みえないチカラ
八戒は、豆大福が好きだろうか。
悟浄は先ほどからそればかり考えて森の中の一軒家へと足を急がせている。
そこは彼の自宅であるのだが、半年前とはその足取りがまったく違うことを彼自身は強く自覚していた。
半年前までその家に足を向けても、決して明かりが灯っていることはなかった。
灯っていたとすると、それは悟浄自身が明かりを消すのを忘れて出かけただけのことだった。
夏、扉を開ければむっとよどんだ空気がなだれを打って悟浄に襲い掛かってきた。
冬、扉を開ければ凍てついた外気と温度差のない冷え切った空気が悟浄にまとわりつくだけだった。
家に帰ることと眠ることは同義語であった。
だから、家が汚かろうがきれいだろうが、まったくどうでもいいことであった。眠るスペースさえ確保できればよかった。
誰かと一緒に眠るのはお断りだったから、一人暮らしの家は好都合であったけれども。
だが、今は違う。
家に帰れば明かりが灯っている。
部屋はちょうどよい暖かさで悟浄を待っている。
そして何より、扉を開ければ「おかえりなさい」と言ってくれる人がいる。
そんな一言など、必要だと思ったことはなかった。
自分が、他人と目を合わせたくなる、などということは遠い想像の地平線の彼方にあった。
しかし、改めて自分の行動を振り返ると、想像の地平線は案外近くにあったということを認めざるをえないようである。
半年前には存在すら知らなかった碧の同居人は、裂かれた腹と、抉り取った右目の傷、そして何よりその心にあいた虚ろ、絶望の淵のせいで、体調が万全とは言いがたかった。
本人は大丈夫だと言い張るし、実際家事を完全にこなしてはいるが、よく考えなくても脳周辺の神経を引きちぎっているのである。いくら妖怪の体力があるとはいえその影響がどう出るかはまったく予想ができない。
神経の損傷は恐ろしい。外からはまったく見えないため、ある日突然、それが切れて動けなくなる、という可能性だってあるのだ。
実際、八戒はすでに一度、動けなくなっている。
だから、極力、重い荷物は自分が持つようにしようと悟浄は決めた。少しでも傷の負担を減らすことができるのならば。
右手に紙袋、左手にはビニール袋を2つ下げ、悟浄は買出しから帰ってきたところだった。
八戒から渡された買出しリストには載っていなかった豆大福2つは、八戒が淹れてくれるお茶にあうんじゃないかと思って買ったものだ。
悟浄は豆大福が好きだ。だけど、八戒が豆大福を好きかどうかはわからない。
とにかく、この料理の上手な、家事を任せたら天下一品な同居人は、何が食べたい、とか、何が好き、とかそういうことは一切口に出さなかった。
それは多分、自分で稼いだお金がない、ということに、おそろしく気を遣っているのだろうということはわかる。
だからといって直接八戒から聞き出すすべもなく、下手なものを買っていって余計に気を遣わせるのもいやだった。自分が好きだから買っていった、と言えば多少は気を遣わせずにすむのではないか、と思ったから豆大福を選んだのだが、これで八戒があんこはちょっと苦手だ、と言うことになればすべてが泡沫に消えてしまう。
悩むくらいなら買わなければいいのだが、でも、もしこれを八戒が気に入ってくれれば、悟浄としてはめちゃくちゃ嬉しい。
だから、八戒は豆大福が好きだろうか。
家の扉を開けるまで、何回繰り返されたかわからないフレーズの最後は、声になって八戒に投げかけられた。
「なあ、八戒、お前豆大福、スキ?」
「…好きか嫌いかと言われると、好きですけど…?」
家に帰り着いたなりの悟浄に、豆大福の好悪を聞かれるとは思ってもみなかった八戒は、目をぱちくりさせて、それでも律儀にその疑問に答えてから、悟浄の右手の紙袋を受け取った。
「よかった――――」
一人、安堵のため息をついて、悟浄がビニール袋を床に下ろす。
わけのわからないまま、八戒はとりあえず冷蔵庫に入れなければならないものをより分けて、きちんと冷蔵庫に収納することにした。せっかく悟浄が買ってきてくれたものを、放置してわるくした、と言うだけでごみ箱の友にするのは絶対にいやだ。
悟浄は早々に紙袋をかき回し、ハイライトの一箱を取り出してご満悦の表情でソファーにそっくり返っていた。
ライターで火をつけ、紫煙を吐き出す。
冷蔵庫への収納を終った八戒は、リビングですでに2本目の煙草に火をつけようとしている悟浄のところへやってきた。疑問を彼に投げかける。
「悟浄、何で急に豆大福なんです?」
まったく当然の疑問である。世の中にはもっと聞かなければならないことや、いっておかなければならないことがあるだろうに。お帰り、も言わせてもらえないまま、豆大福に負けてしまった八戒は、真意を問いたださなければ、と思った。
