作品名 |
作者名 |
カップリング |
『Honey』 |
264氏 |
- |
「マサヒコ君!!!アナタは女心をわかっていないわ!!」
「な、何をいきなり!?」
「そこで、これをあげるから、恋愛について学んできなさい!!」
「??これは―――」
次の日。
「やっぱ、休日は人が多いな…」
爽やかに晴れた空はどこまでも澄み渡り、白い雲はちぎれた綿菓子のように
青いキャンバスにぷかぷかと浮かんでいる。
太陽から溢れ出す光の粒は街に降り注いで、街路樹や雑草に恵みをもたらす。
マサヒコはポケットに手を突っ込みながら街を歩いていた。
(‥にしても、一人で映画を見に行くのも久しぶりだな)
マサヒコがクスッと笑う。
ここ最近は女性に囲まれた生活が続き、一人で何かするという事自体珍しいというハーレム状態。
だが、女心を理解できていないマサヒコにとっては、何気なく話したつもりなのに
突然笑ったり、怒ったりするアイやミサキ達との付き合いは結構疲れるわけで…。
ポケットに入れていた手を抜く。小さく折りたたまれた紙を取り出す為に。
紙をゆっくり広がると、そこにはこう記してあった。
『あとでアイにいきます』
どうやら映画の前売り券らしい。
(先生も素直に言えばいいのに‥)
そう思って空を見上げる。丁度飛行機らしき物体が雲を描きながら飛んでいた。
信号にさしかかり、足を止める。
マサヒコは軽く目を瞑り、昨日の事を思い出すことにした。
―いつもと違う、アイと二人きりの授業中。アイが突然口を開いた。
「マサヒコ君!!!アナタは女心をわかっていないわ!!」
「な、何をいきなり!?」
「そこで、これをあげるから、恋愛について学んできなさい!」
アイはそう言って一枚の紙を差し出す。
「??これは‥映画のチケットですか?」
「そう!これを見て、女の子の気持ちを少しは理解しなさい!」
腕を組み、満足気にふんぞり返るアイ。
「……その代わりに、ウチの母親達と焼き鳥屋『孫鷹』に行って飲み食いする、と」
「うっ…どこでそれを」
「わかりますよ…昨日母親言ってましたし‥
それにこれ明日が期限ですし」
図星を突かれ戸惑っていたアイだったが、観念したのか深いため息をつく。
「…悔しいけど、その通りよ。本当は見に行きたかったけど…」
「…食欲には勝てなかったと」
「……ハイ」
信号が青へと変わり、人々が進み始める。
マサヒコは慌てて目を開け、人混みの中へ潜りこんで行った。
一方、同じ通りを歩く女性が一人。
「楽しみだなぁ、前から見に行きたかったんだよね♪」
金髪にボーイッシュなショートヘアーが、歩みに合わせてサラリと流れる。
お気に入りの白いサンダルと茶色のショートパンツ。
それに、黄緑色のTシャツと小さなトートバッグのよくある週末の組み合わせ。
人々が歩く道は眩しいほどの光が降り注ぎ、その横の街路樹がやさしく影を落とす。
曲がり角を曲がったところで、彼女の携帯がバッグの中で震え始めた。
「誰かな?……カナミだ。もしも〜し」
「あっ、アキちゃん?今どこ?」
「どこって…映画見に行くとこだけど?」
「…本当に行くんだ?」
「何?何かするの?」
「いや…お兄ちゃんの部屋を掃除してたら、『女尻』ってAV見つけて‥
これからマナカちゃんと上映会開こうかと…」
「私‥パス」
ピッ。
アキは黙って電話を切った。
(こんな日ぐらい私を下ネタ地獄から解放してよぉ‥)
ため息混じりに携帯をバッグになおす。
(つーか、本当に行くの?って…オイ!私が映画に行ってはイカンのか?)
カナミの言った事を思い返し、顔をしかめる。
ボケのいない所でも、ツッコミを怠らないアキ。流石である。
(第一、誘ったのに来ないって言ったのはアイツ等じゃんか…)
アキの脳裏に数日前の会話が蘇った。
―昼休みの教室。あんパンを頬張るアキの姿。
その周囲には、カナミやマナカ、ショーコといったお馴染みの面々。
パンを食べ終え、袋をくしゃくしゃに丸める。
少し息を整えた後、アキが口を開いた。
「ねぇ…週末、映画見に行かない?」
「いいねぇ…で何見るの?」
「ほら、今スゴいブームの『あとでアイにいきます』!!」
「あ〜あれ?確かにおもしろそうよね。でも、悪いけど私行けないわぁ」
「え〜…って、わかってるって。どうせ彼氏とデートでしょ?」
「あちゃー、バレた?」
「バレバレだよ…」
舌を出してテレるショーコに、アキは呆れるしかない。
「カナミとマナカは‥行かない?」
アキが二人の方を見やるも、頼みの二人の表情は少し曇り、互いに顔を見合わせていた。
「…えっ何?私マズいこと言ったっけ?」
「アキちゃん…今時純愛は無いよ」
「へ?」
カナミがぽつりと呟く。
「そうですよ。大体、カップルなんてお互いに互いの性欲処理係になるだけです」
カナミの一言に、マナカが拍車をかける。
「そうだよ!!まさしくカップルは『突き合ってる』んだよ!!」
「オマエはそれしか考えられんのか!?」
アキが左手を素早く伸ばし、ツッコミを入れる。いつもはここで終わるのだが―。
「ほほぉ〜…それは私達も侮辱されているのかナ?」
珍しくショーコが怒る。穏やかな表情だが、声は上擦っていて何か言いしれない恐怖感が漂っていた。
カナミとマナカは、まさかショーコが怒るとは…といった顔でギクッとしている。
「カナミィ‥マナカァ…何か言いなさいよ!!」
「うわぁぁあ!?ショーコちゃんがキレたぁ!!」
「しょ、ショーコさん!わ、私達は決してそんなつもりで言ったわけでは…」
キレたショーコをなだめようと、二人は必死でフォローするが、
火に油を注ぐように彼女の怒り様は増していく。
「…でもさ、ショーコは実際彼と‥その…するワケでしょ?」
これ以上ひどくならないように、ゆっくりと言葉を選んでアキが話しかける。
「何…アキまで?アキまで私達をそれだけの関係に見るの?」
ギロッとアキを睨むショーコ。
「い、いや…そうじゃなくて…。そうだ!
モテない友人の恨み事やグチだと思ってさ‥忘れて、忘れて…ねっ?」
アキの苦しいこじつけにショーコの動きが止まる。
やがて、ウンウン頷きいつもの彼女に戻った。
「…それもそうね。アンタ達もそんなこと、彼を作ってから言いなさい」
彼氏持ちの余裕発言。
アキ達三人は、軽い劣等感に苛まれたが、
むしろショーコが落ち着いた事に対する安心感の方が強かった。
「ふぅ…んで行くの?」
一段落たち、話を戻す。
「うーん…わかんないや。多分行けないと思う‥」
カナミが唇に指をあてて呟く。
「そっかぁ、マナカは?」
「私は小説の続きがあるので…」
マナカも彼女らしい理由で誘いを断る
「なんだぁ…みんな行けないのかぁ…。もういい!私一人で行ってくる!!」
一人で恋愛映画を見に行くという、彼氏無しの女性には苦行のような行動。
それでもアキの見たいという意志は固かったわけで…。
かろうじて開始時間に間に合い、席を探すことにする。
「うわぁ…カップルだらけじゃんか‥」
見回す限りのツガイの群。
もし小宮山がここにいたら、ショックで寝込むかもしれないほどの人数だ。
アキが携帯の時計を見る。上映開始三分前だった。
「このままだと、映画始まっちゃう‥急がないと!!」
時間の無さの焦りに再び辺りを見回す。
人、人、人、空席、人……空席!?
