桜の輪郭
「花見に行こう」
昼は暖かく、ぽかぽかした春の陽気が二人の暮らす街を包んでいるうららかな4月。
珍しくおきぬけからしゃきっとしている悟浄の一声で、今日は花見と決まった。
「こーいうものは、思い立った日にいかないとダメだからな」
そう言って悟浄はにかっと笑った。
何かというと、悟浄は、ここ最近、八戒を外に連れ出そうとする口実を作る。気候がよくなり、外を歩き回るには格好の季節だ。
アルバイトをはじめた八戒は、急速に外部との接触を持つようになってきた。
それまで、この街の地理さえよく把握していなかった八戒が、自分でアルバイトを見つけてきて、(よく分からないがなぜ寿司屋なのだろう、という疑問は未だ悟浄の中では解決されていないが)悟浄の行きつけの酒場にもときどき顔を出すようになった。
それが、悟浄には、嬉しい。
世界でただ一つ、大切で大事で守るべきものだったものを、自らの目の前で失ったその心にぽっかりとあいている、くらい、暗い淵は決して埋まることはないだろうし、雨の日には不安定になるところも、そんなに簡単には解決しないことだろう。
それでも、そんな八戒の心が、少しずつ外に興味を向けるようになってきたことが、悟浄にはたまらなく嬉しいことなのだ。
大切なものを失っても、生き続けることはできる。
死んで、その心の絶望に飲み込まれるという楽な道を選ぶよりも、生き続けることを八戒は選んだ。
傷ついて、傷ついて、傷つけて、それでも八戒は、ここにいることを選んでくれた。
悟浄のそばに、悟浄の隣に、悟浄と一緒にいて、そして、その無防備な笑顔を向けてくれることを。
「お花見といえばお酒とお弁当ですね」
にっこり微笑んで八戒が嬉しそうに台所に立つ。
「僕、お弁当作りますから、悟浄、お酒買ってきてください」
「おうよ、ナニがいい?」
「…ビールもいいんですが、寒いとちょっと寒くなっちゃいますよねえ…」
「…ってことはやっぱ日本酒?」
「桃源郷に日本酒なんてあるんですか?」
「そんな細かいとこには目をつぶれよ。じゃ、俺、買ってくるから」
悟浄が上着を掴んで酒屋に向かった。
八戒は、悟浄の残した食器を片付けて、お弁当の材料になりそうなものを探す。せっかくの花見だから、本当は散らし寿司でも作りたいところだが、残念ながら今はその時間がない。仕方がないので、手早く若布ご飯といり卵ご飯を作り、俵型に握って細長くきったのりでまく。
冷凍庫に凍ったブリを見つけたので、解凍がてら、みりんと酒と醤油をあわせたタレに漬け込み、ブリの照り焼きの下ごしらえをする。
ちょうど、いりこと昆布の出汁ができたところだから、人参、筍、じゃが芋の含め煮を作り、彩りに絹さやをかざって。
少し冷ました出汁の残りは、だしまき卵に使うし、あとは―――
とてもうきうきして、八戒はお弁当を作っていった。
悟浄と二人で出かけること。
悟浄が自分を誘ってくれたこと。
こんなふうに誰かと一緒にいることが嬉しいということ―――
まるで、はじめてのデートに出かける前のようだと自分に苦笑する。
さり気ないけれどそんな悟浄の優しさがまったく分からないほど八戒もバカではなかった。
わがままに花見に行くことを装っているのは、それは八戒が外に出て行く口実を作るためだなんてことも、とっくに承知している。
一人でいれば、家の中だけで過ごせば、どんどんかってに自分の中の淵に沈みこんでいける八戒に、自分の身体の外側にある世界もあるのだと、それを実感することで内側にだけ向かっている意識を拡散させようと、悟浄がどんなに心を砕いてくれているのか、八戒には理解できている。そのつもりだ。
