フェラーリ・ラプソディ/Ferrari Rhapsody



事務室の中央に設えられた上品なソファーから、デタラメな鼻歌が聞こえる。
 パラリと楽しそうにページをめくる音が耳障りだ。
「……八戒」
 イライラとした声で机に積み上げられた企画書の向こうから、この部屋の主である三蔵が片方の眉をぴくりと上げる。
「八戒」
 それが天才と呼び声の高い作曲の才能を持つ歌手の曲か、貴様っ!と突っ込みたくなるような、オチもサビもない音符の羅列をお気楽に振りまいているソファーの佳人を呼ぶ。
「八戒!」
 いーかげんにしやがれ!とバシッと書類を叩きつけ、椅子を蹴り飛ばす勢いで、ツカツカと歩み寄り、ソファーに身を沈めた八戒の手元を覗き込んだ。
 三蔵の眉間にくっきりはっきりとシワが刻まれ、周囲の温度が絶対零度に近づいていく。
「貴様───今度は何を買う気だ?」
 どこからそんな入手困難と言われる貴重なモノを手に入れてきたのか、八戒の手元には分厚いフルカラー印刷のカタログが踊っていた。
 地を這うような三蔵の不機嫌な声音など、気にする様子もなく、ほわんと八戒は微笑んだ。
「三蔵、見てください。この紅いのもいいんですけど、やっぱり黒がいいですよね」
「……こんな荷物も積めねえ役立たずをどうするつもりだ」
「黒いほうが紅って映えますよね。シートはオフホワイトにして……」
 ───聞いちゃいねえ…
「ああ、これもいいですねえ」
「おい、まさか、貴様───」
「三蔵、これ、悟浄が乗ったらカッコイイと思いませんか?」
 八戒の細くて長い綺麗な指が示す先には、流れるようなフォルムを持つ走る芸術品と賞賛されるイタリアの名高い跳ね馬が燦然と存在を主張していた。
「───バ…バカヤローーーっ! そんなモンに経費が落せるかっ」
「……ダメ、なんですか?」
「そ…そんな顔してもダメだっ」
「これなら二ヶ月程で入るって言ってました」
 普通なら半年以上は待たされるんですよねーと妙に嬉しそうにはしゃいでいる。
「無駄なものに出す金はない」
 傍らに立ち尽くす不機嫌も顕な三蔵を見上げて、にっこりと八戒は微笑んだ。
「じゃあいいです。僕、会長にお願いしちゃいます」
 ───なんで、そんなものを欲しがるんだ。不自由のないように用意してある。プライベートで必要とも思えないが……
 ───悟浄? いや、あいつは八戒に何かを買わせるようなタマじゃねえ…。
 ───だとしたら考えられるのは……………このバカっ!
 カタログに見入る横顔の口許に浮かんでいる微笑と、ここにはいない紅毛の長身に向かって聞こえない悪態を付き、不覚にもそのイタリア産跳ね馬の横に立つ二人を想像して、うっかり似合うなどと思ってしまった己に対して眩暈がした。


