作品名 作者名 カップリング
「月明かりとメイド」 264氏 -

――此処は若田部家の別荘。 
恒例のお勉強合宿が行われている最中である。 
後‥半年もすれば受験の季節。 
そのため、いつものおちゃらけた雰囲気はどこへやら。 
終始、真面目に勉強する一同。 
マサヒコの耳には、クーラーと黙々と時を刻む時計の音ぐらいしか聞こえない。 
(…この雰囲気は何か……息苦しいな) 
 視線をノートから離し、ため息を吐く。 
両隣にはミサキとアヤナが陣取り、マサヒコのペンが止まる度、 
もしくは露骨な間違いをした時に、優しくアドバイスを行っていた。 
例えるのなら、家庭教師が二人増えた―そんな感じだ。 
「…さて、そろそろ寝る準備しようか?」 
静まり返ったリビングに、アイの声が響き渡る。 
「…それもそうね。あんまり初日に激しくやるってのもいただけないわ」 
「汗もかいたし…私、お風呂入りたいなぁ」 
「そうだね…。ねぇ、若田部さん…お風呂ってすぐ沸かせる?」 
「ええ。20分もあれば」 
「やったぁ〜!!ねぇ‥ミサキちゃん、アヤナちゃん…一緒に入ろ?」 
「!?なな何で的山さん達と‥私が?」 
「私は……別にいいけど」 
「!!?…いいわ。私も一緒に入る!」 
「よかったぁ…あれだけ大きいと、一人じゃ寂しいもんね♪」 


「…んじゃ、アンタ達が一番目。私とアイが二番。マサがラストね」 
 リョーコは頭を掻きながら、アヤナの顔を見つめた。 
 「‥わかりました。じゃあ二人とも、着替え取りに行きましょう」 
 一礼するアヤナ。彼女のリョーコへの尊敬心は、本物のようだ。 
暫くして、彼女は同級生二人を率いて階段の方へと向かっていった。 
 一気にガランとしたリビング。流石は木造、どことなく涼しい。 
 ただ、床は足の踏み場も無い。 

 ブーン‥ブ〜ン… 

 電灯に群がる羽虫の音が、やけに耳に障る。 
 アイの持って来た虫除けグッズも、効果があまり無いようだ。 
 そんな中、リョーコは椅子に座り、ゆったりとテレビを見ている。 
 マサヒコが覗き込んだ時は、ちょうどドラマのオープニングだった。 
 面倒な事は、全て彼とアイ任せにするつもりらしい。 
 「…何で俺がラストなんですか?」 
机や床に散らばった教材を纏めつつ、マサヒコは 
 タバコに火を点けようとしていたリョーコに尋ねた。 
 確かに‥男一人に女五人なら、普通男であるマサヒコが最初のはずだ。 
「ん?…マサ、こっちに来な」 
タバコを灰皿に置き、手招きするリョーコ。 
 (??そこで言えばいいのに‥何か、ヤな予感がするな…) 


 彼女は全くもって動く素振りがないので、 
 マサヒコはしぶしぶ彼女の座っている椅子まで足を運んだ。 
 「ったく…来ましたよ‥って、うわぁっ!?…なな何すんだ!離せ!」 
 「…少し黙りなさい?‥でないと、このままシメ落とすわよ?」 
 彼女の横に立った途端、いきなり首に腕を回され胸元に抱き寄せられた。 
 簡単に言うと、ヘッドロックの状態である。 
 マサヒコは必死の抵抗を試みたが、彼女が真剣に殺る気だと悟るとすぐに諦めた。 
 無駄な抵抗は身を滅ぼす。そういう事だ。 
 (なっ何だ?まさか…あの言葉には深い意味があるのか?) 
 「…それはね、アンタが風呂場を覗けるように配慮してあげたのよ… 
外へ出て、覗き込んで御覧なさい?三人の美少女達が、生まれたままの姿で…」 
 やはり、中村は中村だ。 
 彼女のメガネが、蛍光灯の光を受けて白く輝く…怪しい位に。 
 「…アンタ、暑さにやられたのか?‥救いようも無い事言ってんぞ」 
この人間を僅かでも思慮のある人だと思った自分を、マサヒコは強く悔やんだ。 
「まあまあ…マサヒコ君も先輩も、ケンカしない」 
テーブルを拭くための布巾を手にしたアイが優しくなだめる。 
台所にいた為、話の内容はほとんど聞こえていなかった。 


