花の霞みの空の手前の
悟浄はオヤジくさいものが好きだ。
さばの味噌煮や、切干大根、ひじきのふりかけなどはよだれをたらして喜んでくれる。
ほうれん草の白和えや、だしまきたまご、肉じゃがなんかも大好きだ。
豆大福と緑茶を出すと、これまた涙を流さんばかりに喜んでくれる。
いけてるおねーちゃんの前ではスカして、コーヒーをブラックで飲んで、あとは煙草をくわえているだけだけど。
きっとおね―ちゃんたちは悟浄のそんなキメてるところしか知らないだろうから、出汁のきいた味噌汁を美味しそうに飲む悟浄の図なんかは思いつかないはずだ。
自分だけが知ってる悟浄。
自分の作るものを美味しいといって食べてくれる悟浄。
それが、とても、とても嬉しい。
悟浄は、こんな自分に、あたたかいものをたくさん、たくさんくれる。
悟浄に大切だと思ってもらえるような存在ではない、とは常々思っている。だからこそ、悟浄から離れたほうが良いのではないか、と八戒には思えるのだ。
しかし、悟浄は、こんな自分でもいて欲しい、といってくれた。
多分、悟浄にとったら一世一代の大告白。
どんな女にもそんなセリフを吐いたことはないはずだ。
自分の傷を全てさらけ出して、きつく、子供が母親にしがみつくかのようにきつく、ハグをしながら、悟浄は自分に「いて欲しい」、といってくれた。
まるでそれは、自分がこの世に未だ生きていることの証であるかのように、八戒の胸に直接注ぎ込まれてきた。
愛する人を守れなかった自分。
世界の全てが彼女のために存在していた自分。
一度世界の全てを失った自分が、もう一度、生きる意味を確かめられた。
それでもいい、なんてまだとても思えない。愛する人を失った悲しみも絶望も全てまだこの胸に暗いくらい淵を作ってわだかまっている。
だけど、そんな絶望の淵に悟浄が底を作った。
やさしくて、つよくて、かなしい紅の同居人は、自分が絶望の深みにはまっていくたびに、どうにかして自分を連れ戻そうとしてくれた。
たった一人で孤独を抱えて、それでも強がって生きている悟浄。
そんな悟浄が、好きだと思う。
この世に生きている誰に後ろめたい感情を抱くでもなく、好きだ、と胸を張っていられる。
こんなにすごい男を好きになったことを誇らしく思えるくらい、悟浄のことが好きだ。
愛する人を守ることの出来なかった、この手で死なせた自分が、好きになったのだ。
花喃を失った自分が、好きになったのだ。
自分がきちんとこの思いに正面から向き合うことで、悟浄が笑顔になってくれるのならば、この思いを何があっても守らなければならない。
悟浄の喜ぶ顔が見たい。
心底八戒はそう思うのだ。
…いつもいつも、悟浄にはあたたかいものをもらってばかりで、だから、そんな自分で何か返せるものはないかと考えてみる。
―――何せ今日は、はじめての給料日なのだ。
悟浄にもらった服や、食器や、全額払ってもらっている光熱費に家賃。それらのものは少しずつきちんと返していくとしても、何とか悟浄に喜んでもらえるようなことにお金を使いたい。
お金で買えないものを、悟浄からはたくさん、たくさんもらっている。
お金で買えないものが世の中にはたくさん、たくさんあることももう知っている。
でも、今、やっと自分は自分で稼いだ自分の自由になるお金を手に入れたのだ。何か、お金で買える、悟浄の喜んでくれそうなものといったら―――
オヤジくさいものフルコースはなんだかとてもありきたりだ。
かといって、ベルトや財布やその他小物なども何か違う気がする。
服は、悟浄のセンスにはとてもついていけないし、カーテンやテーブルクロスの好みだって同じことだ。
食器も、とりあえず数は足りている。
「何がいいんですかね、こういうものって」
一人つぶやいて、とりあえず八戒は、まずお金を手にしてから考えようと、バイト先へと出かけていった。
「よく働いてくれてありがとな、八戒。約束どおり、来月から時給85元だ」
「え…そんなにはやく上げてもらっていいんですか?」
「イイってことよ。八戒が来てくれたおかげで、店の売上も伸びたしな」
がはは、と大口を開けて笑って、大将が八戒の肩をたたきながら給料袋を手渡す。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げて、八戒はその給料袋を受け取った。
「…八戒、時間があるんだったら1杯やりにいかね―か?」
その八戒の様子を見ながら大将は声をかけてきた。
「あ、はい、ありがとうございます」
「心配すんな、俺のおごりだ」
「え、でもそんな……」
「本当は今月からでも速攻給料上げたいくらい助かってるからな。ボーナスってことでどうだ?」
そう言って、大将は八戒を、彼も行きつけであるところの趙量の店へと誘った。
「悟浄の喜びそうなモノねえ…」
今日は悟浄は別の酒場に行く、と言っていたからこの店に顔を出すことはないだろう。
寿司屋の大将と一緒に、悟浄を肴に趙量の前で酒を飲む、というのはなかなか楽しいシチュエーションだった。ついこの間までは、こうやって町の人間と話す機会など皆無に等しかったのだから。
「悟浄の喜びそうなモノねえ…」
全く同じ台詞をもう一度はいて、大将は酒をあおった。
「酒とか、煙草とか、あとは女がらみだけどさ」
「八戒から贈る、ってとこがポイントだな。またきっと話が違うぞ」
グラスを磨きながら趙量が大将に向かって言う。全く、悟浄への贈り物などそれ以外に何を思いつくというのだろうか?