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 V8エンジンのサウンドを響かせながら夜の東名高速を疾走するジャガー。
「八戒、大丈夫か? ラジオかCD…それともさっきのライブのテープでも聞くか?」
「いいえ…静かなほうがいいです」
 少し掠れた声がライブの後の高揚感が醒めていく気怠い雰囲気と相まって艶めいて見える。
「そうか。疲れてんだろ。寝てろよ」
 革張りのシートに身を預けて、あふっと小さく欠伸をする姿をムールミラーに写して、アクセルを踏み込む。
 本来なら一泊する距離の街でのライブ。
 納期の迫った仕事のためにどうしても今夜中にスタジオに入りたいと八戒が言い出したので、翌朝の新幹線をキャンセルして車で直帰することにした。
 車はスタッフに運ばせ、ライブ終了後、撤収作業をすべてスタッフまかせにして、サポートのミュージシャンたちに打ち上げに付き合えない非礼を詫び、休む暇もなく会場を後にしてきた。
 熱心に出待ちをするファンの子たちは、肩透かしをくらったことになる。彼女たちが楽屋口へ到着するころには八戒を乗せた車はとうに高速へと乗り入れていた。
「なんでジャガー持ってくるかなぁ。こーゆーときはビーエム(BMW)の方が走りやすいんだよなー」
「後ろに乗ってるにはこっちの方が楽ですけどね」
「デカイばかりでパワーがないんだよ」
 ブツブツとイギリスの老舗ブランドを扱き下ろす。ちなみにジャガー・デイムラーのスーパーV8である。
 今夜のライブの出来や、反省点など、取り留めもなくやり取りしていた時に、悟浄がひゅうと小さく口笛を鳴らし、バックミラーを食い入るように見ている。
「悟浄?」 
 不自然に途切れた会話を訝しむように後部座席から運転席に向かって乗り出す。
「…っとワリぃ。八戒、後ろ見て♪」
「……?」
 悟浄の声につられて振り返った八戒の眼に車高の低い鮮やかな紅い色の車が飛び込んできた。
 甲高い独特のエンジン音を響かせて、八戒たちのジャガーの横に並んだかと思うとあっと言う間に苦もなく追い越していった。
 車高が低いために妙に横に幅広く見えるその紅い車を嬉々として悟浄が追う。
「かっこいいよなー。フェラーリだぜ〜」
 お気に入りのオモチャを見つけた子供のように後を追いかける悟浄の嬉しそうな横顔に思わず見入ってしまった。
「テスタロッサですね。カラヤンがオーケストラのようだと讃えた12気筒エンジンの音。1991年生産終了までに7177台作られ、最高速290キロ。全長4485ミリ、全幅1976ミリ、全高1130ミリ───」
「八戒さん……?」
 エンジンスペックまで延々と披露しかねない八戒の蘊蓄を途中で遮る。
「テスタロッサの名前の由来はエンジンのヘッドカバーが赤く塗られて───あれ? どうしました悟浄?」
 夜の高速を疾走する紅い跳ね馬にさすがに付いていけなくなり、巡航速度に戻した悟浄がルームミラー越しに八戒に視線を送る。
「い…嫌だなぁ悟浄。僕、間違ったこと言いました?」
「よく知ってんなーと思ってさ」
「僕もいちおう男の子ですからね、フェラーリ好きですよ」
「まさか…持ってるなんて言うなよ」
「さすがに持ってませんね。乗ったことはありますけど……」
 すっかりフェラーリ談義に花が咲いたのはいいが、八戒のデータ量の豊富さに舌を巻く。車種と年式による違い、スペックなどがスルスルと出てくる。さすが活字の虫、そんなとこまでご存知とは、と諸手をあげて降参した。
