存在の証明



あぁ、愛しいアウグスチン。もうお終いよ、何もかも・・・

かぼそいくせに、妙に耳に付く声だった。その唄の調子のはずれ具合が聞く者の意識を引っ掻いていく。
 声の方へ目をやれば、女の乞食がふらふらと歩いて行く。既に元の色も定かではない程、汚れた衣服の端々は破れ、その破れ目から覗く肌も垢じみている。背の半ばまで伸びた髪は、埃となにやら判別のつかない汚れで汀にうち上げられた海草のようだ。近づいて見る者があれば、その女は以外にも若く、顔立ちも端正といって程だと気づくだろうが、そんな物好きはとりあえず彼女の周囲にはみあたらない。

古い流行唄なのか、童謡なのか、その一節だけを厭きもしないで繰り返しながら、定まらない足取で市場の通りを行く女に向けられる視線は決して暖かいとは、いえないものが多かった。時折痛ましそうに眉をひそめる者もいたが、すぐに目を背けて自分の生業に戻って行く。三・四日前からその女を市場で見かけるようになった。どこからか流れてきたらしい。
 物乞いの姿を全くみない程豊かな国ではない。人の集まる所には必ずといっていい程、その姿を見かける。だから市場に集まる人びともそういった存在には野良猫に向けるくらいの関心しか払わない。


「八戒・・・八戒!」
並んで歩いていた同居人の様子が急におかしくなったのに悟浄は気づいた。顔色が酷く悪い。もともと血色の薄い顔が強ばり蒼白になっている。肩が小刻みに震えているのがはっきりわかる。
「どしたの?具合わるい?」
「・・・えぇ。・・・大丈夫です」
「でも、おまえ。顔真っ青よ。どっかその辺で休む?」
「なんでもありません。大丈夫ですから、心配しないでください」

 今日は八戒のバイトが休みなので、買い出しを兼ねて久しぶりに街へやってきた。勿論ふたりそろっての外出が久しぶりなのであって、悟浄はほぼ毎晩、自分の仕事場である酒場へ出かけるし、八戒は八戒で、週に五日はウェイター兼調理手伝いをしている自分のバイト先の店に出勤している。
 珍しく早起きをした同居人を買い出しに誘ったのは、八戒だった。「食材は午前中の方良いものが手に入りますよ」と言外に、今日は料理の腕をふるうことを匂わせて、荷物持ちを確保したのだ。結局、家を出たのは昼近い時間になってはいたが。

 つい先程まで穏やかにとりとめのない会話をしていた相手が突然黙りこんで、真っ青な顔をしているのだ。悟浄が不信に思ったのも当然である。
「休むのヤだったら、先に帰れよ。買うもん言ってくれれば、俺が買い物すませるから。なぁ、家に帰って休めよ」
「・・・そうさせてもらっていいですか?すみません。これ買い物のメモです。お願いします」
 踵を返した八戒が一瞥を投げたその先を悟浄は一瞬の内に捕らえた。そこには、うずくまった女の乞食が居ただけだった。空ろなな目をして、なにやらつぶやいているようだが、そのつぶやきが耳に届く距離ではない。

「なんだかなぁ」
その女が八戒の突然の変化の原因らしい、とあたりをつけたもののその理由を推し量ることは悟浄にはできない。そもそも同居を始めて半年余り。お互いに個人的な部分には触れないようにしてきた。意識してそうした訳ではなかった。他人と暮らすのは初めての悟浄は八戒との距離の取り方をこの半年で彼なりに試行錯誤している最中といっていい。かたや八戒は、自分の位置を同居人というよりは、まだ居候として見なしていたので悟浄に対して遠慮がちにならざるを得ない。だからそんな二人の会話は結局当たり障りのないものに限られていた。

 実際のところ、自分が知っているのは八戒という男のごく限られた部分にすぎないという自覚が、悟浄にはある。彼がこの名を名乗る前の凄惨といってもよい過去の断片を彼自身の口から聞いたことはある。しかし再会をして同居を始めてから八戒の口から過去の話がでたことはなかった。
「まぁ、わざわざ言いたいようなもんでもないしな」
 お互いさまだと悟浄は思う。悟浄にしても自分の昔話をするような趣味はない。そういう類いの打ち明け話をされるたびに困惑し、時としては理不尽ともいえる怒りにかられる事すらあった。ベッドの中での親密さを勘違いしてそういった話をし始める女も少なくないが、どんなにそれがイイ女であっても、その女を悟浄が次に誘うことはない。
 それなのに八戒が自分の過去をポツリポツリと話したときには、困惑はしたものの却ってこの男に対して強く引かれた。「ひきとめたい」とすら思った。だから思いもかけない再会を果たしたときに、同居を申し出たのは悟浄の方だったのだ。


