すすき野原の上は満月



必要とされたいのはナゼ?

 ―――誰か他人が自分に依存している、と優越感に浸るため。

それなのに、差し出される手を叩き落すのはなぜ?

 ―――捨てられるから。醜い自分がバレたとたん。

捨てられるのがイヤなのはナゼ?

 ―――依存されている状態に自分が酔っていたことを思い知らされるから。

だったら―――

 ―――そう、誰とも目を合わせなければイイ。

 

 大いに不機嫌な夜だった。
 景気よく勝っていたカードに水を差された。
 「悟浄の髪ってキレイ―――」
 キレイ、だ?
 この髪と瞳の色の持つ意味を知れば間違いなく悟浄に背を向けてクモの子を散らすより早く逃げ出すような輩どもに。

 この紅は血の色。

 斧を振り上げた義母が悟浄の身体から1滴残らず流れ出ることを願った血の色。

 背後から切りつけられた義母からながれ、悟浄の目の前にシャワーのように振ってきた血の色。

 自らの手で自らの母を殺した兄が涙の代わりに流した血の色。

―――もうあきらめている。もう誰にも依存しないでいられる。
この髪と瞳と悟浄自身をまとめて求める輩などいるわけがない。

 だから、それを見つけたときに悟浄の不機嫌は最高潮に達していた。
 自分の目の前に、血を流して倒れている物体―――いや、死んではいないようだから未だ物体にはなっていない、人か、妖怪―――
 その血は半端な量ではなく、まるで赤いペンキをぶちまけて引きずってきたかのようで、そこらへん中そいつの血が存在を主張していた。
 足でつつくと、うっすら瞳を開け、悟浄を見上げて笑ったそいつ―――間違いなくその瞳はすべてを拒絶し、死んでいくことを中断させるな、と言っていた。
 だから、悟浄は反射的にそいつを抱えて家に帰った。
 それだけ紅を悟浄の前で振りかざしておきながら、ほおっておいてくれ、などというのは絶対に許せない。
 髪や瞳と同じように悟浄の腕も、身体も紅に染まった。
 その失血量に、そいつの望みどおりほおっておいてやれば間違いなく死に至る、と悟浄は確信した。
 それなのに、拾って帰ってきてしまった。
 最高に不機嫌な悟浄の前で、火に油を注ぐがごとくいやというほど血を、紅を、ばらまいたそいつに、どうしようもなくむかついて。
 死んでしまえばそれでもいいし、死ななければそれはそのとき考えればいい。
 医者は、輸血用の血液がない、とわめいて治療するのをためらった。なだめすかしてとりあえずその腹の傷を縫合させることだけはした。腹腔の洗浄など2度とはしたくなかったし、腹圧によって飛び出ていた腸は、なかなかもとには戻らなかった。

 そして、1週間がたつ。
 
 点滴など受けるわけでもなく、もちろん口から栄養を摂取しているわけではない。血はとまったが、ただそれだけのことだった。
 男にしては色の白いその肌を悟浄はこの1週間ずっと眺めていた。
 酒場にも行かず、博打を打つわけでもなく、驚いたことに煙草を止めてまでその男のそばにずっとついていた。
 …すぐに死ぬと思っていたのに、一向に死ぬ気配がない…―――
 死にゆくものの匂いが、そいつからはしなかった。
 死にたいと思う気持ちは恐ろしいほど伝わってきたけれども。
 
 ここまで生き延びられてしまえば、そいつの瞳をもう一度見るまで意地でも死なせたくはなかった。

 縫合後の傷は、1日3回は消毒してやらなければならなかったし、包帯も、1日4回取り替えないと白血球の死骸にまみれてすぐにぐちゃぐちゃになる。名前も知らない、何の義理もない、しかも信じられないことに野郎のためにそれを毎日繰り返す悟浄は、とりあえずもう一度そいつの瞳を見て文句をいってやらないことには気がすまない、という理屈で自分を納得させることにした。
「…ここまで引っ張った挙句に、はい、死にました、なんていった日にゃ―、超ハズレだよな。」
そうつぶやいて、今日3度目の包帯の取替えを終わった悟浄は、その男の枕もとに回り、しげしげとそいつの顔を眺めていた。
 視界の隅にうつる窓の外には、暗い森。そして悟浄の家の周りには、すすきの一群がその存在を主張していた。
 少し開かれた窓から冷たい風が入ってきた。
 すすきが、さわさわ、しゃらしゃら、声をあげている。
 その声に誘われて悟浄は今度ははっきりと窓の外を自覚した。
 すすきの上を渡る風は、すすきの長いしなやかな穂先を波のようにうねらせた。淡い黄金色の光を振りまきながらその波が今日は満月だと悟浄に告げる。

―――少し、空気が変わった。

 ひときわ大きな風が、どうっと穂先をなぶり、波をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。すすきの黄金はまるで金剛石を削ったあとのように波を彩った。
 そして、唐突に波がなくなった。
 通り抜けた風の後には、空気の塊が動かずに存在していた。
 満月は晧々と白く冷たい光を放ち、すすきは歌うことをやめ、息を潜めて何かを待っていた。

