ケーキとチキンとプレゼントという組み合わせは一体いつの時代からクリスマスの定番となってしまったのか




 細い細い銀の針のような雨が暗い窓ガラスを間断なく叩いていた。
 世間一般にいうところのクリスマスイブ何だから、雨ではなくて雪になってもいいものだろうと八戒は思い、頬杖をついて、見るとはなしにめくっているヘミングウェイをまた一枚ぱらりとめくった。
 この近辺でもあちこちで見かけるようになった、基督教の教会には、唯一絶対の神をたたえる歌が軽やかに流れ、あたたかい光が漏れる家には、サンタクロースを信じて疑わない子供たちの興奮が、あわのようにはじけては、断片をそこかしこに撒き散らしていた。

 いまだ八戒は、雨の夜がさほど得意ではなかった。

 身を焦がし、のた打ち回るほどの喪失感すら失った彼の心は、雨だからといって壊れるほどの欠片すら残していないほど擦り切れ、粉々になっていたが、だからといって、じゃあ雨の夜です、大手をふってにこにこしていられます、というほど擦り切れすぎてもいなかったのは完全な事実であった。
 とりあえず、何か、何でもよいから何か、していないと、わけもなく黒いものに心のそこから押しつぶされそうになっていくことも確かだった。

 だから、本などめくってみたのだが、動作の少ないそれが劇的な効果をもたらすはずはなく、とにかくもっと動作の大きなことをしようと八戒はきょろりとあたりを見回した。

 掃除。洗濯。食器洗い。

 すべてのことは完璧にやり終えてしまっている。今日は気合を入れて、食器棚のグラスまで全部ぴかぴかに磨いてしまったから、本当に何もすることはない。

 八戒は一つため息をついて、とりあえず腰をあげて、何か身体を動かせるものを探した。

「……クリスマスイブですもんね」

 世間のざわめく声が断片的にこの森の奥深くにも風に乗って届いてきていた。

「少しばかり派手にしても、きっと怒られませんよね」

 そうつぶやいて、八戒は、戸棚からふるいと小麦粉を取り出して、その白いさらさらとした粉を、大量にふるいにかけはじめた。






「本命とやらがいるんだろ。皆。じゃ、俺、邪魔だから帰るわ」
「えーーーーー、なによー、悟浄――」
「もうちょっと飲んでいきなさいよー。イイじゃない」

 2ゲームだけ終えて、まあまあぼろ勝ちした悟浄は、さっさと上着を引っつかむと、しなだれかかる女たちの間を縫って、 酒場のドアを開けながら言った。
 勿論、しなだれかかっていた女どもがそんな台詞を受け入れてくれるはずはない。非難轟々の中、悟浄は涼しい顔をして唇の片端をにっと上げ、言葉を続ける。

「よくねーって。俺は、あんたたちの本命サマに背中刺されてしにたかないしー」

 それだけ言ってくるりと背を向けて、悟浄は酒場を後にした。後ろのほうで女たちの声が何か聞こえたが、悟浄には知ったことではなかった。
 今晩女を抱いたとしたら、その女は悟浄が自分のものになったと錯覚するだろうということくらいまでは、悟浄はクリスマスイブという日の付加価値をまあまあ理解していた。
 残念ながら悟浄は悟浄のものでしかないし、そうやって錯覚させた女の幸せな幻想を破るのもあんまり気持ちのよいものではなかったので、ハナから悟浄は今日はとりあえず家に帰ろうと思っていた。 

 悟浄的にはかなり(いや、驚異的に)早い時間、宵の口、といえる時間だった。

 食事は軽くではあるが済ませてあるから、八戒の手を煩わすこともない。
 そのまま何事もなかったかのように、1日が終わり、明日の朝太陽はまた東から昇る。それだけの話だ。

 道すがら、最終セールをうたうケーキ屋や、鳥を売っている肉屋や、おもちゃ屋や、ポインセチアを山と積んでいる花屋や、そんな店から悟浄に声がかかったが、悟浄はそれらのものに全く興味がなかったので、ひたすら無視する作戦にでた。

「…なんでこうクリスマスイブだからって皆盛り上がっちゃってるかなー」

 ポケットに手を突っ込み、少し前かがみになって、暗い森へと続く道を、悟浄はその喧騒から逃れるためかのように急いだ。





 卵白は硬めに7分立て。
 生クリームはしっとりと5分立て。
 そこに振るったばかりの小麦粉をさっくり混ぜて生地を作っていく。
 卵黄とバターを滑らかにあわせて。
 卵白のあわをつぶさないように、先ほどの生地にべたつかないよう混ぜていく。

 180度にあたためられたオーブンに、型に入れた生地をほ織り込むと、八戒はキッチンのテーブルの上でほお、とため息をついた。
 とりあえず身体を動かすこと終了である。何か次の身体を動かすことを考えなければならない。

 生地を包む生クリームは直前に泡立てたほうがいいに決まっているのだが、それまで手持ち無沙汰なのがいやで八戒は大き目のボウルにたっぷりと生クリームを入れ、ゆっくりと泡だて器をそれに当て始めた。


