ふたりでいること
怪我を治すということは体力を消耗する。
怪我が大きくなればなるほど必要な体力も大きくなるのは当然である。
大怪我をして死ぬ人は、その怪我を治すだけの体力を持っていないというそれだけのことである。
では、妖怪として転生した自分は―――?
ひどく疲れやすくなっていることを自覚せざるをえないことだけはとりあえずわかっていた。
記念すべき第1回目の夕食―きのこご飯と、さばの味噌煮と大根のみそしる―を作ってから、1週間がすぎていた。
悟浄がせっかく見つけてきてくれた仕事を断ってしまった罪悪感は今も胸に残っている。
少しでも悟浄の負担が減らせるように、少しでも悟浄が快適に過ごせるように、家事をかって出たのは自分だ。
自分の作る食事を、悟浄はおいしいといって食べてくれる。
自分がアイロンをかけたシャツを、悟浄は気持ちいいといって着てくれる。
そうやって悟浄が笑ってくれるのを見るのがとても好きだ。悟浄の笑顔を見ている間だけは、自分の心がその笑顔だけで満たされて、他のことを考えなくてもすんでいられるから。
だから、できるだけ悟浄には心配をかけないように、喜んでもらえるように、立ち居振舞いには細心の注意を払ってきた。
ただ、どうも自分の身体はもとに戻っていないということを認めざるをえないようであった。
指を持ち上げるのも正直億劫なくらい、今日は疲れていた。悟浄は軽く夕食を取ってから賭場に出かけるが、その夕食の食器を流しに運んだところで、それ以上動けなくなってしまった。
幸いにも悟浄はタッチの差で出かけた後だったので、その状態を知られることはなかったけれども。
床に座り込んでふとリビングのガラスを見やるとそこにはまるで鏡のようなガラスが無様な自分の姿を映し出していた。
両肩はだらりと下がり、ひざを立てることすらできない。右目には義眼と片眼鏡。そして左耳には銀の妖力制御装置が三つ―――。
「猪八戒という男は、こんなにも情けない男なんですね。」
誰が名前をつけたのかと言うことはともかく、18年間使いつづけてきた名前を捨て、猪八戒と言うものに成り果てた自分を、せめて嘲笑できなければ今晩はどうもやり過ごすことができないだろう、と彼はなんとなく思った。
その間にも倦怠感はますます全身に広がっていく。両腕が肩からぬけそうなくらいだるい。唇の端も、まるで魚類になったかのようにひどく下がっていくような気分だ。全ての血が下がって視界に何重にもヴェールがかかっていく。
「―――ッ!」
突然、身体の中心から湧き上がってくる不快感がはじけた。
嘔吐感ともちがう表現しがたい不快な―――
自分でのどを閉めたくなるような、髪の毛をかきむしり、何かをめちゃくちゃに壊したくなるような、不快感―――
「うッ……」
意味をなす言語にならないうめき声をあげ、彼は床に転がった。
そのままのた打ち回ろうとするが疲労はそれを彼に許してはくれなかった。
床にはいつくばったまま、何も考えられないで苦しむ部分と、どうしてこんな不快感が生じるのか、ということを考えている部分とが自分の中にあった。
気持ち悪い、などという言葉では表しきれない。
何かがめくれ上がり、穴をうがち、背中と腹がそれぞれ別の方向へ持っていかれようとする。
…流しの下に転がったまま、彼は一夜を過ごした。
翌日早朝、朝日とともに帰宅した悟浄を迎えたのは、電気がつけっぱなしの台所とリビング、洗われていない食器と、床に転がっている八戒であった。
「―――おい!どーしたんだよ、八戒!!」
声まで蒼白にして悟浄が八戒のもとへ駆け寄る。
「八戒、どうした、八戒!!!」