 八戒に渡されたメモのとおりに買い物を済ませ、ついでに自分のハイライトをカートンで買って家に帰った。リビングに八戒の姿はない。あれだけ具合が悪そうだったのだ。自室で休んでいるのだろう。少しは回復していて欲しい。
「おい、八戒。大丈夫か」
 八戒の部屋のドアをノックしながら、声をかけてみる。返事はない。眠って居るのかもしれない。もう一回ノックをしても返事がなかったら、しばらくそっとしておこう、そう思いながら悟浄はためらいがちに二度目のノックをした。ドアの向こうで、起き上がる気配がして、ゆっくりとドアが開いた。
「お帰りなさい、悟浄」
口調こそいつも通りだが、顔色は相変わらず酷いものだ。それにも増して悟浄の不安をかき立てたのは、薄い皮膜を張り付けたように強ばった表情だった。八戒は悟浄の目を見ない。その視線は悟浄の肩越しの虚空に向けられている。
「なんか、まだ具合悪そうだな。今日は寝とけ」
「いいんですか。ご飯つくれなくって、ごめんなさい」
「なぁーにいってんの。ちゃんと寝とけ。その前にあったかい飲み物持って来るから、それ飲んでな」
悟浄の言葉に八戒は頷いてベッドに戻った。

 冷蔵庫の中から牛乳のパックを取り出して暖める。その間に八戒が常備してある生姜を薄く切り、シナモンとカルダモン、クローブをスパイス棚から出す。(こういったものは八戒が、家に来てから自分の給料で買い揃えたものだ)紅茶の葉と生姜の薄切りをナベに入れしばらく煮たたせせてから、スパイスをいれて火をとめた。カップを二つ出し、ひとつのカップにだけ山盛りのキビ砂糖をいれる。茶越しでカップにお茶を注いで、両手にカップを持ってから、ふと気づいてカップを置き、今度はお盆にカップをのせて八戒の部屋にそれを運んだ。

「はいるぞ」
 返事を待たずにドアを開けた悟浄はベッドに横たわっている八戒に声をかけた。
「ほい」
 ゆらりと身を起した八戒に砂糖の入った方のカップを渡し、ベッドの端に腰を降ろすと悟浄も残りのカップに口をつける。釣られたように一口、八戒も口に含んで
「・・・マサラ・ティーですね」
「前におまえが作ってくれただろ。そん時、これは疲れている時や体調の悪い時にいいって言ってたじゃん」
「覚えてたんですね」
 目を伏せてカップを覗き込んだままで八戒が言った。
「まぁーな。とりあえず、それ飲んだら寝ろ」
「・・・・悟浄・・・僕は・・」
「いーから、今日は寝とけ。寝て起きりゃ、ちっとは良くなってっからさ」
「すみません」
「おまえってば、謝ってばっかりな」
「・・・すみません」
「ほら、またぁ。もー寝ろ」
 空になったカップを受け取ると片目を瞑って、にやりと笑ってみせた悟浄に、やっと目を向けた八戒は「はい」と一言答えて、ベッドに横になった。


「さて、と。どおーしよっかなー。」
 まだ宵の口にもならない時間だ。悟浄にしてみればこれからが活動時間にである。どこか適当な店で飯を済ませてから、酒場に出掛けて一勝負といこうか。早めに切り上げて帰る頃には、八戒の様子も少しは落ち着いているかもしれない。そう思い、立ち上がって上着を手にとってはみたものの、なにかひっかかるものがある。
「やっぱ、アレだよな」
 呟いた悟浄の足は行き着けの酒場には向かわず、昼間行った市場へと向かっていた。まだ人通りは多いが、商う品物によっては店仕舞いの支度を始めた露店もちらほら見える。悟浄はゆっくりと歩きながら昼間の女を探した。見つけてどうしようとしているのか、自分でも分からない。ただ八戒があんな風になった原因はあの女以外には考えられなかった。何処ででも見かけるただの乞食の女だ。なのに八戒はなぜあんな風になったのか。あの様子は雨の夜、不安定になっている時に酷似している。いや、それ以上に切羽詰まったものを感じて、それが悟浄の不安を煽る。