 御殿場のインターチェンジへの案内板が見えた。ここを出て旧138号線を乙女峠に向かう途中に……。
「そういやぁさ、フェラーリ美術館ってのがあんだよなー。今度オフの時でも行かね?」
「え?」
 そんなオフの過ごし方など考えたこともなかった。
 オフがあっても最近はゆっくりと本を読むこともなく、暇さえあればスタジオに入りっぱなしで……遊びに行こうなんて誘ってくれる人もいなかったから。
「ディーノ、288GTO、512BBi、F40、F50…F1マシンも置いてあるしな。行こーぜ」
「はい。行きましょう」
 悟浄と一緒なら楽しそうだと考えて、なんだか嬉しくなってごく自然に微笑が口許を飾る。
「悟浄、ほんっとに好きなんですねえ」
「だってよぉフェラーリといやぁ車好きなら誰でも憧れだろー」
 金がかかろうが、壊れやすかろうが、メンテナンスが大変だろうが、ちょっとした段差で下板を擦ろうが、華奢なボディはちょっと押さえたぐらいで凹もうが、夢はフェラーリオーナー。跳ね馬への恋心は募る。
「なんだかその熱い語り、妬けますねえ…」
 そんなに好きなら、サンマリノ・グランプリを観にイモラへ行くのもいいかも知れない。ついでにマラネロに寄ろう。今年はもう間に合わないから、来年───いっそのこと一年ぐらい休暇を取ってコンチネンタル・サーカスするのもいい。もちろん二人で。
「なんか言った?」
「いーえ、別に……ところで悟浄───」
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「なんだ三蔵。てめーは何ケチケチしてやがんだ? ああ?」
 チェックの終わった書類の束をバサリと投げ出した観世音会長サマは不敵な笑いを浮かべ、頬杖をついたまま目線だけを三蔵に向ける。
「……何のことだ」
「いーじゃねえかフェラーリの一つや二つ。八戒にも相応の車が必要ってことだぜ」
「……車なら何台もある。これ以上必要ない」
 BMWにジャガーにボルボにメルセデス。これだけあれば充分すぎる相応だ。
「まぁそう言うな。八戒のお強請りなんざ滅多に見られるモンじゃねえ。これがまた可愛くてなあ」
 八戒から電話があった。
(近くまで来てるんですけど、今ご都合はよろしいですか?)
(珍しいな。お前が来るってなら予定なんぞいくらでもすっ飛ばすぞ)
(じゃあすぐに……)
 クスクスと受話器の向こうで笑う八戒が一人で会長室に現れた。
(おばさま)
 八戒が『会長』と呼ばず、こう切り出すときは、大概何かある。
(どうした八戒。欲しいものでもあるのか)
 にっこりと笑って「フェラーリが欲しい」と言った。
(ふむ……お前のリクエストならなんでも聞いてやりてーとこだが、なぜそんなモノを欲しがる)
(この前高速で見かけて、悟浄と盛り上がっちゃったんです。そしたら欲しくなっちゃって)
 会長には下手な言い訳をしても見透かされるだけ。単刀直入に希望を伝える。
(僕の財産、おばさまに管理をお任せしてますから、いちおうお断りに)
(お前の金だ。勝手にしろ───ああ八戒、事務所の経費で落としていいぞ)
(これは僕が個人的に買うんです。ですから───)
(気にするな。どうせみんなお前の稼ぎだろ)
(ありがとうございます)
 笑顔、全開。
 その場で出入りのディーラーに連絡を入れ、営業を呼びつけた。
「───騙されてねーか…?」
「騙されてやるとこがいーんだよ。それにな、優秀なドライバーもいるこったしな」
「わかりました。では、決済は本社回しでいいですね」
 思いっきり嫌みを口調に込めてやった。
「保険も忘れずに掛けとけよ」


