夜の魚

「悟浄、年もあらたまったことですし、僕、アルバイトをはじめます」

昼食後(悟浄にとっては断るまでもなく朝食後だが)のいきなりの八戒の宣言に、鳩が豆鉄砲を食らったような表情で、悟浄は飲んでいた熱いお茶を一気に嚥下し、「アチチチチ」と古い漫画のようなリアクションをおこしてしまった。
「大丈夫ですか」とあわてて八戒が冷水をグラスに満たして持ってくる。それを一口飲んでようやく落ち着くと、悟浄は
「ナニのバイト?」
と質問を発した。
「お寿司屋さんです」
軽快に八戒が答える。
「……おすし…やさん…?」
今度は10発まとめて豆鉄砲を食らったような表情で、そのバイト先を口にした後、悟浄は絶句した。
「ええ。面接も終って、実は今晩から働くことになってるんです」
悟浄のカップに再びお茶を注ぎながら八戒が言う。
「………なあ……」
「はい?」
悟浄は頭の中でぐるぐる疑問が回ってそのどれから八戒に聞けばよいのかまったく整理がついていなかった。

何でお寿司屋さんが桃源郷にあるのだろうかとか、どうして今この時期にとか、どこでそのバイトの募集を知ったのかとか、そのバイト先のやつらは意地悪そうなやつではないのかとか、何時間働くことになっているのかとか、宴会はあるのかとか、そこではお酌をしなければならないのかとか、それはどう考えても一人娘をはじめてバイトに出すオヤジのようだと、一応自覚はあったので、自分がもっともどうでもよいと思うバカな質問を選んでしまった。

「…で、時給いくら?」
「最初は80元からで、慣れてきたら85元にしてもらえるそうですよ」

ああ、自分が聞きたいのはそんなことじゃない。

悟浄はそれがわかっていながらやはり頭の中はぐるぐる疑問が回っていたので、なかなか自分が聞きたい疑問がまわってこずに、的をえた疑問の尻尾をつかみそこねていた。

「…そっか。どこのお寿司屋?」
「え―――とですね…一応、森の入り口から歩いて3分ぐらいのところなんですが…ちょっと説明できませんね。ごめんなさい」
半年以上暮らしていてもまだあまりこの町になれていない八戒は、この町の地理をうまく把握できていなかった。
「歩いていけば分かるんですけどね、はは」
頭をかきながら八戒は言って、そしてもう1杯、悟浄のためにお茶を淹れた。悟浄はそのお茶を飲みながら、ソファーに沈み込んで、さらにぐるぐる回る思考を追いかけて、自分もぐるぐる回っているような気分に陥っていた。


「じゃあ、僕、ここですから」
一軒の店の前で立ち止まり、手を振って八戒はその店の勝手口に回った。片手を上げて答えた悟浄は、八戒の姿が見えなくなると、煙草を足で踏みつけて消し、自分の行きつけの仕事場―――要するに酒場―――へと足を向けた。
「…こぎれーな店だし、きっと大丈夫だよなーーー…」
そうつぶやいて、心もち肩を落として雑踏を行く悟浄に、一体何が「きっと大丈夫」なのか聞いてみたいところであるが、それはまた別の機会にゆずることにして。

