私だけのタイムカプセルよ」
コンビニからの帰り道、アイは斜め後ろをゆっくりと歩くミサキを気にした。
ミサキの歩調が、いつもより遅い。しかし、意識的に遅くしているようにも思える。
もうそろそろ、約束の三十分。別に気をつかって遅めに帰る必要はない。
しかし、どんな顔をして二人の元へ帰れば良いのだろう、ミサキはそう思っていた。
ミサキには、わかっていた。
マサヒコがミサキを裏切らない事も。アヤナがミサキを裏切らない事も。
そして、二人の間に、本当に、恋愛感情など介在しない事も。
全てわかった上で、物分りの良い風を装って、二人きりにしてやった。
それが卑怯な気がして、たまらなかった。
中村が、ミサキの頭を軽くポンポンと叩いた。
「私のせい、みたいなもんね。今回の事は。あんたには、辛い判断させちゃったわね……」
「……良いんです。きっと、マサ君にとっても若田部さんにとっても、私にとっても
悪いステップにはならない筈ですから」
翌日。
快晴。
結局セージ以外、全員一晩中、マサヒコの部屋で雑魚寝していた。
と言っても、部屋はそう広くない。
マサヒコのベッドの上に、ミサキとアヤナとリンコが仲良く寄り添って寝ていた。
元家庭教師二人は勝手に床で寝始め、マサヒコがその上から毛布を被せていた。
当のマサヒコは、壁にもたれかかってウトウトしたまま、いつの間にかその体勢のままで寝ていた。
セージは、仮にも教師が元教え子の部屋に大勢で寝泊りするのは、親にも悪いと思って、一人で静かに帰宅した。
もっとも、マサヒコの両親はそんな事は気にしないのだが、教師とはこれで結構自由がきかない。
裏づけのアイは兎も角、正教員のセージが地域の保護者や卒業生に迷惑をかける事は、立場上出来なかった。
やがて午後になって皆ちらほらと起き始め、皆一様に水を飲んだ。
二日酔いの中村は、殊更大目に水を飲んでいた。アイが背中をさする。
マサヒコとミサキがその様に呆れながらも、アヤナとリンコは素直に中村の体調を心配する。
特に代わり映えしない、まるで二年前とそっくり同じような光景だった。
一つだけ、タイムカプセルに関して全員の約束事が取り決められた。
それは今回、一人もう一つずつ、新しいタイムカプセルを埋めようという事だった。
以前カプセルを埋めた時から今までの間に、叶った努力や、新たに芽生えた夢もある。
今回カプセルを開ける事でそれらを思い出し、そしてそれらをふまえた上で、新しい手紙や品物を追加で埋める。
何年かに一度はこういうイベントを繰り返して、自分達が少しずつ、望ましい未来に向かって歩んでいる事を確認しながら
地にしっかりと足をつけて生きていこう、そう提案したのが、アヤナだった。
皆それぞれ新しいタイムカプセル
――未来の自分への手紙や、この二年で新たに出来た思い出の品など――
を、片手に握り締めていた。
「それじゃ、開けるぞ、皆」
マサヒコが合図をかける。
「せー、のっ」
パカッ
終了です