「う――――ん、八戒、お茶、淹れて?」
「…ええ、じゃあ、ちょっと待っててください」
はぐらかされたように思って、ふに落ちない、と八戒は思ったが、それは微塵も表情には出さず、お茶を淹れるべく、再び、台所に向かった。
悟浄は、コーヒーも好きだが、お茶も好きだ。
さばの味噌煮といい、ちょっとオヤジ入っているな、と思うが、自分がつくったものや、淹れたものをおいしい、と言ってくれる、その笑顔は、間違いなく極上の笑顔だ、と八戒は思う。自分が女だったら、こんな笑顔をされた日には落とされないほうがおかしいだろうな、とも。
急須を暖めてから、お茶の葉を三さじ入れる。お湯を少しだけ注いで、葉を蒸らしたあと、たっぷりのお湯を注ぐ。
それをお盆の上にのせ、湯呑みを2つ用意して、八戒はリビングに戻った。
「ありがとv八戒」
悟浄が礼を言って八戒が湯呑みにお茶を注ぐのを嬉しそうに見ている。
「それにしても悟浄、何で豆大福なんです?」
嬉しそうな悟浄を見るのも好きだが、やはり八戒は問いたださずにはいられなかった。
「…やっぱいきなりは、キツイ?」
「…ていうか、僕、まだ、『お帰りなさい』も言ってませんよ?」
ハイライトをはさんだ右手で頭を支えながら悟浄はにこにこしている。その笑顔は、なんだかとても深い笑顔で、八戒は、その悟浄の表情に強く魅かれた。そして、一瞬だけ、悟浄の心の奥の方まで手が届きそうな気がした。
…ただ、それは間違いなく錯覚だろうと八戒は思う。
しかし、錯覚でもそうやって思えることはいいことだ、と八戒は考えた。そしてそう考えた後、それを喜ばしいことと考える自分にびっくりし、自分自身に不審の目を向けた。
花喃以外の、誰の心も見たくなどなかったはずなのに―――
どうしたというのだろうか。この半年前には存在すら知らなかった、紅の瞳と髪を持つ、同居人の心が見えたと錯覚することが、自分の心をこんなにも満たしていく。
「どしたの、八戒?ナニぼ――っとしてんの?」
気がつけば、悟浄が、自分の顔を覗き込んでいる。
どちらかと言うまでもなくスキンシップ好きの同居人の、晩秋の燃えるような夕暮れの色をした深い瞳が目の前にある。その瞳に自分の碧色の瞳が映っているのを見て、八戒は我に帰った。とりあえず、豆大福の件を追求することに決める。
「だから、悟浄、さっきから全然教えてくれないじゃないですか。」
「ナニを?」
「もう、はぐらかしてばっかりで。そんなに言いたくないことなんですか?」
「そんなに聞きたい?」
「…そこまで勿体つけられちゃうと聞きたいですねえ」
悟浄が、これから悪戯をします、と顔に書いてあるかのような表情で、ソファにもたれなおす。八戒はその向かいの椅子に腰をおちつけた。
「じゃ、もう一回。八戒、お前、豆大福スキ?」
「世界で一番好きだとはいえませんが、好きですよ」
きょとんとして、やっぱり律儀に八戒は悟浄に答える。
「そーかそーか、本当によかった」
「だー、かー、らーー、ごじょお…」
「俺、豆大福スキなのよv」
にっ、とわらって、悟浄が言う。
「だから、八戒も豆大福がスキだって言ってくれて、大変よかったです」
「悟浄…」
「たまにはさ、こーいうお茶もいいんじゃない?」
そう言って、悟浄はポケットから紙包みを取り出して、八戒に差し出した。
八戒は、その紙包みをあけて、そして、破顔した。
「なんだ、計画的犯行じゃないですか」
豆大福が2つ入った紙包み。
自分が好きなら1つだけ買ってくればよさそうなものを、2つ、わざわざ2つ、買ってきた悟浄の気持ちが嬉しかった。
八戒が豆大福を気に入るかどうか死ぬほど気にして。いいかげん、もったいぶって。
「お茶、淹れてよ。八戒。」
悟浄がいう。
「―――はい」
ひどく幸せそうに八戒が微笑む。
急須にもう一度湯を注ぐ、その八戒の横顔がとてもきれいで、悟浄は、こんなことなら毎日でも豆大福を買ってくればよかった、と思った。
お茶を淹れた湯呑みのそばに、八戒は、豆大福をそっとおいた。
「―――それにしても、悟浄、オヤジくさいものがすきなんですねえ」
「―――いいじゃん、別に」
そっぽを向いた悟浄の横顔に、八戒が声をかける。
「そういえば、言わせてもらってなかったんですよね」
「ん?」
まっすぐ悟浄を見て、八戒が少し首を傾けた、独特の笑顔で言葉をつむぐ。
「――お帰りなさい、悟浄」
「…―――ただいま」
まっすぐ八戒を向き直って、片眉を上げた笑みを浮かべ、悟浄が言う。
そして、二人は、豆大福に口をつけた。