だからもう



 
 アルバイトの帰り道、ごくたまに八戒は趙量の店に顔を出す。
 何かとそれなりに世話になっている趙量の店の売上に多少なりとも貢献するためにも、それはかなり有効な手段であると思われた。
 形にして物をかえすとかそういうものではない関係にはちょうどいい。

 不況の嵐は桃源郷をも襲っていた。 なんだか西の方では妖怪が突然凶暴化するという噂も断片的に流れ着いてきている。
 それはまだほんの些細な噂話程度でしかないが、あと少しそれに尾ひれと背びれがついてまわれば、町の住人の自分たちを見る眼が変わるであろうということは八戒には容易に予測がついていた。

 別に町の人間にどう思われようとそれは八戒の知ったことではなかった。
 蔑むように見るのであれば簡単にこの町を捨て、どこか人里離れたところでひっそりと暮らせばいいだけの話である。

……自分ひとりだけでいられるのであれば。

 勿論、たった今すぐ自分ひとりだけになることはきっと全く可能で、一体何を自分は自惚れているのだろう、と我ながらあきれ返ったりもしてみるが、じゃあ、実際にそれを行動に移せるか、と考えると、たった今すぐにはそれは行動に移せない、とはっきりと八戒にはわかっていた。

 紅い髪と紅い瞳を持つ、強くて、優しくて、そして悲しい、背の高い同居人。

 その存在は、絶望の暗い淵に片足を突っ込んでいた自分にあまりに鮮やかな世界をもたらした。

 人を好きになることができるのだと。何度でも、人を好きになることはできるのだと。
 愛する人を守れなかった自分が、それでも、もう一度、人をほしいと思うことができるようになるのだと。

 そう思わせてくれる存在が、手の届く場所にいてくれる。



「おう、八戒、いらっしゃい」
 いつの間にか、『八戒さん』から『八戒』へと呼称を変化させた趙量が、口髭をひねって嬉しそうに話し掛けてくる。
 ぱたぱたするドアを後ろ手にそおっとしめて、八戒はにこにこと笑顔を返して、カウンターに席を定めた。
「今日は未だ悟浄はきてねーんだがな。何にする?」
「では、チャイナブルーを」
 八戒のオーダーに即座に氷の入ったグラスを取り出すと、趙量はライチリキュールに、ほんの僅かだけ酢橘を絞り、ブルーキュラソーと、フレッシュグレープフルーツの果汁をそれぞれ次々に用意する。
 マドラーを取り出し、軽くステアすると、あっという間に八戒の前にはコリンズグラスに入れられた鮮やかな青色の液体が並べられた。
「ありがとうございます」
 目を細めてそう言って、八戒は、こくんと一口、それを飲んだ。

「…で、これはおごり。金はいらねーから」
「え…そんな、何でですか?」

 頭上にさかさまにつるされたグラスを一つするりと抜き取って、綿のクロスでそれを磨きながら、さり気なく趙量はそう言った。 驚いた八戒は、当然のその言葉を返す。

「だって、八戒この間誕生日だったんだろ?だから、それは、俺からのプレゼント」
「……趙量さん……」

 どうして彼が自分の誕生日などを知っているのか少し予想がついて、八戒はなんだか顔に血が勝手に集まってくることを自覚した。制御装置が冷たく感じる。

「…んで、ナニもらったの?」
「え……」
「ま、そいつはワイロってことでさ、ナニもらったか教えてよ。それの結果いかんによっちゃーえらいことになるんだけどねえ」
 片目を瞑りながら、趙量がからかうように八戒に言う。どうせ爾燕と賭けでもしていたのだろう。
「俺の予想では、中華なべだったんだけどなー。ちがう?」
 八戒は、耳を真っ赤にしたまま無言で首を横に振る。そんな様子を見てますます趙量は面白がって、グラスを磨く手に力をこめた。
「…まさか、ネクタイとかもらっちゃった…?」
「いいえ」
 即座にきっぱりはっきり否定して八戒は耳を赤くしたまま趙量をまっすぐに見た。照れ隠しなのかどうかよくわからないがきっと照れ隠しだということに決め付けておいて、趙量はグラスを磨く手を止め、八戒の瞳をまっすぐに穏やかに見返した。碧の、その深い瞳の奥には、きれいに頑丈なドアが取り付けられていて、自分が叩いたくらいではびくともしないことがはっきりと趙量には分かった。 そして、そのドアを開くことができるきっとたった一人の存在といったら―――…

