作品名 |
作者名 |
カップリング |
「ラスト・ワルツ」 |
郭泰源氏 |
- |
"カキーーン"
古ぼけたテレビの中で動いているのは、今となっては懐かしい粗いポリゴン型の野球ゲーム。
そしてそれを虚ろな瞳で眺めている少年がひとり。
(しかし…いまさら初代のプレステって)
ありえねえ、とマサヒコは思っていた。だが…今は画面の旧式ゲームしかやることもなかった。
(じゃあ、次は代打で鈴木健かな…)
"ざああああああ…"
画面に集中しようとはするものの…どうしてもバスルームから漏れ聞こえてくるシャワーの音に
気を取られてしまう自分に、マサヒコは軽い自己嫌悪を抱いていた。
(けど…どこでどうなって、こんな話になっちゃったんだかな…)
£
夏休みの終わり…マサヒコは、ひとつの決意を抱いて近所の公園にミサキを呼び出した。
(ずっと…あいつには、言わなきゃと思ってズルズルここまできちゃったけど…)
今日こそは、自分とアイのことを──。
アイと真剣に交際しているということを言わなければならない、と思っていた。
それは、ミサキの思いに以前から気付いていたのにうやむやなままにしてきた
卑怯な自分への罰であり、試練だと思っていた。
「お、お待たせ…マサ君」
「あ、ああ…久しぶりだな、ミサキ…」
夏休みの間、どこにもいかなかったのだろうか?
元々色白な少女だったが、その日のミサキは一段と…妖しいほどに白く、
ノースリーブの肩がほのかな光を放つようにマサヒコには見えた。
「ごめんな、お前も色々忙しいだろうけど、呼び出しちゃって…」
「う、ウウン…いいの…私も…久しぶりにマサ君の顔を見たいな、って思ってたから…」
そう言って、すこしぎこちなく微笑むミサキ。───可愛かった。
その笑顔を…いっときは、この世界で最も尊いものだと思っていた。
いや、その気持ちは今も変わりはなかった。
(でも…言わなくちゃ。そうしなきゃ…俺も、ミサキも…変われない…)
お互いの近況を報告しあい、友人のことや学校でのことを話し…。
ふたりは、淡々と時間を過ごしていた。それは、どこかわざとらしく…どこか壊れていた。
どれくらいそんな空気の中、話していただろうか?突然、ミサキがマサヒコの目を見つめ、言った。
「ねえ…マサ君、正直に答えて」
「う…ウン」
「あなた…好きな人がいるでしょ?」
「え…」
「…だから、正直に答えてよ。その表情でもう答えたようなものだけど…」
「あの…俺…ゴメン、ミサキ、俺…俺…」
「ふふ…やっぱりね。アイ先生でしょ?」
「あ…お前、もしかして中村先生か若田部から…」
「ち・が・い・ま・す!もう…あんまり私のことをね、甘く見ないでほしいな。
私はね…ずっと、ずっとマサ君のことが好きで、あなただけを見てたんだよ?
悲しいけど…それくらいわかっちゃうよ。だって大好きなあなたのことだもん」
「ゴメン、ミサキ。俺…本当はお前の気持ちに気付いてて…でもお前を傷つけるのが怖くて…」
「ふふ、良いんだよ?あなたとアイ先生のことを思って…眠れない夜をすごしたことも、
なんであたしを選んでくれなかったんだろうって、泣いていた頃もあったけど…
でも、仕方がないもんね。あなたは…アイ先生のことが、好きなんだもんね」
「ミサキのことが…嫌いなわけじゃないんだ。今でも大切なひとだと思ってる。でも…」
「ダメだよ、マサ君!」
「…」
「そんなこと言ったら…アイ先生に悪いじゃない。
今はね、ふたりが幸せになることだけ考えていればいいんだよ。私のことなんて考えずに」
「ミサキ…」
「でも…最後に、お願いしてもいい?」
「あ、ああ…俺にできることなら…」
§
「最後に…私とデートしてくれない?それで…一日だけ、本当の恋人になって欲しいな。
その日だけで…私は、全部諦めるし、忘れるから。あなたとのことを…思い出にするから」
「…それでお前はホントに、いいのか?」
「ウン…お願い、マサ君」
ミサキのほうから切り出されるのは意外だったし、その後の展開も完全に予想外だった。
泣かれることも、殴られることも…罵られることも、全てを覚悟していた。
だが、目の前の幼馴染の少女は…どこか、さっぱりしたような表情だった。
そして…ふたりは、その日をいつにするかだけを決めて、公園をあとにした。
手をつなぐことも、話すこともなく、沈黙したまま並んで…お互いの家へと帰っていった。
£
その日は、夏休みの最終日。
「ゴメ――――ン、マサ君、待った?」
「ああ…少しな」
「ブッブー、減点イチ!」
「…なにが?」
「こういうとき男の子は、どんなに女の子が遅れてきても『俺も今来たとこだよ』って言うの!」
「…そういうものなのか?」
「もう…相変わらず鈍いんだから…まあいっか。さ、いこうよマサ君」
そう言って、自然にマサヒコと腕を組むミサキ。
頭ひとつ低い彼女の髪から、甘く優しい香りがふわり、とマサヒコの鼻腔をくすぐった。
「じゃあ…どこに行こうか?ミサキ」