きっと聞こえていたら、更に話がよじれていただろう。 
それだけが唯一の救いだと、マサヒコは思った。 
「もう‥結構片付いたね。マサヒコ君でしたの?えらいね〜」 
そう言って、無邪気な笑顔でマサヒコの頭を撫でるアイ。 
 マサヒコは髪と頭皮を通して、アイの手の温度が伝わってくるのを感じた。 
 …心地良い温かさだ。 
 テストの点が良い時も行うので慣れてはいたが、人様の前でされた事はなかった。 
「ちょっ‥止めて下さい!!」 
15にもなると、流石に照れくさいし恥ずかしい。 
 横目でリョーコの顔色を伺うと、口元を緩めて見下すような笑みを浮かべている。 
 「!!…あ〜〜ったく!」 
 「!?ふえっ…」 
マサヒコは両手でアイの右手を抑えた。 
 (!?……スゲェ、やわら‥かい) 
女性の肌の持つ柔らかさと脈動が、神経から脳へと直に伝わってくる。 
普段がどうであれ、思春期には変わりないマサヒコ。 
一気に血が全身を駆け巡り、心臓の音が意識せずとも聞こえてきた。 
(あ、あれ?俺…どうしたんだ?ヤベっ‥汗出てきた) 
「…あ、あのさマサヒコ君…その‥離してくれないかなぁ?私‥恥ずかしいよぅ」 
握っているアイの右手が、段々と熱を帯びていく。 


「あっ!?すすす…すいません!」 
慌てて両手を離すマサヒコ。手は汗ばみ、蛍光灯の光で輝いているように見える。 
目線をアイの顔に合わせると、一瞬だけだったが目が合った。 
その瞬間、アイの体がビクッと震え、もじもじと手をさすりつつ顔を背けてしまった。 
「あの…せ、先生?」 
「は〜いはい、ラブコメごっこを人前ですんな。私に対する当て付けか? 
 続きは、ベッドの上ででもやんなさい」 
業を煮やしたのか、リョーコは手を叩き、感情の無い声で二人を冷やかした。 
「んなっ!?そ、そりゃ…俺が悪かったですけど、そんな言い方しなくたって…」 
「そうですよ、せんぱぁい……グスッ。 
 ワ、ワダシとマザヒコぐんは、ぞんな関係じゃありまぜ〜〜ん!!」 
リョーコの言葉が胸に鋭く刺さったのか、アイ大泣き。 
溢れ出した感情の粒が、頬を伝って床に小さな水たまりを作っていく。 
 (わわわ…ど、どうすりゃいいんだ?) 
マサヒコはどうすればいいかわからず、困惑した眼差しでリョーコを見やった。 
「……マサ、後は任せた」 
リョーコ逃走。末續に勝るとも劣らぬ走りで、階段を駆け上がっていった。 
(…あんのメガネ……) 
静脈が浮き出るほど握りしめた拳に、爪が痛いほどに食い込む。 


だが、今は逃亡犯よりも泣きじゃくるアイをなんとかしなければ。 
 視線を二階から目の前に移す。 
 彼女は、試合敗戦後の高校球児がする礼のような格好で泣き続けていた。 
 (まぁ…とりあえず、こうしてあげた方がいいよな…) 
マサヒコは意を決し、後ろからアイの背中をやさしく撫で始めた。 
「えっぐ…マサヒコ…君……ゴメンね?私の‥せいで…」 
 「いや、悪いのは先生じゃありません…少なくとも。 
ほら、元気出して!!俺…先生の泣き顔なんて、見たくないですから」 
「…うん。ありがとう‥マサヒコ君。私…もう行くね?部屋に戻らなきゃ…」 
 マサヒコの素直な気持ちに励まされ、涙の止まったアイは自分の部屋に戻った。 

