水をください
ここまで事態が悪化していたことをうかつにも気づかなかった自分は本当にどうかしている。
目の前の、本当に狂ってしまったかのようによだれをたらし、殺気を隠すこともせず、「人間を食らう」ことを主目的とした妖怪たちの姿に八戒はぞっとした。
大体フードをかぶったあの人物が現れた時点でよほどの事態だということは想像できたはずである。
しかし。
「自我を保ってるのは悟空と悟浄と僕」
だけの状態まで事態は悪化しているとは。
よりによって八戒が大切にしたいその組み合わせが自我を保っている最後の砦だということは何かそこに隠された意図でもあるのだろうか。
三仏神とか言う存在が、少し前には自分を裁き、新しい名を与え、自分を生かした。
そしてまた再びその三仏神が自分を三蔵のお付として選んだという。
―――――――そういえば。
深くフードをかぶったあの串を買って帰った女性にしろ、手紙を渡して消え去った老人にしろもしかして……
「弱そうなやつから狙え!」
背後から襲ってきた妖怪に気孔弾を投げつける。
「…みようみまねで出るもんですねえ」
「……でねーよ」
悟空に突っ込まれるという近年まれに見る展開もものともせず、八戒は考えた。もう何回考えたのだかわからないそれを。
どうして、自分がここにいるのかを。
何故、自分が選ばれたのかを。
「……待て……我らが同胞」
悟空に殴り倒されながらもまだ息のある妖怪がその足をつかむ。
「無力で傲慢な人間の肩を持つ裏切り者どもよ」
肩で息をつきながらその妖怪は人差し指を立てて悟空と悟浄と八戒に熱弁を振るう。
「貴様らの居場所はそこではないはずだ
今一度考え直すがいい。我らとともにとなえようではないか」
そこで息をついて上半身を起こすとその妖怪は一気にこういって、そして一気に踏み潰された。
「妖怪国家万歳――――!!!」
……ああ、ちがう。ちがうのだ。
そんなことはこれっぽっちも八戒の望みではなかった。人間だの妖怪だのそんなことはまったくもってどうでもいい。心のそこからどうでもいい。
大切なのは。大切な人をもう二度と失わないこと。
無力な自分をきちんと理解すること。
「……つまんねぇことほざきやがるぜ」
悟浄が肩をすくめて言う。
「「人間の味方」、だ?―――ハ!」
悟空と八戒の間に割って入った悟浄は右腕を八戒の肩にかけ、よく通る声で続けた。
「―――俺は、生まれてから死ぬまで、俺だけの味方なんだよ」
そう。自分が信じた、自分が味方にしたいと思ったごくわずかのその大切な人だけの、(それも相手がどう思っているかはともかく自分がそう思っているだけだから余計に)味方なのだ。
普段は激流の吊り橋をそんなものがあることすら意識させず軽やかにあっという間にわたってしまう三蔵が、石橋をたたいて渡ったからといってどうなのだ。
自分の三蔵に対する信頼が揺らいだとでも言うのだろうか。
きっとこの状況は三蔵でなければ打破できない。
ほおっておけば、目の前の狂った妖怪の仲間入りだ。 そして、心にもないことを叫ぶのであろう。「妖怪国家万歳」と。
自分の大切な人よりもなによりもそんなくだらないことに熱狂させられるのは我慢がならない。
そしてきっと狂ってしまえばそんなことすら思わなくなってしまうのであろう。
二度と手に入れることなどできないと思っていた、大切な存在がこの世にある、などということを。
それならば。そんなことになるくらいならば。それを、どうにかできるのであれば。
「―――行こう。西だ」
黄金の輝きを持つ声がそれを決定した。
行くのだ。西へ。
カランカラン
「あー、いらっしゃいませー」
少し間の抜けた返事は常連にしか返さない。 口ひげをひねって趙量はちらりと入り口を見やった。そして無言のままもくもくとグラスを綿のクロスで磨く。
「ご注文は?」
グラスに氷をいれながら、趙量はここ半年決まりきったもの以外頼まない、目の前の鈴の転がるような声の持ち主で、あっという間にバザールの中心人物となりおおせた人物のオーダーを一応は待っていた。
「それよりさ、マスター、聞いた?」
「今度は何だ?『今代の三蔵法師は下賎の輩を従者に選んだ』ならもう聞き飽きたぞ」
「違うわよー」
カウンターに両肘をついて、背の高いいすに足をぶらぶらさせながら李月明はぷう、とほおを膨らませて言った。
「『お尋ね者の三蔵一行』ですって。お尋ね者よ、お尋ね者。三蔵法師様に対してなんてこというのかしら!」
「……」
その形容詞は確かにちょうどあっているような気がする、と少し遅れてはいってきた彼女の夫と、趙量は同時にそれを思ったが口に出すことはかろうじてこらえた。
「それより。何だ最近。しけてるぞ」
趙量がカウンターに並んだ夫婦二人を見ながらぶつぶつとつぶやいた。李月明の夫であるところの胡爾燕はその様子を一向に気にすることもなく、足を組んでオーダーを告げる。
「フカー…いや、ビールって言うんだっけ?」
「どっちかってーとピーチウだけどな。ほらよ」
まだ西の方の言葉が出るな、といいながらなみなみとジョッキにあふれるほどにビールを注いで、趙量は爾燕の前にそれをドン、と置いた。
「しけてるも何も…うちのお得意さんが減っちゃったんだから仕方ないじゃない」
「お得意様…ねえ」
「大将のところもがくんと女性客が減ったって嘆いてたわよ」
「…そりゃそうだろうなあ…」
月明は一生懸命べらべらしゃべっている。彼女の夫は、おいしそうにビールを飲みながら、ちらりと横目で彼女を見やった。
「時に月明。賭けするぞ」
アルコールを補給して滑らかになった唇の持ち主が、栗色の髪をかきあげて彼の妻に向かってにっこり微笑んだ。
「俺は、あと3ヶ月」
「……ナニ賭けるのよ」
青い瞳で夫を軽くにらんで、月明は趙量を見やった。趙量はにこにこして「俺は半年だな」と言った。
「だから、ナニを賭けるのよ」
「お得意様が帰ってきたらがっぽり儲けるだろう?その金だよ」
そう言って爾燕は大きな笑顔を作って彼の妻にさらに微笑みかけた。妻は一瞬顔を赤くし、夫に向かって反論する。
「そんなの、私と貴方じゃお財布一緒なんだから」
「いやいや、それはお互いの小遣いってことで」
「貴方なんかじゃあの八戒さんに串なんか買ってもらえるわけないじゃないの!私の努力で儲けたお金でしょう!!」
「………それももっともだ」
「…何か言ったか?マスター?」
ごほん、とわざとらしく咳払いをして、マスターは改めて月明を見やった。
「で、オーダーは?」
「水。水を頂戴」
大きく肩をすくめて、趙量はすでにグラスに入れてあった氷のうえから裏の井戸から汲んできた水を注いだ。町の共同井戸よりよっぽど水質がよく、おいしい、と評判の水だ。
こくん、とのどを鳴らして月明はそれを二口飲んだ。半年間、月明はその水以外この店では口にしていなかった。
「……願掛けかな」
自分のことは遠い棚の上にほおり投げておいて、口の中だけでもごもごと趙量はつぶやいた。そして、半年間剃ることのなかったあごひげをざらりとなでた。