裕福
こん、こん、こん
音に意志があったのなら、これ以上ないというくらいの「最大決心をしました」という音が、ちょうど一人の昼食の後片付けを終えた八戒の耳に入ってきた。
先ほどから、家の前でなにやら相談事をしている声が聞こえてくるな、とは思っていたのだが。
「…はい、なんでしょう?」
できる限り、驚かさないようにとなぜか気を遣って、八戒はゆっくり玄関のドアを開けた。
目の前には、どう見ても高校生くらいの男の子一人と女の子一人が、このさわやかな秋の日にもかかわらず汗だくになって突っ立っていた。合計4つの瞳がまん丸に見開かれ、明らかに八戒の顔を見て、絶句している。
「…何の、御用ですか?」
口を開きたいらしいのだがどうも開くきっかけを失ってしまった二人に内心で少し肩をすくめて、八戒は続きを促してやる。大方、この時間に「あの悟浄の家」に人がいるなんて思ってもみなかったのだろう。
「…あ、あ、あ、あのっ……」
それでもやっぱりしどろもどろしている男の子のわき腹をきっとつねると、背中に背負ったリュックから紙の束を取り出した女の子が、意を決して、八戒にその紙束の中から一枚を突き出した。
「…私たち、長安南高校2年生の胡適と陶恵超といいます。 今日は、悟浄さんと……あなたにお願いがあってきました」
突き出された紙を見ながら、八戒は、今度ははっきり顔に出して苦笑した。
よく考えなくても、まだまだ八戒の存在はこの町の人の間に浸透しているわけはない。バイトをはじめたとはいえ、それは夜のお寿司屋で、昼間はたまに市場に買出しに行くとき以外めったに町のほうには降りていかない。なんとなく見たことはあるけれど、話をしたことがない、という町の住人のほうが圧倒的に多い立場の八戒の名を、こんな子供たちが知らないのは当然であった。
きっと、二人は、この手紙だけ置いて学校に戻るつもりだったのだろう。さっきから、右の耳の銀色のカフスに視線がちりちりと痛い。 実際に妖力制御装置を使う妖怪を見るのははじめてなのだろうが……
「今度の火曜日、私たちの高校で、学園祭が行われます。その、後夜祭のお知らせと、許可を頂きたくって… それでもしご都合がよかったら、悟浄さんとお二人でいらしてください……八戒さん」
名前を呼ばれたことに、軽く驚きの表情を作り、八戒は、陶恵超と名乗った女の子の顔を一瞬、凝視してしまった。碧の綺麗な双眸に見つめられて、みるみるうちに彼女の顔が真っ赤になっていく。
「…僕の名前を、知ってたんですね。それは光栄です」
そう言って笑いかけると、ますます顔を赤くして、彼女はとうとう両手で顔を覆って横を向いてしまった。変わりに勢いづいた男の子―――胡適、がべらべらとしゃべりだす。
「……あー、よかった。本当に八戒さんなんだ。僕たち、悟浄さんのおうちに住む碧色の瞳をしたとてもとても綺麗な人の名前を、散々聞いてまわったんです…お宅にお伺いするのに名前も知らないんじゃ失礼ですから。でも、なんだか誰もしどろもどろで、きちんと覚えている人がいなくって…それでちょっと八戒さんの名前をお呼びするのにためらいがあったんです。でもよかった。これで僕きちんと覚えました。
……ああ、それにしても本当に悟浄さんのおうちがとてもきれいになりましたね。ゴミの日もきちんと覚えたみたいですし、すごいですね、八戒さん ……ところで、後夜祭実施の許可はいただけますか?」
……話の内容から想像するに、どうもこの子達は毎年ここを訪れているらしい。毎年…?しかも、許可、とは何事だろう?全く話が見えない八戒は、もう一度丁寧に陶恵超に突き出された紙を読んでみたが、内容の半分はよくわからなかった。
「……ご許可、って?僕が、許可しなかったら後夜祭は実施されないんですか?」
……途端に、その高校生二人組みの表情がさあっと曇る。眉根を寄せ、困惑した表情で、逆に問い返された。
「「……あの、ダメでしょうか、八戒さん……」」
タイミングまで全く同時に、本当に声まで蒼白にして二人が八戒に迫ってきた。背後に鬼気迫るものを何か背負っている。八戒はなんだか気おされて(!)思わず一歩後ずさりした。
「…いえ、あの、僕ここに越してきて間もないから…その、後夜祭ってよく知らないんです。許可がいるようなものなんですか?」
「……平たく言えばそうです。あの、ご覧になったことがないならあまり説明してもよくわからないと思うのですが…とにかく、火を焚くので、当日は燃えやすいものは家の外には出さないでおいてください。あと、洗濯物も灰をかぶるかもしれません」
