何とかなる、がどうあっても通じないほど強い敵というのは一体世の中にどれくらい存在するか
身体を動かすことができない。
指にも、足にも、力が入らない。
自分の意志でない力が、自分の身体を大地に押し付け、自分の意志では瞬きすら困難な状況に陥っている。
目の前には、血だまりの中倒れた、悟浄――――――
紅い瞳と紅い髪を持つ、元同居人で現同行者。
…紅い瞳。
紅い髪。
2つを飲み込んでなお広がりつづける、紅い血。
悟浄が死ぬわけがない
まず八戒はそれを思った。
どんな状況でも、それがものすごく困難なことでも、悟浄は自分ひとりでそれをなんとかできる男だということは、3年という付き合いの中で八戒が知り得た悟浄の特性の1つだ。
同居をはじめて2年目の夜。悟浄は唐突に、兄がいることを八戒に告げた。
もしかしたら、何か話の流れでそうなったのかもしれないし、何かのきっかけがあったのかもしれないが、およそ八戒の認識としてはそれこそ「唐突」であったのだ。
強い男だ、と八戒は思った。
だから悟浄と一緒に暮らして平気なのだと、八戒は思った。
愛してほしいと願った義母には殺されかけ、悟浄を庇った腹違いの兄は母親殺しの罪を被ったまま消えた。
10にも満たない子供は1人で殺人のあった町からほおりだされ、きっと筆舌に尽くしがたい辛酸を舐めてきたに違いない。
そしてそんなことを微塵も感じさせないほど強固に固められた悟浄の心の壁。
決して弱みを他人には見せないでいるそのプライド。
そんな男が。そんなに強い悟浄が。
そんなに簡単に死ぬわけがない――――――
「魔器も呼ばずにその状態でどうするつもりだ?」
唇の端をいやらしく歪めて、地面にはいつくばるしかできない悟浄と八戒を見下ろして、青竜王が言った。
「思い上がりも大概にしてほしいもんだな。本来なら俺は貴様らごときのためにわざわざ下界に降りてくるような下賎な身分ではない」
そうして、さもくだらないものを相手にした、というような顔をして、軽く右手を上げて、そして全く表情も変えずに、何か口訣を青竜王は唱えた。
――――――強力な、重力異常が、悟浄と、そして今度は八戒までをも、まるでそこにコンクリートの壁でも存在するかのように、空に向かって叩き付けた。
「う……!」
肩を抑えながらようやく立ち上がった途端、錫杖は今度は背中に焼け付くような痛みを感じた。
「ははははは。貴様などに少しでも恐れをなした俺が馬鹿だったわ」
紅竜王は右手にすらりとした細身の驚くほどの長さの剣を握って左手を開いて前に突き出し、禍々しい形に大口を開けて笑いながら言った。その剣の中ほどに、血に濡れた個所が見える。
苦痛に少しだけ顔を歪めて、錫杖はふらつく足を踏みしめて、紅竜王を睨みつけた。
「安心しろ。痛みももう少しだ。さっさと死ぬがいい」
その長剣が一瞬燃えるような真紅の炎に包まれたと同時に、錫杖めがけて振り下ろされた。勿論彼女はそのままさっさと死ぬつもりは毛頭なかったので、その攻撃をかわし、だらだらと血が流れる腕を軸にして後ろに跳び退った。間髪いれず襲ってくる炎の竜を3体かわし、4体目を髪で切り裂く。
その間にも間断なく長剣は突き出され、じりじりと彼女を追い詰めていった。彼女は最初からそうであったように防戦一方で、しかも背中と肩の傷からの出血は止まらず、視界がかすむのを振り払うかのように何度も激しく頭を振らなければならないほど、かなり追い込まれた状況に陥っていた。
「あの小猿めも帰ってこないということは、炎が錫杖と玄奘三蔵ごと彼奴を倒したということだな」
長剣を突き出した後角度を変えて薙ぎ払って紅竜王は目を細めて笑った。獲物を狩ることに執着した、残忍で酷薄な笑いだった。
その笑いの根拠は、今彼の目の前に倒れている。ふらつく足元にたまった自らの血でほんの僅か足を滑らせた錫杖の右足を切りつけることに彼は成功していた。
「そんなことが…あるわけないわ」
新たな血が彼女の右足からだらりとあふれ落ちる。しかし、驚くべきことに先ほどよりもしっかりした足取りで彼女は肩を抑えて立ち上がり、燃えるような瞳で紅竜王を睨みつけた。
