だから、きみの、そばにいる

 「八戒、八戒、八戒―――!」
「なんですか、人を犬みたいに。1回呼んだら聞こえますよ。」
夕食の支度をしている元猪悟能で現在の猪八戒は、白菜を刻んでいた手を止めて微笑みながら振り返った。
「だって―――」
「だって、何です?」
口篭もる悟浄を見て、さらににこにこと八戒が問い掛ける。
頼むから包丁持ったまま振り返るのはやめてくれ、と心の底から願いながら、悟浄はようやく口を開いた。
「だって、今日、あの生臭ボーズくるし―――」
「誕生日まで仕事してるんですからねー、あのヒト。平日の誕生日休暇が取れないのは仕方がないとして、週末まで休みがずれ込んだ挙句、休日出勤なんて。最高僧とはいえ、あのヒトもしがらみの中で生きてるんですねー」
あの黄金の髪に一番似合わない「しがらみ」という単語も、単語のほうは彼を大好きだと見えて、まるでストーカー規制法案に引っかかるかのごとく付きまとって離れないようだ。
「サルもくるし―――」
「ああ、悟空ももっと早く三蔵の誕生日のこと教えてくれればもっと準備もできたんですけどねー。あ、そうか、電話のかけ方、知らないんだ。」
「…お前、さり気にひどいこというねえ」
いくら子供でも18にもなれば、電話のかけ方くらい知っているだろう。もっとも寺院には個人で使える電話などはごく少数の選ばれた人間にしか与えられないから、あながち嘘でもないかもしれないが…
「いや、絶対、悟空って公衆電話の前で立ちつくして、カードも小銭も入れられないタイプですよ。受話器を、まず持ち上げてから10円玉を入れなきゃ、10円はむなしく素通りするだけ、って絶対にわかってないと思うなあ」
それは、どこぞのインチキ短歌詠みではないのかと悟浄はおもったが、口にだすのはやめにした。
「でも、三蔵や悟空が遊びにきてくれることと、悟浄が、僕を犬みたいに呼ぶことと、何の関係があるんです?」
相変わらず包丁を握ったまま八戒が問う。
「―――だって、やつら来たら、お前のこと『八戒』って呼ぶだろう?」
「そりゃ―呼ぶでしょうねえ」
包丁を持った手を起用に腕組みさせながら、八戒が答える。
「サルなんかバカだからきっと何回も何回も『八戒』って言うだろう?」
「悟空はなんだかこの名前、気に入ってるようですからねえ」
「だから、俺が、先に『八戒』って死ぬほど呼んでおくと―――」
「おくと―――?」
そこで悟浄は言葉を区切り、やっぱり頭をかき回しながら言葉を捜す表情をして、でもうまい言葉が見つからなかったらしく、あきらめてそのままの言葉を口に出した。
「お前、耳ダコで、『八戒』って呼ばれても気にしないんじゃないかな―――――なんて思ったワケ」
…それを聞いて、八戒は何を言われたかとっさには理解できずにしばらく呆然と悟浄を見つめたあと、急に顔を赤くして、悟浄にくるりと背を向け、黙々とみじん切りにすべき白菜を刻みはじめた。
「な―――。八戒ぃ―――」
悟浄が、顔を覗き込もうとする。だが、今は、絶対に悟浄の顔を見られない、と八戒は思った。
 あの、ひどく悟浄を傷つけた1件以来、八戒は名前にこだわるのはやめよう、と本当に固く心に誓った。
 悟能も、八戒も、自分自身が何か変わったわけではない。
 八戒になったとしても、悟能の罪は消えることはなかった。
 悟能になったとしても、八戒がもらった優しさは忘れることができなかった。
 だから、名前のことでこれ以上こだわって、悟浄にいやな思いだけはさせないようにしよう、と八戒は思ったのだ。
 …しかし、そうはいってもいきなり全て吹っ切れるほど悟りきった性格もしていなかったので、悟浄が自分のことを『八戒』と呼ぶ度に、愛しい人が自分を『悟能』と呼んでいたことを思い出す。
 愛する人が呼んだ名前。
 世界でただ一人の大切な人が自分を認識してくれていた名前。
 その名前を捨てきるにはまだあの残酷な記憶は鮮明に脳裏に残りすぎてしまっていた。
 ただ、それで、それを表情や態度に出して、また、悟浄を傷つけるのもとても嫌だった。本当に嫌だった。
 だから、このポーカーフェイスを崩したつもりはなかったのに…
 悟浄には全て見透かされている。
 そうやって、悟浄の紅がまた、絶望の淵を少し埋めていく。
 暗く大きく口を開けた淵は、勿論そう簡単に埋まるわけではない。
 ただ、そこに落とされた紅の一滴は、あまりに鮮やかに存在を主張して―――
「八戒、どーしたの?八戒、なー、返事しろよー」
おどけた口ぶりで、それでも内心はものすごくおびえて、言葉を選んでいる悟浄に、八戒は微笑を返そうと努力した。
 怒っているわけじゃない。嫌っているわけじゃない。
 そのことを、きちんと悟浄に伝えなければ、と八戒は思った。
 ただ、今、悟浄の顔を見るのはつらい。自分の胸に、こんなにもその優しさを注ぎ込む悟浄を見たら、今、見たら、きっと自分は―――
「八戒ってば―――」
「…はいはい、悟浄。いくら三蔵が仕事熱心だとはいえ、このままじゃ料理が間に合いませんよ。」
悟浄に背を向けたまま、視線は合わせないまま、それでもそれだけをようやくのことで言って、八戒は、白菜の隣に置いてあったハムの一切れを悟浄の口に放り込む。
「…む、何かつまみ食いさせとけば、俺、じゃましね――とか思ってるだろ。八戒」
「…ちがうんですか?」
やはり悟浄を振り向くことはせず、演技力を総動員して、何気ない風に言葉をつむぐ。
そんな八戒の様子に悟浄は、追求することをやめて、まな板のとなりに置いてあった布巾を奪った。
「八戒、じゃあ俺、テーブルでも拭いてくるわ」
そう言って、ウィンクを一つ残して悟浄は台所から出て行った。