肩を抱き起こしてゆさぶる。唇の色はほとんどなく、顔色も青いままだ。
――拾ってきたばかりのときの八戒にひどく似ているその状態は、悟浄の心をより不安の方向へとおしやった。
「なあ、返事しろよ、どうしたんだよ、八戒!!!」
何度も繰り返し名を呼び、覚醒を促す。しかし、その両の瞳は閉じられたまま、唇の色は土気色を増していた。
「八戒―――!」
自分の体温を与えるかのように必死で抱きしめながら、悟浄は昨晩八戒の不調を察し切れなかった自分を心の底から呪っていた。
―――どこか遠くで、誰かの声がきこえている。
自分のことを呼んでいるようだが、何と呼んでいるのだろう。
…呼ばれているのなら、応えなければ。この重いまぶたをこじ開けなければ…――――
しかし、その声がはっきりと自分を「八戒」と呼んでいるのを自覚して、彼はぼんやりと頭にあることを思い浮かべた。
―――ああ、そういえば、名前を変えざるをえなかったんだ…
そう思ったとたん、彼は目を開けるのがばかばかしくなってきた。
今、必死に名前を呼んでもらっているのはついこの間この世に存在することになった「猪八戒」という人物である。
その名を付けられるまでの自分は大罪人で、この世から抹殺される程度ではその罪をあがなえることなどできないということはとっくに承知している。
―――だったら、本当に殺してくれればよかったのに―――
…身体の疲れが、精神の疲労をももたらしているようだった。
悟浄が喜んでくれる顔を見たい、などと思うのも所詮自分のためだ。何の義理もなければ縁もゆかりも貸し借りもない自分に、意味もなく親切にしてくれる存在がこの世にあるとは到底思えない。
その証拠に―――
聞かなかったではないか。拾ってきてから、自分の名を、ずっと―――
うっすら瞳を開けると、鮮烈な紅が目に飛び込んできた。自分の肩に顔をうずめているその表情は窺い知ることはできなかったけれど。
自分を弱々しく「八戒」と呼びつづけるその声が鼓膜をくすぐる。
そう。悟浄にとっての自分は、所詮「猪八戒」であって、それ以前の大罪人ではないのだろう。
村を壊滅させた、1000の妖怪の血をあびた、自分の命よりも大切なはずだった存在を守りきることができなかった、そんな人間ではない―――
「…ばないで下さい…」
自分の声がその耳に届いたとたん、はじかれるように顔を上げ、自分を覗き込んだその紅の瞳は、大きく見開かれ、自分の薄汚れた右目の義眼と左眼を正確にうつし出し、寄せられた眉根と心配そうに口を開きかけた唇は、自分の心の奥底に何かを注ぎ込んでくれるような錯覚をもたらした。
―――そう、錯覚。
悟浄のその唇がつむぎだすのは、「猪八戒」という名前なのだから…
「…よかった…気が、ついたんだ……」
呆けたように安堵のため息を漏らす悟浄に、冷ややかな視線を向け、彼は毒を結晶化したような台詞を吐いた。
「八戒、って呼ばないで下さい。」
覗き込んでくる紅の瞳が痛くて、ついその瞳に引き込まれそうになる自分を戒めて、視線をそらしざまにそう言った。
「…どう、したんだよ…?八戒…?」
悟浄がゆっくりと、八戒を見つめる。
「…あなたにとって、僕という存在は『猪八戒』でしかないんですね―――」
…2度瞬きを繰り返したあと、悟浄は突然全てを理解した。
大罪を犯し、腹を裂かれ、右目を抉り取り、名を変え―――
そして、一番大切なものを失った。
なきがらを葬ることすら叶わず、この世で最も愛した存在が呼んでいた自らの名前を名乗りつづけることも許されずに。
「…ま、気がついたンならイイけど…あんた、休んでなよ。後は俺がやっとくから。」
思い切り冷淡な瞳でにらみつけた先の悟浄は視線をそらしてそう言った。