「どこでも良いよ?…でもできるだけふたりとも初めてのところがいいな」
「ああ…じゃあ、ここの街の映画館にでも行くか?確か今日封切りの映画がやってるはずだし」
「あ、あのラヴ・ストーリーだよね?ウン、あれなら私も見たいと思ってたんだ…」
ふたりは腕を組み、そんなことを話しながら歩いていた。
(いつの間にか…)
去年、マサヒコの背が急激に伸び始めた頃…。
ミサキは、彼と歩くときは相手の歩幅に合わせて少し急ぎ足で歩くようになった。
なにせまだマサヒコには彼女とその距離が開いたという自覚が無かったから…。
ミサキも、そのことで彼に気を使わせるのがなぜかイヤだったから…。
そんなちょっとした感覚が逆に嬉しくて、黙ったままにしていた。
しかし、今日腕を組んだマサヒコはかつてのように自分のペースで歩くのではなく、
ごく当たり前のようにミサキのペースに合わせて歩いていた。それがミサキには、ひどく寂しかった。
(…多分、アイ先生と歩いていて、気付いたんだ…相手に合わせて歩くのに…)
今いっしょにいる、自分の人生で間違いなく一番大切だったひとが───。
いつの間にか、遠い、とても遠い人になっていたことを、改めてミサキは実感していた。
(でも…今日は、今日だけは…)
ミサキは、マサヒコの横顔を見つめた。
無造作なクセっ毛、少し吊り気味で普段は冷たい感じがするけれど
笑うと目尻に皺ができて優しくなる目、そして鋭いラインを描く顎───。
どれも、自分がずっと愛してきたマサヒコだった。
(こんなに…こんなに今は近いのに…それでも…)
今日でこの愛しいひとは、自分から去っていく。そんなことを思いながらミサキは歩いていた。
£
映画は、友人以上恋人未満のふたりの男女のすれ違いを描いたラヴストーリーだった。
「…悲しいお話だったね、マサ君…」
「ああ…」
ラストシーンは雨の駅。恋人というより久しぶりに再会した兄妹のように…。
穏やかな微笑みを浮かべたまま、主人公ふたりは無言で握手を交わして別れた。
紫陽花の咲き誇る中、傘をさした男が涙を一筋流し、
そして電車に乗った女も一筋涙を流して…エンドロールが流れた。
それはなぜかミサキにも…マサヒコにも、どこかで見覚えがあるような…そんな情景だった。
(どこかで…多分俺たちも…)
間違わなければ、もしかしたら別の道が…あったのかもしれない。
§
近所のファーストフード店で軽めの昼食をとりながら、マサヒコはずっとそんなことを思っていた。
「もう…マサ君?」
「あ…ゴメン、ミサキ…」
「さっきからずーっとボーッとして…」
「ああ…わりい、さっきの映画、思い出してて…」
「…私たちみたいだって思ってた?」
「…いや、そんなこともないんだけど…ホラ、俺普段は恋愛映画なんて見ないからさ。
たまにああいうのを見ると、結構クルっつーか…」
「ふふ…意外にロマンチストだよね、マサ君」
「いや、そんなこともないんだけどさ…」
そう言って苦笑いをするマサヒコ。ミサキは楽しそうにそんな彼の表情を見つめている。
「よし、じゃあ次は…なあミサキ?初めての場所じゃないけど…いいか?」
「?いいけど…どこ?」
「ん…俺らがさ、小さい頃良く親に連れられてった場所」
「?…あ。もしかして…」
ふたりは、そのまま微笑みあうと店を出た。今度は、ごく自然に…腕を組んでいた。
£
「ペンギンさん…暑そうだね」
「まあ…夏だからな」
ふたりが着いたのは、とある水族館。普段はさほど混むこともなく、
どちらかといえば寂れているという印象すらうける施設だったが…。
夏休みの最終日ということもあってか、今日は意外に混んでいた。
「覚えてるか?昔お前さ、あのエイとかサメが怖いって泣き始めちゃって…」
「あ、ひどーい!そんなこと言うけどさ、
マサ君だって昔ここで私とふたりで迷子になって泣いちゃってたくせに…」
「こ、子供の頃の話じゃんか…」
ふたりは、昔の思い出を確認するように…水族館を見て回っていた。
(あの頃は…疑いもしなかった。私は…絶対マサちゃんのお嫁さんになるって…そう思ってた)
(あの頃は…いつもミサキと一緒だった。周りのガキ連中にからかわれても…一緒だった)
イルカの曲芸ショーをぼんやりと眺めながら…お互いにそんなことを思うふたり。
「はーーーーい、ではこのイルカの秀太君に、餌をあげてくれるひとは、手をあげて下さい!」
アトラクションも終盤、舞台では飼育係のお姉さんが客にイベントの参加を呼びかけていた。
「はいっ!!!」
「え?お、おいミサキ…」
元気良くミサキが手をあげ、ボーッとしていたマサヒコは不意をつかれて驚いてしまっていた。
「はーーい、じゃあそこの可愛いお嬢さんにお願いしましょうか」
「さ、行こうよマサ君」
「って?お、俺もなの?」
「彼女が行くんだから、男の子も行くのが当たり前でしょ?」
躊躇するマサヒコだが、ミサキに強引に手を引かれてそのまま舞台へと移動していった。
「はい、とっても可愛いカップルの参加ですね!あたしも羨ましいです!