「よお、悟浄。今日はどれだい?」
「カード」
カランカランと小気味よい音のするドアを開けて悟浄が「仕事場」に足を踏み入れると、口髭を整えたその「仕事場」のマスターが声をかけてきた。そっけない悟浄の返事に別段気を悪くする風でもなく、マスターは悟浄に「仕事」の話を持ちかける。
「麻雀やらないか?面子が足りずに困ってる客がいてさ。誰でもいいから強いやつを連れて来い、とうるさいんだよ」
そう言って小声で、俺も困ってるんだ、と付け加えて苦笑する。
「…だって麻雀じゃあ、イケてるおねーちゃん、見ててもつまんねーからって相手してくんねーんだもん」
「まあそういうな。だいたい最近のお前さんは冷たい、ってそのおねーちゃんたちが嘆いてたぞ」
そういわれてもあまり悟浄にはぴんとこなかったらしい。どことなくボーっとして、「そうかー?」とか言う気の抜けたあいづちを打つ。マスターはそんな悟浄にやはり苦笑をむけ、言葉を続けた。
「最近最短滞在記録を塗り替えてばかりじゃないか。―――あの、碧の瞳の美人さんを拾ってからこっち」
さり気なく爆弾を落として、悟浄の反応を見ようとする。照れて赤くなってくれたりしたら面白い、と思っていたが、やっぱり悟浄は気の抜けた「…そうか?」しか言わなかった。
 マスターは残念そうに、つまらなさそうにグラス磨きをはじめた。
 悟浄は、左手であごを支えながら右手の煙草の煙がゆらゆらたちのぼるのをボーー―っとみていた。
 悟浄がこんなにボーっとすること好きだったかどうか、マスターにはまったく覚えがなかったので、とにかく今日の悟浄の様子はおかしい、と思った。とりあえず問い質してみることにする。
「…何か、気にかかることでもあるのか?悟浄?」
「あ、いや―――で、俺、麻雀やればいいの?」
…いつもなら押し問答が始まるところなのに、今日の悟浄はえらく素直である。とりあえず気の変わらないうちに、うるさい客に押し付けてしまおうと、彼は判断した。
「ああ、頼むよ悟浄。あっちの卓だ」
マスターが指差した先には、少しよい格好をした、恰幅のよい初老の男たちが座っていた。
 ちょっとこの辺では見かけない彼らはきっと長安からの旅人であろう。酒を飲みながら呵々大笑している。
「―――やあ、お若いの。どうも面子が足りなくてね。お手柔らかに頼むよ」
頭にはまったくそれを守るものがなくなってしまっている、少し太めの男が言う。
「いやそれにしてもまったく、こんなところで見かけるとはおもわなんだ」
「まさしくまさしく。新年早々すごいものを見させてもらった」
白髪なのに眉毛だけ黒々としている男と、見事な顎鬚を蓄えた男が話をしている。悟浄が椅子につくと、笑顔を向け、ちょっと会釈をした後、また話を続けた。
「お忍びで町を歩くという感覚がないようだな」
「まあ、だがあの金色の髪は隠そうとしても隠し切れまい」
「先代の三蔵法師様も淡い色の髪のお方だったな。三蔵法師の資格には淡い色の髪、というものがあるのかもな」
そう言って二人はまた笑いあった。
「…ちょっと、あんたたち、三蔵を見たのか?」
悟浄が口をはさむ。
「…おやおや、若い人は違うねー。三蔵法師を呼び捨てにできるよ。わしらにはとても無理だな」
はははと笑って彼らは酒を酌み交わす。
「…そんなことはいーから。なあ、どこで三蔵をみたんだ?」
「…ああ、そこの角の寿司屋だよ。お坊さんなのに腥(なまぐさ)食べてもよいのかね…おい、ちょっと!」
その台詞を顎鬚の男が言い終わるか終らないうちに、悟浄は上着を引っつかみおそろしい勢いで酒場を後にした。
「……また、最短滞在記録更新か……」
グラスを拭きながらマスターがため息をついて、まだぱたぱたしているドアを眺めながら言った。
「ちょっとマスター!なんだよあの男は!!早く面子集めてくれんか」
 …悟浄に絶対今度タダ働きさせてやる、と固く心に誓い、マスターは、その3人の客をなだめるために3杯、タダ酒を出した。



