かささぎ
「シャンパンってここで買えんのか?」
カランカラン、と軽やかな音を立ててドアを開けて入ってきた赤毛の常連客は、口髭を立派に生やしたその店のマスターに向かって、誰がどう考えてもそれはここで聞くことじゃないだろう、という質問を開口一番やってのけた。
「………………ここは酒場だ」
明らかにその場違いさを咎める響きを含んだ刺だらけの台詞を口髭をひねりながら、マスターは返す。
「そんなことは言われなくってもとっくにわかってら―」
上向きにくわえた煙草から、ふうっと紫煙を立ち昇らせて、何を今更そんな当たり前のことを、という顔をして悟浄が言う。
「…なら、お前さんのその要求は、酒屋に行ってから言うべきものだろう。ここじゃグラスに入ったのしか買えねーぞ」
「それもわかってんだけどさー…」
ポケットに両手を突っ込んで、カウンターにもたれかかって悟浄が言う。
「酒屋のおばちゃん、うるせーんだもん。俺がシャンパン買うなんて言ったらぜってー根掘り葉掘り事情を聞いてくれるに違いないからなー」
「そりゃあ、お前さんが今まで見向きもしなかった酒に手をのばしたら、誰でも不思議に思うだろうよ」
自分も不思議に思っています、という顔をして趙量は悟浄の顔を見てみた。
…どうもこの赤毛の、食えない、ただ一人の存在を除いてその心の奥底を誰にも見せたことのない、長身の常連客は、純粋に困惑しているようだった。
「…そもそも悟浄。なんでお前さん、いきなりシャンパンなんて言い出すんだ?」
「そりゃー、マスター、誕生日といやシャンパンしかないじゃん」
「………………………………………………………は?」
目をパチパチとさせて、口髭を一ひねりしたあと、マスターは無言で悟浄の額に手を当てて自分の額の熱さと比べてみた。
「ナニすんだよっ」
その手を払いのけて悟浄が騒ぐ。
「……いや、熱でもあんのかと思って…」
「…んなもんあるわけねーだろっ」
「…お前さんの口から『誕生日』だなんて世にも不思議な単語をきいたもんだからなー」
「…俺が誕生日って言ったら悪いのかよ」
「悪かないが…ただ、お前さんがその単語を口に出すのは、少なくとも俺は、はじめてきいたからな」
ちょうど手元にあるシャンパングラスを磨きながら、趙量は自分が感じた疑問を素直に口に出した。とにかく、あの、悟浄が、誕生日などというものに意識を向けること自体、驚異的なことであった。
たった一度だけ酔いつぶれて、ものすごく悲しい声で兄の名前を呼んだあの日―――
それは、彼のただ一人のその大切な兄の誕生日だった。
自分の誕生日は決して語ろうとせず、誕生日を聞かれればいつだってその兄の誕生日ではぐらかしていた悟浄、が、およそおそらく自分の誕生日ではなく当然兄の誕生日ではない、誰か他人、そう、他人の誕生日を意識に上らせている、ということは…
「…俺、今まで誕生日って言ったことなかったっけ?」
「少なくともその単語を直接言ったことはなかったな。…で、誰だ?」
「……は?」
「誰だ、って聞いてんだ。お前さんがシャンパンまで用意しようとする相手は」
「ふふーん、だ――れが言うか」
ショットグラスでバーボンをあおりながら、悟浄は唇の片端を上げて横目でマスターを見ながら言った。
そんな悟浄をちらりと見やると、すました顔で趙量が口を開く。
「そうか。なるほど。八戒だな」
「………どこをどーやったらそんな答えになるんだよっ」
乱暴にグラスをカウンターに置くと、悟浄は耳だけ器用に真っ赤に染めて昔の漫画のようなリアクションをした。にやにやしながら趙量はその言葉が核心に迫るものだったと自画自賛してみる。
「そーかそーか、八戒か。だったら、とっておきのシャンパンを教えてやるよ」
「…だからなんで八戒だっつってんだよ」
「まーまー、事実を指摘されて怒るな」
「うるせえ…ってなんでてめーがここにいんだよっ」
「俺がいるところにお前があとから来たんだろう。文句言うなよ」
いつの間にか悟浄の隣に爾燕が並んで立っていた。カウンターに両腕をかけ、面白そうに悟浄を見ている。