アキはやっと見つけた空席へ向けて急いで向かった。
さて、ここでまたマサヒコに焦点を当て直そう。
アキより早く映画館に着いたマサヒコ。段差に近い真ん中の席を運良く手に入れていた。
「ジュースも買ったし、準備はこれでいいな…。」
マサヒコが辺りを見回すと、まだ明るい劇場内には既に多くのカップルの姿が。
まだ昼間だというのに、キスしている奴らもいた。
(かなり居心地悪いな…)
マサヒコがいくら鈍くても、この雰囲気は否が応でも感じてしまう。
「まぁ‥いいや。俺は映画を見に来たワケだし…」
そう言って、手に持ったジュースを飲むが、その冷たさがヤケに堪えた。
(ミサキとかでも誘えばよかったかな…)
ストローを離した口から、ため息が漏れる。
「あの…スミマセン。隣空いてますか?」
「!?」
急に呼ばれたので横を振り向くと、金髪でショートヘアーの女性が困り顔で立っていた。
もちろんアキである。
「ええ、空いてますけど‥」
「よかったぁ〜、席どこも空いてなくて」
マサヒコの返事に安堵の表情を浮かべるアキ。マサヒコの隣にゆっくり腰掛ける。
(スゴい綺麗な人だな…でも、そんな年離れてるようには見えないな)
いつも顔を交える女性陣とは違う、何かに心奪われたマサヒコ。
アキは喉が渇いたため、ペットボトルのお茶を取り出した。
走ったために多少泡立っていたが、そんな些細な事では飲まない気にならない。
だが、アキはお茶を飲んでいる途中である事を思い出し、思わずむせてしまった。
―彼女は何を思い出したのか?
ヒントは二つ、真実は一つ!
ヒント1:お茶
ヒント2:カナミとマナカ
―さあ、わかりましたか?
答えは…そう!カナミとマナカの『お茶系のペットボトルは、
尿を入れても気づかない』発言でしたぁ。
(また口にできる物が減ったぁ…。お兄さんに責任取ってもらわないと…)
青ざめた表情でペットボトルをなおすアキ。
(どうしたんだろう?気分でも悪いのか?)
その様子を、終始じっと見つめてたマサヒコ。
しかし、その熱視線にアキが気づきマサヒコの方を向く。
―不意に目と目があった。
(えっ…うっうわわわわ!!?今こっち見てた!?)
(ヤベッ!?見つめ過ぎた!どうしよう…)
突然のことに両者赤面し、互いに別々の方を向く。
やがて、照明が一つずつ暗くなり、二人の目の前のカーテンがブザー音と共に開いた。
いよいよ上映開始である。
上映中の二人の様子、まずはマサヒコから。
(うーん…いい映画だけど、カメラワークが雑だな…)
ポテトを口にくわえながら、当初の目的とは違う点に思いふける。
続いてアキ。
(ヤバイ…私泣きそう)
切ないシーンに胸がいっぱいになって涙ぐむ。
鼻水は、もう何回すすったかわからない。
そしていよいよ感動のラスト。
(うわ〜ん!!なんで、なんで最後に死んじゃうのさぁ…)
アキは号泣していた。頬には涙の川が出来上がっている。
それでも、流れる悲しみの粒はいつものような濁った感じではなくて、
澄み渡る川の水のように純粋な―荒んだ心を洗い流すものだった。
やがて、観衆の前ではスタッフロールが有名バンドの演奏に合わせて流れ始めた。
少しずつ明るくなっていく場内。入り口近くは既に多くの人でごった返していた。
「うっ…グス‥いい‥ぁぅ…映画だっだぁ〜」
アキの目はひどく充血し、顔も赤く上気していた。
(とりあえず‥涙拭こう……って、あれ?)
バッグを弄るアキの手が一旦止まる。そして、再び動き始める。
(あれ?…おっかしいなぁ……)
何度手をバッグに突っ込んでも、ハンカチが見つからない。
(あちゃー……。もしかして、忘れてきたかなぁ‥私のバカ…)
アキが諦めてバッグから手を抜き出す。
肩は落ち、いかにもガッカリした素振り。
その様子を隣で自分の片付けをしながら見ていたマサヒコ。
(…この人、何焦ってんだろ?それに涙流しっぱなしだし…あっ!!この人涙拭くものが無いんじゃ!?)
そう思うがいなや、マサヒコは着ていたジーンズのポケットを慌てて探る。
幸い、未使用のキレイなチェック柄のハンカチが入っていた。
(後は‥渡せばいいけど、どうやって渡せばいいかな?)
ポケットに入っていたハンカチを握りしめたまま、マサヒコは動かない。いや、正確には動けない。
意気地の無い自分を、心の中で何度も奮い立たせようとする。
(早くしないと、この人は行っちまう!!頑張れ!俺超頑張れ!!)
普通、見知らぬ他人の為に行動を起こすのは並大抵の決心がなければ出来ない。
それにもかかわらず、マサヒコがアキの為にハンカチを渡そうとしているのは、
きっと彼が本当に裏のない優しさの持ち主だからであろう。
(しょうがない…ちょっと恥ずかしいけど、服で拭うか‥)
アキがため息を吐いて、顔を服の肩に近づけようと右手を伸ばす。
(!?ヤバい!それだけは、させちゃダメだ!!)
アキの様子を見た途端、マサヒコの体に力が入る。
同時に、マサヒコの意に反して体は動きだしていた。
素早くポケットに突っ込んでいた右手を、アキに向かって伸ばす。
「ん…うわぁ!?」
突然、真横から見知らぬ男の手が伸びたことに驚きを隠せず悲鳴を上げるアキ。
まあ、当然と言えば当然なのだが…。
「な、何ですか!?」
いきなりのマサヒコの行動に警戒心をむき出し、たじろぐアキ。恐怖と不信感で顔が歪んでいく。
マサヒコはアキの反応と自らの行動に驚きを隠せなかったが、
何にしても彼女の警戒をまずは解くことが先決だと即座に判断を下した。
「あ、怪しい者じゃないです!!まあ、怪しく見えるでしょうけど…」
目を泳がしたまま、マサヒコがその場を取り繕う。
どうしてもアキの目を見れない自分がいた。
「そりゃあ…怪しく見えるけど…」
アキは顔を真っ赤して自分に話しかける少年を、疑いの眼差しで見回す。
(また、ナンパかぁ…。私って軽い女に見られるのかな…)
過去にもアキはこんなことが何度もあった。髪色のせいか、彼女に声をかける
男達は誰もチャラチャラした感じのした人達だった。
(はぁ…いやになるなぁ……うん?)
不意にアキの目がマサヒコの右手に止まる。
(…これは、ハンカチ…だよね?)
アキの視線がマサヒコの右手に注がれたのを、マサヒコは見逃さなかった。
(…言うなら今だ!!今しかない!!)
