そうやって




 
 愛情を確認する手段は、身体以外にないのだろうか。




…と言うより、確認手段にもなりはしないセックスをごまんとしてきた悟浄にとって、それはかなり真剣な命題であった。

 相手を特に嫌いでなければ勃つものは勃つし、当然大変気持ちイイものだから、健全なる肉体を持つ青年男女のお互いの利害が一致しさえすれば、一夜をともに過ごすことに何の迷いも後ろめたさもあるわけはなかった。

 からっぽの家で、何にもない自分の心を一人でもてあましているよりは、気持ちよくなるために身体を動かしていた方がいくらかマシであったから。

 セックスで心が満たされたことはなかったけれど、少なくともコトの最中だけは、その女の身体のことだけ考えていればよかったから。

 行き着く先が身体であるのは遠い昔に海から突然生命が誕生したときからの至上命題であることは間違いない。

 自分の複製を作り、それを残していくことは生命にとって必要不可欠の営みであるのだから。
 当然、愛を勘違いすれば自然と身体を求めあうようになるのだろう。

 …もっとも。たった今現在にいたるところで愛などというものが一体どういうものなのか悟浄にはまだよくわからなかったけれども。


 どうして人はどんどん贅沢になっていくのだろう。

 生きてさえいてくれれば。
 笑ってさえいてくれれば。
 隣にさえいてくれれば。

 そう思っていた当時は確かにそれだけで充分だったはずなのに。

 手に入る訳がないと信じて疑っていなかった。
 自分の隣で、自分に笑いかけてくれるその存在が。

 思いもかけず、悟浄の腕にすとんと落ちてきた碧色のきれいなきれいな生き物は、思いもよらず、悟浄のことを好きだと言ってくれた。
 悟浄に、好きだ、という感情を教えてくれた。
 
 特別な人を好きになるということは、当然豆大福を好きになるということとは全くもってちがっていた。
 女、という普通名詞を好きになることとも全然ちがっていた。

 それなら、じゃあ、一体どういうことだか説明しろといわれれば、しかしまだ、口ではうまく説明できない自信がたっぷり悟浄にはある。


 …ただ、例えば、八戒が嬉しいと、悟浄はめちゃくちゃ嬉しい。
 八戒が楽しいと悟浄はめちゃくちゃ楽しい。
 朝起きて、八戒の背中がキッチンにあるのを見つけるとめちゃくちゃ安心する。
 かえってきて、八戒がお帰りといってくれると、それだけでめちゃくちゃ八戒を抱きしめたくなる。

 それは、多分、八戒を好きだ、ということなのだろう、と悟浄は思っている。
 もしかしたら全然勘違いをしているのかもしれないけれど、それでも、そう思えることは幸せだと悟浄は思っている。

 「愛してほしい」

 決して叶うことのなかったその願い。
 遠い昔のそのたった一つの願いは勢いよく吹き上がった血とともに流れて果てた。

 どうして愛してほしかったのだろう。
 なぜあの世界一の美人に、世界一自分を必要としていなかった人に、愛してほしかったのだろう。

 憎まれたから?
 義理とは言えど母親だから?

 そんなことすらわからないまま、ただ自分は愛を欲していた。形すら、わからないそんなものを、真剣に欲しいと思っていたのだ。

 勿論、それは叶えられずはずもなく。
 なぜ愛してほしかったかも知ることすらなく。
 ……碧の瞳を持つ、腹を切り裂かれた、自分を見上げて笑った、綺麗な生き物を拾うまでは。


 欲しいと思った。
 まず、欲しいと思った。
 そして、好きだから、欲しいと思った。

 好きだから、心も、身体も、手に入るものは全て欲しいと、思った。

 綺麗な瞳を。
 白い指を。
 薄い唇を。
 絶望に支配された心を。
 世界でたった一人を失ったその壊れそうな全てを。

 

「抱きたい」
「……悟浄」

 夕食後、珍しく悟浄が出かけないと思っていたら、そういうことだったのかと八戒は気付かれないようにため息をついた。
 食器を洗っている八戒の背後から悟浄がぎゅう、と抱きついてくる。

 悟浄が、酒場に出かけてくれるまでは演技を続けることができると計算していたのに。
 ……どうにも頭がぐらぐらする。視界はぶれて、右から左へ流れている。
 
 隠せば、悟浄は怒るから、できるだけ悟浄に体調のことでカクシゴトはしないつもりだ。
 しかし、頻繁に体調が悪いことを訴えるのはどうにもこうにも八戒自身、自分に対して許せないものがある。
 体調はよくないのだ。残念ながら。頻繁に。
 でも、例えば悟浄が酒場に行ってしまった後、少しだけでも眠っていれば何とか持ち直すことはできる程度の体調不良をいちいち悟浄に報告して、悟浄に余計な心配の種を植え付けるのは絶対にいやだった。