 その気配が去ったことを確認して、八戒は、唇をかみ締めた。
 震えそうになる肩を必死で抑えながら、頭を前に落とす。
 腹筋に力を入れ、もれそうになる声を必死で隠して。
 それでも、しばらく彼の包丁は動かないままだった。


 心づくしの夕食が出来上がったころ、三蔵と悟空は戸口に現れた。
「よぉ、久しぶりじゃん」
悟浄が愛想よく、二人を出迎える。
「三蔵サマももう21歳ね――。歳をとるってのは早いもんだね――。俺が三蔵サマとであったときには花もはじらう20歳…」
最後まで言い終わることができずに、また自宅の壁に弾痕を増やすだけの結果に終った悟浄はそれでもとても嬉しそうに三蔵をからかって楽しんでいた。
 悟空はとっくに八戒のそばにくっついて、よだれをたらしながら八戒がよそうスープの量を、目を皿のようにして見ていた。
「心配しなくても、悟空の分はちゃんとたくさんありますから」
苦笑しつつ、八戒は両手に皿を持ち、テーブルの上にスープを並べる。
 食欲をそそる香りがリビングに満ちた。
「大丈夫なようだな」
マルボロを口にくわえたが、火はつけずにいた三蔵がつぶやく。
「何がよ」
やはり火をつけないハイライトを右手で持ち、悟浄が問う。
「貴様がそうやって食事の前に煙草を遠慮するくらい、うまい飯が作れるんなら、わざわざ俺がくることもなかった、ということだ」
珍しく長い台詞を吐いて、三蔵はテーブルに向かうために腰を上げた。吸ってもいないマルボロを灰皿に押し付ける。
「…素直にうまい飯が食えてイイ誕生日だ、って言えばい―じゃん」
続けて腰を上げながら悟浄が毒づく。そして、立ち止まり、こうつぶやいた。
「三蔵サマには何でもお見通しなの、な」
「悟浄――乾杯しましょうよー。三蔵がMOETを持ってきてくれましたから」
最高級銘柄のシャンパンをグラスに注ぎながら八戒が悟浄を呼ぶ。
「あ、これ、今朝仏像の前にお供えしてあったやつだぜ」
「うるせー、サル!くだらねーこと覚えてないでさっさと椅子に座れ」
スパァンと小気味よい音を立ててハリセンが悟空の頭に振り下ろされる。
「悟浄、はやくー!」
八戒が、待ちきれないとばかりに席を立ち、悟浄の手を取った。
 ちょっと驚いて、そしてすぐに嬉しそうに悟浄が笑う。
 つられて八戒も笑ったから、その碧の双眸にとてもとてもきれいな微笑を浮かべたから、悟浄はなんだかとても嬉しくなって、今、自分の手を取っている、となりにいる同居人の名前を意味もなく呼んでしまった。
「八戒」―――と。

 晩秋というより初冬の早い夕暮れの残滓がひとかけら山の端にのこっているころ、時は一兆の宝石のかけらよりも貴重なもののように悟浄には思えた。





 


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