夕月淡く照らす頃
自分が何を思っているかということですらなかなか自分では分からない。
何で、こんなに苦しいのか。
何で、こんなにかなしいのか。
何で、こんなに悔しいのか。
何で、こんなにつらいのか。
こういう結末を迎えることは容易に予測ができたはずだ。
何かを欲しがってはいけなかったのだ。
手に入れられるわけがないのだ。
錯覚だと言い聞かせつづけて、それがもしかして本当かと思ったとたん、その手を振り払われるなどということは痛いほど経験したではないか。
なけなしの小遣いをためて。
愛されたい、と必死こいて。
本当になけなしの金しかなかったから、ご丁寧に、花屋は売れる当てのなくなった、赤く開きすぎた花をうってくれた。
それでも、もしかしたら喜んでもらえるかもしれない。
もしかしたら、愛してくれるかもしれない。
そんな風に思った自分を子供だったと決め付けて、そんな過去は丸めて部屋の隅に転がしておいたのではなかったのか。
間違いなく世界一の美人だといえる世間一般に言うところの義理の母は、その花を見て、微笑んだ。
もしかして、喜んでくれているのか、と、半瞬思い、そしてその半瞬後にはその手を振り払われた。
最初から拒絶されるより、余計につらい。
一瞬、受け入れられたかのような錯覚を与えてから、その手を残酷に振り払う。
全く、手の込んだことをしてくれる。
義母も、この町の連中も、そして、碧の瞳を持つ、きれいなきれいな同居人も。
だから、何も欲しがってはいけなかったのだ。
好きだといってくれたその言葉も、ハグした途端に急激に流れ込んできたあたたかな思いも、触れた唇のあのやわらかさも、結局は深い同情に根ざしたものだったというのだ―――
相変わらず悟浄の右手からはだらだらと血が流れつづけていた。まだ割れたグラスの破片がその手に突き刺さっていることすら感じないのか、じゃり、といういやな音をさせて右手を強く握り締めると、悟浄は、何の罪もない森の木にその握りこぶしをたたきつけた。手の甲からも血がにじんできたが、どうでもいいようにそれを見て、再び、悟浄は気が狂うかと思うくらい、その手を、その木に、何度も、何度もたたきつけた。
悟浄に会って何を言うというのだろう?
八戒は自問自答を繰り返す。
悟浄には伝えなければならない。同情などでは決してないということを。
自分が、自分の気持ちをもてあまして、それで結局悟浄を再び傷つけたということを。
どうして、自分はあんなに恐慌をきたしていたのだ。
花喃を失った自分。花喃を死なせた自分。
咎なき人を惨殺した自分。千の妖怪を殺した自分。
人間であることすら許されず、昔の名前を名乗ることも認められず、猪八戒として新しく生を全うすることこそが、自分に課せられた最大の罰。
死なせて欲しいと何度も願った。死にたいと何度も思った。
それでも、自分は生きなければならないのだ。
どんなに罵られようとも、どんなに辱めを受けようとも、せめて自分が生きることを望んでくれた人が、自分が生き続けることで、その選択を間違った、と思わないように。
こんな自分を生かしてくれた人がどんなに少数でもこの世に存在する限り、せめてその人には自分が生きていることで、その人が恥じたりする必要がないように。
せめて、それぐらいのことができなくては、本当に生きている意味がない。
死なせることは生き続けさせることよりはるかに簡単だったのだ。
それを、あえて困難な道を選んでくれた人たちに、自分はいったいどんな仕打ちをしでかした?
花喃のことが好きだ。今だって世界で一番愛している。
…でも、花喃を失って1年もたっていないのに、好きだと思う人がいる。
全くの裏切り者もいいところだ。自分は花喃を守りきれずに、あんなに残酷に、あんなにかなしい笑顔のまま死なせてしまったというのに。髪の毛の1本も、血の一滴も、肉の欠片も残さずに、花喃は冷たい地下牢の中で、一人で、炎に焼かれて全てを蒸発させてしまった。
しかし、だからといって、自分が誰かを好きになってはいけないということを花喃のせいにしていいわけがない。
花喃に対する裏切りの気持ちは自分だけが持っていればいいことだ。
きっとこれからもずっと花喃に対して裏切ったと思う気持ちは消えないだろう。
花喃はそうは受け取らないだろうということは分かっている。きっと彼女はそんなことを思いはしないだろうけれども。
それがどうだ?