じゃあふたりのお名前を聞かせてください!」
「えっと…マサヒコです。よろしくお願いします」
「ミサキです!頑張ります!」
いかにも初々しい恋人同士といった雰囲気でふたりは挨拶をした。
「はい、ではここに秀太君が挨拶に来ますので、おふたりで秀太君に餌をあげてください!」
"ピーーーーーッ……、ばしゃああああん"
お姉さんの笛の合図と共に、イルカの秀太君がふたりのいる位置まで泳いできた。
至近距離に迫ってくるイルカは結構な迫力で、
一瞬思わずたじろぐマサヒコだったが…ミサキは平気な顔である。
ミサキが餌である魚を鼻先に投げると、秀太君は見事にそれをジャンプしてキャッチした。
「わーい、可愛いね!マサ君」
「あ、ああ…そうだな、ミサキ…」
(てか…間近で見ると、つくづくイルカって海獣だよな…正直あんまり…)
心の中でそう思いながらも、口には出せないマサヒコであった。
§
よほど秀太君が気に入ったのか、ミサキははしゃぎながら餌を何度も投げ入れている。
それがあまりにもプールに近く、あと少しで飛びこまんばかりの勢いだったので、
マサヒコは隣にいながらヒヤヒヤしっぱなしだった。
「おい、ミサキ…いい加減これぐらいに…」
「あ、マサ君さては怖いんだな?ふふ…」
それは、観客からすれば仲の良い恋人同士の楽しげな語らいに見えたことだろう。
だが、ふたりは―――どこか、終わりの予感をお互いに感じながら時を過ごしていた。
「はい、ありがとうございました!本当に、妬けちゃうくらいに仲の良いふたりでしたね!
では、最後にこのふたりと秀太君に大きな拍手をお願いします!」
ふたりは、手渡された餌の入ったバケツが空になるまでイルカに投げ続け…。
最後は、お姉さんの元気いっぱいの挨拶でショーは終わった。
拍手の中、ふたりは観客席に戻っていった。
£
水族館を後にすると、時間はもう五時半を回ろうとしていた。
「さて、と。メシどうする、ミサキ?」
「ねえ、マサ君…あたしね、テイクアウトのハンバーガーでいいから…。
食べたいところがあるんだ…そこでいい?」
「?別にいいけど…」
そんな言葉を交わしながら、駅近くの繁華街へと向かうふたり。
ハンバーガーショップでハンバーガーを買ったあと、ぶらぶらと町を歩く。
「なあ…ミサキ?そこって…この近くなのか?ハンバーガー、冷めちゃったら美味しくないし…」
「ウン…あと少し…」
町は少しずつ、夕闇へと包まれていき…そして、ふたりがたどりついたのは…。
(ん?あれ…ここって…え?まさか?)
いわゆるホテル街だった。
「み、ミサキ?おい、ここって…」
「…」
無言のまま、ミサキはマサヒコの腕を引いて―――その中の一軒に入ろうとする。
「ミサキ!ちょっと待て!おい…ここは…」
「今日は」
うつむいたまま…ボソッ、とミサキが呟く。
「な、なに?」
「今日だけは、あなたは…私の本当の恋人のはずだよね?」
「そ、そうだけど…」
「なら…いいでしょ?今日の…最後はここで」
「だ、だけど…ミサキ」
「お願い…マサちゃん、あたし…こうでもしないと、終れないの…あなたとのこと」
「ミサキ…」
ミサキは、既に泣いていた。ホテルの前で泣き出す少女とその隣にいる自分――。
(イカン…このままでは…確実に、イカン…下手したら補導モンだ…)
「わ、わかったよ、ミサキ。とりあえず部屋に入って、メシ食って…落ち着こうぜ、な?」
右手で目頭を押さえながらミサキがこくん、とうなずく。そしてふたりはホテルへと入っていった。
£
「…しかし…こりゃ…」
「…」
入ったの部屋は、…やや薄暗い照明、無駄に広いベッド、
それに安っぽくて派手な装飾品と、一昔前のいわゆる『ラブホテル』然とした部屋だった。
「ま、とにかく食おうぜ…俺、腹空いちゃったよ」
「うん…」
その場のあまりな雰囲気を無理矢理なんとかしようと、
ふたりは買ってきたハンバーガーを取り出して食べ始めた。
「…」
「…」
無言のまま、黙々と食べ続けるふたり。勿論、ふたりとも味などなにも感じていなかった。
「なあ…ミサキ?」
§
「なに?」
「これ食ったらさ、帰ろうぜ?もういいだろ?やっぱりダメだよ、こんなの…」
「…」
うつむいたまま、無言でマサヒコの言葉を聞いていたミサキだったが…。
意を決し、顔をあげるとキッと睨むようにして…マサヒコを見た。
「ずるいよ…マサちゃんは…」
「…」
「あの日の公園で私…無理に平気な顔をしてたけど、本当は、心臓が爆発しそうで…
目の前が真っ暗になって、この世が終わりになったような気分だったんだよ?なのに…
あんな中途半端に優しくして…。私のことなんて、好きじゃないって言えば良いじゃない。
顔も見たくないって言えば良いじゃない。昔から大嫌いだったって…そう言えば良いじゃない!」
ボロボロと、涙をこぼしながら、最後は叫ぶようにミサキは訴えていた.