やさしくて強くてけれどかなしい紅の同居人が、こんなに汚れた、薄汚い犯罪者の自分をここまで気にかけてくれること自体、八戒には信じられないことであった。あの誇り高い、綺麗な綺麗な魂が、自分に意識を向けているということも、とてもおそろしいことのように八戒には思える。
そしていつか、悟浄が八戒自身の汚さに気付き、離れていく日が来るだろうということも、勿論予防線として心の中にきちんと張り巡らされている。
それでも、その同居人の形容から「かなしい」を取り去ることができれば、と思う。
それが自分の手で行えるならばなおのこと嬉しい、と思う。
こんな自分でも、悟浄はいてほしい、といってくれる。せめて、悟浄がそう言ってくれている間だけでも、悟浄の願うことなら全てを叶えたい、と思う。悟浄が、いてほしいといってくれるのなら、自分は悟浄の隣にいてもいいのだ。
「おー、めちゃくちゃ美味そうじゃん♪」
「…悟浄、お帰りなさい」
背後からひょいと伸びた手が、まだ重箱に詰める前のだしまき卵を一つつまんで、口にほおりこむ。更に続けてもう一つつまもうとした手を叩き落して、八戒は悟浄に無敵の笑顔を向けた。
「2こ目はダメですよ。悟浄。それより、首尾はどうですか?」
「ん、上々。これぞ花見用の酒ってのが手に入ったぜ」
そう言って紙袋の中をのぞく悟浄の目線の先の酒瓶の量に少しあきれて、八戒は最後に白菜の胡麻和えを重箱に詰め、丁寧に風呂敷に包んだ。
「いこうぜ」
悟浄が八戒の手を取って、急いで立ち上がりながら言った。八戒は新緑が持つようなやわらかい色の碧の瞳を悟浄に向けて、そして、微笑んで「はい」と言った。
花見に人を誘うくらいなのだから、桜の絶景スポットを悟浄は当然知っていた。森の一角の、そこだけ少し開けた広場に、見事な桜の木が1本だけけぶるように咲き誇っているその場所に、悟浄は足を向けた。
午後の陽射しは西に傾き始め、大気は急激にその温度を下げてきた。
あたたかい、ぽかぽかした陽気にも勿論桜はにあうが、この少し肌寒いくらいの気温にはよりにあう、と悟浄は思っている。
家のどこにそんなものがあったのか八戒は知らなかったが、どこからか引っ張り出してきたござを悟浄が広場に敷き終わる頃には西の空に、春特有の色をした綺麗な夕焼けが降りていた。淡い橙と桜色が微妙にブレンドされたその色は、空を舞う黄砂の黄色も手伝って、フィルタをかけたようにぼかされ、美しい色をかもしだしていた。
八戒がお弁当の包みを開き終わるのを待つのももどかしそうに、悟浄はよっぽどお気に入りなのかまただしまき卵を1つ手でつまんであっという間に口にほおりこんだ。
「もうちょっとまってくださいよ、悟浄」
「いーの。花見とくれば無礼講でしょう」
「…どーいう理論ですか、それは」
これ以上苦情を言うのをあきらめて、八戒は苦笑しながら悟浄の手がおにぎりに伸びていくのを黙認した。
「仕方ありませんねえ…」
そっとつぶやいて、八戒は包みの中に入れておいた小さなおちょこを2つ取り出した。
さすがに一升瓶は買ってこなかった悟浄だが、あきれるくらいの酒瓶と、目の前のおちょこを見比べて、少し小さすぎたかな、と八戒は思った。ただ、だからといってラッパ飲みやコップ酒もなんとなくいやで、それではなんだか悟浄との時間を大切にしていないような気になるので、八戒はその小さなおちょこに酒を注いだ。
「どうぞ、悟浄」
「ん、ありがと」
そう言って二人はおちょこを目線まで掲げ、一気に盃を飲み干した。
すごいペースで悟浄は盃をあけていく。同じようなペースで八戒のつくったお弁当も綺麗に片付けられていく。
「美味しい。すっげー美味い。ありがとな、八戒」