思いが通じる、なんてそんな夢みたいなことは考えてはいない。
それでも、自分が、自分を守るために悟浄をこれ以上好きになってはいけない、と決意してからいったい悟浄はどんな顔をしていたというのだ?
自分が、裏切り者というレッテルから逃れるために悟浄を巻き込んで、傷つけて、傷つけて、傷つけて…
そんな情けない自分でも、悟浄は追い出さなかった。共に暮らすことを許してくれていた。
悟浄が好きだ。とても好きだ。特別に好きだ。誰よりも好きだ。
誰に認めてもらおうとも、誰に受け入れてもらおうとも思わない。
自分が、悟浄を好きなのだ。
花喃を失った、この手で死なせたこの自分が、悟浄を好きなのだ。
猪八戒と名を変えた、咎なき人を惨殺したこの自分が、悟浄を好きになったのだ。
…伝えなければならない。悟浄を好きな人は世の中にたくさんいることを。
全てが同情で片付けられてしまうほど人間は簡単にできていないことを。
口でいっても、言葉を使っても伝わらないものは伝わらない。
だけど、思っているだけでは余計に何も伝わらない。
言葉を使い尽くしたときにはじめて、言葉で伝わらないものが伝わるのだと八戒は思う。
少しでもはやく、傷つき、孤独を抱えた悟浄のところへ行かなければならない。
道に点々と落ちる夜の闇にも黒々と存在を主張する悟浄の血が、その行く先を教えてくれていた。
唇をかみ締めながら、八戒はその血の後を辿って行った。
「…悟浄…」
あっけないくらい簡単に悟浄を見つけた八戒は、どうやって声をかけたものかと逡巡し、それでも何も思いつくことができず、深呼吸を3回繰り返した後、意を決してその名を口にした。
悟浄の右こぶしはぐちゃぐちゃに血にまみれ、傍らの木は無残な姿を夜気にさらしていた。
何の反応もしない悟浄に、もう一度八戒が声をかける。
「…悟浄、手を見せてくれませんか。多分、まだガラスが刺さってると思うんですが…」
そして八戒は、ゆっくりと悟浄のそばに歩みより、木の根元に座り込んでいる悟浄の右手をとろうとした。途端にはじかれたように悟浄が顔を上げ、八戒の顔を認めた後、怒りに任せてその手を振り払った。悟浄の右手から血が飛び散って、八戒の服に血の痕をつける。
「…さわんなよ!何しに来たんだ?ええ?かわいそうな悟浄さんを慰めにきたんだったらお断りだぜ」
「…悟浄。あなたがそう思うのも無理はありません。僕が何をいっても説得力の欠片もないことはわかっています。でも―――」
八戒はそこで口をつぐんだ。どうしたら悟浄に伝わるのかわからない。何が悟浄のこころに伝わるのかわからない。それでも、黙っていたら絶対に伝わらないのだ。
「…悟浄、僕はあなたが好きです」
今の自分の気持ちをまず伝えなければならない。どうしようもなく悟浄が好きだということを。
悟浄が思っているような理由で自分が悟浄と一緒に暮らしていたわけではないということを。
「僕は、自分の犯した罪を償わなければなりません。だから、あなたを好きになってはいけない、と言い聞かせました。あなたを好きになる、なんて幸福な感情を自分が持ってはいけないのだから、と。―――あなたが好きだと、気付いたときから」
無残な姿をさらしている木の上をまだ冷たい風が吹き抜けていった。悟浄の紅い髪を揺らし、八戒の上着のすそを翻す。ぽたり、とまた、悟浄の右手から血が滴り落ちた。
「でも、それは結局僕自身の都合でした。僕が、傷つきたくないから、それを言い訳にしていただけでした。あなたにどう思われても仕方ありませんが、これだけは伝えておかなければと思ったんです」
悟浄の瞳が大きく見開かれて、そして八戒の碧の瞳とかちあった。