綺麗に敷かれたベッドシーツに、幾重もの皺が刻まれる。 
天井を眺めても、頭に浮かぶのはさっきの事ばかり。 
何度ため息を吐いただろうか。 
(まだ‥マサヒコ君の温もりが残ってる…) 
アイは自分の右手を左手で包み込むと、そのまま胸に当てた。 
異性との関わりが無きに等しいアイにとって、 
今自分の心にかかっている霧の正体はわからない。 
ただはっきりとしているのは、それがマサヒコに対する感情だという事だ。 


(迷惑かけたし…何か、お礼でもしなきゃなぁ……そうだ!!) 
ベッドから跳ね起き、手を叩くと持って来ていた自分の鞄へと手を伸ばした。 
「…あったあった!これをマサヒコ君にあ〜げよう♪」 
アイが手にした物…それは――。 
 「お〜〜〜い!!」 
ドンドンと、けたたましく響くドアを叩く音。 
 聞きようによっては、ドアが悲鳴を上げているようにも聞こえる。 
「アイ、アヤナ達あがったから、行くよ」 
「はっ…はい!先輩ちょっと待ってて下さい!!今行きま〜す」 
鞄から着替えとタオルを取り出し、代わりに今まで手にしていた物を大事にしまう。 
 (…マサヒコ君‥あとでね♪) 
部屋を出たアイは、何食わぬ顔でリョーコと風呂場へと歩いていった。 


(…何だったんだろ?‥さっきの汗は) 
3.5人が無言で見守る中、マサヒコはベッドに座り込んでいた。 
両手に目を集中させる。 
 じっとりした汗こそもう無いものの、触れた感触だけは頭から離れない。 
 そんな、感傷にも似た気分だったのだが…。 
いかんせん人でない人々に見張られている為、そこまで浸れない。 
「…仕方ない。よし‥やるか」 
 マサヒコは立ち上がり、人形を動かそうと、まず『ナナたん』の元へ進み出した。 


「…にしても、よく出来てるよな‥これ」 
ぱっと見、本当に生きているような精巧さ。 
クーラーの風が、柔らかくマサヒコと『ナナたん』に当たる。その度に二人の服が小刻みに揺れた。 
「……おっと、何してんだ‥俺」 
マサヒコは、少々『ナナたん』に見とれ過ぎてしまっていた。 
彼女の何を見ているかわからない、空虚な眼差しに吸い込まれたのだ。 
(…いくらすんだろ?‥絶対、高いよな?…流石は若田部家……か) 
一つ大きなため息を吐き、マサヒコは『ナナたん』に背を向けた。 
「いいや…もう。面倒くさいし…」 
(あの…メイド服とネコミミは、若田部の兄貴の趣味なの…か? 
 ……まぁ、そんなこと‥どうでもいいか。‥感傷に浸る気も失せたしな…) 
マサヒコはあきらめ気味にベッドに寝転がると、 
 持って来ていた携帯ゲーム機で遊び始めた。 

「…喉渇いたな。下行って、何か飲み物探してこよう」 
30分もゲームに集中していれば当然の事だろう。 
電源を切り、ヨロヨロと立ち上がる。 
「…ぅおっとっと!?」 
置いていた鞄に躓き、危うく転びそうになったが、辛うじてバランスを取り戻した。 
「あっぶねぇ‥アブねぇ…」 
かいた冷や汗を、左手で拭う。 


 その瞬間、脳裏にある記憶が蘇った。 
―あの時と同じ。…濱中先生の手を握った時と同じ汗の感じがする。 
マサヒコは汗の付いた手の甲を、自分の方へ向けた。 
しかし、目に映ったのは何ら変わりない、いつもの左手。 
(…気のせいか) 
 目を閉じ、注目を逸らす。 
 そして、濡れた左手を着ていたTシャツで擦るように拭うと、扉を開け出ていった。 


台所に下り、冷蔵庫に入っていた麦茶を飲んでいると、 
 マサヒコは、パジャマ姿の大学生二人組と出くわした。 
「おぉ〜、ナイスタイミング!!次はアンタの番よ。とっとと入っちゃいなさい」 
「…いい湯だったよ?疲れが溶け出しちゃう位ね♪」 
二人とも風呂上がりの為か、顔がやや赤い。 
さらに、乾かしたのだろうけれども若干濡れた髪が、色っぽさに拍車を駆けている。 
「…はい」 
 それでも、今の彼には、そんな大人の魅力に気づく余裕は持ち合わせていなかった。 
マサヒコは、空のコップになみなみと麦茶を注ぎ、 
 一気に飲み干すと、急いで部屋の方に引き返していった。 
「マサヒコ君…何か、元気ありませんでしたね…」 
「そうね…私達の寝間着姿でも欲情しないなんて…」 
「いや、先輩‥そうじゃなくて」 
「つーか、アイツの男性機能‥停止してるのか!?」 