「ブラッディマリーをいただけるかしら」
「……いらっしゃいませ」

 いつの間にか、趙量と八戒が二人して全く気付かないまま、八戒の隣のカウンターに忽然と、腰まで届く明るい茶色の髪をゆるくカールした、黒いドレスの女性が現れた。よく通る、少し低い声で、
「ここ、よろしいかしら」
と八戒に声をかける。
「…どうぞ」
 八戒が椅子を勧めると、赤く濡れた唇が笑みをつくり、流れるような動作で彼女はカウンターの高い椅子に座った。足を組むと、深く入ったスリットの切れ目から、ぬけるように白い足が惜しげもなくさらされる。
 店の男たちから声にならないざわめきが立ち上った。趙量までもが、いつもよりステアを3倍以上してからしまったとようやく気付いた表情で、彼女の前にブラッディマリーをゆっくりと置く。

「ありがとう」
 艶然と微笑むその女性に、今度ははっきりと店の男たちから感嘆のため息が漏れたのが分かった。
 八戒は、見たこともあったこともないそんな女性がいきなり自分の隣に座ることに、違和感を感じた。さり気なく彼女を観察してみる。
 身体の各パーツはさほど卓越して美しいというわけではない。鼻筋はもっと通っている人が多いだろうし、瞼だって奥二重だから、はっきり二重の人よりは劣るに違いない。
 しかし、その各パーツが組み合わさって、トータル的なバランスで言うと、もうそれは本当にいわゆる「美女」であった。なんとも言えず艶かしい雰囲気を漂わせるその美女は、ブラッディマリーを一口飲むと、挑発的な瞳で八戒を見た。

「あなたの瞳の色、とてもきれいね。深く吸い込まれていくエメラルドの輝きだわ…」

 言われるだけで腰が砕けてしまう男が幾人いてもおかしくないような声音でうっとりとその女性は八戒を向き直り、細いきれいな指を組んでそこにややとがったあごを乗せ、上目遣いに八戒の出方を伺った。

「…それはどうも」

 素っ気無く言い放ち、八戒は目の前のチャイナブルーをもう一口飲んだ。

「ショートですから、お早めに飲んだほうがよいと思いますよ」

 ブラッディマリーのグラスから結露した雫がコースターに落ちるのを見て親切に八戒は教えてやった。

「そう…ありがとう。私、このカクテル飲んだことがないからよく知らなかったの……」
「知らないのにいきなりそれをよく飲む気になりましたね」

 最近の若い女性にはあまり人気がないというそのカクテルのグラスの淵を指でたどりながら彼女は言った。

「ええそうね。私も探している人がいなければこれは頼まなかったわ」
「……探している、人ですか?」

 その疑問には答えず、彼女は2口目をグラスにつけて、その真っ赤なカクテルを嚥下した。

「エメラルドとルビーって組成は同じでも結晶構造が違うだけなんですってね」
「…それはサファイヤとルビーだと思いますが」
「あらそう。でも、私にとってはエメラルドでもサファイヤでもどうでもいいわ。―――この赤いルビーが必要なの」