「いっそ、嫌味をきかせてペンキってのはどうだ?」
「……それじゃあ本当に単なる嫌がらせだ」
ははは、と力なく笑って八戒は両腕を組んで、顎を乗せた。
まったくもって喜んでもらえそうなものを思いもつかない。
世間一般の人は、初任給を、マグカップやネクタイや、温泉旅行やトトロのぬいぐるみに使うのだが、それらは本当に悟浄には通用しない。
さんざん悩みながら八戒は、無意識のうちに次々と杯を空けていった。大将と趙量はお互いに顔を見合わせて、同時にこころの中で、「こういうのこそ海量というのだろう」と思った。
…ふと八戒が時計を見やると、もう、翌日になっていた。
趙量の店の時計は年代モノだ。オーク材で作られた、がっしりとした枠組みの中に、細かな彫刻を施された梟が1羽、鎮座ましましている。中国の伝説でも「裕福」の象徴であるその梟は、1時間ごとに出たり入ったりはしないが、充分存在感を主張し、その隣についているカレンダーを目立たなくさせていた。
「…決めました!」
いきなりそう言って八戒は立ち上がり、大将と趙量にぺこりと頭を下げて、そそくさと店を出て行った。
少し呆然と、八戒を見送った二人は、お互いに苦笑しあい、新しい酒を酌み交わした。
他の何を差し置いても、八戒にとっては、悟浄のことが最優先だ、ということを見せ付けられたように思ったのだ。
「八戒、今日、お前バイト?」
「いいえ、今日はおやすみです」
それを確認して翌日の夕方、いつもの時間にいつものように家を出た悟浄は、いつもの酒場で、いつものように稼いだ。そして、いつもより少し早く帰ってきた悟浄は、なんとなくうきうきしていた。
家に帰れば、お帰り、といってくれる人がいる。
自分に向けて、やわらかく、きれいに笑ってくれる人がいる。
―――ようやくのことで手に入れた。欲しくて、欲しくて、欲しくてたまらなかったこの存在。
自分のとなりで、自分に笑ってくれる存在がある―――
好きだといってくれた。
何度も、何度も繰り返して、自分のこころの端っこにまで行き渡るように。
きつくきつく、ハグをして、やわらかいキスをして、そして―――
「おしかったなー」
まだ包帯でぐるぐるまきにされた右手を見ながら悟浄は心底残念そうにつぶやいた。
「ま、チャンスはいくらでもあるんだし?」
そう一人でもごもご言って、悟浄は、もう一度その言葉をかみ締めた。
黙って、相手の気持ちを妄想するのはとても楽だ。
相手の考えが自分の思うとおりになっていくような気がして、そしてまたそう考えることによって、ますます自分が思い描くとおりの最悪の結果が導き出されてくる。
妄想は妄想を呼ぶだけだ。だから、言葉を使わないといけない。
相手が何を思っているのか、自分が何を思っているのか、言葉に出して伝えあわなければならない。
当然それには、相応のパワーが必要で、それなりに、というか非常に、疲れるものである。
それでも、そうしようと思わせたのは八戒だ。
八戒にだけは、自分が何を思っているのかしっていて欲しい。八戒が何を思っているのか、とても知りたい。
どうして八戒にだけは、そんなことを思うのか、ほんの少し分かってきた。
ただ、悟浄は、その気持ちを表現するための言葉をまだ知らなかった。
「…あれ?」
いつもより少しはやめに家についた悟浄の目には、明かりが点いていない家が映っていた。
そりゃあ、こんな時間に帰ってきたら、当然八戒は眠っているだろう。ただ、いつもは八戒は眠っていたとしても、玄関の明かりだけは点けておいてくれるのだ。
もしかして、八戒は、自分が帰ってくることを見計らって、いつもいつも、電気を点けて眠っていたフリをして悟浄をむかえてくれていたのだろうか?