「…三蔵法師様がこんな店にきてくださるとは恐悦至極に存じます。大変ありがとうございます」
寿司屋の大将は心のそこから感激した声で三蔵を迎え入れる。
「さあ、こちらに…八戒!早く酒をお持ちしろ!!」
「はい、すぐに」
店の奥から八戒の声が聞こえる。
「今日入ったばかりの新人ですが、なかなかいい男でしてね」
「いらっしゃいませ……あれ、三蔵?」
お盆の上にお銚子とお猪口をのせて、八戒が奥から出てきた。そしてカウンターに座る黄金の髪に一瞬絶句する。
「…用事があったから立ち寄っただけだ」
そうして三蔵はお猪口をとり、まさか俺に手酌をさせるのかという目で八戒をにらみつけ、八戒に酒を注がせて、一口、それを飲んだ。
大将が顔を赤くしたり青くしたりしながら八戒を小声で呼ぶ。
「八戒、お前、三蔵法師様の知り合いか何かか…?」
「知り合いというかなんというか…あの、それより、お坊さんですから腥(なまぐさ)はどうかと思いますけど何か早く作ってあげてください。あの最高僧様は、結構、短気ですよ」
あわてて大将が厨房に飛んでいって、1分でとりあえずの漬物を皿にきれいに盛ってでてきた。それを三蔵の手元において、もう一度八戒が三蔵に酒をつごうとした瞬間、寿司屋の引き戸がガラガラガラと派手な音を立てて力いっぱい開けられた。
「はい、いらっしゃいませ―――――あれ、悟浄?」
肩で大きく息をつき、悟浄は上着をつかんだままの手を引き戸にかけ、もう片方の手はひざに置いたまま店内を見回した。
「…何しに来たんだ、貴様は」
「…そっくりそのまま返してやるぜ。坊主のくせに何でこんなところに貴様がいるんだ」
さも当然のように八戒に注がせた酒を片手に、悟浄のほうを視線だけで見ながら言う三蔵に、悟浄が唇の片端を吊り上げて答える。
「悟浄、三蔵、ナニ言ってるんですか、ちょっと…」
にらみ合う二人を前に大将は腰を抜かし、八戒は困った表情で二人をなだめにかかる。
「…フン、たまたま立ち寄っただけだ」
「たまたまでなんで貴様が一人だけでこの町のこの時間のこの店に来れるんだよ!―――今日から八戒がここで働くと知ってなけりゃ来れるわけねーだろーが!」
「…それの何がいけないんだ?ガキみたいなこと言ってんじゃねー」
一方的にまくし立てられて不機嫌なその神の座に近きものといわれる最高僧様はガタリと音を立ててカウンターの席を立った。
「…じゃましたな。勘定はこれで頼む」
口をあけて腰を抜かしていた大将が三蔵の提示した高額紙幣を前に目を白黒した。
「生憎…おつりのご用意がこれでは…」
「つりはいらん。じゃましたな」
すたすた三蔵は八戒のほうに近寄りその耳に何事か告げてから立ち去った。その様子を見ていた悟浄はその紅い髪が沸騰するかのような表情で八戒のほうを見やり、入ってきたときと同じように引き戸を力任せに開いて、そして三蔵が歩いていった方向とは反対方向の自分たちの家に向かって歩いていった。
「…あの…すみません…根は悪い人たちではないんですが……
八戒がすまなそうに大将に向かって言う。腰を抜かしっぱなしだった大将はようやく我にかえったようだ。
「…ああ……」
それにしても。
たまたま採用したこの人のよさそうな碧の瞳の持ち主が、あの三蔵法師様の知りあいだとは夢にも思わなかった。どこの馬の骨とも知れなかったが、採用してよかったと心のそこから思った。
……今度からは店の看板に「三蔵法師様お立ち寄りの店」と書こうか、と、彼は真剣に考え、そのためにもこのアルバイトはしっかり確保しておかなければならないと決意した。



「…悟浄、一体どうしたんです?」
はじめてのアルバイトを終えて、家に帰ってきてみると、悟浄はソファーの上でクッションを抱えて不機嫌そうに煙草をくわえていた。その前の灰皿にはうずたかい吸殻の山。
「…だって……」
困った顔をする八戒に、悟浄は口篭もった。

言えるわけない。

悟浄自身もなぜあのような行動をとったのか分からないのだから。

自分が今日の昼まで知らなかった八戒のアルバイト先を、どう考えても三蔵はそのもっと前に知っていた。
そう思ったとたん血が頭に上って、悟浄はどうしようもなくなってしまったのだ。