 ─────約2ヶ月後。


「……ちょっと待て」
「どうしたんですか悟浄? 遅刻しちゃいますよ」
「………遅刻もマズイが、なんだこれは??」
「何って……車じゃないですか。悟浄、手を」
 条件反射で手を出した悟浄に、はい、とキイを落とす。キーホルダーについたプランシングホースが掌の上で跳ねる。
「そんなのは見りゃ分かるっ! で、なんでフェラーリがここにあるんだっ!?」
「だって悟浄、フェラーリってカッコイイって言ったじゃないですか」
「───俺がそう言ったから、これがここにあるの?」
「そうですよ。貴方はそれを運転して僕を送り迎えしてくれればいいんです」
 きらきらと翠の瞳を輝かせて、セリフの語尾に特大のハートが見えるのは気のせいか?
「いいんですってなぁ……だーからぁこれミッドシップだろ。荷物が積めねえんだよ」
 FF(フロントエンジン/前輪駆動)や、FR(フロントエンジン/後輪駆動)の車とは違って車体の中央より少しリアよりに配置されたミッドシップ・エンジン。見慣れた車のように後ろにあるべきトランクはない。普通の車ならエンジンが収まっているはずのボンネットを開けるとそこにスペアタイヤと備付けの工具で占領されたトランクがある。
「それ、誤解です。昔のフェラーリじゃないんですから。今のって少しはマシになってるんですよ」
 ドアを開け、シートを倒すとゴルフバックが余裕で納まるラゲッジ・スペースがちゃんとある。
「あ…ホントだ……」
「フロントエンジンの550でも良かったんですけど……」
 550は納車に最短で半年、予約キャンセルの出たこれなら2ヶ月以内に納車可能と言われた。とにかく少しでも早く手に入れたかったのだ。
 カタログで選んでいるときは16色あるボディカラーのうちネロ(黒)が紅い髪にきっと似合うと思ったが、ロッソ・コルサ(フェラーリ・レッド)と呼ばれる王道カラーを見ているうちに、『赤=悟浄』という図式が頭から離れなくなり、結局散々悩んだ挙句に同じ赤でも少し暗めのロッソ・フィオラノ(メタリック・ワイン)に決めた。
 フェラーリ360モデナF1───6速セミオートマチック。
3586ccDOHC5バルブのV8エンジン。
「乗りてぇぇ………じゃなくて、これ新車だろ。慣らしも終わってないエンジンで、こんな癖のある車、いくら俺だっていきなりはキツイぜ」
 ───ってゆーか、セミオートマチックなんて運転したことないんですけど……。
 フェラーリを運転する機会があるはずもなく、雑誌などで仕入れた知識しかない。いきなり現物を目の前にして運転しろと言われてもちょっと自信がない。練習ついでのクルージングならいくらでも喜んで走らせていただきたいが、時間通りに動かなくてはいけない今のようなときは避けるべきだ───否、マニュアル車ならともかくこれは遠慮したい。
 ───フツーのオートマ車と同じ扱いでいいんだったよな……。
 セミオートマチック・システム───F1マシンに搭載されているコンピューター制御によるクラッチ・システムだ。足元はアクセルとブレーキの2ペダル。いわゆるオートマ車とは違うのは、ステアリングの後ろに小さな羽根のようなレバーがあり、ステアリングを握ったまま左右にあるこのレバーを指で操作し、シフトアップとシフトダウンを行う。要するにクラッチペダルのないマニュアル車、と言ったところか。
「でも、貴方なら……」
「慣れない車で危険なのはお前の方だ」
「僕…?」
「俺一人ならどうなってもいいが、お前はそうじゃない」
「でも、悟浄……」
 もっと喜んで貰えると思った自分が浅はかだったと八戒は項垂れてしまう。
 フェラーリが好きだと、憧れだと言ったから───それは悟浄にとても似合うと思ったから……。
 綺麗な紅いフェラーリを操る悟浄が早く見たかった、ただそれだけなのに……と、しゅんと俯いてしまった八戒を思わず抱き締めたいと上がる腕を、目の前にある濃茶の柔らかい髪をくしゃっと撫でることで誤魔化した。
「しっかしまぁホントにかっこいいよなー。いやぁー俺、この仕事について良かったぜ。俺だって早く乗ってみてえよ」
 ますます項垂れる八戒をBMWに押し込みながら苦笑する。
「とにかく今は時間がない。今日の仕事が終わったら、慣らし運転で少しその辺を走ろう。それでいいだろ?」


