作品名 作者名 カップリング
「LOVE PHANTOM」 クロム氏 -

分かっている。
それは幻影。手を伸ばしても触ることはできない。
なのに。
なのに、私はこの幻影から逃れられない。
触れられないと知りながら、また手を伸ばす。
叶わない思い。願ってはいけない夢。
苦しい。
いっそ、何もかも消えて無くなってしまえばいいのに。


「…だからここはこう訳すの」
「あ、そうか。うーん、どうも分かりにくいんですよね」
「フフ、まあゆっくりやればいいよ」
いつもの家庭教師の風景。珍しく、的山リンコ・中村リョーコのコンビは一緒ではない。
それ故、いつもは脱線しがちな授業も、実にスムーズに進めることができた。
「じゃあ、次はこの問題を解いてみようか」
「わかりました」
彼は指定された問題に真剣な面持ちで取り組んでいる。
私は、その様子をそっと盗み見る。
まだあどけなさを残しながらも、整った顔立ち。
男と呼ぶには、やや華奢な体付き。
くせのない、サラサラの黒髪。
…全部、同じだ。私の中に住んでいる幻影と。

いつからだろう。私の中の女の部分が、彼を一人の男として意識するようになったのは。
彼の何気ない仕草や言葉に、鼓動が速くなる。
彼が笑いかけてくれるたびに、胸が苦しくなる。
今まで経験したことのない、不思議な感情。
初めは、弟ができたらこんな感じかな、と思っていた。
確かに、年齢的にも姉弟といって差し支えないし、彼みたいな弟が欲しいと思っていた。
だけど、気付いてしまった。それが決して、兄弟に対する感情なんかではないことに。
それは、もっと浅ましい、本能のままの淫らな感情だった。
彼に触れたい。彼の体温を感じたい。
ある意味もっとも単純な、女としての願望が私の中にある。
そのことに気付くまでに、大して時間はかからなかった。
そしてそのころから、私の中に彼の幻影が住み着くようになった。
幻影は、私だけを見てくれる。私だけに笑いかけてくれる。
彼の顔で。彼の声で。



「…先生?…先生!」
彼の声にハッとする。
「問題、解けましたけど…大丈夫ですか?」
彼が心配そうに私を見ている。
「う、うん。大丈夫。ごめんね、ちょっとボーとしちゃった」
「ならいいんですけど…。先生、疲れてるんじゃないですか?
就職活動とかで大変なんでしょうけど、たまには休んだ方がいいですよ?」
「うん、ありがとう。本当に大丈夫だから。さあ、残りの問題やっちゃおうか!」
白々しいくらいに明るい声を出してその場をごまかす。
幸い、授業はその後何ごともなく終了した。
「うーん、やっぱり中村先生がいないと、授業がはかどりますね」
その言葉に苦笑だけで答え、玄関に向かう。

「じゃあまたね」
「はい、ありがとうございました。……あの、先生」
呼び止められて振り返る。
「あの…本当に無理だけはしないで下さいね。さっきも言いましたけど、たまには休んで下さいよ」
「うん、ありがとう。本当に大丈夫だから。ごめんね、心配かけちゃって」
そう残して小久保家を後にする。
帰宅の道中、彼の言葉を思い出す。
『無理だけはしないで下さいね』
生徒に心配をかけるなんて、家庭教師として失格だ。
でも、それ以上に、彼が私の身を案じてくれたことが、嬉しかった。
分かっている。
彼は優しいから。
あの優しさは、私だけに向けてくれるものなんかじゃない。
それでも、彼の優しさに心がうかれる。
何気ない言葉に、身体の奥が暖かくなる。
ささやかな幸せを感じながら、私は一人、暗くなった空の下を急いだ。


下宿のアパートに到着し、自室のドアを開ける。
(お帰りなさい、先生)
「マサヒコ…君…」
そこにいたのは、先程別れの言葉を交わした少年、その幻影。
また、だ。一人になると、彼の幻影が現れる。
(先生、疲れてるんじゃないですか?無理だけはしないで下さいね)
彼の声で。さっきと同じ、心配そうな表情で。
幻影は私に話しかける。
だけど。



