これからきみと
ふと気がつくと、カーテンの隙間から朝日が射し込んでいるのに、八戒は寝台に横たわったまま小さく嘆息した。
どうやら、また―――ほとんど眠ることが出来ないまま、朝を迎えてしまったらしい。さすがに寝不足でぼんやりとする頭をふるふると横に振りながら、八戒はゆっくりと上半身だけを起こした。そして、まっすぐに前方にあるうっすらと灰色がかった壁を凝視する。
見慣れない、壁。
そう頭の中でつぶやいて、今度はそろりと天井へと視線をとばす。
見慣れない、天井。
そうして、さらに八戒はぐるりと部屋の中を見渡した。
見慣れない、部屋の中。
―――もう、二週間もたつのに。
八戒は再度ため息を漏らすと、背中から沈み込むようにベッドへと横たわった。自然に、八戒の視界いっぱいに天井がひろがる。それを、八戒はなんともいいがたい複雑な心境で眺めた。
猪八戒として沙悟浄と再会し、彼の家に転がりこんでから、もう二週間はたった。二週間も過ぎれば、ある程度新しい生活にも慣れるのが普通だろう。だが八戒はというと、いつまでもこの環境に馴染めないまま、特にここ数日は、夜、まともに眠ることさえ出来ないでいた。
最初の一週間はそうでもなかったのに。特に、不眠が顕著になり始めたのはここ数日のこと。
そこまで考えて、八戒ははた、と気づいた。―――いや、もしかして二週間目だからなのか。
二週間もたつと、新しい場所でのだいたいのペースが見えてくる頃である。それまでは、どちらかというと新しい生活をこなすことに精一杯で、周囲のことまでは案外気がまわらないものだ。
しかし、それにしても自分のこの物慣れなさは如何なものかと、八戒は思った。
―――こんなにも、自分は不安定だっただろうか。
どうも、あの一件以降、恐ろしく不安定になってしまった気がする。体も、心も。どうやら、すべてが変化してしまったことに、何もかもがついていけていないのだ。だから、すべてが新しいここでの生活に、まったく慣れないでいると、そういうことらしい。
だが、ここ連日の不眠は、確実に八戒の体のほうにも判りやすいかたちで影響を及ぼし始めている。このままでは、間違いなく他人のそういった機微に敏いらしい家主に気づかれてしまうだろう。それは、八戒としては一番避けたい事態だった。
これ以上、悟浄に迷惑をかけるようなことだけは、絶対に嫌だったから。
だから、とにかく起きなければと、八戒はけだるくて思うように動かない体を叱咤しながら、なんとかベッドから立ち上がった。途端、ふらりとぶれる視界に、八戒は思わず右手を額にあてる。不眠に加えて、ここ2・3日は食欲もなくて、まともに食べてもいない体は、確実に限界に近づきつつあった。それでも。
それでも、起きて、八戒がやらねばならないことはたくさんある。
八戒は、そう自分に言い聞かせながら、のろのろと寝間着から普段着に着替えると、勢いよくカーテンを開けた。容赦なく照り付ける朝日に、八戒は眩しげに目を細める。その眩しさに目がくらんで一瞬だけ意識が遠のきかけた自分自身にため息をつきつつ、八戒はいつものようにまっすぐに台所へと向かった。まずは、無駄な足掻きと判っていても、自分用の朝食を準備するために。
「もう、そろそろですかね…」
どうにか洗濯も終わらせて、八戒は再度台所へ戻ると、小さな食器棚の上に置かれている時計をちらりと見た。もうそろそろ悟浄が起きてくるであろう時間を指す時計の針を、血の気のない表情でしばらくじっと見つめていたが、不意に耳に飛び込んできた物音に、八戒はようやく我に返った。
多分、悟浄が起き出したのだろう。彼の部屋の方から、明らかにひとが動いている物音がする。
悟浄は起き抜けに顔を洗うより何よりまず、八戒がいるこの台所へと顔を覗かせる。そして、軽く朝の―――とはいえ、時間的には昼なのだが―――挨拶をかわしてから、彼はようやく洗面所へと向かうのだ。それが、この二週間で八戒が覚えた、悟浄の起き抜けのパターン。
