・・ 二番目の意味 ・・



 朝の気配がまだ遠い時間に家を出ていった悟浄を玄関から見送って、八戒は扉に鍵を掛けた。ジープは悟浄についていっている。徒歩で街を出てジープを使い、すぐ近くの約束の場所まで行ったらそこからは飛龍での旅だ。空路を使っても日数を喰う悟浄の旅程を、だが、八戒は少しも心配していなかった。空にいる悟浄を攻撃できる相手はほぼ皆無だ。だいたい、悟浄の招待主を知っていれば危害を加える者はまずいない。いても、悟浄なら容赦なく返り討ちにしてしまうだろう。
 三人での生活が、数日ではあるが二人になる。
 あふ、と、小さく欠伸をして、八戒は二度寝を検討した。
 結局そのまま起きて仕事の準備や勉強をし、いつもの時間に起きてくるだろう今だ眠りの海に沈んでいる二人目の為の食事の支度を八戒は始めた。
 一人足りない ―― 朝のテーブルに空きがあることや、呼ぶ声がないことや、抱きしめる腕がないことを、少しだけ八戒は寂しく思った。



「かあさま」
 高い声が八戒を呼ぶ。腰ほどの高さから見上げてくる双眸に八戒はにっこりと笑いかけた。
「どうしました?」
「これ、意味がわからないんです」
「え?……あぁ、問題が間違ってますね」
 何度やっても導かれる解答が設問の望むものと違う事に首を傾げている子供から問題集を受け取り、八戒はすぐにそう答えた。やはりそうなのか、と、子供は八戒の答えに納得した色を見せた。
「これは、たぶん、作成ミスじゃなくて誤植でしょう。どうやっても解けませんよ。他はどうですか?」
「終わりました」
「じゃあ、少し待ってもらえますか?お茶にしましょう」
 綺麗に乾いた洗濯物を片手に持って提案する八戒に、子供はわずかに細い首を傾げた。さらさらの濃茶の髪が肩をすべってゆく。
「お洗濯ものを畳むんですか?」
「えぇ」
「………僕も、畳みます」
 八戒の服の袖を掴みたそうにして、結局掴まずに手を下ろした子供に、ふわんと八戒は笑った。
「ありがとうございます。じゃ、一緒に畳みましょうか」
「はいっ」
 問題集を返し、彼の小さな肩を抱きしめるように八戒が腕を回すと、そのぬくもりに安心したのか嬉しそうに子供は笑った。




 西への旅から帰って来てから、事情により街に引っ越して、もう数年たっている。悟浄の部屋、八戒の部屋と以前は分かれていたのが、今では一番大きな部屋を二人の部屋として使っている。一軒家としてはそれほど大きくない。寝室が三つ、書庫代わりの小さな部屋と物置があって、リビングダイニングと、続きのキッチンがある。三人暮らしには大きいのかもしれないが、意外と来客があるので使っていない部屋はない状態だ。庭があり、花海棠や木蓮が植わっている。「美女の眠り」だと、満開の海棠の木の元に八戒が立った時に笑いながら悟浄が言っていた。海棠は絶世の美女を表す花だ。何をしょった事を言っているのかと八戒が苦笑したら、本当の事だとさらに嬉しそうに悟浄は笑った。歳月がどれほどに過ぎても、きっと八戒は悟浄の笑みや言葉を間違えることなく思い出せる。優しさや思いやりというタイトルのアルバムの中に貼った写真を広げるように、ページ一つ間違えることはないだろう。そうやって、過ぎてきたたくさんの痛みや悲しみを、優しいアルバムに癒された。そして、優しさという強さを、八戒はアルバムに増やしていく術を手に入れた。
 隣で一生懸命シャツを畳む子供の小さな白い手を眺めて、八戒はふんわりと笑った。
 この小さな手も、八戒に強さをくれる。
 微笑ましく白い横顔を八戒は眺めた。年齢の割に落ち着いて、頭の良すぎる子供は昔の八戒に似ている。だが、はにかんだように笑う姿は、けっして幼かった八戒が持たなかったものだ。
『あの笑顔をあの子が浮かべられるのは、あなたたちがいるからだ』
 優しい誰かが、八戒にそう言った。
『あなたたちが優しいから、あの子も優しいのだ』
