恋愛のかたち



 失敗、したよなぁ・・・
 悟浄はぷはぁ、と吐き出した煙をぼんやりと目で追った。
 ソレは去年のこと。八戒と甘いモノの話になったとき、喰えなくはないけど、あまり好きではないと・・チョコレートはどうもねと言ってしまったのだ。
 今月に入ってからそのイベントに気が付いたときは、もう手遅れで。
 ―― St. Valentine's Day. 
 もちろん、知らなかったわけじゃない。貰ったことだってある。ただ本当に興味が無くて、意識の外にあっただけで。
 チョコレートが欲しいなんて思ったことなど、ただの一度だってない。そんな少女趣味のイベントなんて、鼻で笑い飛ばしていた。
 そう。少女趣味なイベント、なのだ。
 たかが茶色の板切れ一枚に一喜一憂するなんて、ヘンな話。そんなモンよりずっとイイものを毎日たくさん貰っている。好きだとかアイシテルとか口にも出すし、抱きしめたりキスしたり・・・まぁ行き着くトコまでしっかり行っちゃってるし?
 だから今更そんなモノを気にするなんて、馬鹿げている。
 ――と。
 幾ら強がってみても・・やっぱり欲しいのだ。八戒からのチョコレート。
 なァんて乙女ちっくな俺サマ・・・。
 悟浄はずるずるとソファに沈み込む。
 それとなく八戒の様子を窺ったり、ビールを取り出すとき冷蔵庫の奥まで覗いてみたり。
 けれど期待するようなコトは何もなく、結局今日の今日まで為す術もなく過ぎてしまった。チョコは嫌いじゃないといえば、きっと八戒は用意してくれるだろう。でもこの時期になってしまっては催促以外の何者でもない。そんなカッコの悪いことはゴメンだ。
 悟浄は深い深い溜息をついた。どう考えても自業自得で、諦めるしかない。
「さっきからどうしたんですか?」
 八戒が怪訝そうに声をかけてきた。「具合でも良くないんですか?」
「ぅーんにゃぁ・・すーこーぶーーるかぁいちょお・・・」
 悟浄の額にひんやりとした手が当てられる。「熱はないようですね。食欲は悪くなかったですし・・」
「だぁら快調だって・・」
 緩慢な動きでソファに座り直す悟浄を八戒が覗き込む。
「どうします?今夜は出掛けるの止めますか?」 
「・・おまえ、俺の話聞いてないね・・」
 はぁぁ、とわざとらしく息を吐くと、悟浄はゆっくりと立ち上がった。今夜は徹夜麻雀に呼ばれているのだ。
 八戒が差し出した上着に袖を通して。
「んじゃ、行ってくる。帰りは明日の朝になるから、先に寝てろよ?」
 いつものように――でも内心は肩を少し落として――悟浄は陽が落ちかけた街へと向かう。
「はい。お気をつけて、行ってらっしゃい」 
 八戒もいつものように微笑んで悟浄を送り出した。その後ろ姿が見えなくなるまで見送って、ゆっくり扉を閉める。
 そして、深い深い溜息をひとつ。
 扉にこつんと額を押しつけ瞳をふせる。

 ダイニングルームに入った八戒は、冷蔵庫の野菜室の奥から小さな密封容器を取り出した。ふたを開けると、あたりにカカオの甘い香りが漂う。
 ―― どうせ渡せやしないのに、作ってしまうなんて。
 容器の中には黒曜石のようにつややかな光沢を放つ、形良い球体がいくつか入っている。
 街でパン用の小麦粉を買おうと製菓材店に入ったとき、何人かの女の子たちがチョコレート用の材料を選んでいた。その様子がとても楽しそうで、少し羨ましくて、つい買ってしまった。
 砂糖を抑えて、甘くなりすぎないように気を遣って。
 ラム、キルシュ、グランマニエ。それぞれ違った洋酒を充分に効かせて、味にも香りにもちょっと自信のあるモノに仕上がった、トリュフチョコレート。
 チョコレートは好きじゃないって言ってたけど、僕が作ったものだから。悟浄はサンキュと笑って受け取ってくれるだろう。彼は優しい人だから。きっと。
 だから、どうしても渡せなかった。
 これは悟浄のために作ったんじゃなくて、渡したかった僕の為に作ったのだから。僕のエゴで、身勝手な愛情の押しつけで欲しくもないものを食べなきゃならないなんて、迷惑でしかない。
 それでも・・。
 八戒は戸棚からカクテルグラスを出すと最後の仕上げに取りかかった。
 グラスの中にトリュフチョコを並べ入れ、ハート型に切ったウェハースとペパーミントを飾って粉砂糖を軽く振りかける。綺麗に片付けた食卓の悟浄の席に、若草色のプレースマットを敷いてチョコレートのグラスを静かに置く。
「これは、僕から。・・悟浄・・」
 呟く声が静寂に溶ける。
 すとんと自分の席に座って、チョコレートをじっと見つめる。
 ・・ばかみたいですよね。
 手をのばして、ひとつ取り上げて口へと運ぶ。オレンジの香りと、ほんのりとした甘味が舌の上で蕩ける。
「・・苦い・・」
 碧の瞳が揺れる。
 捨ててしまおう――こんなもの。
 グラスを手にとって暫く逡巡し・・またそっと戻して。八戒は深く息をついた。