「三蔵もびっくりしてましたよ」
「…とてもびっくりしてたようには見えねーケド…」
悪態をつく悟浄に、八戒はますます困惑する。
「うーーーん、ほんとにどうしちゃったんです?今日の悟浄は何か変ですよ」
―――そんなことは八戒に言われるまでもなくとっくに悟浄は分かっている。分かっていてもじゃあなぜ変かといわれると思い当たるフシが悟浄にはない。

だいたいなぜ三蔵が八戒のアルバイト先を知っていることがこんなに自分に影響をもたらすのだろう。

「なあ…」
「なんです?」
「何で、三蔵、お前があそこでバイトすること知ってたの?」
「…ああ、お正月に、寺院に呼ばれたときに、ちょっと聞かれたもので…」
悟浄と悟空が気持ちよく正月の酒に酔っていたときに、たまたま三蔵は八戒に働くつもりはないのか、と聞いたのだ。そこで、八戒は、すでにアルバイトを見つけたことを三蔵に告げた。三蔵は少し驚いて、そしてかなり根掘り葉掘りそのアルバイトについて尋ねたのだ。
「……何で、俺には言ってくれなかったの?」
悟浄がクッションを抱えて、煙草を上向きにくわえなおし、クッションの上にあごを乗せて言う。
「……なんとなく、いい出せなくて……ごめんなさい。――――悟浄に持ってきてもらったあのアルバイトの話を蹴っちゃったから…」
「…お前、もしかして気にしてたの?」
悟浄が少し元気な声で問う。

自分が気持ちよく酒を飲んでいたのは仕方がない。
でも、八戒が特別に三蔵と連絡を取り合ったりしているわけではない、ということがわかって何かちょっとすっきりした気分だ。

「そんなの、仕方なかったじゃん。お前ずっと体よくないままだったしさー」
そう言って、悟浄はクッションをほおり投げ、ソファーの背に両手を持たせかけて新しく煙草を1本取り出した。

その姿に八戒は少し安堵する。

今日の悟浄は明らかに変であった。
やはりずっと黙っていていきなり働く、など言い出したことがよくなかったのだろうか。

三蔵は勿論あの店に来た理由など一言も口には出さなかったが、なぜあのタイミングで来たのかという事は八戒には充分理解できた。
未だ自分はこの町では「どこの馬の骨か知れないもの」でしかない。しかもあの悟浄の同居人である。
何か些細な理由で、すぐに解雇される可能性は非常に高い。
しかし、「三蔵法師」の知り合いともなると、店の主人も、おいそれと解雇はできないだろう。
それで、特別扱いをされて居心地がわるくなる、などということは八戒自身が解決すべきことであって、とにかく三蔵が自分を気遣ってくれたことには間違いないのだ。
しかも、去り際に三蔵は、「重いものなんざ決して持つんじゃねー」といいおいて出て行った。

その三蔵に、お礼を言う間もなかったのだから、悟浄の機嫌が上昇したというのはとりあえずめでたいことだ。

軽いため息をついて、八戒は悟浄にお茶を出した。
「ありがと」
「どういたしまして」
煙草を灰皿に押し付けて、八戒が差し出したマグカップを受け取り悟浄が尋ねる。
「…次は、いつ、バイトはいんの?」
「……来週の金曜日です」
「これからは、ちゃんと俺に教えてくれよ」
「…分かりました。ごめんなさい、悟浄」
八戒は微笑んで、そして付け加えて言った。
「そうそう、次からは、ネタが余ったらもらってこれるそうですよ。―――美味しい魚、期待しててくださいね」
あの店構えから言って、かなりの高級魚が期待できる。悟浄はそう思って、おかしかった自分を吹っ切るかのようににかっと笑って答えた。
「それ、イイねー。楽しみにしてる」

二人は同時にお茶をすすり、そして同時に、もしかしたら「やきもちを焼いて(焼かれて)いたのだろうか」などということをぼんやりと思った。
しかし半瞬後にはやはり同時に、そんなことがあるわけがない、とその考えを否定した。



…まだまだ、二人の前途は多難である。

 

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