じっと黙ってその言葉を聞いていたマサヒコだったが…弱々しく、ミサキを抱き寄せた。
「…………俺…ミサキ…俺…」
言葉が出てこなかった。なにを目の前の少女に言って良いのか…マサヒコには、わからなかった。
謝れば良いのか?土下座すれば良いのか?好きなだけ殴れとでも言えば良いのか?
どれも、上滑りするだけのような気がして…マサヒコは、ただミサキを抱きしめ続けた。
「…ミサキ。俺は…お前のことが、嫌いなんかじゃ…ない。お前は…大切な、ひとだって
今でも思ってる。それだけは…絶対に、ウソじゃない。でも…俺には、もう…」
「……それ以上は、いいよ」
泣きやんだミサキが、顔をあげる。
「あなたの言ってることが…ウソじゃないってことぐらい、私だってわかってる。
ゴメンね…でも、どうしても…最後に一回だけ、ワガママ言いたくなっちゃったの…。
ねえ、だから…最後のお願いを聞いて。私の、初めてのひとになって。
それだけでいいの。それで全部終わりにするから」
ミサキは、マサヒコを真剣に見つめながら言った。
「だけど…ミサキ、そういうのは…本当に好きなひとと…大事なひとと、するべきじゃ…」
「…それが、マサちゃんなの。お願い。あなたのことだけを思ってきた私だから…。
最初だけは、あなたになって欲しいの。お願いだから…」
ミサキは、引き下がらない。マサヒコは…とうとう、折れた。
「わかった…でも…途中でお前の気が変わったら…すぐに止めるぞ?」
「ウン…じゃあ…マサちゃん、あたし…お風呂に入ってくるから…」
「ああ…」
£
そして冒頭のシーンへと戻るのである。
(しかし…俺は、なにをやってるんだ?)
先ほどからマサヒコの頭の中には疑問符だらけだった。
幼馴染みとホテルに入り、不毛な…一度限りの関係を結ぼうとしている。
目の前の現実は常識人である彼にとってあまりに不条理なものに感じられていた。
(今なら…今なら…)
"カキーーーーーーン"
画面では代打の鈴木健がダイエーの工藤から凡フライをあげたところだった。
(戻れる…そうだ、ミサキだって風呂に入って頭を冷やせばこんな馬鹿げたこと…)
"ガチャ"
「お待たせ…マサちゃん」
バスローブを羽織ったミサキが姿を現した。
「あ、ああ…それでさ、ミサキ…」
「あなたも…お風呂に入って」
「う…うん」
切り出そうとはしたものの、ミサキの先制攻撃に結局なにも言えずただ従うマサヒコ。
"ざああああああああ…"
マサヒコは、シャワーで身体を流していた。特に汗をかいたわけではなかったが…。
それでも、ずっと体に残っていた奇妙な疲労感が少しだけ、やわらいでいた。
(…なんで…)
こうなっちゃったんだ?とマサヒコは今日何度目かの自問自答を繰り返していた。
§
だが…当然ながら、答えなど出ない。
(さっきはダメだったけど…風呂からあがったら、やっぱりミサキに言おう。
こんなのは…こんなのは、やっぱり止そうって…)
長かったのか、短かったのか…もはや時間の感覚も無くなり始めていた。
マサヒコは、のろのろと風呂からあがり、脱衣場でバスローブを羽織ると部屋に戻ろうと―――
「んっ…んっ…はあっ…」
(?)
部屋の方から、女の声がした。しかし…それは、どう聞いても…喘ぎ声としか思えない声だった。
(な、なんだ?この声…ミサキの奴、AVでも見てんのか?)