神が与えた千載一遇のチャンスに、マサヒコは覚悟を決めて口を開いた。
「なんか…拭くものが無さそうだったから‥」
そう言うと、握りしめていたハンカチをアキの手にのせた。
「…えっ!?でも悪いから…」
「いいから使って下さい!
野郎に使われるよりも、あなたのような女性に使われる方がハンカチも幸せです!」
戸惑うアキの話を遮って、マサヒコが声を荒げた。
「……本当にいいんですか?」
マサヒコの熱意に押されたアキが、上目遣いに尋ねる。
「もちろん!さぁ…どうぞ」
「あ、あ、ありがとうございます!!」
優しく微笑むマサヒコの顔に負け、ハンカチを取り涙を拭う。
(よかった…どうにか渡せた‥GJ!俺!!)
マサヒコは、嬉しそうに涙を拭うアキを満足気に眺めていた。
ギィィ…バタン
そこに響くドアの閉まる音。
マサヒコが辺りを見渡すと、いつの間にか観客席には自分とアキの二人しかいないことに気づいた。
「なんか…ここはもう俺達しかいないみたいですよ」
マサヒコが苦笑しながら呟く。
「…私達も動いた方がいいのかな?」
すっかり涙を拭ったアキが辺りを見回すと、
掃除のアルバイトがこっちを見て睨んでいた。
アキの目線を追ったマサヒコも、やがてそれに気づいた。
「とりあえず、そうしましょうか…」
マサヒコとアキはアルバイトの痛い視線を感じつつ、映画館を後にした。
外はクーラーのきいた映画館とは違い、夏らしい湿気を大量に帯びた空気が漂っていた。
「「あっつ〜…」」
思わず声がハモった二人。互いに顔を見合って笑い出した。
「アハハ…そうだ!さっきはありがとうございました!!」
少し照れながらマサヒコにお礼を述べるアキ。
ぺこりと頭を下げたためか、シャンプーの香りがマサヒコの鼻孔をくすぐった。
ハーブ系のいい香り。
マサヒコはそれを嗅いだだけで、夏の暑さを一瞬忘れ去ることができた。
「…し!もしも〜し!」
マサヒコがふと我に返ると、心配した眼差しで屈むアキの姿が。
Tシャツの為に襟ぐりが垂れ、着ている下着まで丸見えになっている。
アキはマサヒコの顔が火の点いたように真っ赤になったのがわかった。
「ど、どうしたんですか!?いきなり真っ赤になって?」
マサヒコは顔を背け、必死に忘れ去ろうと試みたが無理だった。
既に脳裏に刻まれ、目を瞑っただけでアキの下着がフラッシュバックしてしまう。
「い、いや…何でもないです!!それより、何か飲みません?」
とっさに誤魔化すが、マサヒコ自身かなり無理があったのか声が裏返ってしまった。
「プッ…アハハハハ!!それもそうですね!
じゃあ、そこの喫茶店にでもいきましょう!!」
アキがそう言って指を指したのは、表通り沿いの小洒落た喫茶店。
(なんか高そうだな…でも、言った手前断れないし。いいや、行こう!行こう!)
またも弱虫な自分を奮い立たせるマサヒコ。
「…それじゃ、行きますか?」
少しハニカミながらのマサヒコの返事に頷くアキ。
二人は眩しく輝くタイルの上を歩き始めた。
ところが、歩いて一分も経たないうちにアキの歩みが止まる。
マサヒコは後ろを振り返った。
「どうしたんですか?」
「ちょっとサンダルに石が挟まって…。手伝ってもらえませんか?」
アキが左足のサンダルを脱ぎながら、マサヒコに尋ねた。
「別にいいですけど…。何をすればいいんですか?」
「それじゃ…ちょっとすみません!」
「!?」
アキの手がマサヒコの肩に触れる。マサヒコはアキの息づかいがはっきりと聞こえてきた。
(やっ、ヤベエ!!近い、近いって!!)
マサヒコの心臓が膨れ上がり、酸素の供給が追いつかない全身の血液を急激に循環させていった。
「ふぅ…。すみません‥終わりました!」
アキが日溜まりのような笑顔でマサヒコの肩から手を離した。
――もっとふれていてほしかった。
普段、異性であるミサキやアイが触れてもマサヒコは余りそうは思うことはなかった。
だが、この人に触れられると何かが違った。
(ああ…俺はこの人を完全に女として見てるんだ‥
もしかしたら…いや、確実に俺はこの人のことが…)
この世に生を受け、もうすぐ十五年。マサヒコ生まれて初めての一目惚れだった。
そんなこんなで喫茶店に到着。
遠くからで見えなかった店の名前。その名も『フルキャスト』。
「あっ!牛タンのシチューが今だけ五百円!?おいしそう…」
マサヒコがアキを見ると、ガラスケースに手を当てシチューを凝視していた。 「お昼とってないんですか?」
「…はい」
照れ笑いしながら答えるアキ。
結局、二人はここで昼をとることにした。
昼の日差しが木々の隙間から優しく照りつける。
休日なので、店内にいても人々の話す声や車のエンジン音が小さいながらも
二人の耳に聞こえてきた。
ちょうどお昼時だったためにやや混み気味ではあったが、
二人は入口近くのテーブルに運良く座ることができた。
やがて、ウェイトレスが二人に注文を取りに、お冷やを持って来た。
「ご注文の方はお決まりになられましたでしょうか?」
「私は…えっと‥このトマトとアンチョビの冷製パスタってヤツを」
アキは少し躊躇しながらメニューを指差して答えた。顔は少し不満気味である。
(うーん…別の料理がよかったかな‥?)