「まー、誕生日のシャンパンっていやーMOET・de・CHANDONだな」
「あと、誕生日といえばはずせないのはケーキだ。しかもホールのやつ」
「MOETなら、1本だけ譲ってやってもいいぞ、悟浄」
「ホールケーキ買うなら食いきれる量にしろよ。でっかいほど幸福は大きいって言うけどなあ、でもお前、後で死ぬぞ」
趙量と爾燕が交互にからかうように悟浄をけしかける。悟浄は黙って乱暴にハイライトを取り出して火をつけると、無言のまま、趙量が差し出したシャンパンを1本奪って入り口に向かって大またで歩いていった。そして、ドアを開けて立ち止まると、「…ツケにしといて」とぼそっと言って、ばたん、と音を立てて店の外に出て行ってしまった。
趙量と爾燕はなんとなく顔を合わせて、同時に悟浄の背中が消えたドアを見やった。
「…見たか」
「…ああ、見た」
「…あの悟浄がねえ」
「あの悟浄がなあ」
そう言って苦笑しあって、もう一度二人はまだぱたぱたいっているドアを見やった。
普段の悟浄からはおよそ全く想像もできない、そのまんま照れ隠しをしているだけのただの素直な悟浄が見られるとは、世にも珍しいことが起こったものだ。
このままなら明日は台風で槍と針と魚がふってくるかもしれない……
今日のバイトは、どうしても、といって八戒は断った。
大将は金曜日の夜、八戒目当てのお金持ち独身お嬢様方をゲットできないのは大変残念そうだったが、世間一般の給料日直前の金曜日だということに思い当たると、泣く泣く休みをくれることになった。口に出しては、「まあ、誕生日くらい家でゆっくり過ごせよ」といっていたが。
別に、誕生日など、家でゆっくり過ごしたいわけではなかった。
できることならそんなものは一生きてほしくなどなかった。
自分が生まれた日はすなわち花喃が生まれた日だ。
生まれたときから同じだけ歳を重ねて、同じだけ生きていくはずだった、薄い茶色の長いきれいな髪を持つ姉は、いつまでも悲しい笑顔で笑ったまま、八戒と同じだけ歳を重ねることを自らの手で遮断した。
世界で一番愛していた、自分の半身だと信じて疑っていなかった、そんな大切な人を、この手は、この役に立たない手は、守ることすらできなかった。
泣きながら微笑んで、別れの言葉を口にする彼女の笑顔は――――――
それを、思い出す日。
それが、強く、強く意識に上ってくる日。
……それでも、今日、バイトを休んだのは悟浄がそう言ったからだ。
悟浄が、「否応ナシに」誕生日は「俺と一緒にすごす」と言ったから、八戒は、今日、バイトを休んだ。
悟浄が、とても嬉しそうに、とても楽しそうに、自分の誕生日をお祝いしよう、といってくれたから―――
「ちょっとだけ出かけてくる」といって夕方家を出て行った悟浄はそれから時計の短針が四半周ぐるりとまわってもまだ八戒の向かいの定位置のソファには現れなかった。
夕食は、八戒の好きなものを作ってくれ、といって、それだけは頼む、といって笑って出かけていった。どんなもの買ってきても、どんなもの食べにいっても、お前の料理以上に美味しいものはないからな、なんてどうしようもない台詞を残して。
だから、こんな自分の誕生日だというのに、腕によりをかけて食事を作ってしまった。
腕によりをかけて……
若布と三つ葉の吸い物に、鰤の照り焼き、かぶと蓮根の含め煮と、ひじきと油揚げの炒め物。栗ご飯はついこの間作ったばかりだから、今日は白いご飯で……
ふ、と気付かなくても悟浄の好みのものばかり作っている自分に苦笑して、八戒は、キッチンのテーブルに肘をつき、両手を組んであごを乗せて、冷めていく一方の料理をちょっと悲しい気持ちで眺めていた。
自分のためだけなら、誕生日など祝う必要はないのだ。
悟浄が、祝いたいといってくれたから。だから、こんな準備をしてしまっただけなのに―――
「どこいっちゃったんでしょうね。ほんとにもう」
ため息をついて、そして、もう一度八戒は、ほんとにもう、とつぶやいた。
がらがらがら……がッしゃ…ん
「悟浄?!」
玄関の外から威勢のいい音が聞こえてきた。
「わー――――ッ、八戒、くるな!!…いやちがう、やっぱりちょっと…助けて……」