「……お風呂、入ってからにしましょうね」
「……へいへい。八戒さん綺麗好きねー」
「そーゆー問題じゃないでしょう」

 洗剤の泡にまみれた両腕では悟浄の腕を離すことはかなわず、八戒は首をひねって悟浄を見ると、そう提案して、素っ気無く白いお皿の緑の縁取りについた洗剤の泡を勢いよく蛇口をひねった水で洗い流した。
 …その瞳は、悟浄を振り返ったとき、かすかに左右にぶれていた。


「ん…ご、じょ……」
 少し大きめのパジャマを着込んだ風呂上りの八戒の上気した頬にたまらず悟浄はその胸の中へと八戒を抱き寄せた。
 くぐもった声で悟浄を呼ぶ八戒の髪に、耳に、悟浄はバードキスの雨を降らせる。
 少しずつ熱を帯びていくキスは、八戒の熱をも呼び覚ましていった。
 ―――そして同時に、強烈な眩暈も。
「あ……」
 まるで腰が砕けたかのように自分の方へ倒れこんできた八戒を抱きとめると、悟浄は無言で八戒を抱きかかえ、ベッドまで運ぶとそこに少々乱暴にほおり投げた。
「ごじょ…」
 ぐらぐらする頭を少し振って、悟浄を見上げる瞳の焦点がなかなかあわない。
 そのかすかに左右にぶれる綺麗な碧色の瞳を悟浄はものすごく悲しい気持ちになって見つめた。
「……………俺って、お前に、無理させてんの?」
 八戒の顔の両側に腕をついて、足は既に八戒の足の動きを完全に封じ込めて、悟浄が言った。
「…なん、で……?」
 なおも焦点のあわない瞳で、必死に平然を装う八戒の唇に悟浄は噛み付くようにキスをした。
 歯列をわって舌を探り当てるときつく、それを吸い上げる。
「や……ご、…!」
 悟浄の舌が動き回るたびに八戒の内部の熱は高まりを続けていた。こめかみが脈打つのをひどくはっきりととらえられるほど煽られて、唐突に背中に何もなくなったような感覚に襲われる。まっさかさまに、背中から、引きずられていくような―――――

「……何で、お前、黙ってんの?」
「悟浄……」
 きつく目を閉じて、引きずりおとされる感覚に耐えながら、八戒は弱々しく悟浄の名前を呼んだ。
「何で、ダメだったらダメっていってくんないの?」
「悟浄……」
 八戒の目じりに一つキスを落とし、悟浄はその肩に自分の顔を埋めて言った。
「…俺、欲しかったら見境なく欲しくなるから。お前ダメって言ってくれなきゃ、俺、お前を壊しちまう」
「………そんなの、言えるわけ、ないじゃないですか……」
 声を出すことで、落下していく感覚は何とかひとまずおさまったようだ。だんだんと意識がはっきりしてくる頭の中で、八戒は、どういえば悟浄にちゃんと自分の考えが伝わるのか一生懸命考えた。
「…!なんでだよ!!言わなきゃ、俺、ばかだからわかんね―んだよ!……やなのに。お前が、やなのに、無理矢理抱きたく…ないんだよ」
「ヤじゃないです」
 はっきりと八戒は答えた。ぶれる瞳で、それでも悟浄をみようと必死になって。
「ヤ、じゃないんです。悟浄。あなたが僕を欲しいといってくれることは、僕にとって、とても嬉しいことなんです」
 肩から顔を上げた悟浄の頬を両手ではさんで八戒は言葉を続ける。
「それと、僕の体が言うことをきいてくれないのとは別の問題です。…やじゃないのに。やじゃないのに、言うことを聞いてくれないこの身体は、とてもイヤです」
「八戒……」
 頬に添えられた手をそっとはずし、悟浄はその綺麗な白い指先にキスをした。
「…体調が悪いことを黙っていたことはごめんなさい。謝ります。でも、あなたに『抱きたい』って言われて、それにこたえたい、と思ったのは本当なんです」
「……そんなこといわれたら、俺、ガマンできなくなるぜ?」
 悟浄の舌が八戒の指の間を這っている。薬指を口に含んで舐め上げると、八戒の口から隠し切れないあまやかな声が落ちてきた。
「…壊しちまうかも」
「そう簡単には壊れはしませんよ」
 そう言うと八戒はようやく焦点のあった瞳で悟浄の紅い瞳を見据えると、とても綺麗に微笑んだ。
 瞬間、呆けにとられた悟浄は、その半瞬後に我にかえり、無防備にさらされた、白い首筋に、所有の証を刻んでいった。



 ……愛情を確認する手段は、身体以外にももちろんあるだろうけれども。

 身に纏う衣服とともに、くだらない妄想や、瞳の奥の固い扉や、幾重にも重ねられた建前を剥ぎ取っていけるのであるならば。確認手段としては、かなり有効なものではないのだろうかと、自分の腕の中で眠る綺麗な碧の同居人の睫にキスを一つ落として、悟浄は思ってみたりした。
 




 

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