どうやら、まだ思考中に注文をとられたようだ。
「んじゃ、俺はクラブサンドを‥」
マサヒコは中学生という身分の為、比較的安価な料理を頼んだ。
そして、ウェイトレスが注文を取り終え店の奥へと消えると、
マサヒコは思い出したかのように、アキに話し掛けた。
「ところで‥自己紹介がまだでしたね。俺は小久保マサヒコっていいます」
「あっ…そうでしたね!私は矢野アキっていいます」
出会って三十分。やっとお互いの名前を知った二人。
「えっと‥矢野さんは‥」
「ああ、アキでいいですよ。名字で呼ばれるのに余り慣れてないし…」
アキは、改めて緊張しているマサヒコに優しく微笑みかけた。
「ゴホン…。じゃあ、アキさん。アキさんは…高校生ですか?」
「ええ…そうですけど。そういう小久保さんは?」
「…何か堅苦しいですね」
慣れない空気に、マサヒコは笑い出した。
「俺は中三ですよ。どうやらアキさんは俺より年上みたいですね?」
「私は高一だから‥離れていて一歳か」
マサヒコの年齢をある程度推察し、頬杖をつく。
「…アキさんはどこの高校なんですか?」
マサヒコは会話が途切れないように、新たな話題を切り出した。
「隣町の小笠原高校だけど…。小久保君は?」
「俺もマサヒコで構いませんよ。俺は…この近所の東が丘中学校です」
「あ〜!!文化祭の模擬店が多いあそこ!?」
アキが手を叩くと、マサヒコを指差して頷いた。
「そうですよ。…結構有名なんだなぁ、ウチの学校」
マサヒコは母校が意外に有名なことに驚いた。
「有名も何も『東が丘の文化祭は不味いものは無い』って言葉があるくらいよ!?」
アキが身を乗り出し、大きな声を上げてマサヒコに近づいた。
「…アキさん。ひょっとして趣味『食べ歩き』とか?」
アキの興奮具合に、思わずアイを重ねてしまったマサヒコ。
「うーん…趣味ってまでじゃないけど、食べるのは好きかな?」
アキは唇に人差し指を添え、遠くを見ながら答えた。
(…にしても、この子‥シンジさんに似てるなぁ…雰囲気とかそっくりだもん)
(アキさんか…。いい名前だな‥なんだろ、顔と名前に違和感ないもんな…)
互いに互いの印象を心の中で固め合う。少なくともお互い、悪い印象ではなかった。
「…ねぇ、マサヒコ君はどこの高校狙ってるの?」
「?一応‥英稜狙いですけど?」
「へぇ〜、マサヒコ君結構成績良いんだ?そうは見えないけどなぁ‥」
アキは予想外の返事に感嘆の声を上げた。
「そうは見えないって…どう見えるんですか!?」
「ゴメンゴメン!私が言い過ぎた!ホントにゴメン!!」
マサヒコが笑いながら怒ると、アキは両手を合わせて同じように笑って誤った。
「……もう」
ふとマサヒコがキッチンの方を見やると、
さっきのウェイトレスが料理を運んで来るのが見えた。
「そろそろ、料理が来るみたいですね」
「やったぁ!私もうお腹ペコペコだよ!!」
待望の料理の到着に、素直に喜ぶアキ。
(かわいいなぁ…)
マサヒコにとって、アキの仕草の一つ一つは宝石のように価値のあるものに思えた。
「何これ!?スゴく美味しい!」
パスタを幸せそうに食べるアキを、マサヒコは何とも言えない気持ちで見つめていた。
その視線にアキが気づき、首を傾げる。
「…何か私の顔についてる?」
「い、いや!?アキさんの気のせいじゃ…!?」
マサヒコはいきなりのことに声が上擦ったものの、必死に平静を装った。
「…なら、いいけど」
アキの注目が、目の前の少年から再び食べかけの料理へと集まった。
(…アブねえ!!危うくバレるとこだった!)
時間が経ち、水滴が周りを覆っていたコップにマサヒコの手の跡が付く。
人間慌てると喉が渇くのは本当らしい。
マサヒコが食べている間、先に食べ終わったアキはデザートを注文していた。
「‥マサヒコ君は塾に行ってるの?」
アイスをスプーンですくいながらアキが呟いた。
「…いや、俺の家は家庭教師なんです。でも、何でまた?」
「さっき成績良いって言ったじゃない?私悪くてさ…」
アキは、スプーンをクルクル回しながら笑って答えた。
螺旋状にクリームが形作られていく。その度にバニラのいい香りが辺りに漂った。
「私部活してないから、夏くらいは塾にでも行こうかなぁ…って」
「家庭教師ってのも、なかなかいいですよ?金はかかるけど、マンツーマンですし」
「…そんなに家庭教師っていい?マサヒコ君の先生はいい人なんだ?」
「いい人っちゃ‥いい人なんですけど…」
クラブサンドを食べ終え口を拭きながら、マサヒコは茶を濁すように答えた。
「…いい人だけどって?」
「俺の周辺にいる 女性陣みんなそうなんですけど…無駄にエロいんですよ」
そう言って、目を瞑ってため息を吐きうなだれるマサヒコ。
「最近はツッコミ入れるのも疲れてきて…」
「わかる…わかるよその気持ち。私の友達もそんなんばっかりで…」
食後の憩いの一時。
マサヒコは天然エロボケ教師や猟奇的な幼なじみ等についての悩みを、
アキは性に対して開放的な兄妹や鉄の処女、なぜか女子校に彼がいる同級生への愚痴
を吐露しあった。
「…何だか同じ境遇ですね、俺ら」
「なんかね、君とは同じ(ツッコミの)ニオイがするよ」
クスッとマサヒコが笑うと、アキも同様に笑い出した。
周りから見ればさながら恋人同士。そんな雰囲気が二人の周りから出ていた。
「あ〜、笑いすぎて涙出てきた」
アキが右目の辺りを軽く押さえた。雫が一滴頬を流れ、光の筋を作り出す。
「あっ…!さっき渡したハンカチ使って下さい!!」
「あっ…うん」
マサヒコが慌ててジェスチャー混じりでアキにハンカチを使うよう促すと、
アキはバッグから先ほどのハンカチを取り出した。
「アハハ…涙でグチョグチョだ。洗って返さなきゃね」
ハンカチは水分を十分に蓄え、渡した時よりも色濃くなっていた。
「そんなこと…いいですよ」
「ダーメ♪この位しないと、何か申し訳ない感じがするもの…ね?」
アキが不意に照れながら上目遣いでマサヒコを見つめた。
日差しがアキの前に差し込み、笑顔がさらに映える。
(このかわいさ…反則だな)
マサヒコ、心の中でガッツポーズ。
「わかりました。なら…これが俺のアドレスです」
マサヒコは携帯をポケットから取り出そうと立ち上がった。
「あっ…ついでに住所も教えて?」
「…ハイ?なんで?」
突然のアキの発言に戸惑いを隠せず、うろたえるマサヒコ。
「いや、明日も休みだから…洗って持って行こうかなって」
「べ、べべ別にいいですけど…」
マサヒコ、願ってもない好機に再びガッツポーズ。
アキにアドレスと住所を教えた代わりに、アキのアドレスを手に入れる。
「ありがとうございましたぁ」
ドアが開く。店員が形だけの礼を述べて二人を見送った。
木々の影は店に入った時よりも随分と伸びていた。
二人は店を出ると、すぐ近くの交差点へ足を進めた。
「…今日は楽しかったです」
「私も…ハンカチは明日返しに行くから」
アキの両手に握られたバッグが、歩みに合わせて小刻みに揺れる。
「わかりました。…またこんな時間が取れたらいいですね」
マサヒコは照れくさそうに頭をかきむしった。
「それは…遠回しにデートの誘いだと受け取っていいのかな?」
「なっ…!?」
「ウソウソ♪冗談よ」
肩透かしを食らったマサヒコの目に、アキが舌を出してハニカむ姿が映る。
「それじゃ…また明日!バイバーイ!!」 アキが手を振って遠ざかっていく。
マサヒコも彼女の姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。
(初めて会ったのにこんな話せるとは…
出会いって…案外こんなものなのかもな…)
マサヒコは後ろを振り向くと、家の方へと歩き始めた。
見上げた空は少し赤みがかっていて、二人に嫉妬しているようにも見えた。
―――そして、次の日。
空には大きい入道雲が一つだけプカリと浮かんでいて、
後は一面澄んだ青色をしていた。
周りの木々からはセミ達が、僅かしか無い命を削ってその存在を訴えている。
「ヤッバ〜イ!カナミの家に長く居すぎたなぁ…。でも、もう近くだし…」
アキは携帯に記してあったマサヒコの家の住所を見ながら、自転車を漕いでいた。
暑い中だが、体中に爽やかな夏風が吹きつける。
聴いていたMDの軽快な音楽が、アキの足どりを軽くさせた。
「小久保、小久保っと…あった!結構大きい家ね‥カナミの家より大きいかも」
マサヒコの家の大きさに驚くアキ。とりあえず自転車を家の脇に止めた。
「よいしょ…ふぅ‥これでよし!」
右手で汗を拭い、手をパンパン叩くとアキはゆっくり家の門に手を掛けた。
(庭…スゴいキレイ…お母さんの趣味かな?)