「あっ…」
伸ばした手が、彼に触れることはない。
手を伸ばすたびに、幻影はフッとかき消えてしまう。
「・・・」
分かっている。
これは私が、私の願望が作り上げた幻影。触れることなどできない。
分かっているのに。
触れられないと知っているのに。
一人でに涙が流れた。
彼の優しさに触れたから。
彼の優しさを、直に感じた直後だから。
…彼が、好きだから。
だから一層、辛い。苦しい。
すぐ側に、彼がいるのに。見てきたままの彼が、笑いかけてくれるのに。
「マサヒコ君…苦しいよ…君に、触れないことが…」
胸の内で次第に大きくなる、ごまかしようのない思い。
その思いに、押し潰されそうになる。
いっそ、伝えることができたなら、どんなに楽だろう。そんなことを考える。
伝えてはいけないと知っているのに。
彼には、彼のことを思ってくれる幼馴染みがいる。
本当に仲のよい、友人たちがいる。
『いつまでもみんなと一緒にいられればいいなって』
一緒に初詣でに行った日、彼はそう言った。
もし伝えれば。
どのような結果になるにしても、彼のささやかな願いを壊してしまう。
私にそんな権利は無い。自分のために彼を傷つけることなどできない。
自分にそう言い聞かせてきた。
そう言い聞かせることで、込み上げて来る感情を押し殺そうとした。
なのに。
自分の感情を押さえ付ければ押さえ付けるほど。
幻影は、一層甘く、私に囁きかける。
(先生、何でそんなに苦しそうなんですか?
オレも、先生のこと大好きですよ)
「やめて!!」
悲痛な叫びと共に、幻影を追い払う。
無駄だった。少し離れた所に、新しい幻影が現れる。
(オレも、先生に触れたいです)
「嫌!!」
耐え切れず、耳を塞いでしゃがみ込む。



だけど、彼の声は、私の内側から響いてくる。
(先生も、オレのこと好きでいてくれるんでしょう?何でそんなに苦しむんですか?)
この声は、私の願望。私の本当の気持ち。
私の心の一番深い所が、彼に望む言葉。
でも、彼の幻影がその言葉を口にするたびに、私は傷ついていく。
(先生、オレ、先生を抱きたいです)
「マサヒコ…君…」
逆らえなかった。
服越しに、自分の胸に触れる。
もう何度も繰り返してきた行為。私は、妄想の中で彼に抱かれる。
「あっ…ああ」
乱暴に胸をまさぐる。「ああぁ…マサヒコ…くぅん…」
(先生、可愛いですよ)
幻影の声が、私の理性を奪っていく。私は服を脱ぎ捨て、妄想の中の彼に身を委ねる。
「あっ、あっ、ああん!」
彼の指が、舌が、私の体を這い回る。
「あっう、あうっ、あぁぁ…!」
指が一人でに下腹部の方に伸びていく。
(先生…気持ちいいですか?)
「あっ、あっ、マサヒコ君…!気持ちいい…気持ちいいよぉ…」
(フフ、イキそうなんですね、先生)
「はうっ…はぁ、はぁ…うん、イクっ…あっあっあっ…はあああぁぁっ!!」
達してからもしばらくの間動けなかった。
「マサヒコ君…」
すぐ側で、幻影が笑っている。
涙は、止まらなかった。


数日後。私は一人、街をうろついていた。
相変わらず、幻影は私を苦しめている。
一人で家に居たくなかった。人の大勢いる場所なら、あの幻影は現れないから。
特に目的も無く、ただただ歩き回る。
どのくらい歩いていただろう。
「あっ…」
かなり前の方を、彼が歩いていた。幻影ではない、本物の彼が。
「おーい、マサヒ…こ…く…」
彼を呼び止めようとした声が、途中で立ち消える。
彼の隣りを、ミサキちゃんが歩いているのに気付いたから。
二人が並んで歩いている所を見たのは初めてではない。
彼女が彼のことを思い続けていることも知っていた。
だから、彼らが仲良くしているのを見るのは、喜ばしいことのハズだった。



なのに、今の私には、その光景が耐えられなかった。
彼が、他の女の子と楽しそうにしているのが、我慢できなかった。
その後のことはよく覚えていない。いつの間にか、自宅にたどりついていた。
(お帰りなさい、先生)
いつものように、幻影が私に語りかける。
(どうしたんですか?元気がないですね)
優しい、彼の声。微笑んだ、彼の姿。
だが、手を伸ばしたとたん、消えてしまう幻影。
それが…彼に触れないことが、今の私には辛過ぎる。
「嫌・・・嫌っ・・・嫌ぁ!!!」
狂ったように泣き叫ぶ。もう、耐えられない。彼の側に居ることが。
触れられない幻影に、涙を流すことが。

