草の夜
物置だった部屋を片づけた。
殆どが、何年も使っていないガラクタで、処分すると、けっこう広くてあいつの部屋ができた。なにしろ元が、物置だから余り日当たりは良くないし、少し湿っぽい。それでもあいつは「充分です」と微笑んだ。
「もぉーちょっと、窓がでかけりゃいいんだけどナ」
「いいんですよ。でも、僕、本当にここにおいてもらってもいいんですか。」
「だって、俺、ごみの日わかんないしぃ。おまえ、ちゃんとゴミだしてくれるンでしょ。俺的にはそんでOKなんだケド」
「わかりました。じゃあ、ゴミ出しは僕の役だとゆうことで、いいんですね」
そして俺たちの同居生活が始まった。
あいつと同居し始めてから、家がなんとなく広くなった気がした。なんのことはない。余分なゴミが溜まらなくなったからだ。
同居を決めたその日に俺は言った。
「おまえサ、これで、飯作ってくんない?モチロン二人分ね。俺、朝は食わないけど、おまえが食うんだったら、てきとーに作ってくれりゃいいから。置いといてくれりゃ俺も勝手に食うからサ」
金を入れた封筒をテーブルの上に置きながら、なにげを装って言ってみた。嫌っていわれりゃそれまでだ。でも、こいつが当座の生活費を持っているとは、思えなかった。
「ありがとうございます」
「なんで?」
「・・・優しいんですね」
「俺は、飯作んのが、めんどいだけなの。それにおまえ結構うまいじゃん」
こいつが出て行く前、何回か食事を作ってくれたことがあった。動けるようになってからだ。
「僕が作ってもいいですか」
俺が買って帰る出来合いの弁当に、多分、飽き飽きしたんだと思う。俺だって、ちゃんとしたモンのほうがイイ。ちょっとぐらい不味くても、料理されたモンのほうがイイ。そう思ってOKを出したら、これが美味かった。だから、言ってみたんだ。
次の日、昼過ぎに起きるとテーブルの上に朝飯とメモがのっていた。
『おはようございます。ガス台の上の片手ナベの中に、スープがあります。暖めて食べてください。僕は職探しにいってきます。夕方には戻ります』
あいつらしい几帳面な筆蹟だった。お茶葉のはいった急須と湯飲みも用意してあった。
「らしぃーよな」
あいつの作った飯はやっぱり美味かった。
俺たちの生活時間は殆ど合わない。俺が起き出す昼過ぎには、こいつは職探しに出かけている。夕方俺が出かける前に帰ってきて、晩飯を作る。一緒に飯を食い、俺は自分の仕事場である酒場にでかける。真夜中過ぎか明け方に帰る頃には、当然寝ている。
だから一緒に暮らしていても、顔をあわすのは、一日のうちの数時間ということが殆どだ。思ったより気楽な同居の始まりだった。お互いに不必要な干渉はしない。
まぁ、男同士の同居なんざこんなもんだろ。
俺にとっての生活の変化は、ゴミが溜まらなくなって、家で飯を食うようになったって、ことぐらいだと思っていた。
だけど・・・
半月ほど経つと、いつのまにか、あいつの気配が、家の中にあるのが、あたりまえになった。俺が帰って来るころは、あいつは自分の部屋で寝ている。それでも、一人で暮らしていたころとは、違う。部屋の空気が少し暖かい。
たったそれだけのことが、自分にとって結構ほっとすることだと、気がついたら、なんだか落着かなくなった。
「なんだかなー」
台所で、酔い覚ましの水を飲みながら、思わず独り言をいってしまった。なんだかわからない気分はそのままにして、ベッドにもぐりこむ。
『ズーット、ココニ、イレバイイノニ』
眠りに落ちる直前、胸の底のほうでそんな声がした気がした。なんだか幼い声だった。
誰の声かなんて俺は知らない。聞こえなかった振りをして、そのまま眠る。
「おはようございす」
「・・あよー。めずらしいじゃん。仕事めっかたの?」
「そうなんです。明後日からなんで、報告しておこうかなって、思ったんですよ」
「そいつは、おめでとさん。で、どんな仕事?」