左右を見渡すと、ひまわりや朝顔がアキを歓迎するように咲き誇っていた。
「呼び鈴は…あった!」
ピンポーン。
アキがボタンを押すと、遠くからドタバタと足音が聞こえた。
ガチャッ。
「あ、アキさん!」
「ヤッホー♪」
出迎えたマサヒコに、アキが笑顔にVサインで応えた。
「暑くなかったですか?俺、何か飲み物用意しますけど…」
「いいよ…君に悪いし。どうぞお構いなく♪」
とは言っても、三十度を超える炎天下の中を自転車でやって来たアキ。
顔は笑ってるが、額や首筋には霧吹きで吹き付けたような汗がにじみ出ていた。
「いや…やっぱ持って来ます!
アキさんが日射病とかで倒れたら‥俺、悲しいですもん」
「えっ!?でも…」
「いいから、あがって下さい!」
『謙遜しまくる人には押してかかれ』 マサヒコがアイとの会話で気づいたことである。
「う、うん」
マサヒコの言葉に押され、アキは少し躊躇しながらもスニーカーを脱ぎ始めた。
「俺の部屋しかクーラーつけてなかったから、俺の部屋にいて下さい。
そこの階段を上って、すぐの部屋です」
そう言って、マサヒコは台所らしき所へ消えていった。
「…はぁ‥」
(何か…流されっぱなしだなぁ、私)
階段を上りながら、アキはちょっと情けない自分にため息を吐いた。
「えっと…ここかな?」
マサヒコに言われた通り、アキが階段近くの部屋の扉を開けた。
「す、涼し〜い!!」
外との余りの気温差に、思わず両手をあげて喜んだ。
「気に入ってもらってよかった…」
「…へ?」
アキが後ろを振り向くと、マサヒコがお盆にジュースを載せ立っていた。
「…もう!驚かせないでよ!!」
「ハハ‥すいません」
両手を挙げてふざけ気味に怒るアキを、マサヒコは笑いながらなだめた。
「それはそうと…俺、ついでに何か食べ物持って来ます!」
「いや、そこまでは…って、お〜い…」
素早くジュースをテーブルに置き、マサヒコは階段を下りていった。
(ありゃ‥行っちゃった…どうしようかな?)
主の居ない部屋にポツンと一人だけ。当然置いてある物に興味を示すワケで…。
「…あっ、あのコンポ欲しかったヤツだ。いいなぁ…」
アキは好奇心に身を委ねて、部屋の隅々まで物色した。
(結構お洒落だし、シンジさんの部屋より男臭くない…)
シンジの部屋以外の男の部屋に初めて入って少し萎縮したアキだったが、
中性的な部屋のレイアウトに緊張もほぐれつつあった。
「せっかく持って来てくれたことだし…飲まなきゃマサヒコ君に悪いよね?」
やはり、体は正直である。
おずおずとコップに手を伸ばし、口元へと運ぶ。
入っていた氷が、カラカラと音を起て揺れた。
グラスの中の液体は透き通った黄金色をしていて、微細な気泡が大量に浮かんでいた。
ゴクリ、ゴクリ。
コップの中の液体が減っていく度に、
炭酸独特の爽やかな刺激がアキの喉を通過していく。
「…ぷはっ!‥やっぱ、喉が渇いた時は炭酸よね!」
よほど美味かったのか、アキは一気に飲み干してしまった。
「そうだ!マサヒコ君に、あとで何て名前のジュースか聞〜こう♪」
そう言いつつ、勢い良くコップをテーブルの上に置いた。
一方、こちらはマサヒコの方。
「こういうタイミングに限って、無いんだよな…」
マサヒコは首を捻りながら、台所を漁っていた。
辛うじて見つけたのは、冷凍庫に入っていたアイスだけ。
「しょうがない…これ持っていくか」
冷凍庫からアイスを、食器棚からスプーンを取り出して階段へ向かった。
(…アキさん、満足してくれるかな?) 不安げにアイスに目を向ける。
アイスは外気との気温差で白い煙を身にまとい、
銀色に輝くスプーンは曇った顔のマサヒコを、縦長に映し出していた。
(大丈夫だよな…昨日嬉しそうに食べてたし…)
マサヒコは昨日のアキの食事の様子を思い返した。
笑顔でバニラアイスを口に次々と運んでいる。
マサヒコ自身、アイスになりたいとあれほど思ったのは初めての事だった。
「アキさんに…もし彼氏がいなかったら……んなわけ無いか」
マサヒコは小声で吐き捨てるように呟いた。
それでも、僅かな希望に賭ける自分が心の奥にいることも分かっていた。
やがて、マサヒコの視界に自分の部屋のドアが映り込む。
(暗い顔してたら、アキさんに心配かけるかもな…よし!)
マサヒコは自分の部屋の前で一回、大きな深呼吸をした。
―心を落ち着け、覚悟を決める為に。
ガチャッ!
精一杯の作り笑いをして、扉を勢い良く開けた。
「すみません、アキさん!アイスしか無かったんですけど…」
「!?…別によかったのに」
右手を後頭部に添え謝るマサヒコを、アキは笑顔で温かく迎えた。
二人はテーブルに向かい合った形で座り、アイスを味わった。
「‥あれ?アキさん‥もうジュース飲んだんですか?」
ふとアキの横にあった空のコップがマサヒコの目に入った。
「う、うん‥君に悪いかなぁって思ってさ…」
「また‥そんなこと言って」
恥ずかしさの余り、顔を赤らめ目を逸らし髪をかきむしるアキに
マサヒコは少し照れながら微笑み返した。
「‥おかわりします?」
「うん…おねがい」
アキからコップを手渡されると、マサヒコは再び下へと向かった。
「気に入ってもらってよかった…」
先ほどからのプレッシャーから解放され、マサヒコは胸をなでおろした。
台所に着くと、マサヒコは冷蔵庫の扉を開き、一本の缶を取り出した。
(このジュースだけは、やけにあるんだよな…)
ふと不思議に思い、缶をクルリと回してラベル表記を探す。
「えーと…あった、あった………!?」
思わずマサヒコは目を疑った。
ジュースはジュースでも、大人しか飲めないジュース。
そう、俗に言う『チューハイ』ってヤツである。
マサヒコは缶を手に持ったまま、固まった。体に冷蔵庫から流れる冷気が当たる。
(……これはマズい!非常にマズい!!) そう思ったが否や、マサヒコの足は自然と部屋へと向かっていた。
「よりによって…ったく、あの時見ておけば…」
先に悔やめれば、後悔なんて言葉は存在しない。
マサヒコは階段を唇を噛みしめながら駆け上がった。
開けていたままの扉からは、何一つの物音もない。
「…あ、アキさん!!」
血が滲んだ唇から鈍い痛みが走ったが、マサヒコは力いっぱいにアキの名を叫んだ。
「!?な、な、な、何?どうしたの!?」
テーブルに肘をついて携帯をいじっていたアキが、
ソファーの上で驚き飛び跳ねた。
「よかった…実は‥」
マサヒコは申し訳なさそうに、事情を洗いざらいアキに告白した。
「‥つまり、私はジュースではなくチューハイを飲んだ‥ってこと?」
「まあ‥そういうことです…アキさん!ホントすみません!!」
マサヒコは、テーブルに手を勢い良く叩きつけ、頭を下げた。
その時、アイスのカップが弧を描き、残っていたクリームが、マサヒコの頭上を舞った。
べちゃっ。
お約束のように、マサヒコの顔や髪にクリームが点々と付着する。
「うわぁっ…」
「ほら、私のことはもういいから…。それより、拭かなきゃこびりついちゃう…」
アキは慌ててティッシュ箱から数枚を抜き取ると、
マサヒコの顔に付いたクリームを拭き始めた。
「だ、大丈夫ですって!?俺一人で出来ますから!」
アキの行動に困惑し、慌てて手を振り払おうとしたが
アキはその手をギュッと握り締め、マサヒコの抵抗を無力化した。
「一人で拭いてて拭けない所もあるでしょ?