「だから…先ぱ*#!?」 
「…分かってるって」 
リョーコはアイの口を片手で塞ぐと、そっと耳元で囁いた。 
「もごっ……ぷはぁ!!…なら、何で助けになろうとしないんですか?」 
慌てて両手で、塞いでいたリョーコの手を取り払うアイ。 
突然の事で興奮状態となった為、多少息苦しそうだ。 
「…アイツはアイツなりに、思春期の長い迷路から 
 抜け出そうと必死にもがいている最中なんだよ。 
私達が手助けしても、きっと一瞬の気休めにしかならない。 
アイ…マサの為を思うなら、今は‥いつもみたいに接してやんな…」 
「先輩…」 
「さて…私とアンタがこれ以上話してもしょうがない。 
 ‥先に寝るとするわ。おやすみぃ」 
アイの肩を軽く叩くと、リョーコは足早に台所から離れていった。 
段々と小さくなる、どこか悲しげなリョーコの背中を見送る。 
 多分、彼女も同じ時期があったからこそ、こんなことを言えるのだろう。 
 本人が過去を話してくれた事は無いが、言葉の端々でそう感じ取れる。 
(…アドバイス‥ありがとうございます、先輩!!) 
アイは何も言わず、右手に力を込めた。 


マサヒコは部屋に戻ると、風呂に入る準備をしていた。 
「…要るのは用意したな」 


着替え一式を脇に抱え、ゆっくりと階段を下りていく。 
不意に手すりの隙間から、誰かの頭が見えた。 
「誰?…あっ、中村先生でしたか」 
「ん…?マサ、どうかした?」 
「いえ…上から頭が見えたんで、誰かなぁって…」 
「ああそう…。なら、おやすみ」 
そう言われて、マサヒコがリョーコの隣を通ろうとした時。 
「…マサ?」 
思い詰めたようなリョーコの声が、マサヒコの耳に入った。 
足を止め、首をリョーコの方に向ける。 
「…何ですか?」 
「………いや、何でも無い。…ガンバンな?」 
「??はい…ガンバリます」 
 目の前にいるリョーコは、どこか頼りなく、彼女らしくない。 
その様子にマサヒコは少し戸惑ったが、とりあえず頷くことにした。 


脱衣場に着くと、マサヒコは着ていた服を脱ぎ、籠に入れた。 
 少し色白の、男性と男の子の間のカラダ。 
 うっすらとついた腹筋が、薄い照明に照らされ体に陰影を作り出している。 
風呂場の扉を開けると、おびただしい密度の水蒸気がマサヒコを出迎えた。 

ザァァァァァ… 

汗でべとついた肌を、滑るように水が流れ落ちていく。 
耳から伝わる情報は、シャワーから放たれた水の音のみ。 


本当は湯船にも浸かりたかったのだが、もう夜も遅いので諦めることにした。 
「…シャンプーはどこだ?」 
 シャワーを止め、余分な水分を払うと、マサヒコは周りを見渡した。 
そして、足元にフランス語で書かれたシャンプーらしき物を見つけた。 
「…別荘もだけど、こういうの見ると若田部って…やっぱ、リッチだよなぁ」 
思わず感慨深くなるマサヒコ。 
ポンプを2回押して溶液を出すと、掌で泡立て髪を洗い始めた。 
(うわ…ハーブの良い香りがするよ…) 
流石、フランス製は伊達じゃない。 
マサヒコの吸う空気は、あっという間にハーブの香りでいっぱいになってしまった。 
(……ところで、さっきの中村先生の様子…やっぱ変だな。 
 何か言いたそうにしてたし……。それに、元気が無いっていうか…うーん。 
わかんねぇ……いいか、まだ分かんなくて。…答えを無理に出す必要も無いし) 
再びシャワーを入れ、髪に付いた細かな泡を洗い流す。 
絡まった紐は無理やり解こうとすると、より難解に絡み合ってしまう。 
それよりは時間をかけ、ゆっくりと一本一本を解いていけば良い。 
排水溝には、マサヒコの髪から流れ落ちた泡が流れないまま溜まっていた。 




