月は東の空に出て

 「なあ、ナンでお前、寿司屋のバイトなんか見つけてきたんだ?」
 新年来頭から離れないその疑問に、今日こそは答えをもらおうと、悟浄はきれいな碧の同居人が入れてくれたディンブラのマグカップを両手で抱えながら言った。
「うー・・ん、ナンで、といわれても……」
 自分の分もディンブラを入れて、もうすでに定位置となっている悟浄の向かいのソファにかけながら、八戒は少し首をかしげて苦笑した。
「強いて、理由を挙げれば、近かったからですかねえ」
 困ったように答える八戒に、それでもまだ納得のいかない悟浄は、更に質問をたたみかける。
「世の中の普通の八戒さんは、バーとかそーいう西方風のカッコイイところで働いてるぜ」
「…ナニわけのわかんないこと言ってるんですか。それに、お寿司屋さんだって充分かっこいいですよ」
「かっこいいったってなあ…あの大将だろう?」
「失礼なこといわないで下さいよ。魚をさばくときの手さばきなんてやっぱり職人、って感じですごいですよ」
「でも…」
 なおも続けようとする悟浄に、困った笑顔で、少し苦しそうに八戒は言った。
「…まあ、先生じゃなきゃ、何でもよかったんです。それで、たまたまお寿司屋さんに求人があった、っていうだけですよ」
 それ以上の質問をやんわりとでもきっぱりと拒絶して、八戒はマグカップに口をつけた。
 …悟浄は、自分の浅はかな言動を激しく後悔した。

 猪悟能、と名乗っていたとき、八戒は、先生をしていたのだ。前にたった一度だけ、悟浄にその仕事のことを話したとき、八戒はとても幸せそうで、そして、ひどく悲しそうだった。
 先生、として働いていた仕事場から、子供たちと遊んでいたから、と理由で少し遅く帰った八戒と、その最愛のひととの二人だけの家はめちゃくちゃに荒らされ、そして、その最愛のひとは、誰よりも守りぬくべき人は、その家に二度と帰ることはなかった。
 …八戒が、もう先生をやりたくない、と思うのも当然だ。きっとそのことを考えるたびにその、世界の誰よりも愛したひとのことを、そのひとの最期のことを思い出すのだろう。
 そのこころの絶望は決して埋まることはないだろう。何かがとってかわることもできないだろう。
 それでも、そんな傷ついた魂を抱えながらも生きようとしている八戒だからこそ、自分は一緒にいたい、と思ったのだ。大切にしたい、と思ったのだ。
 であった時にはすでに八戒のこころの中はからっぽで、そのひとの幻影がちらついているだけだった。
 強く惹かれ、はじめて欲しい、と思った。
 そんな八戒が丸ごと欲しかったはずなのに。
 八戒が、彼女のことを思い出しているという事実を突きつけられてしまうとなんともうまく表現できないが何だかとても嫌な気持ちが湧いてくる。胸の中に、何か引っかかりを感じてしまう。
 これはなんと言う感情なのだろう。
 …不意に、はるか昔に、義母が叫んだ言葉を悟浄は思い出した。

「爾燕、母さんが愛してるのはあなただけよ」

 …そう言われたときに抱いた感情と似た部分があるような気がする。
 どうしても、自分に向けられることのない感情を、どうしても欲しいと思ったあのときのような……

 考えナシのことばを吐いて、八戒を傷つけた。
 そして、かえす刀で自分も傷ついていれば世話はない。
 

「わり…」
「そんなこと全然ないですよ。まあ言われてみれば不思議ですよねえ。大体桃源郷に寿司屋があるなんて発想すること自体おかしいんですから」
 もう1杯、お茶入れますね、そう言って八戒は悟浄の手からマグカップをとりあげて、台所へと向かった。
 ソファにうずもれた悟浄は、手持ち無沙汰になった手でクッションを抱えながら自分のバカさ加減にもう一度ため息をついた。
 


「まいったなあ……」
 こういうときに限って、大気は湿り気を帯びてくる。
 普通の人間には感知できないだろうが、右目の奥がとても嫌な感じになるこんなときはあと3時間もすれば雨が降り始めるという合図だ。
 昼間、悟浄に聞かれた疑問は全くもって正統で至極まっとうな疑問であった。
 普通世間一般の誰もが疑問に思うことだろう。

 それなのに、自分はうまく答えることができなかった。

 本当に、たまたま、森のはずれに見つけた寿司屋で、たまたま求人があって、たまたま行ったその日に面接をしてくれて、採用してくれた、それだけの話なのだ。
 いつまでたっても悟浄の稼ぎに頼ってばかりの自分は嫌だった。ただでさえ迷惑ばかりかけているのに、お金のことでまで悟浄を大変にさせたくなかったのだ。
 単純に考えて、食費は2倍になるだろうし、悟浄は夜、家にいなかったから、自分が夜に明かりをつければその分の光熱費もダイレクトに跳ね返る。服だって2倍必要だ。
 それら全てを悟浄に頼るのはやはり、とても嫌だった。自分でできることが何かあるならそれをして、少しでも悟浄の負担を減らしたかった。
 それならそれで、悟浄が見つけてきてくれたあの塾講師のアルバイトをやればよかったのだ。あのときにはじめていれば、更に悟浄の負担は軽くなっていただろう。
 おまけに、きっと、どこの馬の骨だか分からない八戒を採用してもらうために、悟浄はとても苦労したに違いない。どう考えてもますます悟浄に迷惑のかけどおしだ。