「孫悟空と錫杖さえいっしょにいられればお前たち竜王の末弟など恐れるに足りない」
「……その状況でよくその口が利けるものだ。見上げた魔器だな」
…10匹の竜と紅く燃え盛る長剣を手にした紅竜王が、いい終わるや否や瞬間的に間合いを詰めた。四方八方から一斉に彼女に向かって炎の塊が襲い掛かる。
「これで最後だ!生意気な口の続きは死んでからにしろ!!」
天界では、エリート中のエリート。天地開闢の時代から天帝に付き従い、誰よりも長く年月を重ねたこの竜王一族に、こんな口をこんな若いしかも魔器などにきかれるとは思ってもいなかった紅竜王は、その生意気な魔器にとどめをさせる喜びに唇を震わせながら、彼の自慢の長剣を彼女に向かって突き出した。一撃必殺の彼の全身全霊を込めた突きを、かわせたものは天界にも、この下界にも今まで存在しなかった。
ぐしゃあ
「負け犬の遠吠えって言うのはそろいもそろってかっこ悪いもんだぜ!」
骨が砕けるいやな音に続いたのは、信じられない、という形に大きく目を見開いた紅竜王が、その形のままゆっくりと地面に崩れ落ちる、どさり、という音であった。
「何故…だ……」
口から血をあふれさせて急速に暗くなる視界に錫杖を映して紅竜王は彼にとっては大変不本意で、かつもっともな疑問を口に出した。
「いったでしょう。油断、なんてことを口の端にのせていいわけはじめるようなお前なんかに絶対負けない、って」
紅竜王の肩と肺を貫き、周りの炎の竜もまとめて3匹引きちぎった黒い髪がしゅるしゅると音を立てて錫杖のもとへとかえっていく。
その後ろでは、如意棒を肩に担いだ悟空が残りの竜を真中からぶちきって、そこらじゅうにもとは炎の竜であった現在はただの炎の破片を撒き散らしながら紅竜王ののどもとに如意棒を伸ばし突きつけた。
相変わらず蚊帳の外なのが恐ろしく気に入らないらしい最高僧さまはあからさまに不貞腐れてそっぽを向いて必要以上にマルボロをふかしている。
「錫杖!大丈夫か!!」
「無理しないで、無理に立っていなくていいから」
悟空と如意棒の声にふ、と気が緩んだのかかくんと錫杖はひざを折った。そのまま地面に倒れようとするところを如意棒が支える。
「孫悟空!妖力制御装置をとって、早く!」
「そんなのどこにあるんだよ!」
「錫杖が握ってるでしょう、左手よ、早くして」
如意棒が悟空をせきたてて銀のカフスを3つ急いで錫杖の耳にかちりとはめた。錫杖は錫杖の形へと変化を遂げる。
「…あのまま出血が続くとまずかったわ。とりあえずこの姿なら血は流れないし」
「なるほどな…ってまた如意棒お前どうやってそんな姿になってるんだよ!ていうかなんで錫杖はあんな激しい戦闘の最中にずっと制御装置握ったまんまだったんだ?」
ふう、と息をつく如意棒に悟空が噛み付いたが、如意棒はそんなことを全く意に介さずに錫杖を担いです、と立ち上がった。
「疑問の解決は後よ。孫悟空」
錫杖の鋭い刃がぎらりと月の光を反射した。
「あんなカスみたいな黒竜王や、すぐ油断する紅竜王ならともかく。青竜王は一番の強敵――――――私とあなたの力だけでは勝てないわ」
「……問題はそれだけではないだろう」
マルボロを地面に投げ捨てて三蔵が口を開いた。
「奴が作り出している結界の中にはいるためには、結界を作り出しているそのものを破壊する必要があるが――――――」
「そのものは、結界の中でゆっくりと沙悟浄と猪八戒を嬲り殺そうと楽しんでいるでしょうね」
錫杖を肩にかけて、如意棒は目を細めて結界が作られているであろう、外からは何の変哲もないただの森をじっと見た。
「え?それじゃあ――――――」
如意棒が見つめる先の森を、悟空も同じように見つめた。
結界の中に入らなければ八戒と悟浄がどうなっているのかすらわからない。
しかし、結界を作っている張本人はその結界の中に存在し、そしてその結界の中に入るという事はより強い重力場を作り出して、時空の歪みをこちらの意図するとおりに捻じ曲げなければならないことと同義語であった。
聞こえるはずもない、悟浄と八戒のくぐもった呻き声が、悟空の耳には聞こえたような気がした。
白い月は晧々と光を放ち、先ほどと同じように錫杖の刃に反射してぎらりと光った。