…その予想は、ほぼ完璧にそのとおりであったのだが、だが、しかし、今回は少し様子が違う。
八戒の気配がどこにも感じられないのだ。
「どういうことだ…?」
自然、足早になって、悟浄は勢いよく家のドアを開けた。
「はっかい…八戒!!」
…10回呼んでも返事は返ってこなかった。
悟浄は、自分の心臓が早鐘のように鳴り響いているのを自覚した。脳裏に警戒のランプが点灯する。
「…どこ、行っちまった……?」
また、同じことの繰り返しなのだろうか?手に入れたと思った途端、残酷にその手を振り払われて―――――
「悟浄、はやかったじゃないですか」
暗い妄想に沈みかけた悟浄の背後から聞きなれた声が降ってきた。
勢いよく振り返った悟浄は、その視界に見慣れたダークブラウンの髪と綺麗な碧の瞳を認め、安堵のため息をついた。と、ほぼ同時に驚愕に目を見張る。また、心臓がジャンプした。
そこに立っている八戒の姿ときたら、服はよれよれで、髪は乱れ、ところどころに泥がこびりついていた。右手には擦り傷を何箇所か作っている。隠している左手はもっとひどいことになっているのだろう。
「八戒!どーしたんだよ、そのカッコ?」
「ああ、これですか。ちょっとドジをふんじゃいましてね」
あはは、と呑気に笑う八戒の肩を力任せに掴み、ゆさぶりながら、悟浄はその紅い瞳を八戒の碧の瞳にまっすぐに合わせ、真剣な声でもう一度問うた。
「こんな遅い時間まで…ナニしてた?ナニがあったんだよ?」
「悟浄、そんな心配してもらうようなことじゃないんです。本当に」
僅かに目を伏せて八戒が答えるのを見て、悟浄はますます動悸が早くなっていくことを、自分のこめかみがあからさまに脈打っていることで自覚した。
嫌な、苦い思いが胸いっぱいに広がって、それが口までこみ上げてきて、言葉をつむごうとしたその刹那、目を伏せたままの八戒がぽつりとつぶやいた。
「驚かそうと思ってたのにな…」
「え?」
そう言って隠していた左手を、八戒は身体の前にもって来た。そこには、愛らしいピンクの花を咲かせた見事な桃の枝がしっかりと握られていた。
「……八戒…?」
「こーいう日に限って早く帰ってきちゃうんですから」
やわらかく笑って、悟浄を促して、八戒は二人が暮らす家へと入っていった。
「悟浄、しばらくそこにいてくださいね」
「ああ、あ?」
悟浄はきょとんとして、わけのわからないままリビングのソファに身体を沈めた。
八戒が手に持っていたあの桃の枝。
桃源郷、と名のつくわりにはこの辺には桃は見当たらない。ましてやあんなに見事な枝ぶりの桃といったら…
「あいつ、もしかして、あんなトコまで、桃、とりに行ったのか?」
ケモノ道を延々のぼった山の奥にある桃の木の存在を悟浄は思い出した。
こんなくらい中、夜目の利かない八戒があのケモノ道を一人で行けば、そりゃあ怪我もするし、服も乱れるだろう。
でも、それにしたって何で今、この遅い時間に八戒は桃などとりに行ったのだろうか?
