月夜のたぬき





 こんこん、とかすかに玄関のドアをノックする音が聞こえてきた。
 その音は本当にかすかな音で、覚醒直前の今の時期でなければとても気付くことのできないような音だった。

 月が白白と光を投げつけようとしていたが、淡い霧に阻まれて、その目論見はうまくいっていないようだった。

「…はい?」

 ベッドを抜け出してからうかつに返事をしたことを八戒は後悔し、くらくらする頭を軽く振って急いで床に散らばる自分の衣服をかき集めた。

 あの雨の夜、はじめて悟浄に抱かれたときよりは幾分マシであったが、やはりまだ関節はぎしぎしと悲鳴をあげている―――


 悟浄が、好きだと言ってくれた。
 悟浄にとったら、酒の勢いでも借りられない限りとても言えなかったであろうその言葉を言ってくれた。
 だから、欲しいのだと。
 こんな醜い自分でも、欲しいといってくれたのだと・・・

 人生で一番最初の好きを自分は知らない。絶対的に自分のことを好きでいてくれるはずの人のことを、自分は知らない。
 しかし、悟浄ときたら、好き、は知らない程度のものではなかった。その好きを人生の最初から拒絶されつづけたのだ。
 好きでいて欲しいと、愛して欲しいと、願いつづけたことは何一つ叶わなかった。
 そんな悟浄にいきなり「好き」を突きつけるのは最たる愚行だと八戒はよく分かっていた。よくわかっていたはずなのに、自分はそれを悟浄に欲し、そして悟浄はその答えをとても苦しんで見つけてきてくれた。

―――――好きです。悟浄。

 ベッドの隣で眠るその人の紅い髪に軽く口付けをして、Tシャツとジーンズを着込み、慌てて玄関に向かう。

 返事があったのにいつまでたっても家人が出てこないことを不審に思ったのだろうか。先ほどより僅かに力がこめられたノックの音が鍵を開けようとした直前の八戒の耳に入った。

 こんこん、こんばんわ

 蚊の泣くような小さな声で、こんばんわ、という声が聞こえてきた。

 思わず時計を仰ぎ見て、八戒は大変不信感を覚えた。こんな夜中に、こんな小さな子供の声が―――?

 そう思いつつドアを開けると、そこには、八戒の腰ぐらいしかない小さな男の子が、唇をかみ締めて、握りこぶしを作ってたっていた。前髪はきちんとそろえられ、清潔に洗濯された服を着ている。

「―――どうしたんですか?」

 八戒は膝を折り、その少年の目線と同じ目線に降りて声をかけた。

「月がきれいだったので…かあさまと散歩に出かけたんです」

 うつむきながら、一生懸命に答える少年がなんだかとてもかわいらしくて、八戒は自然と笑顔をつくった。きっと少年にとったらそれどころではない緊急事態なのだろうけれども。…赤の他人の家のドアをノックするくらいの。

「…それで?」

 少年の瞳を覗き込みながら、八戒は続きを促してやる。しかし、少年はうまく言葉が選べないらしくしどろもどろまごついていた。

「お母さんが、どこかに行ってしまったんですか?」

 こくん、とうなずいて、そこで一瞬ほっとした顔になった少年は、そのあとぽたぽた涙を流し始めた。握りこぶしが震えて、何とか涙を止めようとしているらしいが、一向に涙は止まらない。
 八戒は思わず、少年を抱きしめた。
 素直に少年は八戒の胸におさまり、あいかわらずぱたぱた涙を落としながら小さな声で、かあさま、かあさま、と繰り返していた。

「……どしたの?」

 何時の間にかおきてきた悟浄が玄関のドアにもたれかかって八戒に声をかけた。腕の中の少年がびくんと身体を固くする。

「道に迷ったんだそうですよ……」
「ふーん…見ねー顔だな、お前。どっからきた?」

 上から悟浄に覗き込まれ、完全に硬直した少年はがたがた震えだした。口を開こうにもうまくしゃべられないようだ。

「何やってるんですか、悟浄。そんなふうに見下ろされたら、ほら、この子すっかり怖がってるじゃありませんか」
「…んなこと言われたってよー……」

 髪の毛をぐしゃぐしゃ掻きまわしながら悟浄が口を尖らせる。悟浄の方がよっぽど子供っぽい、などということは決して口に出さずに八戒はその少年を抱き上げて、自分の部屋の方に連れて行った。