そのほおの傷をこちら側に向けた横顔は、あまりに透明で、その心の孤独を強調しているかのようであった。
「やっぱあれだな。身体が、なおってねーの、あたりまえだよな…」
一人になった台所で悟浄はそう考えた。
倒れ伏して動けないほどの疲労を与えていたのかと思うと情けなさに涙が出そうになる。
いくら妖怪とはいえ、あれだけの深手だ。
さらに右目を抉り取っていることによって傷つけられている脳周辺の神経系統はどこでどんな影響をもたらすのかわかったものではない。
「バカだよな―――俺って。」
ハイライトを1本取り出し火をつける。1度大きく吸い込んで紫煙を吹き上げた。煙の雲はすぐに四散する。
あの冷淡な瞳は、色も、性別も、年齢までも違っていても、あの義母の瞳を思い出させる。
見てはいけないものを見たような瞳、であれは未だマシであった。
しかし、その瞳は、まるで悟浄がそこに存在しないかのような、ただの石ころやテーブルや花瓶と悟浄を同列にみなしているような、そんな瞳であった。
手軽に取り出せるようにポケットにしまってあった教訓―――「誰とも目を合わせなければイイ」を、いつまでたってもポケットに入れっぱなしだった自分の馬鹿さ加減に自嘲のため息をつく。
何を、あの碧の瞳の持ち主に求めたのだろう。
そう簡単に心を満たしていくものが見つかるはずはないのに。
…結局自分には、「何か」を求めることすら許されないらしい。
「サイアク・・・」
流しの食器は片付けられないまま、碧の同居人も部屋から出てこないまま、その日は暮れて、そして、また同じように朝日が昇った。
自分は一体なにものなのだろう。
眠ることもできずに考えつづけていたもと猪悟能は、いつまでも堂堂巡りを続ける思考回路に辟易していた。
生きることを選んだのは自分だ。
生きつづけることが、それがどれだけ苦しいものであっても、あの時、生きたい、と自分が望んだのだ。
黄金の髪を持つ人物に、生きてこそ変わるものがある、と気付かされた。
そして、―――あの、鮮烈な紅の瞳が、自分を受け入れてくれたのだ、と確かにあの時思ったのだ。
そうやって、自分は生きることを選んだ。
では、それはどういう存在として―――――――?
猪悟能、という過去を捨てきれるわけがない。
猪八戒、という存在になりきれるわけもない。
自分の中には悟能と八戒が混在していて、そのどちらもが、ある時は死を望み、ある時は生を望む。
悟能である自分の中には、ほぼ空洞が残っているだけだ。
誰よりも、どんな存在よりも、当然自分よりも大切な、この世で最も愛した人。
その人を殺したのは自分。守りきれなかったのは自分。
その虚ろのそこには、絶望が大きな口をあけて自分が落ちていくのを待っているだけだ。
勿論その虚ろは、八戒になったからといって消えてなくなるものではない。
しかし、八戒である自分の胸の奥底には、その絶望を少しずつ埋めていく、紅の瞳の存在を、無視することができなくなっていた。
暗い、暗い、暗い淵に自分が片足を突っ込んでいることを十分承知してくれている。
無理に引き戻そうとすることはないが、それ以上深みにはまることを決して許してくれない。
自分の居心地が悪くないように、自分がらくに暮らせるように、心を砕いていてくれたのはその紅の瞳の持ち主だ。
彼は、優しい。
本当に優しい。
ただ、その優しさは、自分に直接伝わる優しさではない。遠くから何かを伝わって微かに響いてくる、そんな優しさだ。
まるで、直接の優しさを拒否されることにおびえる子供のように、悟浄は自分に接しているような気がする。
それは、なぜ…?