 半分ほど残っているグラスを指でゆっくりとはじいてから彼女は勝ち誇ったかのようにもう一度八戒を振り向いた。

「この赤と同じ瞳と髪を持つ、誰かさんが、必要なの。――――――ねえ、悟浄」

 そして、その声の向こうには、今しがた店のドアを開けて入ってきたばかりの悟浄が、呆然とした表情で立ち尽くしていた。



「…悟浄……?」
 固まってことの成り行きをただ見守っていただけの趙量の口からその言葉が漏れると同時に店中がざわざわ騒ぎ出した。
「…悟浄とあんなイイ女が知り合いか…?」
「悟浄のことだからきっともうヤっちまってんだぜ」
「あーあ…それにしても何も八戒がいるところにわざわざ乗り込んでこなくてもなあ…」
「ナニあの女ライバル心剥き出しにしてんだ?」

 男たちの言葉が断片的に八戒の周りに漂ってくる。

 目の前の妖艶なといっていい美女を見るなり足を空に浮かした姿勢ですっかり固まっている悟浄にすっかり悲しくなって八戒は黙って席を立った。

「…じゃあ、僕はこれで……」

 チャイナブルーの氷が溶けて、カラン、と音を立てる。
 その音にようやく我にかえった悟浄が八戒の腕を掴んだ。

「…八戒、ちょっと待てよ」
「……あら、悟浄。今夜は私が先約じゃなかったのかしら」

 どよ、と空気がざわめいた。長い髪をかきあげて、その女性は悟浄にゆっくりと歩み寄る。歩く度に黒いドレスに映えた白い太腿があらわになった。

「…そーゆーことでしたら、僕、おじゃまってわけですね……」
「…ちょっ、待て、よ!八戒!!」

 悟浄は女好きで女にもてて、女に不自由するなんてことは絶対にないことくらいとっくに承知していたのに。

 目の前の美女がこれから悟浄と一夜を過ごすであろう事実をまざまざと見せ付けられると、なんともいえないものが胸に込み上げてきて―――そんな自分の情けなさに反吐が出そうになる。

 つかまれていた腕を払いのけ、店の外に出ようとした八戒の腕をさらに悟浄は掴みなおす。

「…ダメです、悟浄。ナニやってるんですか」
「ナニ…ってお前こそなんだよ!帰ることねーじゃんか!!」
「悟浄こそなんですか!先約があるならちゃんと約束、守ってください」

 子供のようにかなり激しく腕をぶんぶん振り回し、八戒は悟浄と、その背後で艶然と微笑む美女から逃れようと必死になった。悟浄はかなりあわてて、それでさらに力をこめて、八戒の顔をこちらに向けようとする。

「先約、って…あのなあ、お前何か勘違いしてねーか?」
「勘違いでもナンでも約束は守らないといけません!」

 しかし八戒は、全く悟浄の顔を見ようともせず、口をへの字に曲げて、表情を曇らせるばかりだ。

「ナニ意固地になってんだよ、八戒」
「……意固地だなんて…約束は、きちんと守らないといけないでしょう!」

 とにかくその言葉だけを繰り返し、八戒は悟浄の腕を振り払うことに必死だ。

「……約束って…そんなことで怒られなきゃいけない理由は俺にはないんですケド」
「…あら、悟浄。ひどいわね。あの夜のことを忘れたとでも言うの?」

 …瞬間、八戒の表情が凍りついた気がした。八戒の腕を掴んでいる悟浄の腕まで、なんだかびりびりしたものが伝わってきた。

「…じゃあ、ほんとに僕、これで……」

 ふるえる声で、やっとのことでそれだけ言う八戒にどうしようもなくなって、悟浄は紅い髪をぐしゃぐしゃとかき回すと、その美女に右手を突きつけた。

「………………あーーーーーーーーー、だからもう!!! てめーがそんな格好でヘンなこというから話がややこしくなるんだよっ」

 そして、八戒の腕を掴んだまま、その美女に近づいて、景気よくその脳天に向かって拳を振り下ろした。

「「「悟浄っ」」」
「悟浄…!女性に手を上げるなんて…!!」
「いったあああいー――――」

 店中の非難の嵐を背に受けつつも悟浄は一歩もひかなかった。

 イタイ、と悲鳴をあげたあと、脳天を押さえてうずくまったその女性の身長はみるみるうちに縮んでいく。
 茶色いまあるい耳と、茶色いふさふさのしっぽがぴょこんと飛び出たかと思うと、先ほどまで艶かしい肢体をさらしていた美女は、ただの茶色の毛むくじゃらのかたまりへと変貌を遂げていた。