 世の中が恋人たちのイベントで沸き立っているのを目の当たりにすると、普段は忘れていることが急に気になってくる。
 たとえば町中をふたりで歩くことひとつをとってみても、普通の恋人のように手を繋ぐことも出来ない。あるべき恋人のかたちとはほど遠い、不出来な恋人で。
 あの人を愛してる。愛されていると知っている。それなのに、なお、恋人らしくあることに拘ってしまう。
 ほんとに僕で良いんですか、悟浄・・。
 暗い方へと沈みがちな気分を切り替えようと、風呂の準備をするために食卓から立ち上がる。
 浴室へ入り、湯船へ湯を張ろうと蛇口を捻って。
「・・あれ?」
 手応えがない。蛇口を開いても水が出ないのだ。一度閉めて、もう一度水と湯と両方を全開にしてみる。
 ・・やはり水音はしない。
「夜気に水道管が凍っちゃったんでしょうか・・」
 この建家はかなり年季が入っている。その中でもこの風呂場は特に手が入った様子もなくあちこちがたが来ていたから。
「もしかして壊れたとか・・」
 首を捻りつつ蛇口に手をやったとき、ごっ、という低い音がした。反射的に閉めようとしたが間に合わない。
 蛇口から轟音と共にどばっと水が溢れ出た。慌てて抑えようとしたとき、ばんという音と共に蛇口が外れて、正面にいた八戒へ、まともに水が噴き出す。 
「―――――― っ!!」
 ずぶ濡れになりながら何とか元へ戻そうとするが、水の勢いが強すぎてどうにもならない。――その時。
「おい、どうし ―― 八戒っ?!」
「え・・ご」
 背後から掛けられた声に振り返ると、何枚ものタオルがばさばさっと放られた。
「ソレで抑えてろっ」
 悟浄の姿が浴室から消える。八戒はタオルを集めて元蛇口があったところへと押しつける。 
 間もなく両手に感じていた圧力が徐々に弱まり、水を吸ったタオルの重みだけになった。恐る恐るタオルをとると、水は止まっていた。八戒は全身水浸しになったまま、その場へへたり込んでしまう。
「・・大丈夫か?」
「悟浄・・」
 浴室に入ってきた悟浄が、タイルに転がった蛇口を取り上げて元の通りに付け直す。
「もーボロでさぁ。全開にするととれちまうんだよ、コレ。・・言ってなかったっけ」
 八戒はゆっくりと首を振った。髪の先から水滴がぽたぽたと落ちる。悪ぃ、と悟浄が口の中で呟いた。
「外の元栓開けてくっから・・おまえはとにかく着替えな」
「はい」
 悟浄は台所の外、勝手口の脇にある水道の元栓へと向かった。
 今夜は帰らないはずの悟浄が、どうして此処に・・。疑問に思いながら八戒は立ち上がる。水に濡れて纏いつく服を脱いで洗濯機へ放り入れると、バスタオルでざっと体を拭いてバスローブを羽織った。濡れた髪をタオルで拭いながら着替えようと自室へ向かう。
 廊下に出た八戒の目の端を淡いピンクが掠めた。
「・・・?」
 向きを変えてリビングの方を覗くと、そのピンクはソファの上にあった。
 セロファンにくるまれてリボンがかけられた、一輪のチューリップ。
 八戒がその花を手に取ったとき、ダイニングルームから慌てたように悟浄が飛び出してきた。
「八戒、あれ・・」
 その声に顔を上げた八戒は、チョコレートを食卓に置いたままだったことを思い出した。
 リビングへと踏み込んだ悟浄は、水音に驚いてチューリップをソファに放り出したことを思い出した。
 ふたりの動きが止まる。
 絡んだ視線がどちらからともなく逸らされて、気まずい沈黙がおちた。
「・・なぁ」
 先に口を開いたのは、悟浄の方。
「あれ・・、俺のために用意してくれたの?」
 八戒は俯いた。悟浄がゆっくりと近づく気配がする。「俺に、だよな?」
「すみません・・」
 消え入りそうな声で八戒が応えると、抱えていた花ごと暖かい腕の中へと囲われて。
「ナンで謝んの?・・・すっげ、嬉しい・・」
 囁くような悟浄の声が、泣き笑いのように震えた。「・・悟浄?」