不審に思ったマサヒコが部屋へと向かうと…。
「…え?&$#み、みみ、ミサキぃ?!!!」
「んんっ…あッ…マサちゃん…マサちゃあん…」
部屋の中央に陣取る、馬鹿でかいベッドの上でミサキは、全裸のまま自分の性器に指を入れ、
それをかき混ぜるようにして動かしていた。
「み、ミサキ、お、おお、お前!!なにを…」
「…軽蔑した?」
「…え…」
「私は…あん…ずっと前から、毎日あなたのことを思って、んっ…こんなことをしてたの。
勉強の合間、毎日…はんッ…あなたの部屋の灯りを見ながら…あっ…こんなことをしてたの。
あなたにいつか抱かれることを思い描いて…ひとつになることを思って…こんなことをしてたの」
言葉をつなぎながら、ミサキはその行為を止めようとしなかった。
目の前の幼馴染みの少女は…頬を染めながら、マサヒコのまるで知らない女性のように、
いや、どこかの売春婦のように…淫蕩な笑みさえ浮かべながらその行為に没入していた。
「み、ミサキ…なにを…ヤケになるのは、やめ…ろ…」
思わず後退るマサヒコだったが…。
「逃げるな!」
今まで聞いたこともないような――鋭い、命令口調のミサキの声に立ちすくんだ。
「ずっと…ずっとあなたは、あん…逃げてきた…私のことから、逃げてきた。
ダメならダメってさっさと言ってくれれば…んッ…そうすれば、私だってもっと早く立ち直れたし、
こんなに傷つくことだってなかったのに…あなたには…責任があるの。だから…見なさいッ!」
その言葉に…凍り付いたように、マサヒコは動けなくなっていた。
(そうだ…そのとおりだ…俺は…ただ逃げて…結局、ミサキをこんなに深く、傷つけていた…)
「あッ…んんっ…マサちゃん…」
ミサキは、人差し指を膣に突き立てていた。彼女が指を動かすごとに…湿った音がした。
"ちゅ…ぴりゅ…"
「あ、んぅ…ぁあッ!」
指を根元まで押し込んだ状態で、ミサキは親指でクリトリスを圧迫する。
敏感な突起物をぐりぐり、と弄びながら…乱暴に押さえつけながら…ミサキは、声をあげていた。
「あっ…マサちゃん…そこ…イイ…あぁんッ、いいのぉ!」
恐らくミサキの頭の中では今、マサヒコが自分を犯しているという妄想が広がっているのだろう。
少し芝居じみた言葉が――それを、呆然と眺めているマサヒコを攻めるように、こぼれていた。
空想上のマサヒコはなおもミサキのクリトリスを荒々しく嬲り、さらに中指を一本追加してきた。
二本の指に犯され、肉の芽を弄られ―――
ミサキはベッドの上でびくん、びくんっと腰を震わせて悶え続けた。
「あ…んんっ…まだ…もっと…マサちゃん…」
やがてミサキは完全に仰向けになり…さらに見せつけるように…両足を曲げ、そこを開いた。
マサヒコからは、完全に彼女の陰部が丸見えとなった。
「ああっ…いい…もうすぐ…私…あんっ…」
溢れるほどに愛液をたたえた膣内に再び指を二本ねじこみ、えぐるようにミサキは動かしていた。
"じゅう…じゅぷっ…"
淫靡な音が部屋に響き渡り、愛液が飛び散ってベッドの上に撒き散らされる。
ふくらみかけの自分の乳房に手をかけ…激しく、揉み始めた。
「あああっ…はぁん…私…いく…いくぅぅぅぅうッ!」
ずぶり、と二本の指を奥深くまで突き入れたミサキは、
獣のような声をあげてベッドの上で一回、二回と…激しく、跳ね上がった。
絶頂に、達していた。
§
「はあ…ああっ…」
涙を流して…疲れ切った顔をして…悲しそうな目で…ミサキは、息を吐いていた。
「ミサキ…」
「軽蔑したでしょ?嫌いになったでしょ?もう…いいよ…もう…うっ…わああああ…」
そして、ミサキは号泣しはじめた。そんな彼女の様子を呆然と眺めていたマサヒコだったが…。
突然、意を決したようにミサキのそばに近づくと…その太ももに手をやり、
そこを再び開くと顔をその間につっこんだ。
「え?ちょ、え?ま、マサちゃん!!!?」
突然の彼の行為に慌てるミサキだったが…マサヒコはそのまま、ミサキの陰部に口をつけた。
"ちゅるっ…"
マサヒコの舌が、ミサキの肉唇を撫で上げた。
「あっ…ダメ…どうしたの…マサちゃん…」
「軽蔑なんて…すると思うか?俺だって…俺だって、お前のことが好きだった…」
「え…」
「でも…それでも、俺は…もう、先生と一緒に…いるしかないんだ。お前を傷つけたのは、
全部俺のせいだよ。だから…責任はとる…いいな?ミサキ…最後だから…
今日は、手加減なしでお前を愛する。俺の人生で、最初の最後の、本気の浮気だ」