だから、悟浄が顔を見せる前にシャンとしなければと、八戒は彼の朝食を準備するために流しへと足を向けた。
いつもなら、ここで自分の昼食も用意して、二人でいっしょに食事をするのだが、今日のところはやめておくことにする。結局、朝も無理やり食べようとしたものの、食事が喉を通らず、今もさっぱり食欲がない。まずい兆候だなあと、八戒は小さくため息を零しながら、それでも悟浄のために準備の手はゆるめない。
「……はよー…」
八戒の予想通り、いかにも寝起き直後です、というどこかぼーっとした面を浮かべた悟浄が、そろりと八戒の背中に声をかけてきた。それに、八戒はくるりと振り返って、いつものさしさわりのない笑顔で答える。
「おはようございます。朝食、食べますよね?」
「…ああ」
「じゃあ、とりあえず、顔洗ってきたらどうです? あ、目玉焼きの卵は二個でいいんでしたよね?」
「―――八戒」
いつもならここで「はいはい」と軽く受け流しながら、すぐに洗面所へと向かう悟浄が、じっと探るような視線で見据えてくるのに、八戒はふと眉根を寄せて首を傾げた。
「何ですか、悟浄?」
「イヤ、―――ナンでもね。顔、洗ってくるわ」
悟浄は一瞬何かを言いかけたようだったが、そのままスッと視線を逸らすと、台所から出ていった。そして、洗面所から聞こえ始めた水音に、八戒は大きく肩で一息ついた。
(気づかれた、かな…)
八戒の体調が芳しくないことを、悟浄はうすうす気づいていると、そういうことなのかもしれない。そんな敏い彼をどこまでごまかせるか、正直八戒も自信はなかった。
とはいえ、そう簡単に食欲がわいてくるわけでもなく。結局、悟浄一人分の食事だけをテーブルに運んだところで、寝起きの顔をすっきりさせた悟浄が、ダイニング兼用のリビングへやって来た。
「アレ? もしかして俺の分だけ?」
テーブル上のラインナップを目に留めるなり、悟浄が怪訝そうに八戒を見やる。やはり簡単に流してはくれなかったかと、八戒は内心でため息をつきつつ苦笑を漏らした。
「ええ、まあ」
「お前、昼メシは?」
「―――後で食べますから」
畳み掛ける口調の悟浄に向かい、八戒は微苦笑を口元に浮かべ、いぶかしむような悟浄の視線から逃れるようにそのまま踵を返して台所へと逃げ込んだ。
「おい!」
途端、右肩をがしりと悟浄の大きな右手に掴まれ、八戒はひどく驚いてびくりと肩を震わせた。どうあっても逃してくれる気はないらしい悟浄に、八戒はゆるゆると息を吐き出し、困ったような翠瞳を彼に向けた。すると、心配そうな色を紅瞳の奥に浮かべた悟浄の視線とぶつかり、八戒はつと、胸をつかれて、思わず息を呑んだ。
こんなふうに時折向けられる、悟浄のやさしさや、彼の思いやりが、―――痛い。
だから、八戒は胸に浮かび上がったその気持ちを振り払うように、うすく微笑んだ。
「何、ですか?」
「お前、ちゃんと食べてる?」
正面から切り込んできた悟浄に、八戒はやはり気づかれていたかと、心中で嘆息する。
「まあ、一応」
それでも悟浄に心配はかけたくないから。ただ、それだけの思いで、八戒はとりあえずその場をごまかすことしか考えていなかった。だからだろうか。だんだんとこめかみ辺りに、じくじくとした痛みが走り始める。
―――思考が、まとまらない。
「お前さあ、…自分の顔、鏡で見た?」
めずらしく悟浄が執拗に絡んでくる。どうして、と思う前に、ふつりと頭の奥が一瞬にしてどろりと黒く染め上げれるような感覚が襲ってきて、それに押しつぶされるように、八戒の身体が思いきり前屈みに揺れた。
(―――あれ…)
「八戒っ!?」
いったい何が、という脳裏のつぶやきと、悟浄のせっぱつまったような声音で自分の名を呼んでいるのを耳奥で捉えながら、八戒の意識は一瞬にして暗転した。
