Three days



11月7日


 初霜が降りた。すっかり紅葉した家の廻りの雑木林の赤や黄色の葉が白く縁取られ、朝日にきらめいている。今年は冬が早そうだ、と一人でコーヒーを飲みながら八戒はとりとめのないことを思っていた。昨日も帰りの遅かった悟浄が起き出してくるのは、あと何時間後だろう。
 仕事に出掛ける前に、やるべきことをやってしまおう。カップの温もりで暖めるように両手で持っていたマグカップの中身を飲みほした。シンクの中の洗い物をまず片付けようと、蛇口をひねる。水が冷たい。給湯器のない台所で、これからの季節は水仕事は少しつらいかな、などと思っている自分の日常がウソのようだ。

 静かで、平穏。かつてあの人と暮らした日々のように。何が許してくれているのだろう。許されることなどないと、今も思っているのに。それでも、自分はこの生活を享受できている。深紅の髪の男が与えてくれた場所。自分以外の存在と分かち合う日常。誰かのためにいれるコーヒーとか、二人分の食事を用意する事とか。そんなことが自分を安定させている。

 洗い終わった一人分の食器を拭き終わると、窓を開けた。キンと清浄な空気が流れこんでくる。明後日は同居人の誕生日だ。一週間ほど前、さりげなく欲しいものはないかと尋ねたが、返ってきた返事はそっけないものだった。

「べつにないな」

「そうなんですか」

「ほら、モノってうざいじゃん。女が、サ、なんかくれるのもヤなんだよね」
だから俺、まだ女からモノ貰ったことないのよ、以外っしょ。と言ってニヤリといつもの笑みを浮かべた。

 あんなふうに云われたら、誕生日のプレゼントなんかあげられませんよね。
僕は、あげたいんですけどね、悟浄に。後に残らないものなら、いいんでしょうか。そうするとお酒とかそんなものになってしまいますね。

 八戒の思考は一週間前から、堂々巡りを繰り返している。軽く頭を振り、時計を見ると、仕事に出掛けるまであと一時間ほどしか時間がない。掃除と洗濯を片付けてしまわなくてはいけない。八戒は立ち上がった。



 午後十時。冷え込んだ空気の中、家に帰る。吐く息が白い。
「まだ、十一月の始めなのに、なんでこんなに寒いんでしょうね」
 冬が思いやられると、独り言を漏らして眼をやると、暗いはずの家から明かりがもれている。この時間に珍しく同居人が家に居る。自分の足が思わず早くなったのを、苦笑混じりに認めて八戒はあと数十メートルの道を歩いた。

「おかえりー」

「ただいま。なんか慣れませんね」

「なに、ソレ」

「あなたから、お帰りなさいを聞くことですよ」

「そぉーかぁ?」

「そうですよ。どうしました?」

 脱いだ上着を椅子の背にかけながらの問には、答えようとせず、コーヒー要るかと聞いてきた。

「お願いします。で、どうしたんですか」

「べつに。まあ、ダメな日ってのもあるのよ。そーゆーときは、さっさと引くしかないわけ」
 八戒のマグカップにコーヒーを注ぎ終えるといくら、プロでも無敵ってわけじゃないしぃ、と煙草に火を付けながら付けくわえた。

「引け際を心得ているから、プロなんでしょうね」

「まぁな」

 椅子の背に体を預けて、煙を吐き出しながら悟浄は言葉を続けた。

「これで、食ってくのに必要なのは熱くならないことだかんな」

 紅の髪と瞳を持つ同居人の一見派手な容貌にだまされて、彼を熱くなりやすい人間と見る輩は多い。実際そのように振舞ってみせることも多いのだが、それは悟浄の無意識の計算がそうさせている。そのことに気がついている人間はほとんどいない。
 悟浄という男にには酷く冷めているところがある。自分自身の内部に今も眠っているに違いない桁外れの激情を知っている八戒は、なんて正反対な二人なのだろうと、あらためて思った。だからこそ、こうして男二人の同居がさしたる衝突もなく、しっくりいっているのかもしれない。

