結界の中にいる結界を作っている存在にダメージを加える方法を知っているのは一体誰か



「孫悟空。紅竜王は青竜王の結界から抜け出てきたはずだわ」

 如意棒が豊かな胸の下で腕組みをしながら悟空に確認した。悟空は少しだけその言葉を噛み砕く時間が必要だったが、噛み砕いてしまったあとは驚くほど真摯な表情で如意棒の言葉に耳を傾けている。

「紅竜王が現れたのは一体どこから?」

 悟空が空間の一点を指差した。あのオレンジ色の髪と瞳を持ついまいましい油断男は確かに髪の毛から唐突に何もないはずのその空間から出現したのだ。
 悟空の指差す先をみつめる如意棒と三蔵はお互いに眉間に深い皺を刻んで何か深刻に考え込んでいる。如意棒はそのうちそこに手をかざして何か口訣を唱え始めた。

『悟浄があたしを呼んでくれさえすれば』

 音声とはならない、頭の中に直接注ぎ込まれてくる―――思念波とでもいうべきものか―――で、錫杖は苦しそうに言った。

『あたしは自分の意志では多分そこには行けないけれど、悟浄があたしを呼んでくれたらどんなところにでも出現できるはずなのに』
「孫悟空、いいから錫杖を黙らせて。あんな大怪我したのこの子きっと初めてよ。そんな状態でこれ以上の負担をかけるわけにはいかないわ」
「黙らせて…って理由はよー――く理解できるけどどうやってやればいいんだよ!」
「煩い、それくらい自分で考えろこの猿!!」

 相変わらず難しい顔で口訣を唱えながら如意棒は悟空に向かってとんでもない要求を出した。悟空の反応は至極ごもっともなものであったにもかかわらず、三蔵にまでそんなことを言われてとりあえずどうしたらいいのかわからずに悟空は心底困った表情で錫杖の形をとっている錫杖を(この言い方も大概おかしいのだが)見つめた。

「紅竜王に重力を操る力がないのは確かだ」

 三蔵が思い切り不機嫌な表情で、マルボロを思い切りふかしながら言った。

「しかし、奴が青竜王の結界から自由に抜け出てこられたというのもそれも確かだろう。この猿は普段は役に立たないが戦闘のときはまあまあ役に立つ」

 三蔵の俺に対する評価はまあまあかよ!
 と、思いっきり文句を言いたかった悟空はしかしそれをぐっと我慢して錫杖を落ち着かせる方法を何とか一生懸命考えようとしていた。悟空の手の中で錫杖は苦しげなその思念をずっと発散しつづけている。

「紅竜王と青竜王の共通点といえば――――――」
「それしかありえないわね」

 ほぼ同時に同じ結論に達したのであろう。如意棒と三蔵はお互いを見やった。三蔵の表情は先ほどと全く変わらず深い皺が刻まれたままであったが、如意棒の表情は先ほどとは比べ物にならないくらい明るいものであった。

「ピイッ」

 鋭い鳴き声をあげて、悟空が指し示した空間に舞い上がったジープはそこに首をぐっと伸ばした。

「…はいることができそう?『西海白竜王敖潤』…いえ、ジープ?」

 その紅い視線だけを如意棒に向け、ジープはもう一度鋭く鳴いた。

「……ジープ……?」

 悟空が不思議そうにジープを見やる。そして次に聞いたこともないような名前でジープを呼ぶ如意棒にその金色の瞳を向けた。三蔵も怪訝そうに如意棒を見やる。

「竜王の一族は同属をとても大切にするわ」

 如意棒が、何事もなかったかのようにひとりつぶやいた。

「そこのクルマに変身する白い小さな動物も、立派に竜属よ。どう、玄奘三蔵。少しはこれで活路が見えてきたと私は思うんだけれど」
「……それ以外に今のところ方法はないのは確かだな」

「ピイッ」

 再びジープが鋭く鳴いて紅竜王が突然現れたというその空間にまっすぐ首を伸ばした。

『あたしもいく…!』

 錫杖が今までになく大きな声でそう主張するのが聞こえた。

『あたしも連れてって。ジープ。あたしを銜えて悟浄のところに連れて行って』
「何馬鹿なこと言ってんだよ!錫杖、お前今すっげー怪我してんだぜ。血なんかだらだら流れてるし大体悟浄はお前のことちっとも呼んでないじゃないか」