ここ2・3日、八戒の様子がおかしいことには気づいていた。
あれだけ憔悴した顔色をうかべていては、いくら他人(ひと)に関心のない悟浄でも、イヤでも気がつく。それに、悟浄にとって、八戒は初めて自分のテリトリーに入ることを許した他人(ひと)だ。だから、少なくとも、他のどうでもいい奴らとは少々違う存在であることも、悟浄は不本意だかなんだかよく判らない感情的なところで理解していた。
それで、いやでも、彼の存在を気にかけてしまう。これで彼の不調に気づかないほうがおかしい、と、悟浄は何も言わない同居人に対して少々腹を立てていた。
と、思っていた矢先に、このザマだ。
悟浄は自室のベッドに横たわる彼の寝顔を眺めつつ、深々とため息をついた。寝台の脇に置かれていた椅子をその横につけて、椅子の背凭れを前にして悟浄はだらしなく腰掛けている。その血の気のない面をじっと眺め、悟浄は不意にわざと八戒から視線を外して、前方を見据えた。
突然悟浄の目の前で倒れ込んだ八戒の身体を慌てて受け止めたものの、そのあまりの軽さに、悟浄は愕然とした。自分とそう変わらない身長の持ち主とは思えないほどの軽さに、八戒がどれだけまともに食事をしていなかったかが窺い知れて、悟浄は思わずギリ、と奥歯を噛み締めた。
まず、ここまで彼がひどい状態であると気づけなかった自分自身に腹を立てた。でも、何より、何も言わなかった八戒自身に一番腹を立てていた。
(ナンか、俺が悪ィみてぇじゃん)
何も「言わなかった」のか、それとも何も「言えなかった」のか。
実際のところ、どちらが本当の理由かは、悟浄にはよく判らない。ただ、八戒がこうなった理由に、少なくとも“遠慮”の二文字がかいま見えて、悟浄はますます顔をしかめた。
とりあえず、悟浄の腕の中に倒れ込んだ八戒をしっかり抱き留めて、彼のベッドへと横たわらせた。そして、八戒の横で彼の寝顔を複雑な心境で眺めながら、八戒が目覚めるのを待っていた。
すると。
「…ア、レ…?」
ぴく、と八戒の目蓋が小さく震えたかと思うと、どこか茫然とした表情のまま、八戒が目を醒ました。
ゆっくりと開かれた翠の双眸を目に捉えた途端、悟浄は心中で安堵の吐息を漏らす。だが。
「…すみませんでした」
まず、八戒の口から零れた言葉に、悟浄はぴくりと、眉根を吊り上げた。
ナンだって、こう、―――猪八戒という男は。
「ナンで、あやまンだよ」
「だって、…野郎をベッドに運ぶのは、アレが最初で最後なんじゃなかったんですか…? だから、」
多分、悟浄に面倒をかけたと、そう思っているのだろう。八戒は。
彼の言い分に、悟浄は顔をしかめ、今度ははっきりとため息をついた。―――これは、一度はっきり訊いておいたほうがいいかもしれない。
悟浄自身、今まで他人と生活を共にしたことなど一度もなかった。だから、生活まで共にする他人との距離のとり方なんて判らないし、そんなものにいちいち気をかけていられるほど、マメな性格でもない。それで、八戒との距離も、例えひとつ屋根の下で暮らしているとはいえ、適当に放っておいたつもりだった。必要以上に、他人とかかわりたくはないと、ずっとそうやって悟浄は生きてきたのだから。
けれど。八戒とは、それでは、駄目な気がする。
今の八戒の状態を見ていると、悟浄はなんともいえない気持ちになった。そして、がしがしと短くなった紅髪を掻きまわし、じっと八戒を見つめた。
「あのさあ、お前、ナニ遠慮してんの?」
「―――え?」
「調子悪ィならはっきり言えって。俺、馬鹿だから言ってもらえないと判んねぇし」
「はあ、………スミマセン」
それでも神妙な面持ちで謝罪の言葉を口にする八戒に、悟浄は「勘弁してくれ…」と胸中でつぶやき、軽く彼を睨めつけた。