 西域風の揚菓子の露店で三つほど菓子を買い、ついでに店のおやじに尋ねてみた。
「ねー、昼間この辺に女の乞食がいたっしょ」
「そう、だったかな。乞食なんか珍しくもないだろ、にいちゃん」
「まぁーね。あんた、ここに店出して長いの」
「三年かな。結構お客さんもついてくれたから、まだ当分ここでやれるな。若いときに西へ行ってたのよ。これはその時覚えた菓子でな」
「ふーん」
 昔話の長くなりそうな店のおやじからは、これ以上必要な話題はでないと踏んで「それじゃ」とその場を立ち去る。さして広くもない市場だ。端から端まで歩いたところで、たかが知れている。ハイライトに火を付け、路地の奥にも目を配りながら悟浄は歩いた。露店の列も途切れがちになる市場の外れに差しかかると、調子の外れた唄が耳に入ってきた。

 あぁ、愛しいアウグスチン。もうお終いよ、何もかも・・・

 声のする方へ目をやると、昼間の女がうづくまっていた。膝を抱えている腕は酷く痩せていて、途切れがちに唄う声も掠れていた。なんと声をかけていいのか分からないままに悟浄は、女に近づいていった。
「おい、あんた」
 悟浄の呼びかけに顔をあげようともせず、女は唄い続ける。俯いたままの女の顎に手をかけその顔を自分に向けると、まだ若く、奇麗な顔立ちなのが見て取れた。けれどその目は虚ろで、何も映してはいない。問うべき言葉もない悟浄は、ふと思いついてポケットに残っていた揚菓子を取り出した。
「腹、減っているんだろ」
 悟浄の存在は、彼女の目には入っていなかったようだが、微かに甘い匂いを生き物としての本能が認識したようだった。差し出された揚菓子を手にとると、むさぼるように口に運んだ。あっと言う間に食べ終わると、また呆然として自分の中に閉じこもる。その様子に、悟浄はこれ以上ここにいても、無駄だと悟りそっとその場を離れた。

 さっぱり、分からない。行き着けの酒場に足を向けながら、悟浄の中の苛立ちが募る。八戒の様子も気になる。こんな調子では今日の勝負は分が悪すぎる。持ち金はまあまあ。だったら、無理に仕事に出掛ける必要はない。なによりも先程から胸の奥でしこりのような不安が少しづつ体積を増している。家に帰ろう。既に日は落ち、西の空にまで桔梗色が拡がり始めていた。


 悟浄が出掛けて行く気配がした。玄関のドアを閉める音を耳にして、八戒は、ほっとしたような、取り残されたような曖昧な気分になった。あのまま悟浄が側に居てくれたら、多分自分をごまかしきれただろう。しかし、それが許されることではない、と心の何処かでわかっていた。動揺しきっている自分を落ち着かせて、考えなくては、と自分に強いる。

 ベッドから身を起こし両手を首の後ろで組んで頭を垂れる。その姿が処刑を待つ捕らわれ人の様に似ているのを、八戒は意識していない。考えるべき言葉は、まとまりを持たず断片だけが意識の表層を漂っている。

・・・いくら、悟浄でも・・・もう、ここには居られない・・・どう、すれば・・・悟浄・・・僕は・・・・

 ふと、気が付けば部屋の中は薄暗い。それなのに、この両手だけが紅に染まって禍々しい輪郭を際立たせている。この手で自分は悟浄の食事を用意していたのだ。この手がつくった料理を、何も知らない悟浄は美味しいと食べていてくれた。酔い潰れた悟浄を、この手で彼の部屋まで運んだこともあった。
 
 この手を、悟浄が掴んで、「ここに居ろ」と言ってくれた・・・

 八戒はゆらりと立ち上がると、部屋を片付け始めた。常日頃掃除は行き届いている。ベッドを整え、数少ない自分の洋服をタンスから取り出し、きちんと畳んでまとめてベッドの上に置いた。書棚の本も取り出して紐で結わえ床に置く。 サイドテーブルにのったままだった二つのカップをお盆に乗せて台所に運ぶ。悟浄のカップを手に取った八戒は空のカップにそっと自分の唇を押し当てしばらく瞳を瞑っていた。ようやく見開いた八戒の瞳には、冥い決意と狂おしい熱が綯い交ぜに浮かんで居た。それからカップを置いた両手をぎゅっと握りしめると、カップと悟浄がそのままにしておいたミルクパンを洗い始めた。