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 テレビの歌番組は拘束時間ばかりが長くて退屈な仕事。
 よく喋る司会者の質問にも上の空、気も漫ろでボケた回答を返している。
 あの調子で演奏までやられたら頭が痛いと懸念するが、そこはプロ。セットの中で音に囲まれてしまえば人が変わったように歌いだし、与えられた持ち時間だけは無難にこなす。
 そして、出番が終わってしまえばまたほわーんとしている様子が全国ネットで流れてしまうのはどーかと、待機する悟浄を苦笑させる。
「お疲れさまー」
「お疲れさまです。お先に失礼しまーす」
 と、挨拶もそこそこに楽屋の荷物を掴むと悟浄を引き摺るようにして、スタジオの駐車場に駆け込んだ。
「お、おい八戒っ! 何をそんなに急いで───」
「何って悟浄、約束したじゃないですかっ」
 早く、と急かす八戒に呆れながらも、悟浄とて早く走らせて見たい気持ちは変わらない。通常の3分の2ほどの時間で戻り、とりあえず一旦事務所に帰社の報告と出かける旨のメッセージを残して、待望のフェラーリのイグニッションキイを回すと、重量感のある低い音が駐車場の中に轟く。
「フェラーリのエンジンってのは、デリケートだからな。とりあえず初めはゆっくりとな」
 ───こ…これならなんとか運転できそうだよな……
 冷や汗ものだ……。
「ワクワクしますね。……でも相変わらずエンジンの音は煩いなぁ」
 車内の音は想像以上にデカい。ラジオやオーディオ装置は完備しているが、あまり意味は成さない。
「そりゃそうさ、エンジン背負ってるようなモンだからな」
 いわゆる車の後部座席にあたる部分から、3600ccのエンジンが鎮座しているのだ。そりゃあ煩い。
 これでも昔よりは静かになったほうだ……。
「街中を流しても面白くねえよなぁ。首都高一周とでも行きますか」
 都心部を縦横に走る首都高速道路。中心は環状線になっていて、一周回ると結構な距離になる。気晴らしに飛ばすにはちょうどいいくらいの距離である。
 日中は『首都低速道路』と言われるほど渋滞が酷く一般道路を走っても変わらないなどと悪口を言われているが、深夜ともなればかなり空いている。しかし、合流地点や分岐点、出入り口などが入り組み、カーブの多い高速とは名ばかりのこの道路はあまりスピードを出すには向かない。ちなみにほとんどの路線が時速50〜80キロの制限付きだ。もちろんこんな時間帯では誰も守っていない。
 料金所を入り、ギアを2速に叩き込み、3速、4速と一気に引っ張り、5速で巡航させる。地を這うような重低音がシフトアップごとにあの独特の甲高いエンジン音に変わっていく様は美しい音楽のようだ。
 フェラーリと見ればバトルを挑んでくる不埒な輩もいるが、そんな挑発に乗るほどバカではない。
「この悟浄サマに挑もうなんざ10年早い、ってのは冗談で、新車のうちに無理をさせるのは良くねえからな」
 無視してやり過ごす方が利口だ。無理をして何かが起こってからでは遅い。なにしろこちらにはフェラーリより大事なお姫さまがいらっしゃるのだ。
 そのお姫さまは助手席でうっとりと流れる景色を眺めている。
(そんなにいいかねぇ……こいつってナニ考えてるのかホントに分からねえよな)
 パネルに組み込まれた時計に目をやり、そろそろ帰らないとマズイと車線を変えようとしたとき、八戒がふわりと動いた。
「……悟浄」
「ナニ?」
「お願いがあるんです」
 ステアリングを握る悟浄の腕に手をかけ、見上げるように見詰めてくる。
「すっごくイヤな予感するんだけど」
「……このまま何も言わずにまっすぐどこまでも行ってくれませんか?」
「…………おーまーえーなぁぁぁっ」
「このままこの車で飛ばしてたら、すごくいい曲が作れそうなんです」
 はい、分かりましたとアクセルを踏みそうになるのを必死で堪える。この潤んだような翠の瞳に絆されてはいけない。明日のスケジュールはどうする、三蔵に怒鳴られるのはどんな言い訳しても結局は自分だ。早く帰ってこいつをベッドに叩き込まなくてはいけない。
「このままどこか遠くへ行きたい……」
 やめろ、その夢見るような瞳で俺を見るな、と崩壊しそうな理性を総動員して、アクセルを戻し、出口方面へと路線を変更する。
「ダメだ。朝になっちまう。明日のスケジュールに差し障る」
「スケジュールなんてどうでもいいじゃないですか。───だって、せっかく仕事じゃなくて二人っきりなのに……」
「は…八戒さん? 何を言って……」
「もう少しだけ……ダメですか?」
「あ…ああ、それならもう一周…てのもダセェよな。ベイブリッジあたりまで行くか。それで終わりだからな」