 …目の前で起こっている事態が俄かに信じられず、呆然とした空気が辺りを支配する。

「……ひどおい、悟浄―――!」
「なーにがひどおい、だ、てめ―、いくら酒が飲みたいからっていってやりすぎだ!!」
「だって―、悟浄が飲ませてくれるって言ったから―、そのためには人間に化けなきゃ―、って。一生懸命練習したのに――」

 茶色のかたまりは鼻をぐすぐすいわせながらぺたんと床に座り込んで、悟浄と、自分を取り巻く人間を見上げながら、恨みがましい目つきで言った。

「…努力は買うがなー……頼むよ、もう」
 
 思いっきり脱力して悟浄はようやくのことで八戒の腕を離し、肩をすくめて八戒を振り返った。

「…そー言うことですから。八戒さん。怒らないで、俺と、このケダモノと一緒にお酒を飲んで帰りませんか」
「悟浄……」
「ケダモノっていうな!」

 八戒は、つい先ほどまでの自分の行動がとても恥ずかしくなり、再び耳を真っ赤に染めた。茶色のたぬきは一人前にカウンターに座り、すっかりぬるくなってしまったブラッディマリーをべろべろ舐めまわしている。

「いやー、俺はてっきり悟浄のことだからあの美女とコトをイタシテ責任取らされてるもんだとばっかり思ってたよ」

 茫然自失から一番早く復帰したのはさすがに趙量で、毛むくじゃらの腕にしっかり握られたグラスを取り上げると、非難の声をあげるたぬきを全く無視して、平たいお皿にその真っ赤な中身を空け、そこから舐めろ、と厳命した。グラスにたぬき油がうつるのはそれは耐えられない。

「……いや、それにしても美女だった」
「人間の女ならもっとよかったがなあ」

 店の客もめいめい自分の席に戻り、酒の続きを楽しみ始める。悟浄は八戒を促して、カウンターに座ると、八戒に楊貴妃を、自分にはバーボンを注文し、仕方ないので隣にちょこんと座っている哺乳類のためにオータムリーブスを平たい皿に盛ってくれ、と頼んだ。

「…悟浄、あの……」
「ナニ?八戒さん、悪いと思ってくれてんの?」

 かなり上機嫌にグラスをあおる悟浄に、八戒は謝らなければ、と思った。とにかくとんでもない勘違いで自分の汚いところを見せ付けてしまったことを、謝らなければ、と思ったのだ。

「んじゃー、悪いと思ってんなら……」

 ちょいちょい、と八戒を呼んで、その耳元で悟浄は囁いた。

「…///ご、悟浄!!!!」

 それこそ本当に真っ赤になって、八戒は思わず席を立った。そんな八戒の様子をちらりと見やると、趙量は確かに、その碧の瞳の奥のドアが、悟浄に向かって開かれていることを確認した。
 そして、そのドアが開かれた八戒は、正直に言ってしまえばとてもきれいで、悟浄がご執心する存在だ、とかなり納得してしまった。

 たぬきは、泥宮の葉っぱをずらされてしまったため、もう一度化けることがかなわず、ぶつぶつ文句を言いながら、平たいお皿に口をつけてオータムリーブスをそれでも美味しそうに舐めている。

 今夜のこの二人と一匹の売上への貢献は、きっとすごく少ないだろうなあ、と趙量は予想し、それでもまあ、面白いものが見られたからいいか、と一人ごちて、頭上につるされたワイングラスを丁寧に磨き上げていった。

…勿論、予想は、ほぼ正確にあたり、1杯で席を立つと、二人は趙量に礼を言って、未だほしいとむずがるたぬきの首をひっつかんで、並んで、店の外へと出て行った。






 

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