 自分の存在がここにあったことの痕跡を残さないように、なにもかも片付けよう。自分の存在がこれ以上あの人を侵さぬように。そして、彼が帰って来る前にここを出よう。
 最後に本の束と洋服を裏庭に運び、火を点けた。小さな燻りがやがてちろちろと炎になり、燃え上がって行く。炎を見つめる八戒の目は、今はなんの色も浮かべてはいない。炎が衰え一塊の灰になるのを見届けてから、バケツの水をかけて始末をした。もう、此処でやることは残っていない。玄関の鍵をかけると合鍵を花壇にうめた。そしてそのまま、八戒は悟浄の家を出た。


 嫌な予感がする。家への道を急ぐ悟浄の胸の塊は体積と共に質量まで増していく。何かを決定的に間違えてしまったような不安がふいに沸き上がる。木立の奥に家が見えてもその感覚は消えるどころか、益々強くなるばかりだ。ドアノブに手を掛けると鍵が掛かっている。苛々とパンツのポケットから合鍵をだして鍵を開ける。家の中はしんとしている。昔馴染みの空気だ。八戒が家に来る前と同じ空気。
「八戒!」
 八戒の部屋のドアを開ける。何もなかった。八戒はいない。ベッドはきちんと整えられ、書棚の本もない。悟浄は呆然と立ち尽くすしかなかった。

 ナンデ・・・マタ、ナクシタ・・・・ドォシテ・・・ナンデ・・

 一体どのくらいの時間、そうしてしていたのだろう。大きく頭を振ると悟浄はハイライトに火を点けた。深く煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。闇の中を煙が拡散していく。暗がりになれた目がぼんやりと煙の行方を追う。どんなに深く吸っても胸の空洞は満たされない。こんなことは、悟浄にとってはなんども繰り返された馴染みの感覚だ。なのに、どうしてこうも耐え難いのか。ほんの少し我慢すれば、やり過ごせる・・・頭ではそう考えているのに、胸の中には頑なにその考えを否定する声がある。今までのようには無視出来ない、小さいがはっきりとした声だった。

 マダ、我慢スルノ?
 マタ、アキラメルノ?
 ソレデ、イイノ?

「いいわきゃねーだろ。」
 低く呟くと煙草を床に投げ捨て、踏み消した。
「ぜってー、見つける。あいつの首根っこをつかんで問い詰めてやる」
 少なくとも前回のようにあいつを行かせない。結局あの時も、後を追うことになったが、百眼魔王の城跡から斜陽殿に連行される八戒に何ひとつ言葉をかける事ができなかった。あの生臭坊主の言葉で、八戒が生き続ける事を選んでくれるとなぜか思い込んでいた。だからあの最高僧に「死んだ」と告げられた時に手ひどい裏切りを受けたように感じて、柄にもなく激高してしまった。

 しかしあの時は、まだこんな風に八戒という存在は悟浄の中で大きくはなかった。初めて自分と似た存在に出会ったと思えた。しかしそう思った時には、既にその存在は自分の前から消えることが確定していた。だから、これ以上自分の気持ちが深くならないように無意識のうちに自分を牽制していた。けれど、再会し同居するようになってからは、自分自身に対する牽制が緩くなっていくのをそのままにしておいた。日常を共にするということの当たり前な時間の積み重ねが、悟浄の中の臆病な子供を気づかないうちに少しずつ安心させてきたのだ。

 そして今、なにも告げることなく八戒が消えた。悟浄の内に今まで誰に対しても抱くことのなかった種類の怒りが湧き上がっていた。悟浄は初めて他人の仕打ちに対して不当だと思った。八戒が何一つ告げることなく去ったことが、不当だと思う。「べつにぃ」と「そんなもんだろ」で切り捨ててきた感情をしっかり味わえるくらいにまで、八戒は悟浄という男を変えたのだ。


「いらっしゃい」
 ドアを開けると馴染みの声がでむかえた。八戒がバイトをしている店だ。あの男のことだ。すくなくとも無断で仕事を休むことはないだろう。ここを出てほかの街へ行くにしてもここに顔を出してからのはずだ。そう踏んだ悟浄は真っすぐにこの店にやってきた。
「ああ、悟浄さん。八戒さん急でしたね。」
「あいつ、やっぱり来た?」
「おくにの方で急用ですってね。なんか凄く顔色が悪かったから、詳しいことも聞かなかったけど。ああ、これ」
「何?」
「八戒さんの今までのバイト料。清算するから待ってて、って言ったんですけど、時間がないから後で悟浄さんが来たら渡してくれってたのまれたんですよ。確かに渡しましたよ」
「そぉ。で、あいつ、どのくらい前に此処に寄ったの?」
「二時間くらい前ですかね」
「さんきゅ」
 バイト料の入った封筒をポケットにねじ込んで悟浄は店を出た。着の身着のままで金も持たずに家を出たのだ。まさかとは思うが最悪の事態を想定してしまった自分を内心で罵りながら、悟浄の足はまた市場へと向かっていた。