 優しい言葉がそう告げた。親は子供の鏡で子供は親の鏡だ。世間の鏡でもある。愛されれば愛するし、優しくされれば優しい子供になる。正しさを知れば正しく、過ちを犯してもそこから逃げないことで事柄の意味を知る。傷ついても、痛みの意味を学ぶ事ができるのは、その子供がどんな環境で育ったかによって違ってくる。八戒は、隣の子供にとって自分がどんな鏡なのかがわからない。正しく子供を育てるというその正しさがどんなものであるのかもわからない。
 ページ数も大きさも決まっていない真っ白な紙束である子供が、どんな言葉で埋まり、どんな色に染まるのか、ほんの数枚しかない冊子になってしまうのか、終わりを知らない雄大な物語になるのか、その最初は親と周囲の大人たちによって決まる。子供が自分で自分の紙束に文字を書き色をつけられるようになるまでの時間は、本人や大人達が思う以上にとても貴重なものだ。それはたぶん、自らペンをとって書き込みを始められるようになって以降の経験と同じほどに重大なものだ。破り捨てられる紙もあるだろう。誰かから渡される手紙もそこには入るだろう。
 大人も顔負けの ―― 三蔵ですら分野によっては敗れるかもしれない子供の相手を勉強面でみられるのは、今ではもう八戒だけになっている。
 でも、頭で学ぶ事と、心で学ぶ事は別物だ。お互い重大に関わってはいるが、その関わりを成立させられるかどうかで子供の視野の広がりはきっと違ってくる。八戒が教えられる事と悟浄が教えられる事、三蔵が教えてくれる事や悟空から学ぶ事は違う。たとえばきっと風だって鳥だって花だって、いろいろなことを知らせてくれるはずなのだ。
 自分なんかが人の親になれるのかと、あんなにも悩んで、泣いて悟浄に当たって、今も八戒は不安で仕方ない。卑下しているつもりはないが、やはり"自分なんか"と思ってしまう。多分、それは悟浄も同じだろう。大きな子供の二人が、子供の親になってしまったと八戒は思っている。きっと、一緒に成長していくのだ、と。
 大きな悟浄のシャツを畳み、子供は次に ―― また悟浄のシャツに手を伸ばした。
 あれ、と、八戒はそれを見ながら内心で首を傾げた。自分は子供服を畳みつつ見ていると、彼が畳むのは悟浄の服か八戒の服で、自分のものやタオルや枕カバーには手を伸ばさない。
 膝に乗るなり抱きしめて欲しがるなりの甘えをあまり見せない ―― 望む以前に悟浄や八戒が抱きしめるので ―― 、子供扱いされたがらないこの子が、そう思えば八戒と一緒にいたがる。先ほども服に手を伸ばして触れようとしてきたし、と、そう考えてから八戒は悟浄の不在を不意に強く感じた。八戒が悟浄のいない寂しさを表面に出さないようにしているのと同じようにこの子もそうしているのだと、 ―― だが当然寂しいのだと、強い愛おしさと不憫さに胸を掴まれる。あんまりどころかかなり普通とは違う家庭環境で、負担を掛けないように、後ろめたく思わせないようにと八戒はしてきたが、子供は子供なりに八戒や悟浄に気を使っているのだ。こんな小さな子にそんなふうにさせる自分の不甲斐なさが八戒の顔をしかめさせた。
「……悟浄、今日、帰ってくるんですよね」
 不意に子供が口を開いた。可愛らしい声がどこか不安そうに言葉を綴る。
「えぇ」
 きっぱりと八戒は答えた。声の強さに引かれたように上げられたそ綺麗正な面に、八戒はきちんと笑いかけた。幼いなめらかな頬も柔らかな輪郭も何もかもが愛しく大切な相手。絶対に嫁にはやらんと悟浄がバカみたいに本気で叫び、叔徳たちが苦笑しながら、だが、誘拐等が真剣に心配だと告げ、梨花や蓮花は将来の美貌と人タラシ振りが楽しみだとカラカラと笑った、綺麗な子供。
 世界で二番目に愛している相手。
 いつの頃からか悟浄のことを"とうさま"と呼ばなくなった。どうしてかと尋ねたら、なんと悟浄に振られたととんでもない発言をしてくれた。
「二人で、喧嘩しながら帰って来ますよ」
 一緒にやってくるはずのお客さんと悟浄が表面上あまり仲が良くないことを思って八戒は苦笑する。悟浄とお客さんが仲が悪いのが悲しいらしい子供はわずかに細い眉をしかめた。口では喧嘩をしていても本当は仲が良いということが、まだ判らないらしい。悟浄と三蔵や、悟浄と悟空のことも時々不安そうに見ている。
「仲がよいほど喧嘩するって言うでしょう?」
「…でも、かあさまと悟浄は、喧嘩しません…」
