水をください 




 妖怪が狂っているという。
 西方では、もうすでに幾つも妖怪に滅ぼされた村があるという。

 それまで善良だった本当にただの一般市民だった妖怪が、突如として隣人を襲い、引き裂き、血をすするという。

 勿論、妖怪が全員狂ってしまうわけではないだろう。
 少なくともこの近辺で妖怪が狂ったという話はきいたことがない。

 しかし。

 しかしそれなら。

 何故三蔵は西への旅を決意し、そして自分と八戒にあんな手紙をよこしたのだろう。
 三蔵が最高僧と呼ばれることくらいは理解しているし、そんな世間一般的に考えてクソ忙しい三蔵法師様が寺院を長い間留守にしてまで旅に出るということは、それだけきっとものすごい大事なのだろう。

 いつだって世間一般の善良な市民には公開されないような情報は、権力の中枢に集まっている。
 そして三蔵は間違いなく、長安の権力の中枢にいることは誰の目にも明らかなことだ。

 何らかの特別な事情があって、三蔵は旅に出なくてはならず、そしてその旅は一人で行けるものではないから随行人員が必要で、白羽の矢が悟浄と八戒にあたったと考えられる。
 それならそれでいつもの三蔵ならひとこと「来い」とでも書いて終わるだろう書面が、あんな風になっていたということは……

 紅い髪と紅い瞳とそれ以外の場所にも流れるこの妖怪の血を、決して三蔵は信じていないということになる。

『会って確かめたいことがある』

 最高僧様に確かめられる趣味は悟浄には全くなかったが、何を確かめに来るのかは大体わかっていた。
 わかっていたからこそかなり不愉快であることには間違いなかった。
 大体、何故自分が三蔵に付き合って差し上げる必要があるのか。西へ旅に出るなど冗談ではない。

 だけれども。

 逆説の接続詞だらけの自分の思考回路をもてあまし気味に悟浄は考えた。

 妖怪が全て狂ってしまうのだとしたら、おそらく自分もその狂ってしまう妖怪の中に入ってしまうのだろうと悟浄は思った。
 自分が自分のあずかり知らぬところで勝手に狂うのはいやだった。
 そして何より。
 狂ってしまった自分が、『大切なもの』をどこまで認識できるのかが悟浄にはとても恐ろしかった。
 せっかく手に入れた。
 この手の中で、自分のとなりで、綺麗に綺麗に、綺麗に笑ってくれるあの大切な存在を。
 忘れるわけも殺すわけも絶対の絶対になかったが、そうなってしまう可能性を全く否定できるほど悟浄に情報は豊富にはなかった。

 万が一、そんなことが―――――――

 そちらの方こそ冗談ではない。
 話しにならない。ふざけている。そんなことを考える自分ですら許せない。
 


 もし自分が三蔵と一緒に旅に出たとして。
 もし自分が見境なく狂ってしまったとしたら。

 何の躊躇もためらいもなく三蔵は自分に銃を向けるだろう。
 そして例えば『人間』である三蔵に手をかけようとした瞬間、悟空に間違いなく殺される。

 それならば。





「三蔵様……」

 口をだらしなくあけて、八戒になおも右手をねじり上げられている痛みすら忘れたかのように、坊主の集団のリーダー格はがたがたとふるえながら目の前に立つ金色の最高僧にすっかり恐れをなしている。

「…貴様は物覚えがよほど悪いらしいな……」

 金冠を被り、経文を肩にかけ、正装をした三蔵に気おされて、その坊主は思わず後ずさりした。

「俺の名を使って負けるケンカなんかするくらいなら舌噛んでここで死ね」
「さ、三蔵様…これには深い……」

 真っ青になって頭が地面につくんじゃないかと思うくらい身体を折り曲げて、その坊主は一生懸命何か言おうとしていたが、意味をなす言葉になるものはほとんどなく、結局口をぱくぱくしているだけだったので、三蔵はまるでうっとおしそうにそれ以上その坊主の方をみようともしなかった。

「さ、三蔵法師様がいらっしゃったのであればもう安心だ!!」

 群衆の中にいたやせて口髭ばかり目立つ男が甲高い声を張り上げた。

「三蔵法師様!そこにいる妖怪を捕まえてくださいませ!!」
「三蔵法師様なら妖怪にも対抗できるに違いあるまい」
「やはり最高僧さまだ。われわれの危機にはきちんと感付いてくださる―――」

 堰を切ったように群衆が騒ぎ出した。あとほんの少し騒ぎが広がればあたりはパニック状態に雪崩れ込むのは確実であった。

「――――ああ、捕まえてやる」

 ざわり、と群集から安堵の気配が立ち上った。暴走を続けていた群集のもつエネルギーが少し沈静化されたようだった。
 月明と悟浄は同時に目を見張り、恐ろしい勢いで三蔵を振り返った。
 三蔵は、平然と全ての視線を受け流し、懐から数珠を取り出して左手に握って言った。

「ただし、こいつが間違いなく妖怪だったら、だ。八戒。こいつらうるせーからさっさとソレ、はずしちまえ」
「三蔵…」
「何度も言わせるな。これで最後だ」

 三蔵は数珠を八戒の目の前に突きつけた。
 そのやり取りを群集は息を詰めて見守る。
 月明は表情を消して立ち尽くした。
 しん、と静まり返ったその場を見渡して、悟浄は胸ポケットからハイライトを取り出して、そしてかちりとライターで火をつけた。
 
 悟浄が煙草を出す音がやけに八戒の耳についた。
 がさがさという音だけが、場を支配している。

 八戒は目を伏せて少しため息をついた。
 そしてそれから右手で右目のモノクルに手をかけて、八戒はなんのためらいもなく、す、とそれをはずして右手に握った。






「それで、悟浄はどうするんですか」

 その問いに悟浄は答えなかった。
 即答できる類のものでないことは八戒にもよくわかっていた。

 あの三蔵にしては珍しい言葉ばかりがそこに並んでいる書面。

 要約すると、「三仏神が、悟浄と八戒、そして悟空をつれて西へ旅に出ろと三蔵に命令した」というところであるのだが、つまりは三蔵は「命令」されたから自分たちを選んだのだと八戒は少し抵抗を感じた。
 勿論それで悪くはないのだが、三蔵は会って確かめたいという。

 悟浄と、自分に会って、確かめたいことがある、と言う。

 血濡れの罪人を信用してくれ、などという甘い考えを八戒はもっているわけではなかったが、一体自分と悟浄の何を確かめるのか、悟浄の言葉を聞くまでは思い当たらなかった。


…… 妖怪なのだ。

 自分も、悟浄も。

 西方で凶悪化し、次々と人を遅い、その肉を食らい、血をすする、妖怪なのだ。

 自分が信用されないのも当たり前だと自嘲の笑みを八戒は浮かべた。
 簡単に狂ってしまう自分を、三蔵が信じる方がおかしい。悟浄はともかく、自分にはあれだけ派手な前科があるのだ。
 しかし、それなら何故自分が選ばれたのだろうか。

 三仏神という存在が三蔵に自分たちを連れて行け、と命令したという。
 どこかの誰かが、何か必要をもって自分たちを選んだということなのだろうが、それは何故―――――――



「知っているからさ」
 蓮の玉座に腰掛けたまま、ほお杖をついて美貌の両性具有の神は一人ごちた。
 隣に立つ二郎神が訝しげに彼が律儀に仕えつづけてきた上位の神を見やる。

「知っているからさ。失う痛みを。大切なものをなくしてしまう恐怖を」



 

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