私は電話を取り、ボタンを押す。
「ハイ、小久保です」「あ、お母さん…私、濱中です」
「ああ、アイ先生。どうしました?マサヒコなら出かけてますけど」
「いえ、いいんです…」
「どうしたんですか?何だか元気がないみたいですけど」
私の声に、何か普段とは違う雰囲気を感じとったのだろう。
心配そうな声が受話器から聞こえる。
「いえ、何でもないんです。あの…大変勝手なんですけど、
家庭教師の契約を解除して頂きたいんです…」
「えっ、ちょっと待って。どういうこと?まさか、マサヒコが何かしたの?」
「いえ、違うんです。私が一方的に悪いんです…」
悪いのは、私。彼を好きになったから。
「何か事情があるんでしょうけど…話してはもらえないの?」
「ごめんな…さい…。何も、聞かないで下さい。
それから、マサヒコ君に…ごめんねって伝えてください」
それだけ言うと、電話を切った。
これでいい…これで、もう苦しまなくて済む。
(なら、どうして泣いてるんですか?)
「えっ…?」
目元に手をやる。
…私は、泣いていた。これでいいはずなのに。
これでもう、苦しまなくて済むはずなのに。
諦めれば、全部よくなるはずなのに。
彼に会えないから?
彼の声を聞けなくなるから?
彼の優しさに、触れられないから?
分からない。何も、分からない。
私は、その場に泣き崩れた。



どれくらいそうしていただろう。
気がつくと辺りは真っ暗になっていた。
泣き腫らした目が、痛かった。
明かりを点ける気にもなれず、その場に座り直す。
私の全身を、言い様のない嫌な感覚が包んでいた。
後悔。喪失感。自己嫌悪。
そういったものが、ごちゃまぜになって私に纏わりつく。
(大丈夫ですか、先生)
彼の幻影。諦めたはずなのに、何故、消えてくれないのだろう。
…もう、どうだっていい。何も考えたくない。

ピンポーン

遠くで、チャイムの音が響いている。
今は、誰にも会いたくないのに。
再び、チャイムの音が響く。
私はノロノロと立ち上がり、ドアを開けた。
「マサ…ヒコ…くん…」
彼がいた。
いつもの優しい表情を、今は悲しげに曇らせて。
「先生…母さんから聞きました。何があったのか、話してくれませんか?」
優しい彼の声が、私の中に入り込んでくる。
それはとても心地よくて、私に纏わりつく嫌なものを取り去ってくれる。
だけど。
「帰って!!」
叫んでドアを乱暴に閉めた。
今会えば、また辛くなるから。
触れられない苦しさに、また耐えなくてはならないから。
もう、諦めたんだから。
「帰りません。少なくとも、先生が理由を話してくれるまでは。
確かにオレは良い生徒じゃないかもしれないし、
知らない間に先生を怒らせたかもしません。
だけど、オレは…オレには、先生が必要なんです!」
ドアの向こうから、彼の声が聞こえてくる。
「先生…オレにできることなら、何でもします。
勉強だって、もっともっと頑張ります。
だから、やめるなんて言わないで下さい!」
違う。違うのに。
悪いのは、全部私なのに。