「……タダイマ」
「……お帰りなさい、悟浄、どうしたんですかこんなに早く?」

 甘い香りの漂う自分の家の台所に一歩足を踏み入れて、悟浄は八戒がボウルを抱えて泡だて器を当てているのを見て、自分は家を間違えたのかと真剣に思った。確かに八戒は料理上手だが、泡だて器を当てているというのはどうも悟浄的にオトナの女性のイメージがある。―――――――――――遠い昔に、兄のために嬉しそうに同じようにそういうボウルを抱えていたオトナの女性を悟浄は知っていたから―――なのだが。

「今日は皆様本命とやらとデートだってよ。俺干されちゃったわけ」

 肩をすくめて苦笑しながら悟浄は言う。八戒はいたずらっぽく微笑んで相変わらず泡だて器をしゃかしゃか動かしていた。

「悟浄なら引く手あまたでしょうに。一人の女の人に縛られるのがいやなだけですか?」
「そーねー、とりあえず俺のカラダは俺だけのものだし?」

 ダイニングテーブルの椅子を引っ張ってきて、その背もたれに両腕を持たせかけ悟浄は八戒を見ながら言った。

「それよりナニ、これ」
「ケーキですよ」

 オーブンを指差して言う悟浄に八戒はにっこり笑ってしゃかしゃかいう音をBGMにこたえる。

「…なんで突然ケーキなんか」
「いいじゃないですか、クリスマスイブなんですし」
「それが気にいらねー。この筋金入りの無神論者の悟浄様がなんで神の子の誕生日なんか祝わなきゃなんね―んだよ」
「お祝いなんてしなくていいんですよ。気分ですよ、気分」

 修道院にいたとはとても思えない八戒の発言に悟浄はほんの少し目を丸くし、そしてすぐにその意味するところの半分くらいを悟ったので、それ以上は反論せずに口をもごもごさせて、背もたれの上に顎をもたせかけた。

 唯一絶対の神がこの世に存在するならば。
 どうしてこの世は幸福で満ち溢れないのだろうか。
 
 ずっと泣いてばかりいたあの人すら幸福にできなかったというのに。
 あの人と自分の間で常に苦悩していたとても優しい兄に、あんな苦しい選択をさせたというのに。

 目の前で最愛の人を殺された人間がいる、というのに。


「いいじゃないですか。悟浄。あなた、少しばかり太るべきですよ。肉がなさすぎて冬場なんて上半身裸でいられると僕が見てて寒くなります」
「お前のあたたかさのために俺が太ったらモテなくなっちまうだろーが」

 八戒はきっと何かいわずにいられないのだろうと悟浄は予測し、その予測はほぼ正解であるだろうことを確信していた。なぜなら悟浄も何かいわずにはいられない気分であり、沈黙はろくでもない記憶を掘り起こしかねないという不安が彼の心の中で頭をもたげていたからだ。
 しゃかしゃかいう八戒の腕の中のボウルには真っ白の生クリームがだんだんと泡立てられ、角がぴょんぴょんとび出してくる。

「…それにしても悟浄、帰ってくるとは思ってませんでしたから。太るのいやでしたら、ケーキ、無理に食べなくてもいいですよ?」

 どうもちょうどよい具合に泡立てられたらしい。八戒は手を止めて、泡だて器でその生クリームを何度も何度も救って、角の具合を確かめていた。

「…そうはいってもあんなにでかいのお前一人で食べるわけにいかね―じゃん」
「そうなんですけれど」
「ま、俺もお相伴に預かるよ」
「じゃあ、デコレーションするまでちょっと待っててくださいね」

 チン、と音がして、オーブンは既定の焼き時間が終了したことを告げた。八戒は竹串をその生地にそおっと射すと、ゆっくりと引き抜いて、そこに何もついていないことを確認してから、あみの上にスポンジをのせて粗熱をとった。

 





「…男2人でケーキ食うってのもあれだな。ちょっとこう全然うまくもなんともね―し」
「だから無理して食べなくってもいいですってば」

 真っ白な生クリームにきれいにデコレーションされた真っ白なケーキを前に、悟浄はまじまじとそれを見つめて感心したような口調で言った。
 八戒は苦笑して、先ほどとおなじ台詞を繰り返す。悟浄が帰ってくるとは本当に思っていなかったが、そのケーキをどう処分しようかとも考えていなかったのは事実だった。悟浄が食べてくれるのは大変ありがたいが、文句をたれつつ食べられても味気ない。
 もっとも、きれいなきれいなあのひと以外の誰と一緒に食べる食事も八戒にとって味気ないものではあるのだが。

「いーの。料理上手な八戒さんの手料理残したら殺されるし」

 ざくりとケーキから大きな塊を切り出して、大きな口をあけて悟浄はそれをほおばった。

「じゃあ誰とだったらおいしいっていうんですか」

 誰に殺されるんだ、と突っ込もうとして八戒はそれに嫌な予感を少し感じた。
 悟浄は八戒が愛した人を知っている。どうして愛していたのか。どうしてその人を失ったのか、全部知っている。
 だから、とりあえず話の方向を変えてみた。それが成功するかどうかはともかくとして。