しばらく無言で、その紅の瞳が八戒を凝視する。
「…笑わせんなよ……」
悟浄の口から低い笑い声が漏れた。
「そんな言葉で俺が慰められると思ってんの?俺もお安い男に思われたもんだぜ」
自嘲の笑いが後から後からこみ上げてくる。悟浄は血まみれになっている右手で顔を覆いながら、笑っていた。
「―――そんなに俺のコト慰めたいんだったら、慰めてもらおうじゃないの?ええ?お優しい八戒さんよー」
そう言うがはやいか、悟浄は乱暴に八戒の肩に手をかけ、八戒をその木の下に組み伏せた。そして、そのまま八戒が何を言う隙も与えず噛み付くようにキスをする。左手で八戒の髪をつかみ、右手は八戒の肩を押さえつけたままだ。
荒れ狂う舌が口内を思うまま蹂躙していくのを八戒は何の抵抗もしないで、耐えた。
その唇から伝わってくるのは、悟浄の孤独。
その舌はそのまま悟浄の傷ついた心を表しているようで。
いたいほど、つらいほど、悟浄の気持ちが八戒の中になだれ込んでくる。
こんなに傷つくまで、こんなにつらい思いをさせてまで、いったい自分は、自分の何を守ろうとしていたのだろう?
「―――――ッ!」
悟浄が右手に力を入れた。悟浄の手のひらに刺さったガラスの欠片が八戒の肩にも突き刺さる。
その手の欠片が、何も、誰も、受け入れられなくなっている悟浄の心の欠片のようで、その悟浄の心の痛みに八戒は自らの心もいたんでいるかのような感覚に陥った。たまらなくなって、自由になる右手を悟浄の背中にそっと回す。
その手に力をこめて、広い背中を強く抱きしめた。
…悟浄の動きが止まり、ゆっくりと八戒から唇を引き離した。瞳に、何か理性的な光がともって、そして、そのまま悟浄は八戒の肩に顔を埋めた。八戒は、自由になった左手も悟浄の背中に回し、ぎゅう、と強く悟浄を抱きしめた。
沈黙が、しばらく二人を支配する。どうっと吹いてきた風は、何も言わない二人の髪を舞い上がらせては通り過ぎていった。
「…悟浄…」
最初に口を切ったのは八戒だった。そのまま言葉を続ける。
「…好きです。あなたのことが、とても、好きです」
肩に埋められた悟浄の表情は八戒からは窺い知ることができなかった。しかし、悟浄の瞳はこれ以上ないというくらいに見開かれていたのだ。
「ごめんなさい。許してもらえるとは思いませんが、本当に、あなたをこんなに傷つけてまで自分の何を守ろうとしていたのか、自分でもよくわからなくなってしまいました」
更に悟浄の背中に回した手に力をこめる。
「悟浄、僕はあなたのことが好きです。あなたが過去にどんな傷を持っていたのかどうかなんて知った事ではありません。今の、あなたが、好きなんです。過去を経験して、今を生きているあなたが、とても好きなんです」
「………はっかい……」
「悟浄、あなたにお兄さんがいることを、僕は町の人から聞きました。あなたのお兄さんの名前が、『爾燕』だということも町の人から聞きました。―――でも、それ以上のことは聞きませんでした。なぜなら、町の人もそれ以上のことを知らなかったからです……」
「……え?」
悟浄は思わず少し身体を浮かせた。背中に回った八戒の手が、そんな悟浄を更に強く引き止める。
「悟浄、人は同情する生き物です。すぐに誰か自分より下の存在を作って、優越感に浸らないと生きていけないかなしい生き物です。町の人はあなたに同情していたのかもしれません。
でも、少なくとも、同情をしていただけでは決してありませんでした。僕は、町の人があなたのお兄さんのことを知っているということだけは、あなたに決して知られないようにと、えらく念を押されたんです。―――あなたが、それを、同情だと思うことくらいは皆さん知っていましたから……」