     ∞ ∞∞    ∞∞ ∞    ∞ ∞∞    ∞∞ ∞


 ゆらゆらと揺れる暗い波間から目を離して振り返ると、悟浄の紅い髪が潮の香のする風に揺れている。
 カチッとライターの音がして、小さな赤い火が灯る。
 ───そういえば、僕といるとあまり煙草吸わないんですよね。気にしなくてもいいのに…。
 紅いフェラーリに寄りかかり、ルーフに肘を乗せ、星空に向かって紫煙を吐き出している。
 眼下に広がる海を近くで見たいと橋の上で強請り、渋る悟浄を口説き、人気の少ない埠頭を選んで止めてもらった。
 少し肌寒いくらいの風が気持ちいい。
 ───ああ、やっぱり似合いますね。
 口許を微笑が飾る。
 難しいと言いながら、器用にステアリングを操る横顔をずっと見ていたいと思った自分に恥ずかしくなって、外を眺めるフリをしてウィンドウに映る影を見ていた。
 風になびく悟浄の髪を見ているうちにやはりアレも買うべきだろうかと思う。
「ん?」
 視線に気付いた悟浄が八戒に何かと問い掛ける。
「悟浄、オープンカーってどう思います?」
「オープン? 雨の多いこの国には向かねえけど、暑くなったら…風を切って走るってのもいいねー」
 にっこりと笑った八戒を見て、悟浄はバカ正直に答えた自分を呪った。
 ───会長にはダメだって言われたんですけど、どうにかなるでしょう。
 オープンスタイルのスパイダーがいいと言った八戒に観世音会長は反対していた。
(それはダメだ。お前ら、ただでも目立つそのツラ晒してどーする。屋根付きにしろ。屋根さえついてりゃ何台買ってもいいぞ) 
 ───こっちは僕が個人的に買えばいいんですよね。355ならいい出物があるって言ってましたけど、中古は絶対にイヤだし……。
 ───今から探してもらえば夏までには見つかるかな……
「八戒?」
 頼むからこれ以上、とんでもないことを考えないでくれ……
「そろそろ戻らねーか」
「そうですね。帰りは僕が運転しましょうか?」
「却下」
「えーっ、いいじゃないですかぁ。悟浄、疲れてるでしょ?」
 そう思うなら、遠くへ行けだの言うな、と言いたい。
「ダメ。お前の運転は───はっきり言って…怖い」
 青信号は遠慮なく突っ走れ、黄信号は行けるなら行け、赤信号ではしょうがないから止まれ……外見からはおおよそ似つかわしくない運転をする。
 代わってもらえるのは有難いが、できるだけスピードの出ないフツーの車のときにしてほしい。
「帰ろう。また来ればいい」


     ∞ ∞∞    ∞∞ ∞    ∞ ∞∞    ∞∞ ∞


 山積みの書類を盛大に紫煙を吹き上げながら一枚ずつ目を通していた三蔵の手が止まった。
「なんだ、これは───」
 企画書や契約書に混じって請求書、それの入った封筒の中にもうひとつの封筒がある……。
 ─────見積書?
「三蔵、僕宛てに書類が届いてませんか?」
 頼んでもいないのに八戒がコーヒーをいれたカップをデスクの上に置く。
「…これか?」
「それです。頂いて行きますね」
 ご大層な装丁をされた書類を手に出ていく八戒の背中を黙って見送り、手元に残った請求書を封筒に戻し、親会社回しの箱の中に投げ入れ、今見たモノをキレイさっぱり忘れることにした。
 ───俺は知らん。何も見なかった……あいつが何を買おうと俺の知ったことではない。
 たとえそれが、2千万円の見積書であっても─────。



 

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