見事に顔面から地面に突っ込んだらしい悟浄の両腕は、これだけは決して地面につけはすまいという決意をそのまんまあらわしていた。右手にはMOETが、左手にはばかでかい白い箱がしっかりと握られていた。
草が口に入り、もしゃもしゃする感触に耐え、健気にも悟浄は右手も左手も、それにしっかり握られている物体を地面につけないように、腹筋と背筋と腕の筋肉を小刻みにふるわせていた。
八戒は、あわてて悟浄からMOETと、箱を奪い取ると、それらをそっと草の上に置き、悟浄を助けおこした。
「…どうしたんですか、悟浄。一体こんな時間までどこに行ってたんです?」
草を払ってやりながら、八戒は悟浄に問う。ちょっと、と言っていたのに、こんなに時間がかかった理由をやはり、とても知りたかった。
「…ごめん、ほんとにごめん。悪かった。…で、今、何時?」
草の上に座り込んで、ぺっぺっと、口の中の草を吐いたあと、悟浄は八戒に向かってその赤い頭をたれて言った。
「……9時、半ですよ」
「げ!まじ??…急がなきゃ!!行こう、八戒!」
「…行こう、ってどこに……?」
「お前の誕生日のプレゼント買いにいくのに決まってんじゃん。早く!」
あっという間に八戒の手をぐい、と引っ張って、悟浄は3歩町のほうに向かって歩き出した。しかし4歩目が空中で止まると、5歩目で回れ右をして、草の上に置かれたMOETと、白いばかでかい箱を細心の注意を払ってひっつかみ、家の玄関にあっという間に押し込んで、今度こそ八戒の手を引いて町に向かって小走りに走り出した。
「…悟浄、ねえ、悟浄……」
両腕をポケットに突っ込んで勢いよくハイライトをふかしながら、明らかに何か怒り気味に前を歩く悟浄に向かって、八戒はかなりためらった末に声をかけた。
「……ナニ」
「…何そんなに怒ってるんです?」
「…怒ってねえよ」
かなり、刺を含んだ言い方で、悟浄は八戒の方を振り向きもせずに答えた。時計は、あと少しで11時になろうかとしている。
だいたいそもそも、9時半、などという世間一般的に夜遅い時間帯に、開いている店といえば飲食店か、コンビニくらいのものだろう。八戒は、そう考えて、何がプレゼントにほしいのか、と悟浄に尋ねられたときに、「コンビニの、缶切りがほしい」と言ったのだ。悟浄は最初かなり激しく抵抗したが、八戒が、どうしてもそれがほしい、というのに根負けして、しぶしぶ、そのコンビニの中で一番高い缶切りを買った。
最初は、どうして八戒がどうしてもコンビニで、というのかあまり理解でいないようだった悟浄は、いつも自分が通っている道の、1本外側の昼間の商店街の様子を見るにつけ、その理由をはっきりと悟ってしまった。
こんな遅い時間に開いている店などない、ということを八戒は知っていたのだ。
……自分は知らなかったのかといわれるとそりゃもうすみません、としか言いようがない。閉店時間のことなどとっくに頭の中から消去されてしまっていたどうしようもなくおめでたい自分を罵るしか悟浄にはできなかった。情けなさもここに極まれり、だ。
きちんと誕生日を祝うなど生まれてこの方したことがなかった。したことがなかったから、本当にきちんと、生まれてはじめてお祝いしたい、と思ったのだ。
それなのに、そんな、いつでもどこでも買えるようなその程度のものしか、プレゼントすることができなくて。
もっともっと、力の限りお祝いしたかったのに、そんなものしか、八戒にあげることができなくて―――
「…悟浄」
やわらかい声が悟浄を呼び、背後の足音が唐突に途切れた。八戒は立ち止まり、悟浄が振り返るのを待っていた。
「…そんなに怒らないで下さいよ」
あまりの情けなさに悟浄は今はまともに八戒の顔を見られない、と思ったが、いつまでたっても足音は再開することはなく、仕方がないので顔だけ、ぐい、と後ろに捻じ曲げた。
「……は、っかい…?」
ごくり、と息を呑む音がやけに大きく悟浄の耳に響いた。
満天の、星を背にそこに立つ碧色の瞳をした、男にしてはやけに白く、整った顔を持つ同居人は、きれいに綺麗に、笑っていた。
