うつろはんかな君待ちがてに
「何があっても今悟浄を絶対に外に出すな」
――――――三蔵に厳命された悟空はしぶしぶその命令を忠実に守っている。
あやしい影が挑発を繰り返しているのにのってはいけない。常の悟空ならお近づきになれそうもない自重という言葉を(知っていたかどうかはともかく)ポケットに常備しているかのように、悟空は時には悟浄を殴り倒し、時には蹴り飛ばして、悟浄にその影を決しておわせはしなかった。
三蔵の誕生日が過ぎ、カレンダーがめくれて、世間が年越しの準備に浮かれる時期になっても、悟空は毎日悟浄を殴り、蹴飛ばし、縛り付けて、三蔵の命令を守りつづけた。
「切り札だ」
三蔵はひとことだけ悟空にそう告げた。そして、それ以上聞いてはいけない壁を悟空は感じ取った。何が起ころうとして、何が切り札なのかは三蔵は決して教えてくれはしないだろう。しかし、三蔵が、そうすることが必要だと決めたのであれば、それに従おう、と悟空は思った。今は分からなくても、そのうちきっとそうすることの意味がわかるようになるに違いない。だから―――
「…何回いったらわかるんだよ!このエロゴキブリ!!」
「てめ…っ、悟空!いい加減離しやがれこのくそざるっっっ!俺は八戒のとこいくんだよ!!!」
本来の悟浄であれば、悟空と対等に(いや同レベルで)渡り合い、きっとさっさと八戒のところ、つまり自分の家に帰ることに成功するのであろうが、残念ながら百足の毒は思いのほか強力だったらしく、悟浄は身体の痺れが完全には取れていないようだった。
勿論本人はそんなことは口が裂けても言うわけがないが、おそらく、足と、手の指に感覚が戻っていないはずだ、とへこへこしながら医者は言った。
茲燕と月明は、三蔵法師様の言うことだから、と何も疑わずに悟浄と悟空を家においてくれている。あまりに八戒のことを心配する悟浄に苦笑して、月明があたたかい手料理を八戒のところまで届けることもしばしばだった。
「そういえば、この間からバザールに面白い人がきているのよ」
月明は、茲燕と、悟浄と、悟空と、そして自分の分のジャスミンティーを注意深く白磁のカップに注ぎながら言った。
「西方風の、髪の色の薄い、背の高い男の人がね、バザールをうろうろしてるの。うちの店が出る日にはとても嬉しそうによってきて、いっぱい買って帰ってくれるわ」
「西の味が懐かしいんだろう」
茲燕がカップの湯気を蛍光灯にすかし、しばらくそれを目で追いながら月明の言葉に付け足した。
「そしたらね、その人、うちの人に興味を持ったみたい。いくらここが長安に近いとはいえ、栗色の髪の人はそうめったにお目にかかれないらしいのよ」
悟浄と悟空はおそろいのカップに入れられた(客用だから仕方ないのだが)ジャスミンティーを同時に取り上げて同時にすすったことにお互い腹を立てて、にらみ合っている。それを見ながら、月明はタイミングよく玉蜀黍のこなを水で練って焼いたお菓子を悟空の前においてやった。それを見つけた途端、悟空は顔を輝かせて勢いよくそれにかぶりつく。
「買い物していくついでにね、いろんなことを聞かれるのよ。どうしてここに移り住んだのか、とか、どうやって生計立ててるのか、とか。あの人もここにすみたい、って思ってるのかしらねえ」
あっという間に空になった悟空の前のお皿に、更に月明は山のようにお菓子を入れてやる。砂糖を使わず、シンプルな玉蜀黍の甘味が少しかけられた塩によって引き立つそれは、非常に美味であった。
「三蔵法師様のおかげで怖い思いをしなくてすむようになったわ、っていったら、今代の三蔵法師様のご尊顔を拝したことがない、って言うのよ。あんなに目立つお方なのにねえ」
くすくす笑って、月明は一口、ジャスミンティーを飲んだ。
「うちには三蔵法師様ゆかりの人たちがいるから、って言ったら、びっくり仰天してたわ。私なんだかおかしくって。そしたら、あなたたちについても色々と聞いてくるのよ。どんな顔だとか坊主なのかとか髪は何色だとか。よっぽど三蔵法師様関連の情報に飢えていたんだわ。私、いちいち丁寧に答えてあげちゃった。あんまり真剣なんだもの」