気が付くと、私はドアを開けていた。
「先生…」
今にも泣き出しそうな声で彼が呟く。
今更彼に会って、何を言えというのだろう。
だけど、このまま何も言わないでいるのは、フェアじゃない気がしたから。
あまりにも優しい少年に、失礼な気がしたから。
「…入って」
私は彼を、明かりの無い部屋に招き入れた。
暗闇の中に、彼のシルエットが浮かび上がる。
「先生…電気、点けましょうか?」
「ううん、いいの」
「あの、先生…聞かせてもらえませんか。何で急にやめちゃうのか。
先生に事情があるなら仕方ないですけど…
オレ、さっきも言ったけど、先生にやめてほしくないんです」
悲しそうな、でも、優しい声。
…私の、大好きな声。
私は語り始めた。
彼に抱いていた思いを。
彼に触れられなかった辛さを。
伝えられなかった苦しさを。
語りながら、泣いていた。
押さえ付けてきた思い。
押し殺してきた感情。
いろんなものが、涙と一緒に流れていく。
「ごめんね…本当にごめんね。こんなこと言ったって、
マサヒコ君を苦しめるだけだって、分かってるのに」
「先生…」
シルエットが動く。彼が私を抱き締めた。
「マ、マサヒコ君…?」
驚いて声を上げたけど、そこで気が付く。
彼の肩が震えていた。
「マサヒコ君…何で…何で君が泣くの?」
彼は泣いていた。声を殺して。
「オレ…自分が許せないんです。先生が、どんな気持ちだったか…
オレのせいで、先生がどれだけ苦しんでたのか…まったく知らなかったんです」
やっぱりそうだ。彼は、優し過ぎる。
「違うよ、マサヒコ君…全部、私が悪いんだよ。
勝手に悩んで、勝手にに苦しんで…ハハ、これじゃあ家庭教師失格だね。
でもね、もう、君の側にいるのに耐えられないんだ。
君のことが、大好きだから」
「先生…」
「だけどもういいの。全部…全部忘れるから。ごめんね、我が儘言って」
そう言って私は、彼の腕をほどいた。
「話はおしまい。もう、帰って」
忘れられなくなる前に。
そう言おうとした。



「嫌です!!」
彼が叫ぶ。今までに聞いたことのない、悲痛な声で。
「オレは…オレは、先生の側に居ちゃいけないんですか!?」
彼の言葉に何も言えなくなる。
「先生…オレ、確かにガキだし、頼りないかも知れませんけど…先生のことが好きです」
「ウソ…だよ。マサヒコ君優しいから、私に同情して…」
「ウソじゃありません。先生、オレ前に言いましたよね。
いつまでもみんなと一緒にいたい、って。
ミサキも若田部も、的山も中村先生もそうですけど…
誰よりも、濱中先生と一緒にいたいんです」
「本当に…?マサヒコ君…無理しなくていいんだよ…」
「だから、無理なんてしてませんって。
それとも、オレはそんなに信用できないですか?」
少しおどけた口調で彼が言う。
「本当に…?本当に、私はあなたの側にいてもいいの…?」
「逆です、先生。オレが、先生の側にいたいんです」
一番欲しかった言葉。幻影ではない、本物の彼に言って欲しかった言葉。
我慢できなかった。
彼の胸にしがみついて、大声で泣いた。
年下の、弟みたいな少年なのに。
私の方が、しっかりしないといけないのに。
その胸は、あまりに大きくて、優しくて、暖かかった。



「落ち着きました?」
泣き疲れて静かになった私に、彼が笑いかける。
「うん、ごめんね」
「ハハ、先生、今日は謝ってばっかりですね」
そう言って、私の髪を撫でてくれた。
「先生。改めて聞きますけど、家庭教師、続けてもらえますか?」
「…うん。よろしくね、マサヒコ君」
「こちらこそ。よろしくお願いします、先生」
やけに畏まった挨拶に、顔を見合わせて思わず吹き出す。
「フフ、何か照れ臭いね」
「ハハ、そうですね」
彼が笑いかけてくれる。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
「ねえ、マサヒコ君…」
私はそう呟いて目を閉じた。
「はい?どうしたんですか?」
…意味は通じなかったみたいだ。
まあ、こんな鈍い所も含めて、マサヒコ君なんだけど。
「もう!君はホントに鈍いね」
ちょっと拗ねたふりをしてみる。
「な、何ですか、急に」
うろたえてる。
さっきの態度が、ウソみたいだ。
「先せーい、機嫌直して下さいよー」
「…じゃあ、目を閉じて」
「へ?目を閉じれば、機嫌直してくれるんですか?」
…やっぱり鈍い。
でも、そんな所も全部好き。
目をギュッと閉じた彼の唇に、そっと触れる。
思ってたよりもずっと柔らかくて、暖かかった。
その感触が、心地よかった。
「あ……」
彼が、顔を真っ赤にして私をみる。
「次は、マサヒコ君の番だよ」
「…ハイ」
今度は彼が、私の唇に触れる。
そのキスは無器用で、優しかった。
胸が、一杯になった。唇を離して、彼と向き合う。
「これからもよろしくね、マサヒコ君」
涙は、もう流れなかった。


あれ以来、私の前に幻影が現れることはなくなった。
だって私は、本当に欲しかったものを手に入れたから。
彼が、私の側で笑いかけてくれるから。

(fin)

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