夕月淡く照らす頃

「悟浄、黙って俺の言うとおりにしろよ」
「なんだよ、マスター。何があったんだよ」
 いきつけの酒場にいきつけて、カウンターに座った悟浄に、見事な口髭を蓄えたマスターが声を潜めて話し掛けてきた。
「…また、ペンキ塗れなんていうんじゃねーだろーなー」
「それでもいいんだが・・・それより、いいか、黙ってあの壁際の客、よく見ろ」
「ナニナニ、やばい客でもきちゃったのー?」
「い―から、気付かれないように見ろよ」

 マスターの声に不審な瞳を向けながらも、悟浄は好奇心にかられて、その客を見た。

 悟浄より少し年上だろうか。短い顎鬚を整え、きれいに撫で付けられた髪に、ネクタイをきちんと締めたその格好は、どうもこの町で見かけたことのない顔だった。栗色の瞳と髪は、西方の血が混じっているのだろうか。
 やばそうにも何にも見えない、善良な市民に見えるその男の何が一体問題なんだろう?
 普通の顔をしていて、賭博が強い男というのはだいたい雰囲気で分かるし、誰かに追われている風でもない。

「…どうだ、悟浄?」
「どう…って、何がやばいの?ふつーの客じゃん」
 目の前におかれたショットグラスからバーボンをあおると、悟浄はマスターに見たことそのままを告げた。
「…そう、か。ならいいんだ。なんでもない。忘れてくれ」
 安堵と失望とがない交ぜになった表情で、マスターはグラスを磨き始めた。
「あんだよ、マスター。カモにでもしようっての?確かに見かけない顔だけどさあ…」
「ああ、一昨日この町に越してきたばかりだとよ」
「なんだ、知ってんじゃん。わざわざ俺に確認させるまでもねーだろ」
 そう言って悟浄はもう1杯バーボンをあおった。

 …マスターにとって、これは一種の賭けであった。
 その、一昨日この町に越してきたばかりの男。その男は、名を「胡爾燕」といった。
 以前に一度だけ聞いた、悟浄の兄の名前をマスターは覚えていた。
 やけに酔いつぶれて、らしくなくさんざんマスターに絡んで、聞いているこちらがつらくて目を背けたくなるような声で、悟浄はただ一言、兄の名を呼んだ。
 その日が、悟浄の兄の誕生日だと知ったのは、1年後のことだ。
 悟浄自身には、そのときの記憶がないから、町の連中が悟浄の兄のことを知っているとは微塵も思っていなかった。そのとき、店にいた顔馴染の客たちとマスターとの間では暗黙の了解が取り交わされていて、誰もその後悟浄の兄のことを話題にするものはいなかった。
 そのくらいのデリカシーは持ち合わせている。
 ただ、何があったにしろ、悟浄のおそらくただ一人の肉親といえるその兄とよく似た名前の男がこの町に越してきたとあれば、必ずそのうわさは悟浄の耳に入ってくるに違いない。
 それならば、そのうわさに尾ひれと背びれと胸びれがつく前に、悟浄にその人物の真偽を確かめて欲しかったのだ。
 お節介なことだとは重々承知している。絶対に他人に自分の領域に踏み込ませることを許さない悟浄を激怒させるだろうということも分かっている。

 ただ、最近の悟浄は明らかにおかしかった。

 この間、ペンキ塗りを頼んだ後、あの碧色の瞳を持つ、悟浄にはもったいないような同居人に置いてきぼりを食らってから。

 他人のことを思いやるほどマスター自身に余裕があるわけではなかったが、この、今、おかしくなっている悟浄に、更に追い討ちをかけるようなことはしたくなかった。自分に対して激怒されているほうがまだマシだ。
 あんなに必死に、人を求める、本当に聞いてるこちらの胸がつぶれてしまうような声を2度とは聞きたくない。
 それだけのことだ。

「あんだよ、マスター、気になんな―」
 いいペースでグラスを空にしながら、悟浄が言うのを無視して、マスターは黙々とグラスを磨きつづけた。



「それじゃあ、僕、上がりますね」
「おう、今日もご苦労さん。……ところで八戒」
その日のバイトを終え、帰ろうとする八戒を呼び止めて大将が声を落とした。
「…分かってるとは思うが、お前、悟浄の兄ちゃんのこと知らないんなら、さっきの話、聞かなかったことにしてくんね―かな」
「…え?…あ、はい……」
「うん、本当に頼むな」
「ええ…」
 念を押す大将に、どうしてそんなに念を押されるのか聞いてみたかったが、結局それは多分、自分と悟浄の距離とを再確認するだけになりそうだったので、八戒はそのまま家路についた。
 どう考えても、寿司屋の大将や、そこの常連客と、悟浄が仲睦まじく連絡を取り合っているとは思えない。
 …ということは、つまり、この町で「悟浄の兄」とくればきっと有名な話だということがわかる。
 しかし、自分は、そんなことを全く知らなかった。

 ……所詮、その程度の存在なのだ。悟浄にとっての自分は。
 誰でも知っているであろうことですら、口に出してはもらえないような。
 負担をかけて、甘えるだけの存在である自分が何とも情けなかった。

 そして、そんなことを思ってしまう自分を、強く戒めなければ、と思った。

 悟浄を、これ以上好きになってはいけない。
 好きな気持ちは、絶対に隠しとおさなくてはならない。
 
 悟浄から距離をおかれている。
 それはチャンスだと考えるべきことではないのだろうか?

「あー…もう、ほんと、情けないですね……」

 好きだとか嫌いだとか気持ちを押し込めるとか特別だとか、そんなことにどうしてこんなに労力を使わなければならないのだろう。まるで全く少女漫画の世界だ。
 頭の中は分かりきっているのだ。悟浄とは、ただの同居人の関係でいなくてはならないということくらい。それ以上を望んではいけないということくらい。
 なのに、どうしてこんなに自分は自分の気持ちをコントロールすることすらできないのだろう。

 花喃は、死んだのだ。

 自分の目の前で。泣きながら微笑んで。

 愛していた。彼女もそう言った。
 世界の全てだった。
 彼女がいるから、生きることが大切なことになった。
 彼女を悲しませることがないよう、彼女の笑顔が曇らないよう、守り抜くと決めていた。
 誰に知ってもらう必要も認めてもらう必要もなかった。自分自身が確認しておけばよかった。
 自分自身の力で、必ず彼女を守るはずだった。

 その、はずだったのだ。

 自惚れていた。
 愛していたから、彼女のことは何でも分かると思った。
 彼女が困っているときは、必ず飛んでいけると思っていた。
 
 ……―――思っていただけだ。一番肝心なときに、自分は、のうのうと子供と遊んでいたのだ。
 何も気付くことなく、何も感じることもなく。
 彼女が、一番自分を必要としていたときに。

 愛していた。愛していたのだ。世界中でたった一人――――――

「…え……?」

 愛して…いた……?
 ……いた………?

 愛している。今だって、勿論、愛して――――いる。
 花喃のことを、世界で、一番―――――

 愛している。……愛していた。

「なん…で……?」

 なん、で、過去形。
 なんで?
 どうして?

 彼女を好きな気持ちに、彼女を愛している気持ちにこれっぽっちの曇りもないのに。
 何で、過去形を使っているのだろう。
 それに気づいた八戒は、しばらく呆然と立ち尽くし、そして、やはりしばらくためらった後、家に向けていた足を、違う方向へと向けた。
 多分、悟浄のいる、酒場へ。

 
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