「……うーん。関係の違いでしょうねぇ。じゃ、あなた方は仲が悪いんですか?会う度に喧嘩をしているでしょう?」
「………悪い、の、かも……」
「え?」
 俯いていく小さな顔を、伸びた髪が隠す。
「だって、…だって、すぐ怒るし、すぐ怒らせるようなことをするし…なんだかわからなくて、凄く凄く自分がヤな奴で弱くてなんにもできないみたいな気にさせるんです…」
 ちょっと聞きたくない ―― というか見たくない将来がその発言から垣間見えたような気が八戒はした。嫁にはやらんと叫んだ悟浄の気持ちがなんだかわかったような気になってくる。物凄く気のせいだと思いたい。
「弱いんですか?」
「わかりません。僕、自分は強いと思ってました。でも、喧嘩しても負けるし…向こうの方が頭悪いくせに、負けるし…」
 悔しそうに唇を噛み締める。
 少々複雑な気持ちで、気づかれない程度に八戒は小さく嘆息した。それから、そぉっと形の良い頭に掌を載せる。びくついた細い肩を抱き寄せ、髪を優しく梳きながら八戒は言葉を綴った。
「喧嘩の勝ち負けが強さではないと思うんですよね。だって、たとえば僕と梨花が喧嘩をしたとするでしょう?腕力なら僕が間違いなく勝ちますけど、でも、強さを問えば間違いなく勝つのは梨花ですよ」
 ことんと小さな頭が八戒にもたれてくる。布越しに伝わる温かさに気持ちが優しくなる。
「以前に、ある人が、"守らなくてもいいものがほしい"と仰いました。自分は強くないから、"守らなくていいもの"がほしいということだったんです。でも、その人、決して弱いわけじゃないんですよね。まぁ、僕は強くないなんてことないとも思ってますけど。強くないイコール弱いじゃないでしょ。……なんだか、ほしいなんて言わなさそうな人の言葉だったからおかしかったんですけど、この人でもそんなふうに思うのかと、僕はちょっと安心してしまいました。独りで立ってるのって、自分で思うよりずっと辛いんですよ。彼が誰かや何かをほしいと思ってくれることが嬉しかったんです。―― 強くなりたいと、そう望む事が強くなる第一歩でしょう?自分が強くない事を知ること、自分が弱い事を知ることがなければ、一生同じ自分のままですよね。あ、でも、喧嘩の強さと心の強さを一緒にしないで下さいねvv」
 にっこりと笑って告げると、八戒にもたれたまま見上げてくる碧眸がくすりと笑んだ。
「はい」
「強さは人それぞれだと僕は思うんですよ。もちろん、そういう意見も人それぞれですよね。ただ、うーん、"守るもの"があって強くなる人もいます。"彼"はそういうタイプの人じゃないですか?自分が守りたいもの、守らなくちゃいけないものを知っているから、強くなろうとしてる、強くなれる人かなぁと思うんですけどねぇ」
「?」
 微笑みの中に、八戒は子供の喧嘩相手ではなく、自分の喧嘩相手を思い浮かべる。強くあろうとする人。優しさに裏付けられた強さのある人。
「きっと、何もなくても強いんですよ。でも、"大切なもの"があると、それよりももっと強くなる、大切な存在が強さをくれる…そんなこともあります。弱くても、強いんです。守るとか守られるとかじゃなくて、……なんと言えばいいんでしょうね。そう、僕にとっては悟浄とあなたが、僕を強くしてくれる存在です。きっと一人じゃ弱い。―― そう考えると、あなたたちに守られてるのかなぁと思うんですが、でも、それでもいいやって思っちゃうくらい、愛してるますよ。だから、ありがとう」
「え?」
「僕に強さをくれて、ありがとう。失う怖さより、愛する強さをくれてありがとう」
 真っ直ぐに見つめて告げれば、聡明な子供はそれを自分の中に受け止めてゆっくりと消化しているようだった。
「……なんだか、かあさまの言葉は教科書の問題よりも難しいです。でも、嬉しい。僕も、かあさまのこと好き。世界で二番目に愛してます」
「え?二番目?」
「はい。だってかあさまもそうでしょう?一番は悟浄ですよねvv」
「え?え……え?」
 普通、親に二番目に愛されていると思う子供はもっと傷つくものではないのかと八戒は思った。だが、相手は満面の笑みを浮かべている。