いいから、私に任せて…ね?」
アキはマサヒコの顔を優しく、撫でるように拭いていく。
ティッシュ越しからのアキの手の温もりを、マサヒコは目を閉じながら感じていた。
(アキさんの手…あったけぇ‥)
マサヒコは、まるで自分が幼い頃に戻ったかのような心地がした。
「あっ…こんな所にも付いてる」
アキの手が突然止まる。
「…どこですか?早く‥とって下さい」
「でも…いいの?」
「いいの?って…いいですよ。なんかベタベタして、気持ち悪いですもん」
「…それじゃあ‥」
マサヒコは目を閉じたままだったが、何か不穏な空気がとっさに感じとれた。
(何だ?この嫌な予感は一体…)
マサヒコがそう思った刹那。
ちゅっ。
部屋に小さく響いた音。
「…!!?」
マサヒコがガバッと目を開けると、そこにはほんのり桜色に染まったアキの顔。
「あ、アキさん!?な、何を!?」
「何をって‥キス?」
恥じらいも無く答えた様子から、マサヒコはアキが酔っ払っていることに気づいた。
「ファーストキスはレモン味って言うけど、
マサヒコ君からはバニラの味がしたぁ♪」
マサヒコの顔を見つめながら、唇を押さえるアキ。
顔は小悪魔のような笑みを浮かべていた。
「‥アキさん」
「…なぁに?」
「‥酔ってますよね?」
「酔って無いってば!」
「い〜や、酔ってる!」
「うるさ〜い!」
「う、うわっ!?危ない!!」
アキがじゃれた猫のように、マサヒコに抱きついた。
いくらマサヒコが男でも、飛びかかって来たアキを支える力は持ち合わせていない。
そのまま、なし崩しに床に倒れ込む二人。
「イテテ…アキさん‥いきなり何を?」
倒れた時に腰を強打したのか、マサヒコは立ち上がることが出来なかった。
アキはそれをいいことにマサヒコの上に腰を下ろす。
一般的に、マウントポジションと呼ばれる状態である。
「ほら…マサヒコ君、こんなところにも付いてるよ…」
「…なっ!?止め…っ」
近づいて来るアキを必死に振り払おうとマサヒコは両手を振り回したが、
いかんせん力が入らず、逆にアキに両手を押さえつけられてしまった。
「逃げちゃ…ダメ」
アキは小声で呟き、再びマサヒコの顔に唇を重ねる。
ちゅっ…んちゅ……
額や鼻、瞼に降り注ぐキスの雨。
何回か繰り返されるうち、マサヒコはいつの間にか
アキの行為に抵抗することを止めていた。
(…アキさんが…酔ってるけど、俺の…ために)
マサヒコは、目の前で自分に奉仕してくれている女性の顔を静かに見つめた。
金色に輝く髪は動く度にサラサラと流れ、
顔は先ほどよりも赤く染まり、吐く息が頬に当たる。
キスをする度に、小鳥のように唇をつんとして目を閉じる。
そんな些細な仕草に、マサヒコの心にはアキに対する
単純には表せない複雑な感情が湧き出し始めていた。
「…アキさん、何で‥こんなことを?」
「‥それは‥マサヒコ君のほっぺが柔らかそうだったから…かな?」
アキが言い訳苦しそうに微笑み、マサヒコを見つめた。
「なっ…からかわんでくださいよ」
意外な言葉を投げかけられ、マサヒコの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
マサヒコは場の空気に耐えられず、首を横に向けてアキから目を逸らした。
「……からかってなんか‥ないよ」
アキの動きが不意に止まり、部屋に沈黙が走る。
マサヒコの耳には、自分とアキの呼吸音とクーラーの稼動音しか聞こえない。
そんな中、アキの手の力が急に緩んだ瞬間をマサヒコは逃さなかった。
(‥今だ!)
素早く自分を押さえていたアキの手を握り、胸元の方へと引き寄せた。
「う、うわわわわぁ!?」
突如の出来事になすすべも無く、マサヒコの隣に倒れ込んだアキ。
「いったぁ…」
痛みを堪え、涙をうっすらと浮かべながら怒った目でアキはマサヒコを見つめた。
「‥これで…おあいこですよ」
マサヒコはアキの手を握ったまま、そう言ってゆっくり微笑んだ。
「あっ…う、うん。‥ねぇ、マサヒコ君?……今‥緊張してるでしょ?」
「?ええ‥そりゃそうですけど…」
「…私の手が、君の‥胸に当たってるから、鼓動が…伝わってくるの」
マサヒコが視線を落とすと、確かに自分の胸の上にアキのしなやかな右手があった。
「‥ちょっと…痛いなぁ…」
「……はっ!?す、すみません!!」
―どれほどの時が流れただろうか。
マサヒコはアキの手を黙って握ったままだった。
アキの手の柔らかさ、温かさが心の奥深くを優しく解きほぐす。
それは、まるで限り無く続く夢のように。
マサヒコは慌てて握った手を離したが、アキはマサヒコの手を握り返すと
そのまま自分の胸へと引き寄せた。
「!?あ、アキさ…」
「ほら…私もドキドキしてる。……マサヒコ君の‥せいだよ?」
マサヒコの話を遮って、アキが口を開く。
マサヒコの手いっぱいに広がる女性特有の柔らかな膨らみ。
(…これが‥アキさんのおっぱい‥)
服と下着越しからの愛撫だったが、二人が興奮の最高潮に達するのには、
それほどの時間はかからなかった。
「‥んぁ…はぁ…あん‥っ」
マサヒコはアキの着ていたTシャツと下着を無理やり押し上げ、直接双丘を弄る。
手から溢れ出しそうなほどのそれは、マサヒコが思ったよりも柔らかく、
何より美しかった。
酔いも手伝ってか、アキはいつもより積極的かつ感じやすくなっていた。
「‥やぁん…マサ…君‥」
アキは抵抗のそぶりを見せようと、体を左右に揺さぶった。
「…ひゃん!?」
アキの動きについてこれず、マサヒコの指がアキの胸の桃色の先端を掠めた。
豊かな乳房とそれに対し小ぶりな乳首の生み出すコントラスト。
そして何より、愛しい女性が自らの手で感じている。
マサヒコにとっては、それが最高のスパイスになった。
左手を離し、口を近づけ乳首を攻め始める。
…ちゅぱっ‥れろ…ぺちゃっ…
「…ああっ‥ゃん…」
時に赤子のように優しく吸い、時に歯をたてて甘噛みする。
その度にアキは呼吸を荒げ、艶めかしい嬌声を弱々しくあげた。
(…ここまで来たら‥止められないよな‥)
マサヒコのリミッターは、アキが自分にキスをした時点で既に振り切れ壊れていた。
それでも、彼の常人以上の理性が欲望のダムを辛うじてせき止めていた。
(……それなら!!)