「だから、そーゆーのはナシだっつってんだろ。で? ナニが原因なワケ?」
「………なんか、慣れなくて。…すべてに」
八戒が観念したようにつぶやく。その言葉に、悟浄は思い切り顔をしかめた。
「はあ? その前に一ヶ月ばかし、いっしょに居ただろ」
悟浄の胡乱げな視線に、八戒は自嘲気味に微笑んでみせた。
「こういう言い方をすると、貴方は怒りそうですけど。あの時は、あの場限りだと思っていたから、気にならなかったんですよ…」
悟浄は思わず絶句して、八戒を凝視した。
そんな刹那的なことを考えながら、八戒はあの時を過ごしていたのかという複雑な思いと。そして、今はあの時とは違うからと、そう言いたいらしい八戒に、悟浄は何と返していいのかすぐには言葉が出てこなかった。ただ、無言で、八戒を見つめ返すことしか出来なかった。
「…呆れました?」
何も言わない悟浄に耐えられなくなったのか、八戒のほうが先に口を開いた。悟浄は再度がりがりと髪を掻きむしると、ちいさく苦笑を漏らした。
「呆れたけど、………慣れねぇのは、俺も同じだし?」
「―――そう、なんですか?」
本気で驚いたふうに目を瞠る八戒に、悟浄は皮肉げに口元を歪め、肩をすくめる。
「俺だって、他人(ひと)と暮らすの初めてだし? だいたいアカの他人同士なんだ。そー簡単にナンもカンも慣れるワケねぇだろ。気ィ使いすぎ、お前」
「―――」
八戒は茫然と、身じろぎもしないで、ただ悟浄の声を聞きいっていた。悟浄は、ニッと悪戯めいた笑みを刷いて、言葉を続ける。
「そんなに気ィ使ってっと、そら神経参るに決まってんだろ。いいか? 今後一切、遠慮なんてナシナシ。俺たち、“同居”してんだぜ?」
な、と、念押しのように悟浄が言い放つと、八戒は一瞬呆けたようなどこかあどけない眼差しを、悟浄に向けてきた。その彼の視線と、悟浄の目が合った途端、八戒はふわりと、それは綺麗な―――悟浄が一瞬にして見惚れるくらい綺麗な笑顔を浮かべた。そして。
「―――はい」
柔らかく微笑みながら、八戒が返事をする。そんな彼の笑顔に、何故か目が離せない自分自身に内心戸惑いながらも、それは面には出さないで悟浄は短く口の端を上げた。
「とりあえず、寝とけ。調子悪ィのに、家事とかもしなくていいから」
「じゃあ、お言葉に甘えて…。一つだけ、頼んでもいいです?」
「ナンだ?」
「洗濯物だけは取り込んでおいて下さいね」
お願いします、と八戒から笑顔で頼まれれば、悟浄も嫌とは言えない。
悟浄は、仕方がねぇとぶつぶつ言いながらも、椅子から立ち上がった。そして、八戒の部屋から出て行こうとした、その時。
「悟浄」
背中越しに八戒から呼び止められて、悟浄は肩越しに振り返った。そして、ベッドに横たわったまま悟浄を見つめる八戒の視線とぶつかる。
「ナニ?」
「あらためて、―――今後とも、よろしくお願いします」
それは、多分、先ほどの悟浄の言葉に対する、八戒なりのちゃんとした返事。
だから、悟浄もニヤリと笑みを深めて、八戒を見つめ返した。
「こちらこそ、な。これから、ヨロシクっつーことで」
そして、あらためて、「二人で」生活を始めるために、互いに互いの言葉で挨拶をかわす。
悟浄は満足げに笑みを刷いて、そのまま八戒の部屋を後にした。胸奥にわき上がる、どこかあたたかく感じられる気持ちを抱えながら。
その感情を何と言うか、まだ判らないまま。
「まったく、……かないませんねぇ…」
悟浄が部屋から去った後、八戒は苦笑しながら、ちいさくため息を漏らした。
また、悟浄に救われたと、八戒は思う。こうして、いつも、八戒の負担にならないように、上手く救い上げてくれる。そんな彼が、遠慮するなと、ちゃんと「同居」しようと言ってくれるのなら、それに応えたいと八戒は思った。
これから、君と、―――二人で。
あらためて、始めるために。
成瀬さんのおうちへ