そう断言すると…再び、ミサキの股下に顔を埋めて陰部を舐めるマサヒコ。
両手でしっかりと彼女の太ももをつかみ、必死に舌を上下に往復させる。
「あっ…ああ…いい…あん…」
ミサキは、マサヒコの頭を押さえつけながら空に向かって喘ぎ始めた
(どうしてだろう…悲しいのに…最低な気分のはずなのに…嬉しい…)
ずっと、夢に見ていた。マサヒコと愛し合うことを。それが、こんな形で叶った――。
そのことを、悲しみながら、それが今日一回きりの交わりだと知りながら…。
ミサキの体は、マサヒコの口戯に激しく反応し始めていた。
"ずっ…じゅううう…"
「あっ!そこ…そこは…あうっ!」
マサヒコの舌が既に先ほどの自慰で肥厚した肉の芽に触れ、そこを吸い取るようにしたとき――
ミサキはその刺激に思わず鋭い声をあげ、大量の愛液が膣穴から溢れた。
"じゅるう…じゅっ"
その蜜を、愛おしそうにマサヒコは全て吸い、口の中に含んだ。そのままマサヒコは、
肉の襞の細部まで確認するかのように…ぴちゃぴちゃと淫靡な音をたてながら、
ミサキの股間を舐め続けていたが、舌をなだらかに下降させ…ミサキの菊門へとたどりついた。
「!い、いやッ!…そこは…汚いから…だめぇッ!」
恥ずかしさから思わず逃れようとするミサキだったが…。
「お前のからだに…きたないところなんて…ない…」
マサヒコは呟くようにそう言うと、強引にミサキの体を引き寄せ、尻肉を開き…
舌先で、菊花の襞をなぞるように舐め続けた。
「あっ…くあっ…ダメ…あ…ん…」
ミサキは生まれて初めての刺激に…ぞわぞわと、肌が粟立つような感覚を覚えながら、
やがてその甘い感触に徐々に体が蕩けていくような気持ちになり…
とうとう、臀部にこめていた力をふっ、と抜いてしまっていた。
"ぴちゃ…ぷる…びちゃ…"
菊穴を、肉唇を、肉の芽を…縦横無尽に、マサヒコの舌が嬲っていた。
「あ…ああっ…イイ…そこ、いい…あん…やあ…気持ち良いの…イイのお…」
既に正気を失ったミサキは、彼の愛撫に完全に心を奪われ、快楽の声を上げ続けていた。
「ミサキ…可愛いよ…だから…俺のも…」
マサヒコはバスローブを脱ぎ捨てると、そこから怒張しきった自分のペニスを取り出した。
こくん、とミサキが短く頷き…マサヒコは彼女の上に跨るようにして体の向きを変えた。
自分の目の前に突き出された勃起したペニスにミサキが手を添える。
(これが…マサちゃんのおちんちん…)
初めて見る男性のペニスを凝視するミサキ。
ピンク色と黒の中間のような…少し、くすんだ肉色をしたマサヒコのペニス。
おずおずと、しかし、愛おしそうに…それを、口にくわえた。
"ちゅ…じゅう…ずるっ…"
§
シックスナインの体勢で、ふたりはお互いの性器を舐め続けた。
(あ…んんっ…スゴイ…気持いい…それに…マサちゃんの…あたしの口の中で…
ぴくぴく震えるみたいに動いて…大きくなって…)
ミサキは、下半身に加えられる刺激と快楽に必死で耐えながら…マサヒコのものをしゃぶり、
舌だけでなく唇や手で…睾丸を揉みしだいたりしながら、出来る限りの奉仕を続けた。
(うあ…すごく…ミサキの口ん中…うわ、ネバッとして…熱くて…気持いい…)
マサヒコも、小振りな彼女の口内で自分のペニスが幾度も搾り取られ、
愛されるたびに、凄まじい快楽が押し寄せるのを必死で耐えていた。
「…ミサキ…そろそろ…」
お互いの性器を味わい終えると…マサヒコは、ようやく元の体勢に戻った。
「う…うん。お願い…」
そして、恥ずかしげにミサキが股間を開くと…マサヒコは、その間に腰を据えた。
「じゃ、じゃあ…いくよ?本当に…いいんだな?」
まだ躊躇の色が見えるマサヒコだったが…。
既にそれまでの前戯で完全に身も心も蕩けていたミサキは、
「来て…お願い…早く来てえッ!」
と首を振りながら、淫らな要求を叫んでしまっていた。
"ず…ぬうッ…"
マサヒコのペニスが、ミサキの濡れた肉を割って入っていく。
「ああッ!ひ!ひぐぅッ!」
初めてこじ入れられる肉棒の感触と、下半身を直撃した激痛に涙を流して声をあげるミサキ。
「あ…あの…ミサキ?」
「いいから…もっと…」
「でも…」
「…優しくしたって、許さないから」
「…」
「あなたとのことは忘れるよ。…でも、今日のこと私は…一生、忘れない。
あなたも…忘れられなくなるでしょう?ずっと…ずっと思い続けた私の思いを踏みにじって、
それでも…あなたは、私から去っていく。だから…もっと強引に、無茶苦茶に私を犯してよ。