「おいおい、どーすんの、八戒」
「ずいぶん歩き回って疲れてるようですから、ちょっと、休ませてあげましょう」
「…いいのか?きっと、そいつの親、めちゃくちゃ必死にそいつのこと探し回ってるぜ」
「……大丈夫ですよ」

 妙にきっぱりと言い切って、八戒はその少年を抱えたまま自分の寝室へと消えていった。

「……おーい、八戒さーん」

 一人ぽつんと残されて、悟浄はがりがりと頭をかいた。
 今日という今日こそは、八戒と二人だけで幸せな後朝を迎えるはずだったのに……
 真夜中の突然の来訪者に不当な怒りを覚えることは仕方のないことだと一瞬悟浄は思ったが、それでもあんな小さな子供相手に怒っても仕方のないことだと思い直した。
 やっぱりもう一度がりがりと頭をかいて、悟浄は自分の欲求に素直に従うことにした。

 とりあえず眠い。
 更に言うなら八戒と一緒にいたい。
 
「…つーか、俺って健気だよな―」

 …健気に人格があったならその台詞だけは許せないといいそうな状況で悟浄はそれを口に出し、八戒の寝室のドアを開けた。



「どこではぐれちゃったか覚えてますか?」
 八戒のベッドに腰をかけたその少年はふるふると微かに首を振って答えた。
「おなか、すいたでしょう」
 こくん、と素直に首が前におちた。八戒は微笑んで、本棚からキャンディーのビンを取り出すと、マスカット味の粒を一つ、包み紙をむいて、少年の口にぽん、とほおりこんでやった。
「疲れたときには甘いものが必要ですよ。もう一つ食べますか?」
 もう一度こくん、とうなずいた少年に、八戒はもう一つ、今度はオレンジ味の粒を少年に差し出す。少年は、その包みを受け取ると、小さな手で包み紙と格闘し、しばらくして汗びっしょりになった後ようやくオレンジ色をしたキャンディーを口にほおばった。
 そのキャンディーはかなり大きな粒で、少年の頬が内側から膨らんでいるのがよく見てとれた。

「…だから、お前の部屋に連れてきたワケだ」
 カチャリ、と小さな音を立ててドアノブがまわされた。悟浄にしては小さな子供に気を使った結果だとしたらかなり上出来の部類である。大きな音を立ててまた怖がられるのが嫌だ、と思っただけかもしれないが。
 それでもその少年をびっくりさせるには充分だったようだ。大きな目を思い切り丸くして、少年は悟浄を凝視する。
「…大丈夫ですよ。ちょっと大きいからびっくりするかもしれませんが、とてもよい人ですよ」
 八戒がにっこり笑って少年に微笑みかけると、ようやく彼も少しだけ緊張を解いた。
「もっとたくさんあげましょう。ほら、ポケットに入るだけもっていきなさい」
 キャンディーの瓶から、八戒はどんどんキャンディーを取り出して少年の膝の上に置いていった。

 リンゴ味。ラムネ味。苺ミルク味。レモン味。

 それぞれの色をしたとりどりのキャンディーが少年の小さな手によってポケットに詰められていった。

「ありがとう…」

 蚊の泣くような小さな声で、それでもはっきりと笑って、少年は八戒に礼を述べた。八戒は少年に微笑み返すと、少年の隣に座り、頭を軽く抱いてゆっくり髪の毛をなでた。
 やがて少年がうとうとし始めると、八戒はそっと少年をベッドに横たえた。
 そして、完全に寝入ってしまった少年の窮屈に足を締め付ける靴を脱がせた。その足はさんざん歩き回ったことを証明するかのようにむくみ、脱がすためには靴紐をかなり緩めてやらなければならなかった。
 その次に靴下を脱がせる。所々に草の汁でできたであろうしみができている。八戒は片足ずつゆっくりと靴下を脱がせ、そしてそれをきちんとそろえて靴の上に置いた。
 そこまで終わって、やっと八戒は悟浄を振り返り、「よく我慢しましたね」といってにっこり笑った。