「ふたりともらぶらぶで僕は嬉しいです。いつか、僕にも一番の人が現れますよね。その人のために一番はあけておかなくちゃいけないでしょう?その日が楽しみです」
「……なんで、二番目って……」
「あぁ、だって悟浄がそう言いましたから。一番愛してるのはかあさまで、お前は二番目だけど、俺には二番までしかないからって。ふーんって思って、じゃ、きっとかあさまもそうなんだろうなぁって」
「…………悟浄がそんなことを言ったんですか」
「はい。 ―― かあさま?」
 思わず頬を引きつらせて"武器"笑顔を八戒は浮かべてしまい、子供の呼びかけに慌ててそれをひっこめた。
「よっくわかりました。教えてくれてありがとうvv悟浄が帰って来た時の話題ができましたvv」
「……かあさま? ―― …あんまり悟浄を苛めないで下さいね」
「えぇ、もちろんvv」
 苛めます、と、八戒は言葉にしなかった。
 不意に子供が顔を扉の方へ向けた。何事かと八戒はその視線を追う。何かが閉まる音だけが小さく空気を震わせて伝わってきた。
「悟浄だっ」
 ぴょんと子供は立ち上がった。
「かあさま、悟浄が帰って来ました」
 嬉しそうに笑う。悟浄の帰宅だけを喜んでいるのか、それとも一緒に連れてきているであろう相手と遊べる事を喜んでいるのか不明である。飛ぶようにドアに向かい彼がドアノブに手を掛けるより早く、廊下の側から扉は開いた。
 そして、
「やっぱここにいたのか」
 旅装束の少しくたびれた服装で ―― でもやっぱり男前な悟浄が立っていた。
「お帰りなさい」
「お帰りなさい悟浄」
 重なった二つの言葉に、悟浄はいつもの唇の端を上げる独特の笑みを浮かべた。
「ただいま。 ―― てん、あいつリビングにいるから、客間に連れてってやってくれ」
「はい」
 短い返答とともに子供は悟浄の横をすり抜けて部屋から出ていった。砂埃を付けた衣服のまま八戒に近づいた悟浄は、身を屈めて八戒の唇に己のそれを重ねた。
「ただいま」
 洗濯物を横にどかしつつ八戒はただいまのキスを受ける。
「お帰りなさい」
 囁き返して、八戒からもお帰りなさいのキスをした。おおいかぶさるようにして悟浄が八戒を抱きしめた。
「つっかれたー」
「なんでです?飛龍に乗ってただけでしょう?向こうではご馳走が出たんじゃないですか?」
 今回の悟浄の旅の招待主は紅孩児である。当然、もてなしもそんじょそこらの所とは違う。
 優しく悟浄の背の筋肉を揉みながら尋ねた八戒に、悟浄はその細い肩に顎を乗せて答えた。
「そーだけどさー、あんのくそガキ、真剣に俺に喧嘩売ってきやがるしよぉ。むかついたんでノシたら、兄貴に殴られた。なんでだ?悪いのはあっちだろ?」
「…子供相手に本気になるあなたに問題があるんですよ。手加減してないでしょう?」
「誰がそんなことするか。今のうちから俺様には適わねーってことを叩き込んどかないと、あいつはダメッ」
「なにがです?」
「だってっ!……だってよぉ、あいつ、てん連れてくとかわけわっかんねーことぬかしやがるし。ぜってーやらねぇっつったら、召喚獣呼ぼうとしやがったんだぜ?信じられるか?マジ殺すぞこのくそガキって俺が思っても仕方ねぇと思わねぇ?」
「……あの年で自由に召喚獣を呼べるって、凄いですね…」
「…八戒、それ問題が違う ―― …っ!」
「?」
 廊下の向こう、多分リビングあたりから何かの割れる音が聞えた。
「なんだ?」
「たぶん、喧嘩してるんでしょうねぇ」
 悟浄の抱擁をほどきながら、ゆっくりと八戒は立ち上がった。
「さて、じゃ、家を壊されないうちに止めましょうか。 ―― あ、そうそう悟浄、僕、ちょっとあなたとお話したいことがあるんで、今晩は出かけないで下さいねvv」
「?…おう」
 にこやかな奥方(笑)の笑顔に薄ら寒いものを感じたこの家の主人は、主を尻に敷いてしまう最強の相手に胡散臭い顔をしながらも頷いた。
 二人だけだった家に、大事な三人目がお客さんを連れて返ってきた日。
 賑やかで、でも、時間は二人だけの時よりも早く、優しく流れた。

 

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