「…………そんなにすごい火を焚くんですか?」
「「はい」」
二人同時に思いっきり誇らしげに強く頷いて、そして懇願の目を八戒に向ける。
「…一人でも、近隣の方にご許可をいただけなかったら後夜祭は開催できないんです」
「お願いです、八戒さん、ご許可を下さい」
深々と頭を下げられて、八戒はますます混乱した。けれど、二人の背後のオーラは秒単位で成長を続け、有無を言わせず八戒に迫ってくる。説明も何もなしでとにかく許可を、なんていわれるのは八戒にはあまり愉快なものではなかったが、なんだか切羽詰っている二人がなんとなくかわいく思えて、思わず「いいですよ」と口走ってしまった。
「…ほんとですか!!」
ぱああ、と顔を明るくして、二人が手を取り合ってぴょんぴょんとびはねて喜んでいる。
「…これで、全員の方にご許可をいただけました!!ありがとうございます、八戒さん!!」
「ぜひぜひ、悟浄さんと一緒にいらしてくださいね!」
「早く、皆に知らせないと…!」
「失礼しました、また、お会いできるの楽しみにしています」
ばたばたと足音荒く、それでいて意気揚揚とスキップしかねない勢いで二人の高校生はもう一度だけ深々と頭を下げるとあっという間に八戒の視界から消えていった。
まるで嵐が去っていったようだと八戒は考えて、今日の夜バイトに行くための準備をしに家の中に入った。
「…そうか、とうとう八戒のところにもきたのか」
寿司屋の大将は、なじみの客とカウンターで酒を酌み交わしながら大きな声でがはは、と笑った。
「…そんなに有名なものなんですか?」
今しがた帰っていったばかりの客の食器をお盆にのせながら、八戒は小首をかしげて大将に問い返した。たかだか高校の後夜祭を、失礼ながらこの大将が知っているとは思いもよらなかった。
「そりゃそーだ。ここら辺じゃあかなり有名なもんだぜ。この町に越してきて、あれを見なけりゃあもったいないぜ」
「そうそう。あの祭は、すごいぞ。しかも若者しか参加させてくれないんだ。俺たちは周りで見てるだけ」
「でもそれでもいいんだよなあ」
「そうだよなあ」
なじみの客と大将がそれを肴にますますペースをあげて杯を飲み干していく。八戒はますますわけがわからなくなって、頭を振った。お祭なんてモノは参加してなんぼではないのだろうか?それでも、見ているだけでそんなにもいいというお祭でしかも火を焚くとは一体どのようなものなのだろう?
そんなものがここで行われていたとは全く知らなかった。
「その日は店の方は休みにするから、八戒、見に行ってこいよ」
「おう、そうだそうだ。どうせあんな日、店開けてても誰もこね―しな」
「…あのなー、出前は結構入るんだぜ」
「まあ、そうはいっても愛しの八戒がいなけりゃ―有閑マダムたちも進んで店にはこないだろうし」
「……すき放題言いやがって」
また、がはは、と笑いながら二人はどんどん酒を酌み交わしていく。
八戒は、曖昧な笑顔を返しながら、ますますわからなくなるその祭の正体に思いをはせていた。
そこまで、この町の人たちが楽しみにする、そんなお祭とは…
帰宅直後、台所のテーブルの上に置かれた、どうもガリ版で刷られたらしい、昼間八戒が突き出された紙を見つけた悟浄が、それをしげしげとながめて笑顔をつくった。
「…今年ももうそんな季節かー」
本人はきっとつぶやいただけのつもりだったのだろうが、しん、としていた家にはその声はやけに大きく響いた。
悟浄のために軽いおかゆと、だしまき卵を用意していた八戒が一瞬びくっと肩を震わせる。
「…おどかさないで下さいよ。悟浄。手元が狂っちゃいます」
少しも狂わない手元で見事に厚く巻かれただしまきを悟浄の前に差し出しながら、八戒は笑っていった。
「悪い悪い、いや、こいつが来ると秋だなあ、って思うわけよ」
その紙をひらひらさせながら、右手でほお杖をついて、悟浄は悪戯っぽく八戒に向かって笑いかけた。
「…これ持ってきたの、今年はどんなやつらだった?」
「…うーん、高校生の男女二人組みでしたよ。胡適、という男の子と、陶恵超、という女の子でした」
「なんだ、今年もあいつらがきたのか」
一人で頷きながら笑って、悟浄は八戒を見た。わけがわからない、という顔をして、八戒は怪訝そうな目で悟浄を見ている。
「八戒、お前きっとこいつらに懇願されただろう」