咄嗟には悟浄は何を言われているのかわからなかった。だから、八戒はそこで言葉を区切り、しばらく悟浄の背をなぜ続ける。
「八戒、俺……」
再びしばらく続いた沈黙を破って悟浄はつぶやいた。自らの手を八戒の背中に回し、強く、強く八戒を抱きしめる。
「バカみたいじゃん、俺…勝手に、ナニ思い込んでたんだろうな…」
「悟浄」
「…くっだらね―話するから、聞き流してくれてかまわないぜ。
…俺、母親に何度も殺されかけた。何度も、何度も…だから、俺が死ねば母親が悲しまなくなるのなら、本当に殺されてしまってもかまわない、って思った時に、兄貴が俺を助けてくれたんだ。―――俺に、斧を振り下ろそうとした自分の母親を後ろから刺し殺してな」
「……」
黙って八戒は悟浄を抱きしめる手に力をこめた。これ以上ないというくらい、触れ合わない個所がないというくらい、強く。
「欲しかったんだ。すごく。俺の隣で笑ってくれる存在が。―――俺が大切にしたいと思った人は、決して俺の隣で笑ってくれたりはしなかったから。欲しくて、欲しくて…お前が、欲しくて」
そこまで言って、悟浄は八戒を強く抱きしめ、肩口に顔を埋めなおして、もう一度言葉を繰り返した。
「俺のとなりで、お前、あんまりきれいに笑ってくれるから、あんまり優しく笑ってくれるから、どうしようもなく、お前が欲しくなった」
「……悟、浄…?」
「―――お前のせいだ。全部。お前が、俺のところにいてくれるから。俺と一緒にいてくれるから。俺の隣で笑ってくれるから―――手に入るわけなんてないこと分かってたのに、こんなに、お前が、欲しい――――――」
背中に回されていた八戒の両腕がやわらかく悟浄の頬を包む。そして、そのままゆっくりと八戒は悟浄に口付けた。
何度も、何度も、触れるだけの優しいキス。
…悟浄の表情が、驚きから、何か別のものへと変わるのにそう時間はかからなかった。胸の中の思いを全て託すかのような、八戒からの、やわらかい、あたたかな、キス。
荒んでささくれ立った心がなんだかあたたかいもので満たされていくような、そんな、キス。
だんだんとそのキスが熱を帯び、やがて、悟浄が八戒の白い首筋に唇を滑らせると、八戒は小さく声を上げて、悟浄の背中に爪を立てた。
橙色とピンク色を混ぜ合わせて西の空を彩っている太陽に対し、東からは月が、深い海のような藍色をつれて勢力を拡大してきている時間、いつもの酒場にいつものように客が訪れた。
「…あー、いらっしゃいませ―…」
常連客にしか使わない、間延びした挨拶をするマスターの視線の先を、そこにいた者全てが驚きと、安堵の混じった表情で見つめていた。
「…爾燕、ってやついる?俺、一勝負したいんだケド?」
「―――俺ならここだ」
栗色の髪を持つ男がカードを片手に立ち上がった。
「お手合わせ願える?俺、結構強いけど」
「…やめとけ、悟浄、そちらさんも強いぞ」
「心配ね―って。勝ったら、マスター、この店の皆さんとあんたに、タダ酒しこたま飲ましてやるよ」
「余裕こいてんじゃねーぞ。俺こそ、勝ったら、タダ酒振舞うからな」
「……せいぜい楽しみにしておくよ。どっちが勝っても俺が美味しいことにはかわらないからな」
グラスを磨く手を休めずに、マスターがつぶやく。
勝負をはじめる悟浄の背中を見ながら、マスターは、棚からバーボンを取り出して、ショットグラスにそれを注いだ。よかった、なんて死んでも口にはできないな、と口の中でもごもごつぶやきながら。
夕暮れの月が淡く照らすこの時間になるとくる、見慣れた紅い髪に、窓から差し込む夕焼けの残滓が強く反射していた。