「…僕、今、とても嬉しいんですよ…?」
そう言って、悟浄が振り返ったことを確認して、ゆっくり八戒は悟浄に歩み寄ると、ものすごく大切なものがその中に入っているかのように、安っぽい、コンビニのビニール袋をぎゅうと抱きしめた。
「悟浄、本当にありがとうございます。僕、誕生日のプレゼントもらい経験値、あんまりありませんけど、もらって、こんなに嬉しいプレゼントってきっとない、って思うんです」
そこで一旦言葉を区切ると、もう一度八戒は芍薬も牡丹も百合すらも恥らうようなとても綺麗な笑顔を作り、悟浄の顔を少し下から覗き込んだ。
「こんな誕生日を過ごさせてくれて、ありがとうございます。悟浄。あなたが祝いたい、って思ってくれたから、僕は、あなたにこんなに嬉しい気持ちをもらえたんです」
無言で悟浄は八戒の言葉を聞いていた。首だけ捻じ曲がっていた顔がだんだん全身が八戒の方に向き直る。
八戒は、じっと悟浄を見上げつづけていた。
満天の星が降ってくるかのような錯覚に、八戒はとらわれた。澄み切った秋の空気が、透明な星の光に、支配されていくかのようだった。
「……八戒……!」
悟浄は、目の前にいる八戒をぐい、と引き寄せてぎゅう、と抱きしめた。
「…ごめん。ほんとにごめん。俺、ちゃんと、きちんと、お前の誕生日祝いたかったのに、ほんとごめん……」
「悟浄」
そっと両腕を悟浄の背中に回すと、八戒は小さくかぶりを振った。
「世間一般の力いっぱいのお祝いなんかより、絶対に僕の方が今嬉しいんですけど」
目を伏せたまま、軽く悟浄に体重を預けて八戒が言う。
「…あなたのことですから、きっと、誰かに思いっきりつかまってたんでしょう…?」
「…」
「シャンパンなんて…飲んでたの、みたことないですよ」
「……皆、そーやって言ってた」
腕の中の八戒がくすくす笑っているのに気付くと、悟浄はすっかり開き直ってしまった。もともと、どうせ結局のところ、本当に好きな人の前ではどうあっても不器用でしかいられない自分を否応なしに自覚させられる。
「…シャンパン、買いに行ったら、誕生日といえばホールケーキだ、って教えてもらった」
「…それで…?」
「んで、それなら、ってホールケーキ買いに行ったら、すっげー小さいのしかなかった」
「…なるほど」
「ホールケーキって、大きければ大きいほど幸福が大きいって言うだろ?だから俺、でっかいのがほしかったんだ」
…たまらず、八戒は、声をあげて笑ってしまった。
大きなホールケーキを、菓子屋の主人に迫って焼かせ、焼きあがるまでじー――っと待っていたであろう悟浄の姿が容易に想像できた。
八戒の、誕生日を祝うために、「ちょっと出かけて」くるつもりが、あんなに時間をくってしまって。それで大慌てで帰ってきて玄関の前でひっくり返って。
なんだかとても暖かな気持ちに満たされて、八戒は更にもう少し、悟浄に体重を預けてみた。
「…帰りましょう。悟浄。シャンパンと、ケーキ、待ってるんでしょう?」
「八戒…」
「ご飯も作ってありますから。冷めちゃったんで、温めなおさなきゃいけないんですけど」
「八戒……」
八戒のこげ茶色の髪の向こうに、秋の天の川が横たわって見えた。
ぎゅう、と抱きしめていた腕を緩めて、悟浄はやわらかく笑ったままの八戒に、唐突に口付けた。
世の中には掃いて捨てるほどの命があふれかえっている。
もし、悟浄がこの町に流れ着いていなかったら。
もし、八戒があの雨の日に倒れていなかったら。
もし、悟浄が母親に愛される子供であったなら。
もし、八戒が花喃を失っていなかったなら。
数え切れないくらい、それこそ今空に瞬く星の数ほどの人生の分岐をたどってこなければ出会うことができなかった二人が、出会い、そして、ほんの一部分でもその心を通わせた。
そして、今日は。
八戒の、誕生日は。
お互いが、お互いを、大切に思っているということを、お互いに確認できる日になったのだろうか。
「おめでとう」
そう言って、もう一度ぎゅう、と悟浄は八戒を抱きしめた。
八戒は、ひどくやわらかな笑顔を作り、
「ありがとう」
とひとこと、そう言った。