身体が弱ると心も弱るしその反対だってありうるけれどだからといって落ち込んでばかりいちゃいけないことはわかっているのにどうしようもできないときにはどうすればいいか
「……悟浄は、どこにいますか」
起き上がれるようになってから2日後、八戒はその間悟浄の姿をちらりとも見かけることはなかった。
3年間の同居生活期間中を含めても、こんなに長い間悟浄の姿を見ない日は八戒にとって初めての経験だった。
いつだってトラブルメーカーの悟浄には大概迷惑をかけられっぱなしでそれはだれがどう客観的に見てもその通りだとは思うが、だからといって悟浄の家を出て行こうとか思ったことは八戒にはなかったから、見慣れた紅い頭が見られないのはおかしな気分になる。
落ち着かない。
相変わらず錫杖はこんこんと眠りつづけているが、顔色は大分よくなったように思われる。これで、八戒が気を送り込めば彼女は目が覚めるだろう。
「…さあ、どこにいるのかしら。私たちも全然見かけないから」
如意棒がぱち、ぱち、とはぜる焚き火を見ながら、八戒を振り向きもせず答えた。いい加減うんざりしている様子が痛いほど伝わってくる。
「ちょっと僕…探してきます」
「…そうね。少し前までのあなたなら出歩くなんていったら殺してるところだけれどね」
そこで少し間を置いて如意棒が八戒を振り向いて続けた。
「結局あなたでないとどうにかできないんでしょうね。あのヘタレの情けない腰抜け男は」
まっすぐ見つめる如意棒の漆黒の瞳に、八戒は何も言い返せずふっと視線をずらして少しよろめく足を踏みしめて、洞窟を出て行った。
今まで黙って事の成り行きを見ていた三蔵は、無言で悟空に向かって顎をしゃくった。「ついていけ」という間違いようのない命令を、悟空は正確に理解して、これまた無言で、八戒の後を追った。
自分は悟浄探知機でもついているのか、と八戒が思ったのは洞窟を出てさほど探し回らずに悟浄の紅い髪を見つけたからだが、悟浄の方は八戒の気配を感じ取りもしていなかったようだ。声をかけると、こちらがびっくりするくらいびっくりして目を丸くして八戒を見上げた。
「悟浄」
「…お前、もう出歩いていいのかよ」
「おかげさまで」
しばらく沈黙が続く。ひざを抱えてうずくまる悟浄の隣で、八戒はその長身をかがめることなく、紅い悟浄の髪を見下ろしていた。
「あなたのその紅い髪を最後に見た時にはまだ竜王がえらい威張ってたときでしたけれど」
「…あいつらならどっかいった。錫杖が、身を呈して活躍したからな」
そう言って無精ひげを生やし、少し肉の落ちた薄い頬をぴく、と動かして悟浄は自嘲した。
「お前にゃ気を放出させすぎて倒れさせ、錫杖はあんなに子供なのに無理させて怪我を悪化させ、俺はこれほど情けない男だったのかと笑いたくもなってくるわ」
八戒の後をついてきていた悟空は木の陰からその様子をうかがっている。罪もないはずのその木はおそらく悟浄の手によってわかりやすく八つ当たりの後をつけられていた。
悟空は、そういう悟浄になんと答えていいのかわからなかった。情けないと殴り飛ばしても「ああそうだ」というだけで悟浄にはちっとも悟空の言葉は届きやしない。
八戒ならどうにかなるかもしれない、と悟空は少し思ったが、この間悟空があれだけ食い下がっても全く骨折り損だったことを思い出し、いい加減このクソエロ河童をどうしてくれようかと思案に暮れた。
「……子供子供と煩い人ですね、あなたも」
カッ
鋭い音がして、悟浄がうずくまっている地面のすぐ隣がえぐれた。
悟浄はびっくりして顔を上げて八戒をみる。八戒は両手を構えて気を放出した直後だった。
「…!アホか!!気なんか出すな!また倒れたいのかよ!」
「…あなたを見てたらいらいらしましてね」
少しふらつく足をしっかりと踏ん張りながら、八戒は明らかにものすごく怒っていた。
いつもなら、にっこり笑顔の裏で怒っている八戒が、怒りの表情をあらわにして悟浄を見下ろしている。
「そうやって気が済むまで落ち込んでたらいいじゃないですか。こっちが迷惑です」
冷酷に八戒は宣言した。その迫力に気圧されて、悟浄はうずくまった体制から手を後ろにつき、額から汗を一筋たらして八戒を見上げている。
「錫杖が召喚されて戦った事実をあなたは踏みにじろうとしているんです。あれだけ全力を尽くした錫杖を認めようともせず、自分のエゴで彼女を更に辱めている」
「……辱めてるだと?」
悟浄が八戒のその言葉に反応した。八戒はますます凍てついた視線を悟浄に向ける。その碧の瞳は紅い髪を映してはいたがちらちらと燃える怒りの炎が透けて見えるかのようだった。
「目が覚めた彼女があなたのその姿を見たらどんなに屈辱でしょうね!いいですか、悟浄。覆水は盆に返らないんですよ。やってしまったことをくよくよくよくよいい加減にしてください」