 …ただ、八戒は、そこまでしてもどうしても、先生はやりたくなかったのだ。

 ―――だってもう、大切なひとは失いたくなかったから。

 花喃が悲鳴をあげて、きっと必死に自分の名を呼んでいた頃、自分は何も感じず、呑気に子供たちを相手に遊んでいたのだ。「先生−、もっと遊んでよー」という子供の言葉を嬉しく思い、少々帰宅が遅くなっても花喃なら許してくれる、と甘えていたのだ。
 
 なぜ、あの時自分は家に帰らなかったのだろう。
 あの時、「今日はごめん」と言ってすぐに家に帰ってさえいれば、花喃を失うこともなかった。
 肉親を失って悲しむ村人をあんなにたくさん作ることもなかったし、百眼魔王もこの世の春を謳歌しつづけていたことだろう。花喃以外の人間がどうなろうと知ったことではないが。

 ―――ナゼ?

 そんなことは自分が一番よくわかっている。
 目の前に子供がいるとき、自分の一番はその子供たちだったのだから。

 ようやく手に入れたものをこんなに早く失うことなど微塵も考えていなかった。
 自分を受け入れてくれる相手をようやく見つけたのだ。
 花喃は、自分の全てを受け入れてくれた。自分も、花喃の全てを受け入れようと思った。そうしていると思っていた。
 でも、甘えていたのは自分だ。
 多少帰宅が遅くなっても花喃は「仕方ないわねえ」と笑っていた。
 「悟能はほんとに子供が好きなんだから」と言って笑っていた。
 ときどき、「私と子供とどっちが大切なの」と苦笑しながら聞かれたが、花喃自身もそうたいした意味を持たせていっているわけではなかった。花喃の前では、花喃が一番だったのは間違いないのだから。
 …では、目の前に子供たちがいた場合。自分はいったいどうだったのか?
 花喃のことは忘れるわけがない。何をおいても絶対に一番だったはずなのに。
 
 子供を前にしたときには、その子供のことしか考えられなくなる。そうでなければ、決して子供に受け入れられることはないから。

 きっと、先生をしてしまえば、同じことを繰り返すだろう。
 
 そんなことは考えたくもないが、悟浄の身に、何か起こったときに、自分が何をさておきかけもどってくる自信が、先生と言う職業を選んだ場合、八戒にはなかった。

 もうたくさんだ。
 
 こころの全てが絶望の淵になだれ込んだあの日。
 もう二度と、先生、にはなりたくないと思った。

ざあああああああああ

「やっぱりなあ……」

 予想よりも雨が降り出したのははやかった。上限の月の少し太ったやつは急速に流れてきた黒い雨雲で隠されてしまった。
 八戒は、ずるずると台所の床に座り込み、リビングの窓ガラスを大きな雨粒がばたばた音を立ててたたいていくのをじっと聞いていた。

ざあああああああああ

「雨、やんでくれないかな…」
 
 声を出して気を紛らわせようとするが、そんなことで気が紛れるくらいならとっくにどうにかできているはずだった。

 もうすぐ悟浄が帰ってくる。

 こんな雨の夜には、何をさておいても、悟浄はこの家に帰ってきてくれる。

 悟浄が帰ってくる前に、どうにか今の状態の自分から立ち直っておかなければならない。

 雨の夜に壊れる自分を見る悟浄の瞳がとても悲しそうなことに気付いたのはごく最近だった。なぜそんなに悲しそうな瞳をするのか八戒には分からなかったが、とにかく、悟浄にそんな瞳はさせたくなかったから、ここでこうやって座り込んでいるわけにはいかない。
 重い足を引きずりながら八戒は寝室に転がり込んだ。ベッドに倒れこみ、布団を頭からかぶり、雨音を遮断するべく努力をしてみる。

ざああああああああああ

 それはほとんど無駄な努力でしかなかったのだが、それでもしないよりはマシだった。少なくとも、ただ壊れるだけではなく、それをどうにかしてとどめようとする感情が生まれているのだから。

ざああああああああああ

 雷の鳴る激しい雨の夜だった。
 暗く、冷たい、じめじめした地下牢に、裸足のまま彼女はいた。胸の十字架は最後に八戒が彼女を見たときのままだった。

「…ダメだってば。考えたら、考えるほどダメになっていくんだから―――」

 何より先に彼女は八戒の右目のことを気にした。八戒が何か言ったあと、彼女は、目を伏せて、「もう遅いよ」と言った。
 ……何がもう遅かったのだろう?彼女は苦しそうで、悲しそうで、そして、自分の名前を呼んで―――――

「…い……や…!!!」

 ちがう、ちがう、ちがう。
 今、こんなことを思っていてはいけない。
 こんなことを思うのは、一人でいるときだけで充分だ。悟浄がいないときに、いくらでも一人で壊れていればいいのだ。
 今日はダメだ。悟浄が、もうすぐ、帰ってくる。

「か…な……」

 考えまいとすればするほど、頭の中に彼女があふれてくる。
 花喃の笑顔。花喃の指。花喃の髪。花喃の仕草。花喃の言葉……
 そして、あの雨の夜。
 鮮明に思い出せることと、どうしても思い出せないことがちぐはぐになって、何が本当で何が嘘なのかわからなくなってくる。

ざああああああああ

「花喃……」

 そう八戒がつぶやくのと、ものすごい勢いで悟浄が寝室のドアを開けたのとはほとんど同時だった。
 八戒、と呼びかける声を、悟浄は飲み込んだ。
 

 

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