彼には理解できなかった。血すらつながっていない、こんな自分に、なぜ、あの紅の瞳は…
灰皿の上にうずたかく積み上げられた吸殻を前に、悟浄は、四捨五入すれば3000回目くらいにはなるだろうため息をついた。
あれ以来、もうまる2日になるが、碧の同居人とは顔を合わせていない。
何も食べないのは絶対に身体によくないと思うが、何か食べるものを持って同居人の部屋を訪れるためには、悟浄の気力が足りなさすぎた。
それなら、悟浄がこの家を留守にしておけば、同居人も何かと動きやすいのであろうが、そうすることもできなかった。
もし、また、悟浄の知らないところで倒れたり、行方不明になったりしたら、たまったものではない。
―――あの、喪失感…
「猪悟能は死んだ」と、鬼畜生臭坊主に言われたとき――――
土気色をして、台所に転がっていた八戒を見つけたとき―――――
どうして自分はこれほどまでにあの男、拾ったときはまったくの他人であったところから、瞬く間に同居人にまでなってしまったあの男、にこだわるのだろう。
誰とも目を合わせなければ楽に生きられることは確認するまでもなくとっくに理解している。
それなのに、どうしてあの男には目を合わせたくなってしまうのだろう。
似ているから。
それで納得したのではなかったのだろうか。深く考えるまでもない。
ただ、あの瞳はこたえた。
冷たい、凍てついたようなあの瞳―――
悟浄は、八戒にあんな瞳をさせたくはなかったのだ。
その心の絶望が何であれ、きっとわらえばすごくきれいな瞳をするだろう、その深い碧。
それを見てみたい、と悟浄は強く思った。
この髪が血の色にしか見えなくても、いつかはその手の血は洗い流すことができるだろうから。
「―――とにかく、ダメだ。何か食わさないことにはきっと…」
…いくら考えても結論が出ないことを考えるのをやめ、悟浄はようやく開き直った。
義母に食事をもらえない、などということは日常茶飯事であった悟浄にも、2日目も終ろうかとしているこの時期になってやっと食事の重要性がわかってきたようである。
たとえまたこの手からするりとあの碧の生き物が落ちていってしまったとしても、死なれるよりはまだましだ。
なけなしの気力を振り絞って悟浄は水と、林檎をトレイにのせ、碧の同居人の部屋のドアをノックした。
「入るぞー」
自分の返事も聞かず、ずかずか入り込んできた紅の瞳の持ち主は、トレイをベッドのそばに置くと、ポケットからナイフを取り出して、器用に林檎をむき始めた。
呆けたようにその手の動きを見つめる。
何かしゃべったほうがいいのだろうか、と思うが、何も話すことが見つからない。
気まずい雰囲気のまま、悟浄が林檎をむき終わるのを待つ。
「―――ホラ」
八等分された林檎を差し出し、視線は合わさないまま、悟浄が口を開いた。
「…悪かったよ」
「…え?」
その言葉を聞いたとたん、反射的に、もと猪悟能で現在の猪八戒は、思わず驚きの声を上げた。
「そんななるまで、気付かないでさ。俺、身体が弱ってるときに、どーしたらいいかなんて知らないから。
―――ずいぶん、無理させたンだな。ごめんな。」
「…ご、じょ…」
「食事、もってこれなくてごめんな。腹減ったろ。食って、体力回復してくれよ。」
「…悟、浄…」
「ああ、でも、あんまり急にたくさん食べるのってよくないんだろ?林檎なんていいかなー、と思って持ってきてみました。俺、林檎むくのは得意なんだわ」
赤い皮を剥ぎ取れば、何色にも染まることのできる白い実を見せてくれるから、とは口に出さなかったが。
八戒に口をはさむ隙を与えず、一方的にべらべら喋り捲って悟浄は、
「じゃ、そーゆーことだから。もう少ししたら、もっと栄養のつきそーなモン、持ってくるからさ」
それだけ言って、同居人の部屋から出て行こうとした。
本当にカッコ悪いと確信していたが、これ以外の選択肢は彼にはなかった。
死んでほしくない。
元気になってほしい。
だったら、他にどんな方法があるというのだろう。
死なないためには、元気になるためには、栄養を取らせ、体力を回復させるしかないのだから。