「八戒・・・」
 やっと見つけた。長安から北へ数十キロのこの街でやっと八戒を見つけた。家を出た時のままの服装で、その姿はあの時の女のようにぼろぼろだった。酷く痩せている。多分、あの女とおなじ境遇にその身を落としたのだ。なんの為に、そんなことをしなくては、ならなかったのか。八戒はまだ悟浄に気がついていない。顔を地面に伏せたまま、身じろぎもしないで膝を抱え蹲っている。悟浄はゆっくりと八戒に近付いていった。
「八戒・・・」
 痩せてとがった肩がびくりと動いた。
「八戒!」
 地面に膝をつき、悟浄は八戒の肩に手をかけた。八戒は眠りを妨げられて、いやいやをする子供のように顔を上げた。
「ごじょぉ・・・」
 肩に掛かった悟浄の手を払いのけようとしたが、悟浄の腕の力は強く体力の弱った八戒には為すすべもない。
「離してください・・・」
「やだ」
「汚いですよ。・・・臭うでしょう・・・」
「やだ・・・ぜってー離さなねぇ」
「お願いです・・・」
「だめだ。俺と来るんだ。やだって言ってもきかねぇ」
 悟浄の紅の瞳が八戒を捕らえ、その瞳の中の初めて目にする色が八戒の背筋に脅えに似た何かを走らせた。
 悟浄は無言のまま八戒の右腕をつかんで立ち上がらせると,そのまま八戒を引きずるようにして、歩き始めた。鷲掴みにした八戒の手首がひどく骨ばっているのに気づいて、悟浄は小さく舌打ちをした。なにも言わずにうつむき加減に歩く八戒のうなじが汚れているのが、辛い。

 この状態の八戒を連れて普通の宿にチェックインするのも、フロントでの不愉快なやり取りが眼にみえるようでためらわれた。悟浄自身はどうということはないが、八戒が辱められるような事態は避けたい。歩きながら、さりげなくあたりをつけて如何わしい雰囲気の小路に入ると案の定そこには、曖昧宿が並んでいた。迷う事なく一番近い宿の入り口をくぐった。薄暗い照明のフロントで一言「泊まり」とだけ言ってキーを受け取った。エレベーターもない古い建物だ。受け取ったキーのナンバーを一瞥し階段を上がった。2階の隅の部屋だった。

 ドアに鍵をかけてキーをナイトテーブルにほおりなげる。掴んでいた八戒の手首をようやく放した悟浄はベッドに腰をおろした。八戒は無表情に佇んだままだ。
「座れば」
八戒は俯いたまま、つぶやいた。
「僕、汚れてますから・・・」
「気になるんだったら、シャワー浴びてこいよ。俺は別にかまわないけどな」
「・・・悟浄・・・」
しばらくためらっていたが、やがて小さく吐息をつくと八戒はバスルームへと向かった。

 熱いシャワーが痩せた身体を打つ。悟浄の家を出てからずっと身体を洗っていなかった。本能的に感じた心地よさが、罪のように思える。機械的に髪を洗い、身体を洗う。麻痺した心が否応なしに解れていく。
「どうして、あなたはいつも僕をこうやって引き留めるんですかね・・・」
 備え付けのバスローブを羽織り、髪をざっとタオルでふいた。鏡に映った自分の顔は記憶にあるものより痩せて眼ばかりがめだっている。酷く醜いような気がして思わず顔をそむけた。