 悟浄はなんとも胸の中がもやもやした気分になって不必要なほど頭をがりがりとかいた。
 
 よく分からない。なんと言う気持ちなのか言葉では表現できない。
 でも、八戒が少年の靴と靴下を脱がせるところを見たからこんなに自分はもやもやしてしまったことだけは分かった。

 世の中の親子連れではよく見かける情景である。
 別段それを意識したこともなかったが、とりあえず自分はそんなことをしてもらった記憶は欠片もない。
 だったらそれはそれで全くどうでもいいことであったはずなのに、八戒がその少年にその行為を、まるでずっと一緒にいる家族です、といわんばかりの行為を、平気ですることがなんだか悟浄には―――もやもやしてしまうのだ。

「じゃあ、悟浄。僕たちは向こうに行きましょう」
「―――――――――えっっっ、八戒さんてばなんて積極的っ」
「……悟浄は悟浄の寝室で眠ってください。僕はソファで眠ります」
「そんなつれないこといわないでよ。一緒に寝ようよ―はっかいー」
「ナニいってるんですか。情操教育に大いに影響を与えますよ」
「よそ様のお子様のことまで気にかけるなよ」

 軽口を叩く悟浄を睨みつけて、赤くなりながら八戒は言った。その軽口に少しだけ引っかかるものを感じはしたが、とりあえず今は、この部屋を早く出て行かないといけない。そうしないと、あの少年は―――

「…分かりましたから、悟浄、ほら、早く」
「あのお子様ほおっておいていいの?」
「…どっちかというとほおっておかなきゃいけませんね。ほら、早くってば」

 悟浄の背中を後押しして、八戒は大急ぎで自分の寝室から出ようとする。それを不審に思った悟浄が抵抗を試みるが、八戒はかまわずぐいぐいと悟浄を押し出し、後ろ手にドアを閉めた。同時にほおっと安心のため息をつく。

「…どーしたの、八戒、何そんなにあわててんの?」

 悟浄が当然の疑問を口に出す。八戒はしばらく考え込んだあと、やけにきっぱりとした口調でこういいきった。

「あの子、人間じゃありませんから」

 めをまるくして悟浄は3回瞬きを繰り返した。

「…………は?」

 悟浄らしい反応だ、と内心でくすくす笑いながらも八戒は生真面目な顔をして言葉を続ける。

「ついでに言っときますけど、当然妖怪でもありません。―――そろそろ起きるころですよ。とってもあわててね。眠っちゃうと術が解けて正体をあらわしちゃうんです。耳とかしっぽが飛び出た自分を見たらびっくり仰天して逃げていきますよ」
「…えー――と……」
「ちょうど今の時期って餌が少ないんです。だから、ああやって、術を駆使して餌を集めてまわるんですよ」
 見事な演技力ですね、といった八戒は生真面目な顔を続けることに非常に努力を要しているように見えた。
「あの―…つまり、あの子って……?」

「たぬきです」

 …
 ……
 ………そんなものが化けて夜中に自分の家のドアをノックするなどということは悟浄の頭の常識の範囲の中には一ミクロンも存在していなかった。呆然とした悟浄を促して、八戒は悟浄の寝室に向かう。

「共存共栄ですよ。今は僕に餌の余裕があるから彼らに与える。僕に余裕がなくなったら彼らから餌をもらう。それでいいんじゃないんですかね」
 まだ納得いかないという顔をする悟浄を無理矢理にベッドに寝かしつけ、八戒はそのベッドに腰掛けて、悟浄の顔を覗き込んだ。
「…それより、さっき、変な顔してましたけど、何かあったんですか?」
「ナンか…って……なんか……」
 