そう言ってブリの照り焼きと若布ご飯おにぎりを同時に口にほおりこんで悟浄は小さな子供がみせるような無防備な笑顔を八戒にむけた。口の端を僅かに上げて笑うシニカルな笑みも充分魅力的な悟浄だが、今見せてくれる笑顔は、間違いなく八戒だけに見せてくれる笑顔だ。いつも、どこかしら世間を斜に構えてみている悟浄の、まっすぐな、綺麗な笑顔。
そんな笑顔が見られるのならば八戒はお弁当なんて何個でもつくろうと思った。
そんな笑顔で、いつだっていて欲しい、と思った。
春の夕焼けは何時の間にか春の夕闇へと変わり、青色から藍色、そして漆黒へとグラデーションを描く空に、ますます桜はくっきりと輪郭を主張した。
小さなおちょことはいえいい加減数え切れないくらい盃を干した悟浄は、見事に酔っ払っていた。頬から鼻にかけてを少し紅くして、いつもより少し饒舌になっている。紅い髪を揺らし、桜の木に寄りかかって、そのまま上を見上げるその姿は、普通の人間なら間違いなく見惚れるほどいい表情をしている、と八戒は思った。そして、そう思った自分に苦笑する。普通の人間でなくとも、こうやって自分も結局悟浄の魅力的な表情にやられてしまっているではないか。
失ったときのための予防線は最後の細い一本の線と成り果ててしまっているようだ。何とかその線を保つよう努力はしているが、そんなもの何の役にも立たなくなるくらい悟浄の笑顔を見ていたいと思う。
悟浄がいてほしいといってくれている限り、できる限り悟浄のそばに、いたいと思う。
花喃を失ったときに、失ってしまったその半身を埋めることはできないだろうと思った。
それは本当のことだ。自分の半身は二度と現れない。
自分の周りにいるのはただの他人の群れだ。
花喃の代わりになれる存在などいるわけがない。
代わり、はいないのだ。花喃はもうこの世のどこにも、いないのだ。
花喃のことだけ存在していた心の中のその花喃の部分の全てがすっぽり空洞になってしまった自分を、悟浄は拾って連れて帰り、その虚ろの中に綺麗な綺麗な紅をどんどん注ぎ込んできた。最初はほんの少しずつ、だんだん二次曲線を描くかのように急激に。
何時の間にか心の虚ろの底にその紅があふれてきた。
悟浄の、その、強くて優しい心が、花喃とはまったくちがうそのあり方が、八戒の心に深く深く入り込んでしまっていた。
いつかまた必ずこの綺麗な紅の存在を失うとしても、今は、こうやって二人で過ごすことのできる今は、とても嬉しいことだ、と八戒は思った。
「八戒、上、見てみ」
悟浄が八戒を手招きしながら言う。
悟浄も八戒も背が高いから桜を横から見るというシチュエーションは非常に多い。
しかし、何かしらのリアクションを起こさなければ見ることのできない見上げた先の桜というものは、八戒にとってはじめての光景であった。
悟浄の隣に腰をおろして、桜の幹にもたれかかって、八戒は上を見上げた。
「…!」
漆黒の闇を背景に、淡い、本当に淡い桜色をした満開の桜がその存在を主張していた。
桜の小さな花弁はそれぞれの輪郭をくっきりとうきだたせ、ずいぶん気温が下がってしまった春の大気を鮮やかに切り取っている。
「キレイ、だよな…」
悟浄が左手で八戒の肩を抱き寄せながら八戒の耳元に向かってささやいた。
「こんな風に、桜を見たのははじめてです。…悟浄、誘ってくれてありがとうございます」
左手に抱き寄せられるままに悟浄の左肩に自らの頭を預け、八戒は軽く目を瞑ってとても綺麗な笑顔を浮かべてそう言った。
桜吹雪には至らない、満開の力強い桜の木の下で肩にもたれかかった八戒を抱えて、悟浄はもう一度桜の木を見上げた。一片だけ、桜の花びらが風に舞い、何時の間にか眠ってしまった八戒の綺麗なまぶたにふわりと音もなく落ちた。
悟浄は、その花びらと八戒のまぶたに軽くキスをおくり、「今日もおあずけか…」と口の中でもごもごつぶやいて、右手の盃を一気に飲み干した。