私はね、マサちゃん…そんなことを思ってる、最低な女なんだから。優しくする必要なんて、
ないんだから…これは、私の…あなたへの、復讐なんだから…」
「ミサキ…」
話の内容こそ、残酷なものだったが…今、自分の下に組み敷かれている少女の顔は、
涙を流し、頬を赤く上気させ――可憐そのものだった。可愛かった。
(ミサキ…お前…わざと…)
わかっていた。この子のことなら、誰よりも…わかっていた。こうでも言わなければ…
自分が、怖じ気づいてしまうであろうことも、全て知りながらこんなお互いを傷つけるようなことを
言っていることくらい、わかっていた。
「わかった…ミサキ?」
「…なに?」
「好き…だった。本当に。愛して、いた…」
「…」
ミサキは、目を閉じた。知っていた。誰よりも、マサヒコが自分のことを気遣っていたことを。
そして、誰よりも…マサヒコが、自分を信頼していたことを。
"ずぅっ…ぐしゅっ…"
「あ…ああッ!ふぅ―――っつ、はああ!!はぁ―――っ」
マサヒコのペニスで膣の粘膜が広げられ、痛みと圧迫感と深い充足感がないまぜになった
感情にミサキは喉の奥から卑猥な喘ぎ声を漏らし、マサヒコにすがりついていた。
"ずるっ…ぬ!ぬぅ…るぅ…"
マサヒコはゆっくりと…ゆっくりと、腰を送り込み、ペニスを奥まで突き入れた。
「ミサキ…ミサキの、奥まで…入った…」
「わかる…マサちゃんのが…あたしの中で…奥に…ある」
「ウン…行くよ?ミサキ」
「はい…」
マサヒコはふたりの合体の具合を確かめるように、力を込めてくいっ、と動かした。
§
その瞬間―――。
「あッ!ああああああッ!はああ―――ん!」
子宮に鋭い快感が走り、ミサキは長い声をあげた。
マサヒコは無言でミサキの上に屈みこんで唇を重ね、自分の唾液を送り込んだ。
"ぐ…ごくっ…"
喉を鳴らし、それを呑み込むミサキ。その様子を確認すると、
マサヒコはゆっくりとピストン運動を再開させた。
"ずる〜〜、ぬちゅ…、ぎゅっ"
突き上げるようにマサヒコのペニスがミサキの子宮口をつつく。
そのたびにミサキの下腹部にはびくん、と強い刺激が広がり、
「むぅ…はぅ――、う…ぅうん…」
口からは甘い喘ぎ声が漏れた。
やがて彼女がようやく痛みから解放されたらしいことを確認したマサヒコは、
今度は体を軽く起こし、割り広げた太ももをつかむと一回一回角度を変えながら、
膣の奥をえぐるように…突き刺すように、挿入し始めた。
「あ…ひっ…あああ!あッ…」
痺れるような刺激に体を震わせるミサキ。
"ぽた…"
(え?…汗?)
突然自分の頬に落ちた、なにかの感触に目を開けるミサキ。
(あ…)
マサヒコが、泣いていた。ミサキをずっと見つめながら…泣いていた。
「マサちゃん…」
(そうだ、この人は…本来、こんなことを一番嫌がる人だった。優しくて、ウソがつけなくて、
人一倍周りに気を使って…それでも、今日、何度もためらったけど…私を抱いてくれた…)
そんなことを思い、ミサキは…微笑んでいた。
今日、初めて自然に笑うことのできた…笑顔だった。
「…ミサキ?」
「泣かないで…マサちゃん…」
「…」
「全部ね、私のワガママだったの。…知ってるよ。あなたはこんなことできるような人じゃないって。
でもね…最後だから、あなたと…私の…16年間を、終わりにしたかった。
キレイな終わり方じゃなくていい…かっこつけなくていい…あなたのことを、好きな…
大好きだった、私で終わりたかったの。ゴメンね…マサちゃん…」
「ミサキ…俺…ゴメン…」
「いいよ…だから、最後に…私と、ひとつになって?」
「ウン…」
再び、唇を重ねるふたり。その唇の感触は、ひどく冷たかった。
"じゅ!ずッ!ずるぅ〜〜〜〜ぐっ!"
「あッ!ああッ!好き…マサちゃん…好きぃいいいい!」
「好きだ…俺も…好きだ…ミサキ…」
ふたりは、泣きながら交わっていた。お互いに、涙を流すたびに…声を上げるたびに、
悲しくなりながら…そこは、貪欲にお互いをむさぼりあうように、蠢いていた。
「あ…マサちゃん…あたし…いく…もう…ああッ…」
「ミサキ…俺も…もう…ああッ」
ミサキは、下腹部に熱い快感の塊が急速に膨張していくのを感じていた。
そして――マサヒコのペニスが、何十回目かに膣の奥まで深く打ち込まれたとき…。
「あっ!ああああッ!あ―――っ…あ…」
体を弓なりに反らして、ミサキは絶頂に達していた。そしてマサヒコも…。
"ずる…"
ミサキの中から、ペニスを引き抜くと…。
"びゅうっ!びゅわっ!"