ぞくり。
悟空と悟浄は同時に強烈な悪意を背中に感じた。
茲燕と月明に気付かれないようにさり気なく窓の外に二人は視線を走らせる。
「西方風の」「髪の色の薄い」「背の高い男」がそこに立っていた。
口をまがまがしく三日月の形に歪め、冷酷な視線を悟浄に注いでいる。
この間から挑発を繰り返してきた「何か」だと悟浄は確信した。
そして、現在その男から発せられる悪意は今までになく強烈で、凶悪なものであった。
「その人、笑うとね、なんだか口の嘴が三日月みたいに上にあがるの。そういう一族もいるのかしらね」
月明はそう言ってまた一口、ジャスミンティーをすすって、そしてにっこり微笑んだ。
「……もういいでしょう」
かなり押さえてはいるが極低音の声が三蔵の鼓膜を刺激した。
「三蔵、一体僕を利用して何をしようとしてるんですか」
「俺がいつ貴様を利用するなどといった」
八戒の足は驚異的な回復を見せた。とくにこの1週間と少しの間の治癒力は人間の技ではなかった。勿論、妖怪の身体を持っていたとしてもそのスピードは驚嘆すべきものだった。
つぶれていた足の、骨と、筋肉の再生はほぼ完了していた。松葉杖なしでも歩ける程度に回復しているのだ。
新聞をめくりながら八戒が淹れたコーヒーを当然のように飲んで、三蔵は八戒を見もせずにそう言った。
「最高僧サマが僕の監視のためだけにずっとここにいるなんてことを頭から信じるほど僕はおめでたい脳構造を持っていません」
「さあ?俺は煩わしい寺の行事から解放されてゆっくりしたいだけだ」
「………三蔵……」
あれから式神は姿を現さない。
死人の視線をもつ男も気配を見せない。
これは根競べだ、ということは三蔵にはわかりきっていた。
待てずに焦れて、攻撃を仕掛けた方が敗者の列に加わるということも。
尋常ではない滅ぼされ方をした百眼魔王の一族。
あまりに唐突にたった一人の人間によって地上から姿を消してしまったがために、その残像にまつわる噂に事欠くことはない。
残党がいたとして、それが八戒を付け狙うことは八戒自身が解決すべきことであった。三蔵が介入する理由も義務も微塵も存在しない。
しかし、問題はそんなことではない。
百眼魔王の城跡地。焼き払われて全てがきれいさっぱりなくなっていた。
寺の馬鹿どもが言うことは確かに一面の真実をついている。
ただ、誰かが火を放っただけならば、そこには必ず焼け残った残骸が転がっていなければならないのに。
それほどまでに強力な力をもつ何者かがそこに介入していたとしたら……
西の方では既に妖怪が次々と凶暴化している。
現在のところこの付近の妖怪からはまだ1件もその報告はないが、原因不明のその突然の凶暴化が長安を襲ったとしたら――――。
あらゆる可能性を吟味して、三蔵は、百眼魔王の件に介入してきたその強力な力をもつ存在が、凶暴化と何らかの関わりをもつのではないか、と結論付けた。後になって結果的にそれは真実ではなかったのだが、当時の状況から考えうる最も高い確率の結論であったことは動かしようのない事実であった。
それならば、百眼魔王の一族をたった一人で滅ぼした八戒に何らかのコンタクトを試みることはあまりに容易に想像できることであった。そう思ったからこそ、三蔵はここにいるのだから。
三蔵は窓の外を見た。上弦の月よりやや太った月が、晧々と白い光を地上に投げつけていた。
「……月齢は幾つだ」
唐突に三蔵は八戒を振り向いて言った。
「……9.4ですが。それが何か……」
「……そろそろくるな」
そう三蔵はつぶやいたが早いか、S&Wを袂にねじ込むと、す、と立ち上がり、部屋のドアを開けた。
「…三蔵?」
「…ぐずぐずするな、行くぞ」
八戒を肩越しに振り返る紫の瞳の持ち主の勝手な言い草に、それでもようやく家の外に出られるということを少しだけ喜んで、八戒は三蔵のあとを追った。
「松葉杖は一応もっていけ。茲燕とか言う奴に見られたらその回復力を疑われるだろうからな」
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