 
 「・・・地獄って、案外庶民的なところだなあ。」

 その男は自分の手を見ながら間抜けな言葉を発した。
 劇的でもドラマティックでもないその目覚めに悟浄はまったく拍子抜けをしその男の枕もとに立ってその男の顔を覗き込んだ。
 その瞳は透き通った翡翠の色をしていた。
 目を覚ましたことで血の気が少し増したその顔は掛け値なしにきれいな顔だと悟浄は思った。
「悪かったな、庶民的で。」
 その言葉を聞いてはじめて悟浄の存在を知ったかのようにその男は悟浄を見上げた。

 多分、間違いなく死ぬことを望んでいたそいつを何が嬉しくて自分は助けたのであろう。
 どうせ、ここにとどまるなんて事はない。
 動けるようになったら出て行って、今度こそ望みどおりの死を迎えるだろう。
 そんな男に、何を期待したのか?
 何を、求めたのか?

「悟浄さん…」
「…行くのか?」

 名前すら聞けないまま、そいつを出て行かせようとする自分。
 知ってしまえば、欲しくなる。
 もしかしたら、この男は自分と同じ部分を持っているのかもしれない。
 大切なものを失った。
 傷つけたくないものを傷つけた。
 そんな生ぬるい言葉ではあらわしようもないほどに、心には絶望が巣食っている。
 傷を舐めあいたいわけではない。
 この男に依存したいわけでもない。
 
 だけど。

 知ってしまえば、欲しくなる。
 知ってしまえば、手に入れたくなる。

 それがかなわないことくらいはとっくに理解しているから。
 だから、何もきかない。
 何も、きけない。

「…悟浄さんの、その髪と瞳が、僕には血のように見えたから―――。」

 その男を拾ったときから季節はうつろい過ぎたはずなのに、同じようにすすきはしゃらしゃら声をあげていた。
 同じように風がどうっと穂先をなでていく。
 少し、元気を無くして、少し、銀色になって、すすきはしゃらしゃら、かさかさ、歌を歌う。
 満月の黄金はすすきの上に降り積もり、冷たい白い光は、冷たい空気を貫いて幾筋もの棒を地面に描いていた。

「貴方の瞳と髪は僕への戒めなんです。」

 大きな風がどうっと吹いて、すすきの穂先に残っていた僅かな種子を吹き飛ばしていく。風に乗って、綿毛を銀色にきらめかせながら深い紺の夜空に、その種子は散っていった。

 ―――会いたかったのだ、とはっきり自覚した。
 この紅が血の色にしかみえない、自分と似ているこの男に。
 
 誰にでも向けるのだろうそのポーカーフェイスの笑顔も、眠ったままでいるよりはよっぽどいい。
 深い碧色の瞳が悟浄のほうを向きながら、遠いところをさまよっていても、死んでしまうよりはずいぶんましだ。
 大切なものを失った、絶望しかその表情に出さなくても、黙っているよりは3000億倍こころよい。
 
 だから、つい声に出した。
 だから、ついうっかりきいてしまった。

「なあ、名前、教えろよ―――」

 知ってどうしようというのだろうか。
 この男は出て行く。後には悟浄が一人残るだけだ。
 死にたがっていたそいつを生かしたということ、それ以上悟浄にはその男の運命を狂わせることができるはずもなかった。
 知れば、欲しくなるのに。
 知れば、失いたくなくなるのに。

 それでも、知りたかった。
 できることなら、死なせたくはなかった。
 
 そんなことは完全に自分のエゴだとわかっていても―――。

 生きていてほしかった。
 笑っていてほしかった。

 その心の絶望が暗い口を開けてそいつを飲み込もうとしていても。
 
 生きてさえいればいつか、絶望の淵を埋めることはできるから。
 生きてさえいればいつか、その手の血は洗い流すことができるから。

 だから――――

「きれいな赤ですね、悟浄。」

 一度はこの手からするりと落ちてどこかに消えてしまった碧色の瞳を持つきれいなきれいな生き物が、悟浄の目の前に突然現れたとき、悟浄は、まったく後先考えずに、本当に無意識に自然にこの男と同居することを決めていた。
 
 生きていたから。
 それがどんなにその男にとってつらいことであっても。

 生きることを選んでくれたから。
 死んだほうがどんなに楽なのかわかっていても。

 生きていてくれさえすれば。
 いつか、きっと、きれいなきれいな微笑を見せてくれるときがくるだろうから。


 誰とも目をあわさなければこれ以上傷つくこともない。
 誰にも深入りしなければこれ以上壊れることもない。

 そんな簡単なことはとっくにポケットにしまいこんである。いつでも取り出して確認できるように。
 
 それでも。

 猪八戒と名前を変えたその男が、悟浄の隣に立っていることを自覚したとき、どうしようもなく心の中に広がっていくその碧を悟浄は押しとどめることができなかった。
 
「―――僕、悟浄のところに住まわせてもらうことにしました。」
 その男が、最高僧の称号を持つ金髪の紫色の瞳の持ち主に告げる声を、悟浄は何かその心を満たすものがそこにあるかのように聞いていた。

 かさかさに乾いたすすきに霜が降る夜、たたけば音を出すような満月の光が、悟浄の家に向かう悟浄とその男を照らしていた。
 凍てつく霜は月の光に濡れて硬質の輝きを惜しみなく撒き散らしていた。


 

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