廊下の明かりを消した為に月の光が窓から差し込み、 
 白いカーペットに一つの人影を映し出している。 
 「マサヒコ君…入るよ?」 
 アイはマサヒコの部屋の前にいた。 
 一応は他人の部屋なので、恐る恐る扉を開ける。 
「お邪魔しま〜…って、きゃあ!!?」 
案の定、昼間のように出迎えの3.5人に驚いてしまう。 
ただ、いる事は理解していたので、そこまでの大声は上げなかった。 
 声を上げれば、寝ているミサキやリョーコ達に迷惑を掛けてしまう。 
 もう時計は0時を越えていたので、それは避けねばならなかった。 
 (…お、落ち着いて‥私…あ、あれは人形よ?) 
 襲い来る恐怖に怯え、足が竦みながらも必死に立ち向かう。 
「…やっぱり、コワいなぁ。不気味って言うか…」 
部屋は夏を感じさせないほどの涼しさだが、 
 アイの額には恐怖によって生じた微量の脂汗が滲んでいた。 
「え〜と…置く場所、置く場所は……うん!ここでいいわね…」 
時計の載った小物を入れるタンスの上に、 
アイは赤と黄のストライプの包装紙に包まれた『何か』を置いた。 
「…気に入ってくれるかな?」 
瞼を閉じ、マサヒコの喜ぶ顔を思い浮かべる。 
「うん…大丈夫よ……きっと」 


後ろを向き、閉じていた瞼を開く。 
蛍光灯の光が、霞んだアイの視界を半ば強制的に活性化させた。 
「うわぁ!?ま、眩しい!」 
目が眩んだ為、片手で光をさえぎりながら千鳥足で歩き回るアイ。 
 「……ひゃっ?」 
 何故か急に、体が宙を舞った。 

ドテッ!!…ガシャッ! 

「いたたたた……」 
 膝と左手に軽い痛みが走る。 
 少し時間は掛かったが、アイは何かとぶつかった拍子に転んだのだと、 
 突然の事に真っ白になった頭をどうにか働かせ理解した。 
痛みが漸くおさまり、再び目を開ける。 
「……何コレ?」 
右手が掴んでいた、肌色の物体。 
 アイは、正体を確認するため腕を戻した。 
「……ううう腕!!?」 
ギョッとした表情で後ろを振り返る。 
そこには、自分と同じように床に倒れ込んだ『ナナたん』の姿。 
「…これは‥もしかして?」 
上半身を起こし、改めて倒れた人形を見つめる。 
…嫌な予感は的中した。 
人形の右腕が、肘の辺りからごっそり欠けている。 
「…どうしよう?…とりあえず、このままだとマサヒコ君に怒られちゃうよね?」 
夜中に不法侵入、器物破損。 
 前者は、言い訳すれば多分どうにかなる。 
だが後者は、原因がどうであれ弁償は免れないだろう。 


「‥早くしないと、マサヒコ君が戻って来ちゃう!!」 
 アイは、焦りで視線が一定に定まらなくなり始めていた。 
 何度となく千切れた腕を取り付けようと断裂箇所同士をくっつけたが、 
 その度ポロリと欠け落ち、全くもってくっつく気配が感じられない。 
 「…ダメか」 
 欠けた腕を手にしたまま、ガクリと肩を落とす。 
 脳裏に『絶望』の二文字が、色濃く浮かび上がる。 
 …しかし、時間は待っていてくれはしない。 
 直す事が無理だと悟ると、アイは現時点での最良の判断を考えることにした。 

 カチッ…カチッ… 

 静まり返った部屋に規則正しく響く、秒針が時を刻む音。 
 アイの心は、それによって余計にかき乱されていた。 
 心臓の鼓動がドラムロールのように高鳴っていく。 
 周囲の空気に飲み込まれた彼女は、徐々に思考力と判断力を奪われていった。 
「うーん………仕方ない。ちょっと恥ずかしいけど…しょうがないよね‥」 
自分に言い聞かせるかのように、ぼそりと呟く。 
気のせいか、頬は軽く朱に染まっていた。 
「……なら、急がないと!」 
アイは勢い良く立ち上がると、足元の片腕しかないメイドに手を伸ばしていった。 