たっぷりと、彼女の白い腹に幾度も幾度も射精した。
(あ…ああ…止まんねえ…こんなに…)
それはマサヒコ自身が驚くほど…何度も青白い精を吐き出したまま、終わろうとしなかった――
§
「なあ…ミサキ、本当に、大丈夫か?」
「うん…大丈夫だよ…今日は、本当に…ありがとう、小久保君…」
呼び方が、かつてのものに戻っていたことにマサヒコは気付いた。
ふたりは、天野邸の前で、最後の別れの時を過ごしていた。
「ああ…じゃあ…」
「…ねえ、小久保君?」
「…なんだ?」
「もう会わないとかは、止めようね…まだ…私たちは…友達だよね?」
「ウン…そうだな…」
ふたりとも、そんな言葉がひどく薄っぺらなものであることに気付いていた。
それでも…そう言わなければならないことを、知っていた。
「じゃあ…天野…」
「うん…さよなら…小久保君…」
ミサキは、彼の後ろ姿が…向かいの、小久保邸の中へと吸い込まれるまで、ずっと見つめていた
£
「ただいま…お母さん…」
「お帰りなさい、ミサキ…ご飯は?」
「…いらない。食べてきたから…」
「そう…」
お母さんの目が見れない。自分の歩き方が変じゃないか…それだけに集中してしまう。
(ごめんなさい…お母さん、今日私は…女の子から女になりました。
大好きだった…マサちゃんに、抱かれてきました。でも…それは今日限りで…)
気を抜くと涙が出てきてしまいそうで、私はそれをこらえて顔をあげた。
お母さんは…笑顔だった。とても、哀しそうな笑顔だった。
――このひとは、今日なにが私とマサちゃんにあったのか、全部お見通しなんだ――
多分…それは本当のこと。きっとお母さんは…そのことを知りながら、笑ってくれている。
それ以上そこにいると崩れ落ちてしまいそうで…お母さんに、抱きついて泣いてしまいそうで…。
私は、急いでそこを通り過ぎて、部屋に行こうとした。
「ミサキ?」
「なに?お母さん」
「部屋に…人が待っているわ。あなたの帰りを…ずっと、待ってくれていたわ…」
「…うん」
それが誰なのか、私にはわかっていた。振り返らないように…こんな情けない顔を、
お母さんに見せないように…私は急ぎ足で階段を上ると自分の部屋の前に来た。
"ガチャ"
ノックも無しにドアを開けると、そこには彼女が腕を組んで、立っていた。
「ただいま…わかた…」
"パシーーーーーーーーン!"
その言葉が終わらないうちに、鋭い衝撃が頬に走って目の前が真っ白になる。
彼女は…若田部さんは、平手打ちで一発私の頬を張ると、泣きながら私を抱き寄せた。
「…会ってきたのね?」
「…ウン」
「抱かれて…きたのね?」
「…うん」
「…どうして…そんなことをしても、もうどうにもならないって
あなたが一番良くわかっているはずなのに…それなのに…どうして…」
「…意地、だったのかな…」
「…意地?」
「ずっと…ずっとね、私はマサちゃんのことが好きだったの。
世界で…私ほど、あの人を愛して、理解してる女の子はいないって…今でもそう思ってる。
だから…あの人の心が、私にじゃなくてアイ先生にあるっていうのも…つらいけど、悲しいけど…
わかっちゃうんだ。だけど…わかるのと、納得できるのは別だったの。
だから…私が、ずっとマサちゃんを好きだったことを、自分で自分に納得させるために…
どうしても、今日抱かれなきゃいけなかったんだ…」
話しながら、私は自分がどんどん冷静になっていくのがわかった。
§
あれは…もう過去のものだった。忘れることも、消し去ることもできないけれど、
間違いなく…今はもうどこにもないものだった。
若田部さんは――ずっと泣き続けながら、私を抱きしめていた。
彼女の頬を伝って、幾粒もの涙が私の胸元に落ちる。その熱さに私は戸惑っていた。
「馬鹿…」
「…なぜ…そんなに泣いているの?」
「あんたたちが…見てられないからよ。だって…今でも、一番の理解者なんでしょう?」
彼女の言うとおりだった。彼の苦手なもの、好きなもの…全部、私は知っていた。
私の頭の中に、彼のほとんど全てがあるはずだった。
でも…その中に、未来は無かった。未来だけが、無かった。
「若田部さん…」
思い出したように突然、私の目から涙が溢れた。それは止めようとしても止まらず…
思わず、私のほうから彼女を抱きしめていた。彼女のからだは柔らかくて、あたたかかった。
「馬鹿…あんたたち、馬鹿よ…お互いが一番の理解者だってわかってて…それなのに…」
若田部さんは、繰り返しそんなことを言いながら泣き続けていた。
どれくらいそうしていただろう―――。やがて、彼女が顔をあげて私を見つめた。
涙と鼻水で顔を汚していても、やっぱりキレイなひとだなあ…。
なぜか私はそんなことを思っていた。
「いい?天野さん、見返してやるんだからね!」
「え?」
「あんな鈍チンで、たいして頭も良くなくて、優柔不断のアホマサヒコのことなんて
さっさと忘れてとびっきりのイイ男を見つけるの!どっちが先に見つけるか、勝負だからね!」
「…」
私は思わず無言で微笑んでいた。怒ったような口調だったけれど、
それが不器用だけど本当はとびきり優しい若田部さんなりの励まし方なのがわかっていた。
勝負…そうだ、初めてこのひとと会ったときもそれがきっかけだった。
あの頃は、こんな風に仲良くなるなんて思いもしなかった。
今は、思う。多分…このひととはずっと友達で、私の…大切なひとだ。
「なに余裕で笑ってるの!いい、見てなさい!
あなたも小久保君も、びっくりするくらいの男をつかまえてやるんだから!」
「私も…負けないよ!若田部さん。だってこれは…」
「「勝負!なんだから!」」
私たちはキレイにそのセリフをハモった。
ふたりとも涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら…笑いあっていた。
END