水をください
世間一般の善良な人々に崇め奉られている普通ではなく、ちゃんとしてもいない最高僧様は、世にも珍しい様相をかもし出していた。
寺の坊主どもが執務室に入ろうとしては腰を抜かし、声にならない悲鳴をあげて逃げていく。
「三蔵―――、何してんの?」
ひととおり外で遊び終わった悟空が戸口から陽気に声を掛けた。
「―――見ればわかるだろう。いちいち説明させんじゃねーっ」
これ以上ないというくらいに眉間にしわを寄せて、普段はたてのものも決して横に動かさない神の座に近きものは、なんと、探しものをしていた。
悟空は、普段見慣れないその様子をうれしそうに、面白そうに見ていた。
「そりゃ―みればわかるけどさー。ナニ探してんの?」
机の周りを、がさがさ、探しつづけていた三蔵がふとその動きを止め、悟空を振り返っていった。
「……貴様に言っても仕方ないが……俺がここに置いておいた書きかけの書類を知らないか?」
「…書きかけの書類…?」
「…いや、貴様に真剣にきいた俺が悪かった。いいから貴様は俺のじゃまをするな。どっか行ってろ」
悟空は書きかけの書類、という言葉を一生懸命頭の中で反芻しているようだった。三蔵がいらついて、もう一度悟空に出て行け、といいかけたその瞬間、悟空はぽん、と手を打って満面の笑みを三蔵に向けた。
「わかった!書きかけの書類って手紙のことだろう!!」
「…………なぜ貴様がそれを知っている」
すうっと目を細めて、三蔵は悟空をまっすぐに見た。悟空はにこにこしながら言葉を続ける。
「だってさー、こないだ串くれたじーさんが、また俺のところにきてさー、『三蔵の机の上に乗っている手紙をとってきてくれ』って言うんだもん。俺、三蔵のもの勝手に動かせない、っていったら、三蔵がそうしろって言ったって言ったから、親切に俺、渡してやったんだぜー」
「おまえもなかなか折れないやつだな」
観音の前に立つ白いひげを生やした神と呼ばれる存在の一人に、蓮でしつらえた椅子に腰掛けたまま観音は声を掛けた。
「猪八戒は1000人もの妖怪を平気で惨殺する男です。しかも現在は人間ではなく妖怪としてあれだけ強力な妖力制御装置をつけて存在しています。」
横に立つ物腰のやわらかい瞼をとじたままの、やはり神の一人が少し不安げに白髪白髭の神を見やる。
「現在の、妖怪が突如凶暴化するこの状況で、いくら天蓬元帥の輪廻の姿とはいえ玄奘三蔵の共としてふさわしいかどうかは……」
「俺の人選に対してそこまで歯に衣着せぬ言い方をするのはおまえくらいだ」
「恐縮です」
面白そうに観音は真っ白い美しく長い指で右頬を支え、目の前の神と対峙する。
「ではおまえの目で見た猪八戒はどうだったんだ?おまえが危惧したとおりの存在か?」
「……」
かなりの間沈黙し、遠いところを見る目つきでその神は観音の座る蓮の椅子を眺めていた。
「……そうではないと断言することはできかねます」
「奥歯に物の挟まった言い方だな。白か黒かはっきりしろ」
悟浄とマージャンを1局打ち終わった神が、その豊かな髪をわずらわしげにかきあげる。
「そもそも何故玄奘三蔵を観世音菩薩がお選びになったのか私にはわかりかねます」
「光明も何とか言う三蔵も死んでしまったしなあ」
観音が足を組替えて、上半身を三仏神に少し乗り出して言った。二郎神は成り行きをはらはらしながら見守っている。
「玄奘三蔵は我が甥、金蝉童子の現世での姿なんだとよ」
ぴしゃん、と蓮の花から湖面に水滴が落ちた。三仏神は沈黙して観音の次の言葉を待っている。
「金蝉がどうしてあんな死に方をしなければならなかったのかは俺にはわからない。わからないが、現存する三蔵の中で輪廻を許された三蔵は玄奘三蔵のみだ」
沈黙が再び場を支配した。蓮の花がほころぶ音すら聞こえてくるかのようだった。
「……どうした、これだけの説明でもまだ不服か」
「しかし観世音菩薩、玄奘三蔵以外にもまだ――――――」
口を開いた白い髭の神を観音は鹿でも睨み殺すかのような眼で睨み、それ以上の言葉を続けさせなかった。
「……いいか、三仏神。残りの三蔵―――特に、烏哭三蔵についての話題は禁忌だ」
反論をまるで封じ込めるかのように、険しい表情で観音は続ける。
「誰かの手の中で踊らされているような気がして不愉快だが、俺たちにできるのは見届けることだけさ」
「観世音菩薩……」
三仏神はそれぞれの表情で彼らの上位の神である観世音菩薩の表情を見守った。感情の揺れがないとは言い切れないその表情はしかしそれがどのような種類の感情なのかを決して彼らに見せはしなかった。
「しかし、三蔵のパシリまでやってやった三仏神は、おまえが最初で最後だろうよ」
白い髭をたたえた神は、苦笑寸前の表情を作り、深々と頭を下げた。
NEXT