「ふぅ…気持ち良かったな‥さて、早く部屋戻って寝ないと…」 
マサヒコは、ちょうど脱衣場で服を着替え終わったところだった。 
洗濯したてのタオルが首に当たり、ふわりとした感触が気持ち良い。 
どうやら一階には彼しかいないらしく、台所と風呂場しか電気が付いていなかった。 
(暗いな…) 
風呂場の電気を消し、台所の明かりだけを頼りに足を進める。 

……ドン! 

「!?…何だ今の?」 
マサヒコは、物音がした二階の方をとっさに見上げた。 
薄暗い木の壁が、少し揺れ動いた気がする。 
(…多分、的山あたりが寝ぼけてベッドから落ちたんだろうな…) 
マサヒコは適当な自己解釈で済ませることにした。 
「…そうだ、寝る前にトイレ行こう」 
気分を紛らわす為、吐き捨てるように呟く。 
幸いにも台所の近くにトイレはある。マサヒコは、早足で再び歩き始めた。 

ジャァァァァ… 

トイレの扉が無言で開かれる。ギィと木の軋む音が、何とも不気味だ。 
 トイレから出たマサヒコは、一直線に階段の方へ進み出した。 
(…危ないな。足元見えないし‥) 
手すりを頼りに階段を登っていくマサヒコ。 
何回か転びそうになったが、どうにか無傷で登りきる事ができた。 


「…月明かりか」 
自分の部屋の扉が、窓から差し込んだ薄く柔らかな光に照らされている。 
(…そう言えば最近、星とか月を真面目に見る機会も無かったな…) 
部屋を通り過ぎ、両肘を窓枠に載せるマサヒコ。 
扉を照らしていた光が人の形に切り取られた。 
「‥若田部に出会わなかったら……この景色は見ることも無かったんだろうな…」 
そんな独り言を口に出し、何気なく空を見上げる。 
 目に映るは、ダイヤモンドを散りばめたような星空と上弦の月。 
 (…ちっぽけだな‥俺) 
終始、憂鬱な気分に浸る。 
「…寝よう」 
マサヒコは髪を右手でかきむしり、欠伸をしながらドアノブに手を掛けた。 


 (…う、うわぁ!!?つ‥ついに来たわ。…落ち着くのよ、アイ。 
私は与えられた役割を演じきる…それだけでいいのよ!!) 
そう胸の中で思っていると、アイの前をマサヒコが通り過ぎた。 
 (良かった…気づかれては、いないみたいね…) 
 「‥ん?この人形、元からこんな感じだったけ?」 
(わわっ!?) 
安堵感に包まれかけたアイの目の前に、マサヒコの顔が現れた。 
「気のせいか?顔が‥何となく濱中先生に似てるんだよな…」 


視認出来ないほどの速さでビクッと震えるアイ。 
握りしめた両の手が、みるみるうちに湿っていく。 
(ば‥バレちゃう!マズいよ…もしバレたら、私…) 
頭の中に、怒ったマサヒコが自分を攻める画像が浮かぶ。 
(…ああ!?だ、ダメよ‥マサヒコ君!! 
 そんなことされたら……私、おかしくなっちゃうよぅ…。 
??…何、その縄は?‥えっ!?‥そんなっ!?イヤぁ…) 
…少々妄想が過ぎてしまっているようだ。 

……じゅん 

(…!?) 
突如として、体験した事の無い違和感が彼女を襲う。 
「…今、動かなかったか?」 
薄いかけ布団を腰半分まで被ったマサヒコが、疑いの眼差しでアイを見つめる。 
 (!?あわわわわ…) 
我にかえったアイは、全力を尽くして平静を装った。 
「気のせいか…ヤバいな‥俺、疲れてんだなぁ……寝よ」 
 …どうにか最悪の事態は避ける事が出来たようだ。 
マサヒコは起き上がると電気を消し、再び布団を被ると床についた。 