「紅茶とパスタのお店なんですけどね、ちょうどバイトを募集していて、昨日面接にいったら、なんか気に入ってもらちゃったみたいで、早速来週から来て欲しいって、いわれたんです。ウェイターが主で、あとちょっと、厨房の手伝いですね。あ、コーヒー飲みます?」
「頼むわ」
こいつのコーヒーも美味い。なんでもそつなくこなす。バイト先でも重宝がられるんだろうな。やっぱ、器用貧乏なタイプだわ。
「それで、僕の勤務時間が、11時から2時までと、5時から9時までなんですよ」
「で?」
「だから、あなたの朝ご飯は今までどおり用意できるんですけど、晩御飯がちょっと・・・」
「何、そんなコト気にしてんの?いーよ、別に。おまえが来る前だって、俺一応飯食ってたシィ。」
「ホントに大丈夫なんですか。なんかすごく不健康な生活してた気がするんですけど」
「せーかつは不健康でも、俺は丈夫が取り柄なの」
「そーですね、まったく」
あきれたように、言って笑ったその顔がなんだかひどく奇麗に見えた。やっぱり、美人なんだ、この男は。ウェイターなんかやってた日には、客がほおっておかないぜ。そう思った途端、胸のあたりが、ちょっと痛んだ気がした。
ナンダロ。こんな痛み、俺は知らない。多分知らない。
「よっしゃー!おまえの仕事も決まったことだし、今日は飲もうぜ。俺の奢りな」
「そんな、悪いですよ。僕、お世話になりっぱなしで、本当だったら、僕のほうこそ、あなたに奢らなきゃならないんです」
「いーじゃん。オ、レ、が奢りたいの」
「じゃあ、お給料がでたら、僕に奢らせてくださいね」
「期待してまーす」
外で飲むよりは、家でゆっくり飲んだ方がいいと、あいつが言うので俺は酒を買いに出かけた。肴も行き付けの酒場でテイク・アウトしてくるから、なにも用意しなくていいと、言っておいた。でもあいつのことだから、有り合わせの材料でも、なにか作っているだろう。
そういえば、あいつと酒を飲むのは、初めてだ。なんだか怪しい空模様のもと、俺は急いだ。ジンとズブロッカ、ライムを一袋。多分あいつはどんなに強い酒でも酔わないだろう。
何故かそんなふうに確信している自分がいる。あんなに華奢にみえるのに、酒じゃ酔えないやつだと思う。
少し風が吹きはじめた。空気が湿り気を帯びてくる。雨になる前に、家に着けるだろうか。
「おかえりなさい」
「なんか、降ってきそうだな。間に合ってよかったよ」
「そうですね」
テーブルの上には、やっぱり幾品か皿がならんでいた。
「さんきゅ。お前って、やっぱまめね」
冷蔵庫から氷を取り出し、ズブロッカは冷凍庫に入れる。きれいに磨かれたグラスは、すでにテーブルの上におかれている。ライムを二つに切って皿に並べる。その間にやつは、テイクアウトしてきた料理を態々皿に移し替えてならべていた。手抜きをしない主婦みたいだ。
「はじめよっか」
「そうですね」
「まずは、改めておめでとサン」
「ありがとうございます」
かなり濃いめのジンライムが、細くて白い喉をすべっていく。ジンにライムを絞って落としただけの代物だ。こいつは、やぱっり酔わないんだ。俺も結構強いほうだか、この分じゃ先につぶれるかも。
「僕、今日は悪酔いしちゃうかもしれません」
嘘つき。窓の外、降り始めた雨が木々の梢をたたく音がした。
「ベッドに男を運ぶのは、あれで、最後っていったでしょ。つぶれないでねぇ」
アルコールの酔は、神経の表面だけを犯していく。体の奥はいつも冷え冷えとしていて暖まらない。女と寝ても、暖かいのは肌の表面だけだ。どっちもないよりは、マシって程度だ。つまんねー男だね、俺も。
それでもアルコールに犯された俺の神経は、こいつの前でほんの少し、タガを緩める。
「おまえさー、なんで俺のトコにまた会いに来てくれたの、あん時」
「そぉーですねぇ。どうしてでしょう」
全く素面のままで、しれっと言う。そのくせ、グラスを空けるピッチは、早くなっている。