「お待たせしました。悟浄、どうぞ」
「?どうぞ??」
ソファにうずもれている悟浄を手招きして、八戒はキッチンへと悟浄を迎え入れた。
「……!」
瞬間、悟浄は、今晩何度目になるかは分からないが、とにかく目を見張り、何を口に出すこともできなくなってしまった。
「本当は、悟浄がもうちょっと遅く帰ってきて、寝ちゃって、起きたらこーいう状態だった、っていうのが理想だったんですけどねえ」
右手で顎を軽くつまんで苦笑しながら八戒は言う。悟浄はやはり声を失ったままだ。
キッチンのテーブルの上には、先ほどの見事な桃が花器にいれられて中心におかれていた。
その周りには、菜の花のちらし寿司と、蛤と雲丹の吸い物、鯛の切り身の西京焼きと、シロップ付け蜜柑をちりばめた寒天が行儀よく並んでいた。
花器のとなりの徳利には甘酒が入っているらしい。
かわいいお猪口と、桃の小枝の箸おきに置かれた竹の割り箸が、若草色のランチョンマットの上にのせられている。
「八戒、これ…」
「一昨日ね、僕、初めてのお給料もらったんです」
にこにこ笑いながら八戒がいう。
「だからね、せっかく自分でお金稼いだんだから、それを有効に使いたくて」
それで、これ、ということにしちゃいました、と続ける八戒の笑顔がなんだかとても大切なもののように思えて、思わず悟浄は八戒を抱き寄せた。
「ありがと、八戒」
腕の中にすぽりとおさまる華奢な八戒をぎゅうと抱きしめ、悟浄はその耳元でささやいた。
「お礼なんて…お礼を言わなきゃいけないのは僕のほうですよ。悟浄。いつも本当にありがとう」
その手を悟浄の背中に回して八戒がいう。しばらくそうしてお互いの体温を感じていた二人だが、急に悟浄は何かを思いついたような顔をして、八戒に問い掛けた。
「あれ?でも八戒、この料理ってなんだか……」
「なんだか、何です?」
「何て言ったっけ…そう、女の子のお祭りのための料理じゃねーの?」
「そうですよ。桃の節句、ひな祭りのための料理です」
平然と言ってのける八戒に脱力をして、悟浄は八戒の肩にしなだれかかった。
「…何で?俺たち男だぜ?ひな祭りなんてまるっきり縁がないし、だいたい3月3日すぎてるし―――」
「イイじゃないですか。細かいことを気にするなんて悟浄らしくありませんねえ」
くつくつと笑いながら八戒が答える。悟浄はますます脱力した。
「何で女の子のためのお祭り祝うんだよ―――」
ぶつぶつ悟浄が言う。それを聞いてあいかわらずくすくす笑いながら八戒は言った。
「まだ陰暦の節句がきてないじゃないですか。それの前祝ということで手をうってもらえませんか?」
「だからってさー」
納得がいかない、という顔をして、まだ悟浄はごねている。
「じゃあ悟浄、今までこーいう節句って意識したこと、あります?」
「いんや、全っ然」
力強く悟浄は否定する。
そもそもこの男にとっては、桃の節句どころかクリスマスやバレンタインさえ意識に上ったことはなかったのだから―――八戒と出会うまでは。
「僕もね、意識したことなんてありませんでした。悟浄、あなたに出会うまでは」
悟浄は思わず息をのんだ。
「不思議ですよね。桃の節句とか、初給料とか、花祭りとか、そういう本当にどうでもよかったことが、なんだか急に意識に上ってくるんです。…悟浄、そーいうお祭り、一人で祝おうなんて気分になれました?」
「…ぞっとするな」
一人で菱餅をくって、甘酒を飲むひな祭りを想像して悟浄は身震いをした。
「だから、僕、これは多分口実だと思うんです。悟浄、あなたと二人で、何かをお祝いしたい、っていう―――」
そこまで言って八戒は、僅かに赤く染まった顔を悟浄の肩に埋めた。
「…うわ、僕、今、めちゃくちゃ恥ずかしいこと言いましたよね」
「ナニ、お前、もしかしてテレてんの?」
からかうように悟浄は言って、そして、きつく、きつく八戒を抱きしめた。
花喃といたときは、節句も記念日も意識したことはなかった。ただ、二人でいられることが幸せで、もうしばらくはこの幸せが続くだろうと思っていたから。
だから、悟浄とであってはじめて、こういう節句を意識したというのは本当に本当のことなのだ。
悟浄と二人で、いられるうちに、できる限りのお祝いを二人でいっしょにしたい―――八戒はそう思うのだ。
「八戒」
悟浄の呼びかけに応えて顔を上げると、視界いっぱいにその紅が広がり、そしてやわらかで温かな唇が重ねられてきた。そのまま深く唇があわされたかと思うと、悟浄の右手が八戒のシャツのボタンにかかり、左手は八戒の腰を抱き寄せた。
「――――ん、ダメ、です、悟浄」
「ナンで?」
八戒の首筋に唇を這わせながら悟浄がいう。八戒はその動きに負けないように努めて冷静な声を作って言った。
「せっかくごはんつくったんだから食べてください。食べ物を粗末にするなんてことしたら、もう二度とごはん、作りませんよ」
「−−−−−−−−−−−−−−−−わーったよ」
しぶしぶ八戒をはなして、悟浄は食卓についた。その悟浄の正面に八戒が座る。
白白と夜が明ける頃、二人だけの桃の節句のお祝いが、始まった。