「令ちゃーん」


遠くから呼ぶ声が聞こえた。

丁度二人分のマグカップを洗い終えたところで水道を止めると、
さっきまでリビングでレンタルビデオを見てたはずの由乃がいなくなっていた。










水槽










「由乃ー?呼んだ?」


同じくらい大きな声で聞き返しながら、スリッパをパタパタ鳴らして廊下に出る。
探し回らなくたって、家の中のどこにいるかくらい本当はすぐに分かるけど。


お風呂場にそのまま繋がる洗面所の扉を叩いた。

入るよと一応声だけかけて覗き込むと、由乃が浴室に滑り込んだところだった。
しかも着衣のまま。


「何やってるの?」


曇りガラスの向こう。由乃のぼんやりけぶる輪郭が、私に気付いて慌てたようにドアを閉める。
脱衣場に一人で取り残された私は、軽くノブを回してみるけど、戸は向こう側から抑えられていて簡単には開かない。


わざわざ呼ばれて来たのに、どうやら閉じ籠もられた、らしい。


「──令ちゃん、あのね、」


私の反応を見ながらくすくす笑って、お風呂場の中で由乃が小さく跳ねた。
その度に、その白いスカートのシルエットがふわっと舞い上がる。

私が選んだ薄い布のそれは、細い手足に絡まって揺れてまるで魚のひれみたい。


「なに?」


ガラスに直接手を触れながら中を覗き込むと、由乃も同じように掌をぺったりくっつけてくる。

半透明の板一枚を隔てて聞こえる声は、いつもと少しだけ違って私の耳で淡く響く。


「ここで、キスしてみたくない?」



「ここで、…って、どうやって?」

「こうやって、ガラス越しに」


その瞬間、唇が押し当てられて、微かなピンク色が透ける。

すぐ傍にあるのに、息遣いさえ届かない位置がくすぐったくて、
無意識に伸ばした指先は届かないまま、ゆっくりと冷たくなっていく。


思わず笑ってしまった私に、ガラス一枚越しにしっかり由乃の拳がお見舞いされた。


「なんで由乃っていっつもそんなに突拍子ないわけ」

「これは映画の影響だってば」


からかうように囁き掛けると、子供扱いしないでっていう時と同じ声色で返される。

付けっぱなしのテレビでさっきまで流れていたビデオのタイトルを思い出した。
人気のラブストーリーだけど、あれは悲しいシーンじゃなかった?


それでもねだられると断れなくて、仕方ないなぁと呟いて、額がぶつかるくらいに顔を寄せていく。



「一回だけだからね」

「うん」

「…いい?」

「……うん」



甘く滲んだ視線が絡まって、いち、にの、さん、で一緒に唇を寄せた。


ひんやりとした感触、一瞬だけ目を閉じて感じる。




「──…どんな感じ?」





「…よくわかんない」

「私も」



二人で顔を見合わせて、笑い出した。
そのまま、何故かわからないけど止まらなくなる。

冷たくなった自分の唇に触れながら、こんなのやっぱり違う、って、声に出さないで。


「これで気、済んだでしょ」

「何か、ちっともロマンチックじゃなかった」


同じ感想。そりゃあ家のお風呂場じゃねってもう一度くすくす笑い。


ぱっと突然ドアが開いて、そのまま勢いを付けて由乃が飛び出してきた。

どうにか受け止めると、一瞬だけ私の肩に顔を埋めて、可笑しそうに睫毛を震わせながら呟く。



「…やっぱり、本物の方がずっといいかも…」



私もそう思うって、同意の代わりにその肩を抱いた。

軽く触れるだけのキスだったのに、合わせた唇は今度こそ、由乃の熱で温かかった。














素敵なお題に思わずトキメいてしまいました。
タムラ松樫様に、大変勝手ながら捧げさせて頂きます。

由乃が見てたのは『セカチュー』です。何となく。





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