「……ええ」
「懇願されるくらい、すっげー祭なんだぜ。いってみようよ」
口いっぱいだしまき卵を美味しそうに頬張って、悟浄は相変わらずにこにこして八戒に話し掛ける。
「………皆さんそうおっしゃいますけど、想像もつかないですねえ」
美味しそうに自分のつくったものを食べてくれる悟浄の向かいに座って、八戒は、少し肩をすくめて言葉を返した。
そう言われた悟浄は、しばらく考え込むような表情を作っていたが、多分、どうにも説明する言葉を選ぶことができなかったらしかった。紅い髪をぐしゃぐしゃ掻きまわして口を開く。
「……説明すんの、むずかしーんだよ。とにかく、でっかいでっかい火を焚くんだ」
「火、ですか?」
「ソウ、それで、その周りで歌ったり叫んだり走ったりすんの」
「………宗教団体の儀式みたいですねえ」
「そういわれちゃーそうなんだけどさ。いや、いかね―とわかんね―って」
不信感をぬぐえない八戒ににかっと笑いかけて、悟浄が言う。八戒は、なんだかよくわからないまま、
「……あなたが、そこまで言うのなら…」
と返事をしてしまった。
気の早い秋の太陽がするすると降りていってしまったその次の日曜日、夕闇濃く迫る中、悟浄と八戒は祭の会場である高校の校庭に足を運んだ。
そこにはすでに3つのやぐらが作られていた。
どれもこれもどうも電信柱をリサイクルしてつくったらしい高さ3メートルはあるかというような大きなやぐらだ。
そのやぐらの周りには枕木で半径5メートル以内に立ち入らないよう大きな枠が作ってあった。
校庭の真ん中の朝礼台には、この間家にやってきた胡適が微動だにせず足をふんばって、両手を後ろで組んで立っていた。
朝礼台を中心にして、やはり微動だにせず足をふんばって立っている子供たちが何十人かいる。その周りには全校生徒が整然と座って驚いたことにおしゃべりもせず、静かにその時を待っていた。
「…なんか、すごい雰囲気ですね……」
「時間になったら、もっとすごくなるぞ」
状況に合わせて、小声で八戒が悟浄に話し掛ける。二人の周りにもたくさんの大人たちがこの祭を見にきていたが、誰も大声で騒いでいるものはいなかった。
「それにしても最近の高校には先生っていないんですか?」
「…………どこをどう考えたらそういう結論に達するよ」
悟浄が頭を抱えて八戒を向き直る。当の八戒は、きょとんとした顔で、「だって、どこにも先生の姿が見えませんよ」と、その疑問を抱くにはもっともな事実を指摘した。
「…ああ、コイツは、先生が介入しちゃーよくないんだってよ」
全ての準備を、この高校生たちがやってのけるという。近隣にあいさつ回りに行き、電力会社から古くなった電信柱をもらい、鉄道会社から古くなった枕木をもらい、大工の棟梁からあまった木材を薪にもらう。
非常事態に備えて水を確保し、千人規模の集団が暴走しないように綿密に打ち合わせをする。
全てを、この子供たちがやってのけたというのだ。
それだけ、余裕があるということだ。
生きるか死ぬかなど心配する必要もないくらいに。
この祭に全てをぶつけなければならないくらいに、この子供たちは裕福なのだ……
「―――――――!!!」
思考が暗い方向をむきかけた八戒の耳に、胡適が何かを叫んだのが聞こえてきた。
途端に、地の底を揺るがすような喚声が響いた。
そこにいた子供たち全員が、立ち上がり、何か叫びながら、炎をめがけて走っていく。
胡適の声と同時に点火されたやぐらは、あっという間に炎に包まれていた。
夕闇に浮かぶ細い細い月すらも焦がすかのように、その巨大な3つの炎が藍色の空に橙色のかたまりの存在を主張している。
炎の周りで、肩を組み、口々になにやら叫びながら、子供たちは歌を歌っている。ただ絶叫しているだけなので、どんな歌を歌っているのかなどはちっともわからないのだけれど。それは多分子供たちにとっても同様で、歌詞など吟味して歌っているわけではなさそうだ。
大声で、叫ぶ。
走り回る。
炎に向かって歌う。
胡適はその様子を微動だにせず凝視している。
先ほど朝礼台の周囲に立っていた陶恵超らはその炎のやぐらに、次々と一抱えもあるような薪をほおりこんでいた。
頭から水をかぶり、薪の束をひっつかんで炎に投げ込むその身体から、もうもうと湯気が立ち上っている。先ほどずぶぬれになったはずの服はあっという間に乾いてぱりぱりという音を立てていた。