しかし、アキの仕草や羞恥に悶える顔がダムに亀裂を与え、トドメを刺した。
「アキさん…俺‥もう…」
「……うん」
マサヒコの言葉を最後まで聞かずとも、アキは何を言いたいのか理解し、
息を荒げながら頷いた。
二人はムクリと立ち上がると、互いに服を脱ぎ始めた。
マサヒコは焦りの余り手が震え、上手く脱ぐことができない。
(…チッ!まどろっこしい…)
…ファサッ
マサヒコはトランクス一枚を残し、全てをがむしゃらにベッドの上に放り投げた。
苛立ちがそうさせたのか、着ていたシャツのボタンは3つばかり欠けていた。 (急がないと‥アキさんに迷惑だもんな…)
マサヒコは逸る気持ちを抑えつつ、ゆっくりと振り向いた。
「‥あ、アキさん……!?」
「…どお……かな?」
アキの格好に、思わず言葉を失って固まる。
視線の先には、Tシャツと靴下しか身につけていないアキの姿。
恥ずかしさで顔は赤く、手をもじもじさせながら茂みを隠している。
「…な、何でそんなカッコ…?」
「カナミ達が…こういう格好の方が、男は興奮するって……ダメ?」
「…いや、俺は……」
(…カナミって、アキさんの友達の『キノコモーター』って呼ばれる人か…)
マサヒコは何と言っていいかわからず、無意識に目線を足元へと落とした。
そこには自らが夜な夜な行為に耽る時よりも、
誇らしげに天を向いて下着越しに自己主張をしている分身がいた。
「…体はショウジキみたいね♪」
つん…
「はうっ!?」
アキはマサヒコの分身を指でつついた。
マサヒコの体が、くの字に折れ曲がる。
突然の刺激に分身はより固さを増し、ヒクヒクと震えていた。
「これは…さっきの仕返し♪」
先ほど見せた小悪魔のような笑顔で、マサヒコの分身を下着越しに指で弄ぶ。
「…あっ‥ぅ…わ…っ」
裏筋をなぞり、鈴口に指を当て、混ぜるようにかき回す。
「…くっ…ぁ…」
アキが弄るにつれ、指先からニチャニチャとイヤラシい音が部屋にこだまする。
程なくマサヒコの下着は、突起の先端から滲み出た液によって色が変わっていった。
「準備オーケーみたいね…」
指を戻すと、マサヒコの下着とアキの指との間に、細く透明な橋が掛かっていた。
「さぁ‥来て…」
「…はい」
アキはマサヒコを受け入れるかのように両手を開き、ベッドに座り込んだ。
カーテンの隙間から差し込んだ日差しがアキの下半身に当たって、
金色の恥毛がテラテラと輝く。
その部分と大腿は、既にアキ自身の体液で艶やかに潤っていた。
トランクスを脱ぎ、ゆっくりと分身をアキの裂け目に添え狙いをつける。
同時に、アキはマサヒコの首に手を回し、全身を委ねた。
「いきますよ…」
「……うん」
マサヒコはアキの腰にやった手に力を込め、一気に貫いた。
「…あうっ!?」
初めての指以外の異物の侵入。
それは想像より痛かったが、これでカナミ達と絶対的差が生まれることを考えると、
案外優越感の方が強く感じられた。
「…だ、大丈夫ですか!?」
「う、うん…大丈夫‥だから、動いていいよ?」
額に汗を浮かべながら自分のことを心配するマサヒコに、
アキは強い痛みを抑えながら、無理やり引きつった笑顔を作って答えた。
―それでも、涙は止まること無く流れ続けたが。
「…でも」
「いいから…続けて」
辛そうな笑顔を見なくても、マサヒコはアキがどれだけ辛い状態か理解出来た。
なぜなら、貫いた瞬間、首と背中に鋭い痛みが走ったのを感じたからだ。
深々とアキの爪が刺さった皮膚からは、血が次々と背中を沿って滴り落ちていく。
しかし、これが二人の愛の証だと解釈すると、不思議と痛みは収まっていった。
…ちゅぷっ……ずちゅ…
アキの表情が緩やかになったのを確認し、マサヒコは少しずつ腰を動かし始めた。
互いの肌がぶつかり合い、水音が奏でられる。
「ま、マサ…君‥気持ちいい?」
腰を動かしながら、マサヒコは乱暴に首を縦に振った。
意識を集中しなければ、今すぐにでも暴発してしまうだろう。
――『膣出し』だけは、何としても避けなければならない。
マサヒコは歯を食いしばって、必死に押し寄せる快感の波に耐えていた。
「‥ぁん…ひぃ…ゃぁ‥おかしく…あぁ‥なっちゃいそう」
アキが目を瞑ると、溢れた感情の粒が頬をつたって首筋に流れ落ちていく。
(…アキさん…あぁ、スゲエかわいい…)
マサヒコはその雫を舌で優しく舐め取った。
「ひゃん!?……ダメ…っ……くすぐったい…よぅ‥」
舌先から零れた唾液の道が、アキの首筋から頬にかけてキラキラと輝く。
その反応の余りの良さに、ついつい調子にのってアキの頬にキスを繰り返した。
「……ばかぁ…っ‥だめぇ…」
アキはイヤイヤするように首を振ると、マサヒコの唇が偶然耳の上に重なった。
「‥ひゃう!!……ぁん‥そこ…やだ……っ」
「…ぐあっ!?」
瞬間、アキの体に力が入り、マサヒコのペニスに掛かる負担が増す。
「あ、アキさん…っ…いきなり‥そんな‥強く…っ」
「…ぅ…ご、ごめん…はぁ‥っ」
マサヒコの我慢は、もう限界に達しようとしている。
初体験の為に無駄に体力は使い果たされ、
精神力でどうにか行為は続けられていた。
「‥アキさん…っ、俺……もうっ!!」
「…ぁん……わ、わたしも‥っ!!」
アキは掴んでいたマサヒコの肩を更に強く抱き寄せ、マサヒコは腰の動きを早めた。
ぱちゅっ!…ずちゅっ!…ぬちゅっ!