どれほど疎んじられても、悟浄がそれを願うのであれば、悟浄から手を伸ばすしかないではないか。
進歩のなさに我ながらあきれかえって、もと猪悟能に背を向けて、悟浄は少し伸びた髪の毛をかきまわした。
「…悟浄―――待って、下さい…」
髪をかき回す後姿に八戒は、声をかけた。
悟浄が、ゆっくり、ゆっくり振り返る。
その紅の瞳に自分の視線を固定させ、八戒はもう一度、その人の名前を呼んだ。
「悟浄…」
紅の瞳に、自分が映っていることを確認し、言葉を続ける。
「…ごめんなさい」
その瞬間、大きく見開かれた瞳はひどく八戒の胸を締め付けた。
自分を受け入れてくれた、と感じた、この瞳の持ち主を、自分がこれほど、苦しめていた。
悟浄からあやまられるとは思ってもいなかった。どう考えても悪いのは自分だ。
自分が体の不調をもてあまし、八つ当たりをしていただけだ、とはっきり八戒は思った。
だから、あやまらなければ。少しでも早く。
「…はっ…」
かい、と呼ぼうとして口篭もる悟浄のその表情に、また、八戒は胸の底に鈍い痛みを感じた。
こんなにまでも自分を大切にしてくれる、こんなにまでも自分を受け入れようとしてくれる、悟浄を拒絶してひどい言葉を投げつけた。
心の虚ろはそう簡単にはうまりはしないだろうけれど、それでも悟浄の優しさが痛いほど胸に流れ込んできて…
絶望の淵に底などないと思っていたのに、いまは、完全に底の存在を自覚せざるをえない。
それもこれも、全てこの、紅の髪と瞳を持つ悟浄のせいだ。
その紅が、少しずつ暗い淵を埋めていく。
真っ黒のこの世界に色彩を与えていく。
「…ごめんなさい。」
もう一度、八戒は言って、少し目を伏せてからもう一度まっすぐ悟浄を見てこう言った。
「…名前なんかにこだわってるほど細かい性格じゃなかったなー、ということを思い出しました。ごめんなさい、悟浄。あなたが、僕を『八戒』と呼んでくれるのなら、僕も、少しずつ、『八戒』というものになれていくように思います。」
「…八戒…」
「ごめんなさい。悟浄」
最後にもう一度そう言って、八戒はぺこりと頭を下げた。
何も言えず、どうしてよいかもわからず、悟浄はおろおろしてしまった。
やがて顔を上げた八戒が、そんな悟浄の様子を見て、微笑みながら悟浄に問う。
「…もしかして、あやまられたのもはじめてですか、悟浄?」
「………………………そうだ」
長い沈黙のあと、悟浄が肯定の声を漏らす。八戒は、破顔した。
「僕って何かと悟浄の『はじめて』を見つけますね。」
その笑顔を見て、悟浄は本当にきれいだ、と心のそこから思った。
想像したとおり、いや想像以上の笑顔だ、と思った。
「悟浄、一つ、お願いがあるんですけどいいですか?」
放心したかのような表情を見せていた、はっきり言ってしまえば八戒に見とれていた悟浄はあわてて八戒のそばに近づく。
「林檎、もう一つ、むいてもらってもいいですか?」
「…あ、ああ、すぐ、もってくる」
林檎一つで腹が満たされるわけはない。―――つくづく、自分にあきれて、悟浄は八戒の部屋を後にする。
その後姿を見送って、八戒は一人つぶやいた。
「でもね、悟浄。僕も、あやまってもらったの、はじめてなんですよ……」
花喃とは、喧嘩なんかしませんでしたから、という言葉は口には出さずに。
あやまられる、という経験すらなく、お互いここまで生きてきた。
でも、ふたりでいたから、こうやってここで暮らしていたから、少しずつ取り戻せるものがあるように思う。
怪我をして、一人で転がっているだけなら、こんな経験をすることはなかった。
絶望の淵をさまよっているだけなら、いずれ、その底のない淵に沈んでいくだけである。
…他人にどう接していいかわからないから、お互い、心が無傷でいられるわけはないけれども。
それでも、ここに、いたい。
この、鮮烈な紅の瞳と、髪を持つ人物のいる、ここに。
「悪ぃ、遅くなって」
今度はノックをせずに悟浄が林檎と、おかゆをのせたトレイを手に持ち部屋に入ってきた。
「ありがとうございます、悟浄」
そう言って、再び、八戒はひどくきれいなその笑顔を悟浄に見せた。