すぅ…すぅ… 

マサヒコの寝息が聞こえるのに時間はかからなかった。 
(もう…いいかな?) 
アイは、マサヒコを起こさないよう、慎重に立ち上がった。 


先ほどの扉の時と同様に、月明かりがマサヒコの寝顔をやさしく照らす。 
それは、普段の彼の印象とは遠く離れた、いかにも少年らしい寝顔だった。 
(‥マサヒコ君ったら…) 
思わずアイの口元が緩み、笑みがこぼれる。 
しかし、その笑顔はほんの一時にしかすぎなかった。 
「……あっ」 
不意に声が漏れる。 
 アイは慌てて口を両手で押さえた。 
大腿をつたう、一滴の雫。 
…それが、アイが声を上げた原因だった。 
(これが‥先輩の言っていた…『濡れる』ってコト?) 
 顔を赤らめながらキョロキョロと辺りを見回すアイ。辛くもマサヒコは眠っている。 
 アイは恐る恐る自らの大腿に手を伸ばすと、流れ落ちる雫を指先ですくい上げた。 
「……何かヌルッとする…」 
 人差し指と親指で雫をこねる度に、ニチャニチャと淫靡な音が生じる。 
 (…何だか‥不思議な気分になりそう) 
 驚きと困惑が混じった気持ちが、アイを気づかぬうちに蝕んでいく。 

「…あっ……ぅ…ん…っ」 
気がつくと、アイは自分のショーツを上からなぞるように弄っていた。 
(…マサヒコ君がっ…あん!起きちゃう…) 
何度も手を止めようと腕に力を入れたが、体は命令を無視し続ける。 


――初めての牝としての悦び。 
感じたことの無い未曾有の快感。 
意識は抵抗を試みるも、本能が貪欲にそれを求め続ける。 
「…んあっ……そん‥な…っ………ダメな…のにぃ…」 
指先が乱暴に自分の秘所を弄る度に、意識がどこか遠くへ飛びそうになる。 
ショーツは既に下着としての機能を失い、自らの愛液でべっとりと潤っていた。 
そして、終幕は唐突に訪れた。 
「…私‥もう…っ…おか…しく……ああっ…あああ!!」 
襲い来る快楽の大波に腰は砕け、両手をスカートの中に突っ込んだまま 
アイは初めての絶頂を迎えた。 
「…ハァ…ハァ…」 
横たわったアイの衣服は乱れ、頬には涙の筋が浮かんでいる。 
呼吸は荒々しく、整えることすらままならない。 
 体は悦楽の境地へと誘われ、痙攣したかのようにビクビクと震えていた。 


遠くから聞こえる時計の音。 
スイッチをぶっきらぼうに叩いて、それを止めた。 
(……もう朝か‥なんか…寝た気がしないな…) 
両手を重ね、ぐっと背筋を伸ばすマサヒコ。 
眠い目をこすりながら立ち上がる。 
「…ん?」 
引っ張った布団が何かに引っかかっている。 
(?…何だ?) 
首を傾け、ベッドの向こう側を覗き込んだ。 


「…なっ!?」 
マサヒコは唖然とした。 
目の前には、メイド服でグッスリと眠りこけるアイの姿。 
「先生!!何やってんですか!」 
「…うん?‥ああ、マサヒコ君おはよ〜」 
「いや、そうじゃなくて…」 
寝ぼけ眼のままのアイは、どうやら現状を理解しきれて無いらしい。 
マサヒコが、そんな彼女に対してため息を吐いたその時。 
災厄は無言で訪れた。 
「マサく〜ん!もう8時だ……」 
ミサキ来襲。一気に緊迫化する室内。 
「…どういうこと?」 
目の奥に殺意を込めた微笑みで、マサヒコを見つめるミサキ。 
「いいいいや…これはその…」 
恐怖に声が意に反して上擦ってしまう。 
「ふ〜ん…昨日はアイ先生にメイド服を着せて、何をしてたのかナ?」 
視認できるほどみなぎる闘気。 
「いや、だから…」 
拳を振り上げ、ジリジリと詰め寄るミサキ。 
「いや、やめっ…ヤメテー!!」 

バキャッ!!!! 

…後はご想像にお任せします。 


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