「んーーーーーー、そりゃー、キレーなおねーちゃん」
「……はあ」

 あまりに予想通りの答えが返ってきて八戒は苦笑した。
 そりゃあ悟浄ならキレーなおねーちゃんなどよりどりみどりなことは間違いないだろうのに。
 本命を作らない、あるいは作れないのかもしれないが、悟浄のその心の孤独を少しだけ八戒は感じた気がした。

「そりゃまあ確かに、僕もキレーな女の人と一緒に食べてたときが一番おいしいと思いましたけどね」
「だろ」

 そう言ってまた大きな一切れをごくりと飲み込んだ悟浄は、次の瞬間まるで蛙でも飲み込んだかのような顔をして、瞬間的に八戒の表情を伺い、そして平静を装ってもぐもぐ口を動かし始めた。

「まああれだ。俺もキレーな女が食べてんのを見てたときが一番おいしそうに思ったからなー」

 次の一切れをほおりこみながら悟浄が視線を皿に向けたままで言った。

「俺のお袋さ、すっげー美人でさ、料理とかもうまかったんだぜ。お袋が兄貴のために一生懸命ボウルであわ立てた生クリーム使って作ったケーキ、すっげーうまそうだった。お袋も自画自賛してたし」

 口に運びかけていたフォークを一瞬止め、八戒は悟浄をまじまじと見てしまった。
 悟浄が自分のことを言うのは初めてだ。

 悟浄にお兄さんがいることも今はじめて八戒は知った。

「お袋、そりゃーうまそーにそれ食うんだ。あんなおいしそうなケーキあとにも先にもきっとあれっきりだろうな」
「じゃあ、キレーな女の人が食べてるケーキが一番おいしそうという共通認識ができたところで」

 少しかすれた声で八戒が言い、悟浄に向かってにこりと微笑んで見せた。
 それ以上その話題に触れないという明らかすぎる意思表示だったが、悟浄はなぜかそれを無視した。

「お袋、料理中に俺が近寄ったら怒るんだ。ほんとに料理上手なんだけどさ。よく包丁持ったり、斧持ったりして怒られたもんだ」

 悟浄の中の何かがあふれ出てくるようだった。
 今まで微塵も見せたことのなかった悟浄の過去が、悟浄の口から語られることに八戒は不思議な感覚を覚えた。
 かくしとおしてきたそのプライド。
 その心の強さ。
 今この瞬間にその内側を見せる悟浄がいる今日という日は、悟浄にとっても特別な日なのだろうか。

「この髪と、この瞳がお袋は心底嫌いでさ。俺を見るたび泣いていた。なんで生まれてきたんだ、って泣いていた」
「……悟浄」
「ある日お袋もとうとう我慢できなくなったんだろうな。斧持ち出して、俺を切り殺すことをとうとう決めたらしい。俺はそれでお袋が泣き止むんだったら、あのきれいな人が笑ってくれるんだったらそれでもいいと思った」

 またさらに一きれ、悟浄は大きな塊を口の中にほおりこんだ。

「だけどこのとおり悟浄さんは生きています。それはナゼでしょう?」

 まるっきり八戒のほうを見ずに、悟浄はフォークを持ったままの右手で頬杖をついて、唇を片方だけ上げてつぶやいた。
 そして、それっきり黙ってしまった。
 

 八戒は、なんとなく自分の胸の中の黒いもやもやが小さくなっていくような気がしていた。
 どうしてそんな風に思うのかと彼なりに分析してみた結果、どうも、悟浄が自分のことを八戒に話した、ということに起因しているらしいと結論付けざるをえないようだった。

 遠い遠い昔、牧師がお説教の中で、深い悲しみに陥っている人は他人のことを考える余裕があったほうがいい、といっていたのを八戒は思い出した。
 自分が深い悲しみに陥っているかどうかといわれれば、陥っているなどという生易しい表現で表現し尽くせない状況であることは間違いないのだが、その自分に今まで考える余裕を与えてくれる「他人」の存在などなかったのだから、余裕があるないなどと言い出すのは論外だった。

 だが。

 強い男だと八戒は思った。悟浄は、とても強い男だと。

 1年前、自分のことには一切触れずに、八戒の懺悔につきあうことで悟浄は八戒に生きる道を選ばせ、
 そして今、自分のことを、おそらく一番苦しい自分のある部分を見せることで、八戒をまたどこかから連れ出そうとしている。
 

 本当に強い男だ、と八戒は思った。だから、悟浄と一緒に暮らしていけるのだろうと、八戒は思った。

 
「とりあえず、きれーな女の人が手近にいませんから、代用品ってことで」
「ま、しゃーねーわな」

 最後の一切れをばくりと飲み込んで、悟浄はもぐもぐ口を動かしていった。

「むさくるしい野郎ですみません」
「お互い様じゃん」

 母親の話をし始めてから初めて悟浄は八戒の碧の瞳をまっすぐにみつめ、にっと笑ってそう言った。


 


 






 
 
 






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