 そういわれて悟浄はもやもやした気分が再び沸き起こるのを自覚した。
 とにかく今日はとんでもない日だ。
 
 ようやくのことで八戒をきちんと抱いて、後朝を迎えるはずだったのをたぬきなどという哺乳類にじゃまされた上になんだかとにかくもやもやしてよく分からない自分がここにいる。

「なんか…何です?」

 更に八戒に微笑みかけられて悟浄は思わず布団を頭からかぶってしまった。

 もやもやするのだ。とにかく。自分にはそんなことをしてくれなかった八戒が赤の他人の子供にそんなことを平気でするということが。
 だからといってじゃあ靴下脱がせてください、などと思っているわけではないことも悟浄にはよく分かっていた。間違いなく大の男が願うことではなかった。万が一まかり間違ってそんなことされた日には恥ずかしくてきっとタップダンスを踊りだすに違いなかった。

「…悟浄、変ですよ……?」

 布団をめくって上から悟浄を覗き込んで、八戒はくすくす笑いながら言う。

「うるさいっ///」

 明らかに何か照れ隠しの様相で悟浄は八戒の手首を掴むと強引にその唇を奪った。そしてあっという間に八戒をベッドに押し倒すとその首筋に顔を埋める。

「…ごじょ……?」
「…あー、もう、うるさいっ。なんでもないの、何でも」

 音を立てて首筋を吸うと、八戒の口から微かに声が漏れた。性急な愛撫は明らかに照れ隠しだと八戒は確信した。

「……もしかして、悟浄、キャンディー、欲しかったです…?」
「………あのねー、八戒さん………」

 明らかに肩を落として絶句した悟浄の背に両腕を回しながら、八戒はとてもとてもきれいに微笑んだ。

「……甘えてください」
「……は?」
「僕が、悟浄にたくさんたくさん甘えるように、悟浄は、僕に、甘えてください」
「八戒……?」
「『好きな人』にやってもらいたかったこと、たくさんあるんじゃないんですか?―――僕なんかでよければ、いくらでも……」

 そして、八戒は、紅の双眸に自分の視線を合わせると、そのきれいに微笑んだ顔のまま瞳を閉じて、悟浄の唇に自分の唇をそっと重ねた。

「――――――靴、脱ぎますか?」
「……………」
 
 無言で複雑な表情をする悟浄の肯定の意見も否定の発言も待たずに八戒は、悟浄のブーツの紐をゆっくりとゆるめ、すぽりと靴を脱がせた。なんだかそれがくすぐったくて、八戒は自然に笑顔をつくった。
 悟浄は完全にふてくされてそっぽを向いている。子供っぽいそんな欲求が八戒にばれていることがどうしても許せないらしかった。それを見てとると、八戒は更に笑みを深め、だまってするすると靴下を脱がせると、靴の上にそれをきちんと二つ折りにして置いた。

 …その行為が終わるや否や、悟浄は八戒を抱きかかえると、自分のベッドの上にほおり投げ、Tシャツをめくりあげて鎖骨に噛み付いた。
「…もー、怒った。許せん。もー寝かしてやんね―からな…」
「何で怒っちゃうんですか。して欲しかったんでしょう…?」
「…そこが許せないっ、俺がそんなガキみたいなこと思ってると思ってんのが許せねー」
「だって本当の……わっ」
 八戒のジーンズに手をかけて一気にそれを取り去ると、さすがに八戒もそれ以上は口を開けなくなった。

 照れて、赤くなっている顔を同じくらい紅い髪が覆っていた。
 その髪に、八戒のこげ茶色の髪がとけたかのように交じり合うと、少し高い声で、八戒は悟浄を呼んだ―――




 その頃、八戒の寝室では、隣から聞こえてくる不思議な声にまあるい耳を傾けた小さな茶色の毛むくじゃらの塊が、両手で持ちきれないくらいのキャンディーを抱えて、お礼にとばかり木の葉をせっせとベッドの上に並べていた。
 

 満月ではないが、上弦の月の一歩手前の美しい月が森を照らす、そんな夜のお話―――


 

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