「おなか空いてませんか」

「ん、べつに。さっき適当に食ったし。」

「それじゃ、僕はお風呂にはいりますから」

「俺がさっき入ったばかりだから、ちょっと追い炊きすれば直ぐはいれるぜ」

 椅子の背にかけた上着を手にとり、自室へ向かいながら思いついたように八戒は悟浄に声をかけた。

「悟浄、僕あさって仕事が休みなんですけど、昼間少しつきあってくださいませんか」

「なに?買出しかなんか?」

「まあ、そんなところですかね」

「別にいいケド」

「それじゃ、お願いしますね」

 着替える為に自室に向かった八戒は、悟浄との約束を取り付けたものの、まだ具体的にどこへ行くという計画もなかった。ただ、今日の内に約束をしておかなければ、明日悟浄が何時帰ってくるのか、わからない。
 八戒としては何か悟浄が本当に喜ぶことをしたいだけなのだ。あの最高僧のように、いつも不機嫌そうなわけではない。表情はよく動くし、いただけない冗談や軽口もよく口にする。ただし、それは誰か他人のいる前では、だ。悟浄は、悟浄というキャラクターを演じている。とても巧く。
 八戒は、そのことに気づいてしまった。自分が同居する前に、一人でここに住んでいた悟浄の、一人きりの時の顔が八戒には見えたのだ。
 同居を始めて2カ月位経った頃、夜更けに眼が覚めた。今もそうだが、八戒の眠りは浅い。夜半に降り始めた雨音で目が覚め、そのまま夜明けまで眠れないことが度々ある。その夜も夜半の雨で眼が覚めた。一人の部屋で雨の音を聞いているのが耐え難くて、何か暖かいものでもと台所へ行きかけて、リビングから漏れる明かりに気が付いた。
 半開きのドアから悟浄の顔が見えた。何の表情も浮かべていない悟浄の貌はひどく端正なことに気が付いた。そしてその無表情な端正さが胸に迫る痛ましさをあらわにしていることも。何故そんなことを感じたのかは、その根拠を示すことはできなかったが、この人はずっとこの家でこんな貌で暮らしていたのだ、と八戒には分かってしまった。多分、自分だけが知ってしまった悟浄の貌。

 そしてまた、八戒は初めて悟浄の仕事場でもある酒場に、顔を出した時の違和感を忘れることが出来ない。自分がそういう場所に、酷く不釣り合いな人間だったからということだけではない。一体何の用があって、出向いたのかも覚えていないが「なんかあったら、ここにくればだいたい居るから」と云われた酒場の名前だけを頼りに、その店を探した。
 ドアを開けると、喧噪と煙草の煙の中で一際にぎやかなテーブルに悟浄はいた。数人の女が取り巻いている。左隣りに腰をかけている長い髪の派手な女の腰に手をまわし、咥え煙草のままカードを見ていた。なにか女が悟浄の耳元でささやく。カードを伏せて煙草を灰皿に置いて、女の首筋に軽いキスを落す。通りかかった別の女が、声をかける。愛想よくそれに答えながら、開かれたカードは多分、余裕で勝ちなのだろう。相手の男が自分の手札を叩きつけ、コップの酒をあおった。
 そこにいるのは、八戒の知らない悟浄だった。華やかで、ワルそうで、女がほおっておかない存在。地味な自分とは全く不釣り合いだ。自分と二人でいる時の何倍もいきいきしているようにみえた。結局、そのときは悟浄が気がつかなかったのをいいことに、そのまま声もかけずに家にもどったのだ。こんな不釣り合いな自分が、のこのこと出向いて悟浄のテリトリーを侵してはいけないのだ、と思った。
 あれ以来、八戒はその店に足を向けたことはない。

 狭い脱衣場に入ると脱衣籠の中に悟浄の脱ぎ捨てたシャツがそのままになっているのが眼にはいった。ランドリーボックスに移そうと手に取ると、ハイライトの移り香が鼻孔をくすぐった。今日は香水の匂いはしないな、と思った瞬間八戒の胸の奥で何かが動いた。