 八戒が顔を上げると、間近から蕩けそうに柔らかい色が覗き込んできた。
「・・貰えないと、思ってた。うっかり嫌いなんて言っちまったから・・きっとダメだなって」
「悟浄・・良いんですか・・?」
「ん?」
「貴方・・甘いものは、あまり」また俯きかけた八戒の額に、悟浄が自分の額を擦りつけた。
「好きだぜ?」
 八戒が怪訝そうに口を開きかけると、それを制して悟浄が言葉を繋げる。
「八戒が作ったんだろ。おまえが作ったモンで、俺が嫌いなモノなんてあるわけないジャン?」
「そんな・・」
「俺への愛情が詰まってンだろ?」
 我ながらクサイ台詞、と悟浄が笑う。子供のようなその笑顔につられるように、八戒の顔にもようやく微笑みが浮かんだ。
「・・はい。悟浄、受け取って貰えます?」
「あぁ、もちろん。――サンキュ、八戒」
 それから、と悟浄が付け足す。「その花は、俺から・・・おまえに」
「え?・・僕に、ですか?」
「好きな男にプレゼントする日だろ。だから俺がおまえに贈るの」
 見開らかれた碧の眼とは反対に紅の双眸は優しく細められる。
 貰うことばかり考えていて、あげることなど思いもよらなかった。悟浄がようやくそのことに気が付いたのは街へ出てからで。
 だから、予定はキャンセルして。花を買って急いで帰ってきたのだ。
「あー・・さすがにチョコは勘弁な。おじょーさん方が群がっているチョコ売り場なんか近寄れねーよ」
 悟浄が顔を顰めると、八戒が吹き出した。
「ヤな想像すんじゃねぇっての」
 悟浄は八戒の頭をぺしっと叩いた。悟浄の予想通り、お嬢さん方に混じってチョコを買い求める場違いな長身の男を想像して笑う八戒を睨む。
「ちぇ、そこで笑ってろ」
 憮然とした顔つきで悟浄はさっさとダイニングへ消える。八戒も一足遅れてその後を追った。チューリップを花瓶に飾り、つややかなその花片をそっとつついて八戒は微笑みを浮かべる。
 悟浄からの、思いがけないプレゼント。
 横目で悟浄を窺うと、彼の人はしげしげと食卓のチョコレートに見入っていた。角度を変えて、反対側からも眺めてみたり。
 堪らなく嬉しそうで、幸せを噛みしめるようなにやけたその表情に苦笑しつつ、八戒の気持ちは温かく満たされていく。
「さぁて、んじゃあー貰おっかなっ」
 ようやくチョコレートをとろうとした悟浄の手を八戒がそっと抑えた。振り返った悟浄の視線を、悪戯な色を秘めた視線が捉える。
「・・その前に、味見しません?」
「あ?」
「・・実は、さっきひとつ食べちゃったんです」
 悟浄は一瞬目を瞠ったが、すぐに色悪な笑みを閃かせた。
「ダメじゃん。コレは全部俺のモンなんだから。そのひとつ分はきっちり返して貰うぜ?」
 八戒へ顔を寄せると、白い瞼がゆっくりと碧の瞳を覆った。悟浄はチョコレートひとつ分だけ甘味を増した唇をそっと味わう。八戒の口腔内には、ほのかなカカオの香りが残っていた。
「なんだか、・・酔っちまいそう」
「はい。リキュール、かなり使いましたから」
「・・そーゆう意味じゃねぇんだけど・・」
 あどけない表情で八戒が首を傾げる。悟浄は苦笑して手を伸ばし、まだ湿り気の残るその髪を梳いた。心地よい感触に八戒の口元が微笑みを形作る。惹かれるように悟浄はもういちど八戒へとくちづけて、華奢な腰へ腕を回して引き寄せた。
 丈の短いバスローブから覗くすんなり延びた素足に触れた悟浄の指先が、八戒の身体の線を辿る。

 熱を含んだ吐息と共に囁く声は、きっと世界中のチョコレートを集めたよりも甘いから。
 こんな日は、そんな甘さに酔うのも良いかもしれない。互いの熱を分け合って、かたちもなくなるほどに蕩けてしまおう。

 ―― ふたりの Valentine's Day は、これから始まる。
 



 

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