悟空はごくりと自分が唾を飲み込む音を聞いた。八戒がそれだけ怒っているのをみるのは初めてだった。あの様子から見て悟浄もきっと初めてなのに違いなかった。
八戒でも感情をストレートに表すことがあるのだと、悟空は心の底から驚いた。いつだって自分のまでは完璧な八戒を演じているというのに。
「他人の気持ちは踏みにじっておいててめぇ様は気持ちいい自己嫌悪に逃避ですか。いい加減あなたには呆れました」
「……知った風な口ききやがって…!」
言われっぱなしだった悟浄がようやくそこで反論する。悟浄も負けじと八戒を睨みつけていたが、その瞳は八戒に比べて迫力に欠けることはなはだしかった。
「ええ、きかせていただきます。なんせ僕は当事者ですからね」
八戒は悟浄をまっすぐに見下ろして言った。
「自分がこうしたい、と思ってしたことの結果、相手がそれによって傷ついたり落ち込んだりしていたらどれだけ自分が傷つくかってあなたならわかってると思ってました」
悟浄の紅い瞳に何かが走った。八戒を見上げる目に先ほどよりは何か、多分生気のようなもの、が宿っている。
悟浄は、八戒の言わんとするところを正確に把握した。
悟浄は、殺されてもいい、と思っていたのだ。それで母が泣き止むのなら、自分の存在などないほうがいいのだ、と。
しかし、腹違いの優しい兄は、それを是としなかった。自らの母親を切り殺し、悟浄を生かして、自分はどこへともなく消えたのだ。
「僕は義務感や正義感発動の結果としてあなたに気を送ったわけじゃない。そうしたかったからそうしただけなんです」
「…八戒」
「それで倒れたのだとしたら、それは僕の責任です。僕が、自分をコントロールできなかったから起こった結果であって、それについてあなたにどうこう言われるほど僕は弱い存在じゃありません」
「八戒」
「僕の身体をあなたにそんなに心配していただくような、あなたに守られるような情けない男じゃない、と自分では思っていますからね。あなたがそんなに落ち込んでいるとむかついて今すぐぶっ殺したくなります」
「八戒」
悟浄はようやくひざをついて立ち上がった。同じくらいの背の高さを持つ八戒の碧色の瞳を真正面から見据える。
八戒は悟浄の視線をまっすぐ受けとめた。険しい表情を崩さず、でも弾劾の奔流は八戒の口からは流れ出なかった。
八戒はぎゅうとくちびるを噛んでいた。
「……八戒……泣いてる……」
八戒からも悟浄からも死角になっている木の影で、悟空が我知らずつぶやいた。
「ん……」
小さく身じろぎをして錫杖は重いまぶたをゆっくり上げた。一番最初に飛び込んできたのは土の色だったので、自分は土の中に埋められているのか、と彼女は思った。
「気が付いた…?」
その次に視界に入ってきたのは、ついこの間ほとんど同時期に妖怪形をとることになった孫悟空が使う最強の魔器―――如意棒だった。
「……」
しばらく状況把握に努めているようだったが、錫杖は動かせるだけの範囲をぐるりと首を回して見てしまうと、そこに自らの主の姿がないのを見て大きくため息をついた。
「……とりあえず、水でも飲みなさい」
錫杖を抱え起こしながら如意棒が言った。のどがからからだったので、錫杖は素直にそれに従った。バケツから小さな椀に移された水を、こくり、と音を立てて飲み込む。
干からびていた身体に急速に水分が浸透していくのが自分でもよくわかった。
そして、とりあえず、主の姿がない、ということもわかった。
彼がいない理由をほぼ正しく錫杖は洞察し、もう一度深くため息をついた。
「……あたし…男の姿になりたかった」
「そうしたら沙悟浄がちゃんと使ってくれたって?」
唐突な錫杖の台詞に、如意棒は驚きもせず淡々と答えた。一つ頭を前に動かして、錫杖は残りの水を一気に飲み干す。
「だめよ、あの腰抜けは。どんな姿でいるにしろ、子供に対してはあーいう態度しかきっととれないでしょうよ」
「……」
その通りだ、と錫杖は思い、手のひらの中の木の椀を意味もなく見つめて、とても悲しい気持ちになっていた。
妖怪形を取る前まではこんな気持ちは知らなかったのに。
単純に、召喚に応じて戦っていればよかったのに。
「私たち、何で妖怪形になると思う?」
如意棒が錫杖の手のひらから椀を奪い、もう一杯水を汲んで、彼女に渡しながら言った。
「ならなくってもいいのに」
心の底からそう思って錫杖はそう答えた。とにかく、この姿になってから彼女と主とがうまくいっていないことは誰の眼から見ても明らかだった。
「そう、今のあなたの状況なら全くもってその通りだわ。でもね―――――」
そこで一息ついて彼女は錫杖をまっすぐ見た。
「私たちは、この形を取ることによって、主と交信することができる。何を考えているのか、どうしたらいいのか、聞くことができる。それがどれだけすごいことだか、それはあなたにだってわかるでしょう?」
「……」