「あなたと別れてから、長安の斜陽殿へ連行されたのは知ってますよね。始めの一週間くらいは取り調べのようなものもあったんですけど。その後なんにもなくて、ずっと、あそこの地下の独房にいたんです」
「あの生臭ボーズは、何してたのよ」
「さぁ、最初に三仏神様の前に引き出された時は、いっしょでしたけど、その後は、全然顔を見ることもなかったですね。あの人の任務は僕を斜陽殿まで連行するだけだったみたいですから。で、あの日呼び出されて、いよいよ罰が決定したんだな、って思ったらあの人の執務室に連れていかれたんです。そこで紙切れを一枚渡されて新しい名前だって言われたんです。僕の今までを全部無しにして、新しい人生を生きろって」
「勝手な言い草だな」
「でも文句を言えるような立場じゃないですし」
「まぁな」
「斜陽殿を出る時もあの人は、何をしろとも何をするなとも言いませんでした。だから、僕はあなたに会ってみようかな、って。会ってどうしようとも考えていなかったんですけどね」
「で、今に至るってワケね」
「はい」
俺のグラスの中の氷が溶けて、カタリと微かな音をたてた。
「もぉー、コレ薄いわ。ズブロッカがいい塩梅に冷えたんじゃないぃ。俺、取ってくる」
立ち上がった瞬間にグラッとよろめいた。カッコわりぃ。結構きてるかも。
「大丈夫ですか。僕が取ってきます」
「イイって。おまえ、全然酔わないのな」
「体質が変わったんでしょう」
ほんの少しいつもより深みを増した翠の瞳が俺を見る。その色がなんだか切ないような気分をかき立てる。それが表しているのが、どんな感情なのかもわからないのに。雨音が激しくなった。
草の香りのする強い酒を、水のように飲みほしていく。嚥下するときに、微かにうごく喉は白い。描かれたその絶妙なラインに目を奪われる。グラスを掴む形の良い手。男のものとしては華奢に見えるが、決してか細くはない。すっかり寡黙になったこの男の危うさを、酔った頭のどこで感じとったのだろう。 雨は降り続いている。
「ねぇー、俺もうダメ。・・・ギブアップする・・・」
「しかたないですねぇ。立てますか?」
「だいじょぶ。・・・たぶん・・・」
俺はテーブルに突っ伏してみせる。立ち上がったあいつが、肩を貸そうと近付いてくる。
「随分酔いましたね。僕はあなたじゃないですから、男をベッドに運ぶのはかまいませんよ」
張り付けてたような微笑みを浮かべて差し出された手を掴む。なんて顔で微笑うんだ。俺の手に込められた力が、自分で思ったより強かったのにあいつは気づいただろうか。
肩にまわされた俺の腕を掴むきれいな手。その手は思ったとおり冷たくて、こいつの寒さを俺も感じてしまう。自室までのほんの数十歩が、長い道行きだった。こいつの身体から流れこんでくる気配があんまり危うくて、それをなんとかしたくて、必要以上に体重を預ける。せめて俺の体温がこいつに伝わるようにと。
ベッドに身体を投げ出す。両腕を後ろに着いて足を投げ出す。
「靴ぬがなきゃダメですよ」
「ぬがせてよ。もぉ、めんどくってさー」
「しょうがない人ですねぇ」
靴に伸ばされた手を掴んで、引き寄せると驚いて目を見開いた。
「なぁ、ここにいろよ。・・・今だけ・・・雨が止むまでいいから・・・」
廻された腕のなか、強ばった身体がふっと緩んだ。
「・・・気づいていたんですか?」
「なーんのことだかなぁ」
「あなたって人は・・いつもこうなんですねぇ・・・」
そのあとの呟きは吐息に紛れて俺の耳には届かなかった。それでも俺の腕の中のこいつの身体が少し暖かくなった気がしたのは自惚れなんだろうか。
そうして体温を分け合って、二人ともゆっくりと目を閉じる。
「なぁ、八戒。なんか世界が終わって、俺たちだけになったみたいな気分だな」
「同じようなものですよ、僕にとってはね。悟浄」
雨は降り続いている。