 そうか。自分は悟浄の服に染み付いていた香水や脂粉の匂いが嫌だったのだ。服に移り香が残るほど、悟浄の近くにいた顔の見えない女達を疎ましいと思っていたのだ。
 
 いつ付いたのかわからない程の軽いひっかき傷のようなものが、それらの匂いを感じるたびに心の柔らかい部分にできていた。それが何なのか今、気づいてしまった。ハイライトの香りしかしないシャツが、皮肉にもそのことをはっきりと意識させた。手に取った悟浄のシャツを緩慢な動作でランドリーボックスに移し、八戒は服を脱ぎはじめた。
 温めの湯船にからだを沈めても、強ばった身体は中々ほぐれなかった。無意識の内に触れた腹の傷痕のつるりとした感触に、気持ちは益々沈んで行くばかりだ。家の明りを認めた時の心の高揚を思い出そうとしても、返って苦い思いを増すばかりだ。八戒は随分長いこと、湯船に浸かり続けた。温めのお湯が体温と殆ど変わらなくなるまで。

「おい、八戒」

浴室のドアを叩く音と同時に悟浄の声が聞こえた。

「なんですか、悟浄」

 突然の悟浄の声にうろたえたはしたが、なんとか平静な声をだせた。

「おまえ、あんまり長いからサ、湯あたりでもしてんじゃないかと思って。だいじょぶ?」

「平気ですよ。そんな心配をして頂くほど年寄りじゃありません」

「んなコトは、わぁーってるって。別にそーゆー意味じゃないんだけどな」
リビングに戻ろうとした悟浄の耳に、大きなくしゃみの音が飛び込んできた。

「八戒サン、こんだけ長湯して何してんのよ」

「ちょっとお湯が冷めちゃったみたいですね」
あはは、という乾いた笑い声が続いた。ばかじゃねーの、と口の中でつぶやいた悟浄はそのままリビングへと踵を返した。

 風呂からあがった八戒に、リビングから悟浄が声をかけた。

「はっかーい。あったまっていけよ」

 何だろうと思って、リビングを覗くとテーブルの上には琥珀色のとろりとした液体の入ったグラスが湯気をたてている。悟浄は中身が半分ほどになったグラスを前に、煙草を吸っていた。八戒は腰を降ろして、テーブルの上のグラスを手にとった。濃厚な香りが鼻孔をくすぐる。ラムとバターの香りだ。

「ホットバタードラムですか。確かに暖まりますね」

「冷えたときは、これなの」

「悟浄って、以外とまめですよね」

「そぉーかぁ?飯食うのめんどくさくて、寒いときはこれにしてたんだわ。なんかカロリーだけは有るみたいだし、あったまるしな」

「前言は撤回します。でも悟浄だったら、いくらでも女の人が暖かい料理をつくってくれるんじゃないですか」

 悟浄は左手をひらひらと振った。

「だめ、だめ。俺、そーゆー女に縁がないんだわ」
茶わん蒸しとか肉ジャガ得意ってゆーの、苦手だしぃ、と付け加えた。

「嫌いだったんですか?言わなかったじゃないですか」

「ちげーよ。おまえの作るのは美味いぜ。俺が言ってんのは、そーゆー姑息な手段で男を落とせるって、思っているオンナのこと」

「なるほど」
 おまえはどうよ、と悟浄が振ってきた。

「僕は考えたことないです。悟浄と違って女の人とそういうお付き合いをしたこと、ありませんし」
 と言って八戒は目を伏せた。八戒の伏せた目の先には、死んだ女の面影があるのだろう。悟浄は気づかない振りをして、もう一杯どうかと聞いた。

「結構です。充分暖まりましたよ。ありがとうございました」
八戒は笑みを浮かべて悟浄に答えた。その笑みが張り付けたようなものでなかったことを認めた悟浄は、内心でほっとした。

「それじゃ、おやすみなさい」

「ん−、おやすみぃ」






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