遠くから、一生懸命バケツいっぱいの水を抱えて走ってくる子供がいる。そのバケツの水をもう一度頭からかぶって、腕いっぱい抱えた薪を炎めがけて二人の子供が同時に投げ込んだ。瞬間、橙の炎が身を捩じらせて、更に大きな赤い舌を夜空に伸ばす。
風に煽られて火の粉が空に不思議な模様を描く。パチパチと音がして火の粉は上空彼方まで飛んでいく。
炎はますます高く高く天を焦がし、その橙は更に子供たちの顔を赤く染め上げていた。
「――――――――すごい」
思わず八戒の口から漏れた言葉を悟浄は聞き逃さなかった。
「―――だろ?」
そう言って、悟浄はにかっと八戒に笑いかける。
ただの、何の変哲もない、その炎が、まるで意志をもっているかのごとく赤く、紅く、天を焦がしている。
「…ほんとに、見てみないとわかりませんね……」
ただ炎の周りを走ることが。
炎に向かって叫ぶことが。
なんだか自分の心の奥底から何かが剥がれ落ちていくような気がしていた。
「…………今去りゆかばいづくにか………」
胡適が声を振り絞って詩を吟じた。
「…若き命を求むべく……
……されば今宵の月影に……
……思い出の花さかせなん……
………………思い出の花さかせなん―――――」
長く時間をかけた詩吟とともに炎はだんだんと穏やかな表情を見せるようになった。ぱちぱち、とおきのはぜる音が静かに響く。
……裕福でよいのだ、と八戒は思った。
この子供たちは、裕福でよいのだ、と。
自分と比べるものではないことは勿論いつだって思っていたことだったが、それでも心のどこかに、こういう行事に対する素直でない感慨が存在していたことは確かだった。
確かに、自分にこんな余裕があるわけなかったという事実は厳然とそこに存在している。
たかだか、こんな祭のために、一生懸命になって、頑張って、頑張って、頑張って――――――
自分は、そんなことをしている場合ではなかった。
なかったが、それは、自分の都合であって、自分が生まれてくる親を選べなかったように、ここにいる子供たちもこの境遇を好んで手に入れたわけではなかった。
だから、素直に、この祭は良いのだと――――――
「な、いい祭だったろ?」
隣で珍しく悟浄が煙草を吸わずに橙の穏やかな炎にその紅い髪を反射させて、言った。
目を丸くして、驚愕に身体を硬直して、突然、八戒は、全てを理解した。
それを言った悟浄の、祭に自分を誘った悟浄の、その強い心が、突然、八戒の心になだれ込んできた。
そんなことはとっくに悟浄は承知していたのだ。
八戒以上に、苦渋に満ちた子供時代をすごした悟浄が、自分には決して手に入ることのなかった境遇を持つ子供たちに対して、まっすぐに、その生き方を肯定している。
そんな、強い、強い悟浄に対していつまでたっても卑小でどうしようもないこんな自分は―――…
がばっと八戒の肩に右腕を回して、悟浄はにかっと大きな笑顔を八戒に向けた。
「これ見ると、秋だなー、って思うワケよ」
「……はい」
自分の情けなさにあきれて果てて、八戒は、かすれた小さな声で、ようやくのことで返事を返した。
「だからさあ、明日は、栗ごはん作って」
「………はい」
「秋刀魚も焼いて。大根おろしと酢橘つけてくれよ」
「…………はい」
悟浄は、そこで言葉を区切ると、まっすぐ炎の方を向いてから、もう一度八戒に大きく笑いかけると、そのこげ茶色の髪をくしゃくしゃにかき回して、リクエストを続けた。
「味噌汁はさー。若布と豆腐のやつがいい」
「……………はい」
「んで、お前の誕生日のプレゼント、買いに行こう」
「……………え?」
一旦八戒の肩から腕を外すと、橙に焦がされた空を見上げながら悟浄は両腕を頭の後ろでくんだ。
「…だから、いってるじゃん。もうすぐお前の誕生日なんだからさ、力いっぱいお祝いしようって」
「………ごじょ……」
自分がとても情けない顔をしているという自覚はものすごくあったが、それでも、八戒は悟浄を見ずにはいられなかった。
「ナニがほしい?ちゃんとほしいもの考えてる?」
「ごじょ…………」
「何でもいい、なんてナシだぜ。そーいうの、一番難しいんだからなー」
「僕、は……」
言葉に詰まった八戒にそれ以上続きを促すことはなく、悟浄はやっぱり大きな笑顔をむけて、そして、くるりと振り返ると、炎を背に、歩き始めた。
少し遅れて、八戒が、そのあとをついていく。
誕生日まで、あと3日。
細い細い月はいつの間にか西の山へと姿を消し、静かなおきのはぜる音だけが、二人の背中を追いかけていた。