 大慌てで悟空は手の中で暴れる錫杖を必死で掴みながら大声で怒鳴った。
 竜王の各個撃破の策は錫杖がああ動かなければ破れなかったことは悟空にはよく理解できている。確かに黒竜王も紅竜王も倒すことはできたが、それはあくまであの状況が打破されたからであって、きれいに分断されたままであれば、全滅していてもおかしくはない状況だったこともよくわかっていた。

 しかし、だからといって、悟空はそこですばやく紅竜王を倒せなかった自分を笑って許してやれるほど広い度量を持ち合わせているわけでもなかった。不覚にも、錫杖に背中を蹴り飛ばされなければ、とんでもない状況に陥っていたということを認めるのも悔しすぎた。

 それなのに、錫杖はまだ戦おうとしている。あんな重傷を(多分あの変態札使いに三蔵が負わされた傷よりは確実にその傷は深いはずだ)負っていながら。そこまでしてそんな状態の錫杖を戦わせなければいけないほど自分に力がないという事実を突きつけられるのは心のそこから嫌だった。

『……私は、魔器よ』

 驚くほど深い、よく澄んだ声が響いた。

『魔器は、特定の使い手に使われてこそ最大の力を発揮する――――――そして、またその逆も真なり』

 ぼうっと淡く錫杖が光り、じゃらん、と鎖のなる音が聞こえた。

『あたしの今の使い手は沙悟浄のみ。沙悟浄をあたしは失うわけにはいかない。あたしを失っても沙悟浄には痛くも痒くもないけれど、あたしは、沙悟浄を失うわけにはいかないの』


 



「魔器を呼ばずによくそこまで保ったものだ」

 てめーなんざ錫杖がなくったってよゆーで倒してやるってんだよ

 という悪態を口に出すことが悟浄はできなかったのでとりあえず散々頭の中で目の前の「重力」を操るというわけのわからない男を罵倒した。しかし、罵倒すること自体に激しい疲労が伴っている。手足は既に感覚をなくし、ただの重たい物体として悟浄の肩や膝につながっているものに成り果てていた。
 先ほどオレンジの髪の男に殴られたのが効いているのだろうか。目もあまりよく見えない。

 しかし悟浄にはできなかった。
 あんな小さな、少女の姿をした武器を平然と使うことは悟浄にはできなかったのだ。

 そして更にしかし、こんなところでくたばるわけにもいかなかった。
 悟浄の命はお気軽に捨ててもいいものでは決してなかった。
 目の前に倒れているはずの碧の瞳を持つ元同居人ともお気軽に、はいさようならをするわけにはいかなかった。

 3年前、勝手に悟浄の目の前に腸まではみ出させて現れた大量虐殺犯。
 自分で何をどうとち狂ったのかさっぱりわからないままに悟浄はあろうことかその男を拾って家につれて帰り懇切丁寧にその傷だらけの身体に治療を施した。
 姉と通じていたとか人間も妖怪も殺しまくったとかそういう懺悔話にまで付き合ってやるほど悟浄はなぜかそのこげ茶色の髪をした一見普通のやさしいおにーさんの青年に入れ込んだ。

 死なせたくなかった。

 何故死なせたくなかったかといえば初めてだったからだ。
 この紅い髪と瞳を戒めの色だと言った男が。

 ―――という時間的にかなり矛盾を生じるその結論を悟浄は無理に自分に信じ込ませてきた。
 戒めの色だと言ったのはその男が目を覚ましてかなり動き回れるようになってからの台詞であり、それまでに悟浄は散々当時名を知らないままだった猪悟能の世話を焼きまくっていたのだから。

 
 いやしかしそんなことを思い出している場合ではない。


 思考が迷路に入りかける寸前に悟浄はきつく目を瞑ってもやのかかったようなその頭の中を少しでもはっきりさせようと意識を集中した。

 このままでは絶対やってはいけないお気軽にはいさようならコースまっしぐらだ。

 何とか動く眼球を、悟浄は碧の同居人のほうへ向けてみた。悟浄のほうに向いている左手をなんとか持ち上げようとしている、うつぶせに押さえつけられた八戒の影がうっすらと悟浄には見えた気がした。



 




 







 
 
 




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