こつん
骨折したら熱を出す、というのは人間でも妖怪でも連綿と続く伝統であるらしかった。
いくら頑丈な身体を誇っていても、30メートルはありそうな崖から転げ落ちれば、それはもう、骨折の一つや二つしない方がおかしいというものである。
大体そんな崖を垂直落下しておきながら、足一本で済んだ、というのだから全く奇跡としか言いようがない。
さらに言うなら、救出を待ってへたり込んでいるどころか、そのほぼ垂直な崖を握力だけで登り切ってしまうのだから、いったいこいつに熱を出す、なんて芸当が本当にできるのかというところが悟浄の正直な感想であった。
しかし、その、猿も恥じ入るような芸当を見せた本人は、とろんとした瞳でベッドの住人に成り果てている。
いつものように「腹減った」と騒がないだけ、同室の悟浄にとってはありがたい話であるのだが、調子が狂うこと甚だしかった。
「悟空、腹、減らないのか。」
「…なんか、何にもいらない気分…」
人生の大半を否定するような台詞をはく悟空に、悟浄は槍でも降ってくるかと思った。もしかしたら地磁気が反転し、ムー大陸が浮上してくるかもしれない。
「…お前、そんなこと言える口があったンだ…」
あまりびっくりすると、かえって冷静になるというのも連綿と続く伝統であるらしかった。
いつもならここで、エロ河童だとかゴキブリ頭だとか歩く18禁指定生物だとか憎まれ口がかえってくるところなのに、全く何もかえってこない。
どうも「熱を出す」という経験がなかったため、身体も心も、この「熱を出す」という行為にどう対処してよいのか分からない様子である。
いくらいたずらしても反応が返ってこなければ面白くも何ともない。足の副木にさらに落書きでもしてやろうかと考えたが、やはり面白くなさそうなので、仕方なく悟浄はいすを引っ張ってきて悟空を住人として迎えているベッドのとなりに腰を下ろした。
相変わらずとろんとした瞳で天井の方をぼんやり眺めていた悟空が自分の額に自分の手のひらを当て、そこではじめて少しびっくりしたような表情でてのひらを見つめ返す。
「身体はなんか寒いのに、ここはこんなに熱いんだ…」
あまりにも調子が狂う。
こんな悟空は初めて見た。
しかし、熱が出たときに、いったいどうしたらよいのかなど悟浄は知らなかった。
幼いころ、熱を出せば、義母は気が狂ったように笑ってとてもうれしそうな表情をした。そして、洗濯と称して上着を脱がされ、大概の場合ベランダに放置された。ご丁寧に雨戸を閉め、カーテンまでひいて部屋の中と悟浄の居るベランダの間にバリケードを築く。
身体は、そして心は寒いのに、額だけは燃えるように熱くて。
悟浄の姿が見えないことを不審に思った兄が、ようやく悟浄を見つけた頃には悟浄の熱は上がるところまであがりきって口も聞けないくらいになっているのが常だった。
多分、悟空をベランダに放り出すことは避けるべきことだろう。それくらいはさすがに悟浄にも分かる。じゃあ、そのかわりに何をするのかといわれるともう、そこから先はさっぱり分からなかった。
コン、コンと控えめなノックが聞こえた。
これだけで誰がきたのか分かってしまう。便利な4人組だが、今回もその予想はまったく裏切られることもなく、ドアの後ろから顔を出したのは八戒であった。
「悟空…まだ、熱下がりませんか?」
心配そうに覗き込む八戒を見て、悟空はえへへ、と笑った。
「…なんかさ。くすぐったい。」
「何がだよ、猿。」
「たまには、なんか、心配してもらえるのも、いい。」
そう言って、やはりとろんとした瞳のまま、悟空は八戒と悟浄を見上げてわらった。
だが、その額には汗が流れ、顔色は青白いままだった。八戒がさり気なく、しかし渾身の力を振り絞って悟空に向けて気を送ろうとする。