互いの限界が近づくにつれ、二人から奏でられる音は大きさを増していく。
顔を見合わせ、絡み合うような濃密なキスを交わす。
それは最期の時を迎える為の覚悟か、それともただ貪欲に求め合っただけなのか。
その真意は二人にもわからなかった。
「……っく‥ふわぁああ…ん!!!」
力尽きたのか、アキの全身が波打つように痙攣する。
波はマサヒコの体にも伝わり、未知の快楽が襲いかかる。
「…っ‥もう…無理だ……出るっ!!」
マサヒコは自分の分身が、更にもう一段階膨張したのがわかった。
右手を伸ばし、アキと自分の体液でドロドロになった分身を引き抜く。
ぶぴゅっ…どぶっ…びゅるっ……
「うわぁぁあ……っ」
マサヒコから放たれた青白い精液が、放物線を描いてアキの服と体を汚していく。
今までにない射精感に分身は上下に大きく揺れ、
マサヒコは声を漏らし、多大なる満足感に浸ってその場に立ちすくした。
やがて体力の限界を超えた二人は、マサヒコの服の散らばったベッドに倒れ込み、
そのまま意識を失った。
―マサヒコが目を覚まし、辺りを見回すと、青かった空は赤みがかり、
太陽は向かいの家が邪魔して見えないほど低くなっていた。
そして夕立でもあったのか、窓には小さな水滴が幾つか付いていた。
「アキさん!アキさん!」
「……うん?」
マサヒコがアキの体を揺さぶり目覚めを促す。
「もう夕方ですけど、大丈夫ですか?」
「…ふぇっ?ホント?」
マサヒコは行為の際に床に零れ落ちた液体を、ティッシュで拭きながら頷いた。
「ヤバっ!?……あいたたた…頭痛い」
「だ、大丈夫ですか!?」
起きたのはいいが、慣れない酒の副作用がアキを襲う。
アキはマサヒコに頼んで水と頭痛薬を持って来てもらった。
アキが寝ていた間にマサヒコはアキの体や服に付いた精液を拭き取り、
ベッドに投げ出した自分の服を片付けていた。
その為、アキが目覚めた時には、既にほぼ事後処理は済んでいた。
「…ゴメン!私が酔ったせいで」
服を着て薬を飲んだ後、暫しの間を挟んでアキが口を開いた。
「いや…俺が先に気づいていれば…」
マサヒコはアキを見ながら、申し訳無さそうに呟いた。
「…ねえ?」
「はい?」
「…いや、何でも無い」
「何ですか?言って下さいよ」
「…ううん。私そろそろ帰るわ」
アキは痛みが少し和らいだ頭を、右手で抑えながら立ち上がった。
テーブルの上に置いていた携帯と財布を取ろうと手を伸ばす。
ガシッ!
マサヒコは無言で、アキの帰宅を遮るようにアキの手を掴んだ。
「イタッ!?……ま、マサヒコ君?」
無言で俯いたままのマサヒコは、そのままアキの手を強く引っ張った。
「…きゃっ!?」
バランスを崩し、抱きつくようにマサヒコにもたれかかるアキの体。
アキは突然の事に困惑して、何事かとマサヒコを覗き込む。
重なり合う視線と視線。
(なんか…マサヒコ君、怖い…)
マサヒコの放つ緊迫した雰囲気が、アキの心をかき乱した。
「……何?」
「こんな‥後に言うのは忍びないですけど……俺‥アキさんの事が…」
マサヒコは顔を真っ赤にしながら、千切れた言葉をつなぎ合わせていく。
無論、目なんて合わせられる筈がない。
アキはようやく、マサヒコが自分を止めた意味がわかった気がした。
それは―。
「…好きです」
愛の告白。事前に察知は出来ていたが、心構えは経験不足の為不十分だった。
『日常が日常』のアキにとっては、高校入学後こんな事は勿論経験が無い。
「えっ…え〜と」
何と言っていいのかわからず、アキは口ごもってしまった。
カチッ…カチッ…
部屋は時計の音だけが響いている。
それはアキにとって、天が返事を急かしているように思えた。
「…ハァ……やっぱり、ダメですか…すみません」
「…へ?」
沈黙した空気を破って、マサヒコはアキの手を離すと深々と頭を下げた。
「…ハハッ。そりゃそうですよね…出会って、こんなにすぐ
好きだなんて言われても…アキさんに迷惑かけるだけですもんね…」
低く、悲しげな声で、そう言いながら顔を上げて精一杯の笑顔を見せる。
握った拳は小刻みに震え、笑顔は本当の気持ちを押し殺したように歪んでいた。
「俺…先に下降りて、電気付けてきます」
ゆっくりとアキに背を向け、マサヒコはドアの方へ歩きだした。
(…何やってんだよ…お前。こんな事やっても…叶うわけ無いだろ?
諦めろ…お前には無理だったんだ。いや、初めっから結果なんてわかっていたんだ。
所詮…手の届かない高嶺の花だったんだよ…マサヒコ)
ドアへと近づく度に、心のどこかにいたもう一人の自分が蔑むように囁いてくる。
ドアを開け、廊下に足を一歩踏み出した時、
マサヒコは不意に違和感を覚え、アキの方に首を向けた。
「…待ってよ!」
違和感は、アキがマサヒコの着るTシャツの背中の部分を握っていたからだった。
「な、何ですか!?」
マサヒコがアキの手を離そうとTシャツを引っ張るが、アキは一向に離さない。
「…その‥気持ちは嬉しいんだ。…ホントに。
……私も、マサヒコ君の事が嫌いじゃなくて、実際好きな方だからさ…。
でもさ…私達、付き合う前にその…Hしちゃったワケでしょ?
…なんか、周りで付き合ってる人達と比べたら…おかしいような気がして…さ」
アキは困った顔をして、おずおずと話し始めた。
彼女だって、まだ高校一年生。
カナミ達と連んでいても、僅かに王子様願望が残っている。
それが、アキがマサヒコとの交際を受け入れようとする本心を阻んでいた。
「…アキさん。世の中には、色んな愛の始まり方があるんだと思います。
電車で出会った人、合コンで出会った人。
勿論、俺等みたいに映画館で出会った人。
問題は『そこから何をしていくか』です。
…確かに、色々あってこんな事になっちゃいましたけど、
そこから始まった愛も、きっとあるはずです!
だから…もし、周りの目が心配なら気にしないで?
…俺があなたを守りますから…」
「…グスン。マサヒコ君…ゴメンね?…えっぐ‥私ったら」
「いいですよ。それに…あなたに泣き顔は……似合わないから」
「…ばかぁ…っ」
泣きじゃくりながらポカポカと胸を叩くアキを、マサヒコは力いっぱい抱きしめた。
「…私、君の事…グスッ…きっと好き」
「…なら、これから時間をかけて…その『きっと』を無くしていきましょう」
「…うん」
マサヒコはアキが泣きやむまで、アキの背中をさすり続けた。
―場所は変わって、小久保家の玄関。
やっとのことで泣き止んだアキが、別れ惜しそうに靴を履いている。
「…それじゃ」
「また…メールします」
「…君の声が聞きたいから、電話がいいな♪」
「…わかりました」
アキが玄関を開け、マサヒコに背を見せる。
「…あっ!?アキさん、忘れ物!」
「…へっ?」
ちゅっ
アキの頬に、優しく暖かい感触。
「…お出かけ前のキス…普通逆ですけど…」
彼なりの、アキの心をほぐそうとしての行動だろう。
「…ばか」
「いて」
照れ隠しに笑うマサヒコの頭に、アキの拳がコツンとあたる。
「じゃあね…」
「…ええ」
扉がゆっくりと二人を分かち、生暖かい風がアキに当たる。
いつも見る星空が笑っているように見えるのは、心境の変化からか。
自転車を漕ぐ足取りも軽い。
いつもと違う、恋人のいる夏。
そんな夏は始まったばかりだ。