 八戒がバスルームから出ると、悟浄は片膝を抱えて煙草をすっていた。なつかしいハイライトの香りが、八戒の鼻孔をくすぐる。ここにいるのは、紛れも無い悟浄だ。
「座れよ」
と、言われてもダブルベッド一つしかない部屋だ。八戒はためらいがちに、少し離れて悟浄の隣に腰を降ろした。悟浄はふいに立ち上ががると冷蔵庫をのぞき込んで缶ビールを二本取り出した。一本を八戒に渡し自分の缶を開けるとそのまま床に座りこんだ。そして黙ったまま缶に口をつけた。八戒は渡された缶のプルトップをひきあげもせず、手にしたままだ。あらかた缶を空にしてからやっと悟浄は口を開いた。
「おまえ、さ、なんで黙っていなくなちゃったワケ?」
「・・・悟浄・・・すみません」
「俺さぁ、別におまえにあやまってほしいワケじゃない」
「・・・・」
「なんでよ」
 悟浄の深紅の瞳が真っすぐに八戒を見た。ひどく真摯なその瞳に答えなくてはならない。多分、もう逃げられないから。この紅から。
 八戒は手にした缶ビールをサイドテーブルに置くと両手を膝の上で組んだ。
カチャリと煙草に火を点けた悟浄は
「あの女な、三蔵に頼んだのよ」
 八戒の眼が大きく見開かれた。
「三蔵のツテで、ああいうのの面倒もみている尼寺を紹介してもらって其処にいる。クソ坊主でも三蔵サマってな」
 だからおまえは心配するなと言外にいっている。
「悟浄・・・」
「だから、さ、俺は聞いてんの。なんでおまえ黙っていなくなったかって」
八戒は大きく息をのむとゆっくりとそれを吐き出した。

「あの人の代わりに花喃は百眼魔王にさしだされたんです」

「僕が犯した罪は知っていますよね。・・・僕は・・・なんの罪もない人々を沢山殺しただけじゃない・・・僕に殺された人々にも家族がいて・・・その人たちの生活もめちゃめちゃにしたん・・です・・・あの人があんな姿で僕の前に現れて、その事を僕に突き付けたんです。・・・・いられる訳ないじゃないですか、こんな僕が・・・あなたの側に・・・」
 八戒は顔を上げ悟浄を真っすぐに見た。その瞳に込められた深い感情をなんと呼べばいいのか悟浄には分からなかった。その感情は形を持って悟浄の胸の深い部分を直撃した。そこが抉られ痛んだ。
 視線を落とした八戒は自分の両手をじっと凝視めている。

「だから?」
「この手で、あなたに触れることはできません」
「だぁから、なんだっていってんの、ソレ。おまえが何言ってんのか、わかんねぇ」
「僕には資格がないんです、悟浄。あなたの側にいることも、あなたの優しさを受けることも」
 短くなった煙草を空き缶にねじ込むと、悟浄は立ち上がった。長身の悟浄の影が八戒にかぶさった。
「優しくなきゃイイのか?」
 悟浄の両手が八戒の肩をつかみそのままベッドに押し倒した。両膝は八戒の細い腰をしっかり挟み込んでいる。そのまま八戒を見つめる悟浄の双眼は切羽詰まった色を浮かべている。この角度から悟浄を見るのは悟浄に拾われて気がついたとき以来だと、八戒はぼんやり思い出していた。

「俺がおまえに酷くすれば、おまえは黙って行かなかったのか?」
 八戒は眼を閉じた。自分は本当のところ、なぜ悟浄の所から逃げ出したのだろう。
 ・・・自分の罪の形そのままのあのひとを見て、それを悟浄に知られたくなかったのだ・・・それを知られたら、悟浄が今度こそ自分を疎み嫌うのではないのか、そのことが恐ろしかったのだ。・・・だから、逃げた。自分が守りたかったのは、こんな自分のエゴだった・・・
「答えろよ、八戒」
 八戒はゆっくりと頭を振った。
「わかりません・・・僕は、あなたにどう思われるか・・・多分それが怖かったんです。それしか頭になかった・・・」
 八戒の肩を掴んでいた手の力がふっと緩んだ。
「なに、それ・・・」
 八戒の碧の瞳が悟浄を真っすぐに見た。なにかを諦めた澄んだ瞳だった。
「最低ですね、僕は。そんなことは自分では分かりきっていたことだと、思っていたんですけど」
 だから、もう僕のことはいいんです。
「やだね」
 悟浄の体が八戒に覆いかぶさった。いつのまにか、背中に廻された腕が八戒の痩せた体をきつく抱き締める。




 ゆっくりと体を離した悟浄は、八戒のおとがいを骨ばった指で辿りながら低い声でささやいた。
「三蔵が言ってたろ?おまえが生きて変わるものもある、って。俺は変わったんだよ。おまえが生きていてくれたから。」
おまえのおかげで俺はちょっとだけましになった気がする。

「だから、おまえも俺で変われ。」

 おまえは八戒、猪八戒だろ。

 はい。


 

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