「…僕のせいで、こんな目に…」
ごめんなさい、は口の中に消えた。いや、正確には力を振り絞るために、歯を食いしばらなければいけなくなったからだが。
「ちょ…こら、八戒!ナニ馬鹿やってんだ!んなことしてたら、おまえの身体が…!」
清一色との戦いは八戒にとって確かに過去との訣別を意味するものではあったが、それがどれだけ彼の心の負担になっていたかわからないものは4人組の中には存在しなかった。できれば八戒に無理はさせたくない。
八戒の手をつかんで悟浄がその気の放出を止めさせようとしたとき、部屋のドアがカチャリと音をたてて開いた。
「―――三蔵!」
この4人の中でおそらく今最も健康体であるところの最高僧の称号を持つ人物がつかつかつかと遠慮なくベッドのそばに近寄る。
「熱、まだ下がんねえのか。甘えてんじゃねーよ、サル。」
「…さんぞう…」
「八戒、甘やかすと付け上がるからてめーはさっさと寝てろ。」
「三蔵、でも…」
「熱なんてこーすりゃ誰でも下がるんだよ。」
そう言って、八戒をどかした三蔵は悟空の額の髪をかきあげるとその白いきれいな額を悟空の額にこつん、とくっつけた。
……予想だにしなかった出来事に、3人は3人ともに、それぞれ明日の太陽が無事に東から昇ることを望まないではいられなかった。
あの、三蔵が。
最高僧とは名ばかりの鬼畜生臭坊主が。
二言目には殺す、か死ね、でべたべた触られることを極端に嫌い、いつも眉間にはしわを、こめかみには青筋を立てている神の座に近きものが。
……そうやって、3人を金縛りにさせつつも、三蔵は悟空の額から離れようとはしない。間近にうつる深い紫色の瞳を悟空は瞬きすることもできないで見ていた。
しかし、当の三蔵はなぜ周りがそこまで驚愕しているのか理解できない様子だった。
幼い三蔵が熱を出した日、光明三蔵はそうやって、三蔵の熱を確かめ、安心させ、それだけで三蔵の熱を下がらせてきたのだから。
だから、三蔵にとって、さっさと熱を下がらせる=額を合わせる、ということは何もおかしいことではなかった。とにかく悟空の熱が下がらないとここを出発できない。三蔵としてはさっさと熱を下がらせることが至上命題であるのだから。
……だが、当然、残りの3人はそんなことをしてもらった記憶はかけらもなかった。
悟浄が、あの義母に?
うまれてすぐ孤児院に預けられた八戒が?―花喃とておなじ立場であったのだからもちろんこつん、などという行為がこの世に存在すること自体知らなかっただろう―
そして、この日はじめて熱を出した悟空―――?
「……熱だすって…いいことあるンだ…。」
「馬鹿なこと言ってねーでさっさと寝ろ!」
ようやく額を離した三蔵にほっと安心して悟空が漏らした言葉に、三蔵はハリセンで答えた。そしてそのまま何事もなかったかのように隣の自分の部屋に引き上げる。
「…世にも珍しいモン見せてもらった…」
「熱が出たとき、ってああしたらいいんですかねえ。悟浄、今度熱でたら試してみますか?」
…ちょっとやってみてもいいかな、と思った悟浄だがおそらくそれを八戒にやられるとくすぐったくて余計に熱が上がるんじゃないかと思い当たり、頭を振る。
悟空は、いつのまにかすやすやとした寝息を立てていた。
―――人のぬくもりなんて、知らなかった。もちろん、それでよかったし、そんなもの、いらなかった。
熱を出したときに、優しくしてもらえることがあるだなんて知らなかった。
だけど。
知ってしまったら、ほしくなる。
なにものにも変えられない、得難い存在である、この「仲間」たち。
―――そして、少しずつ前に進もう。犯した罪も、深い心の傷跡も、隠さなくとも、忘れなくとも、生きていくことができるから。生きたい、と思わせてくれたこの「仲間」たちに恥じることなど何もないよう―――