雪は結晶で降ってくる

こういうのを驟雨というのだろうか。

悟浄はぼんやりと外を眺めながら思った。
氷雨、だと演歌臭くていやだから、驟雨と呼んでおくことにしよう、と悟浄は決めた。
少し意味が違うのだがまあいい。

冷たい、冷たい冬の雨。細い氷の糸を雲の上から誰かが投げ下ろしているかのように、冷たい直線が降ってくる。

シュンシュン、とストーブの上のやかんから湯気が上がっている。

洗濯物が乾きませんねえ、と八戒はため息をつき、明日着る分だけでも、と、悟浄と自分のシャツにアイロンを当てている。

「お茶でも淹れようか」
「…悟浄、熱でもあるんですか?」
「あのなー、お前が来るまで俺だって一応一人暮らししてたの。お茶ぐらい飲みたい気分の時にはちゃ―――んと、自分で淹れてたんだからな」
そう言って、悟浄はストーブの上のやかんをとって、台所に消えた。
 その後姿を見送って、八戒はため息をつく。
「…まだまだ、ダメですね・・・気ばかり遣わせて」
 アイロンをかける手を止め、片眼鏡をはずして、右目を右手で八戒は押さえた。ひやり、と義眼の感触がその右手に触れる。
 その義眼の底が―――痛い。
 痛い、と表現するしかないが、とにかくこれからますますひどくなるであろう予感が、さらに痛みを倍増させる。
 自分はいい。いくら痛くてもそれは仕方のないことだ。ただ、そのせいで悟浄に負担をかけるのがものすごくいやなのだ。

 雨の日―――

 いままであまりにいろいろなことが立て続けに起こりすぎて、意識に上ったことがなかった雨の日―――

 豪雨の中悟浄に連れられて帰ったあの日から幾度か雨は降っているはずだ。
 しかし、それらはなんとなくやり過ごすことができていた。
 …というより、気付かなかった、というほうが正しい。
 周りに何があるのか、ここはどこか、そして同居人とはどういう人間なのか。
 知らなければならにこと、覚えなければならないことが多すぎて、八戒の中身はいきなり増えた情報を処理するのに戸惑っていたのだ。
 しかし、ここにきてようやく、だいたいのことがわかるようになってきた。
 例えば、悟浄の家のどこに何があるのか―――砂糖はここ、塩はここ、こしょうは多分塩の奥で、油は戸棚の上だろう―――というようなことが。
 だから、少しずつ周りが見えてくるのと同時に、少しずつ自分も見えてきたような気がする。
 こんな雨の日は―――やっぱり、頭が痛い。
 思い出したくもないものが頭の奥から奥からあふれ出てくる。
 雨の夜。
 血に濡れた両手。
 ただの物体と成り果てた千の妖怪。
 そして――――
「ホラ」
背後から、悟浄がマグカップを八戒の頭越しに差し出した。
「―――ありがとうございます」
それを両手で受け取って、そのまま頭を後ろに倒して八戒は悟浄を見上げた。
「…案外、バックとるの簡単だな」
悟浄が唇の片方だけを上げ、笑いながら言う。
「…油断、してました」
降参、という表情で八戒が言う。
「まー、飲んでくれよ。結構、俺、お茶淹れるの得意だぜ」
そう言って、悟浄は自分もマグカップから一口お茶を飲んだ。
 あたたかいお茶が胃に入ると身体の中からあたたまる感覚が、八戒の心の中をも満たしていく。

 再びやかんがしゅ、しゅ、と湯気を吹き上げ始める。

 いつのまにか日が暮れていた。そろそろ悟浄の出かける時間だ。
「悟浄、出かける時間じゃないんですか」
痛みを完璧に隠し、八戒が微笑んで言う。
「う―――ん、じゃあ、そろそろ行くケド、雪にならないうちに帰ってくるから」
「ゆっくりしてきてくださいよ」
「寒いのは、ちょっと俺苦手なの。それに、滑って転んだらみっともないでしょ」
笑いながら背を向けて、悟浄はドアを開けて夕暮れというよりすでに夕闇濃い森の中の道を出かけていった。

やかんのしゅ、しゅ、という音が少し弱くなってきていた。水が残り少なくなっているようだ。
冷たい雨は激しくはならなかったが、間断なく弱まることもなく降り続けていた。




 年中行事にはまるで興味のない悟浄も、はべらせた美女たちに口々に12月24日の予定を聞かれれば、この日は何かあるのだと気付かざるをえなかった。
 昨年も、一昨年も、その前も、同じように12月24日の予定を聞かれては、何かある日だとその時点で気付いていた。ただ、その日がナニの日か、まるで興味がなかったので、気付くと同時に毎年その記憶は忘却の彼方へ放り投げられていただけの話だ。
「24日はねえ、大切な人と一緒に過ごす日よv悟浄vv」
悟浄の腕をからめとりしなだれかかって女が言う。
「だからあ、悟浄、今年はあたしと…v」
「こんな女より、あたしのほうが料理うまいわよ、ね、悟浄vv」
「悟浄ったら毎年毎年どうでもいいような顔して誰も選んでくれないんだから、今年こそはあたしを選んでよv」
女たちは悟浄が話を聞いているかいないかなどまったくお構いなしに勝手に自分たちで話を進めている。

大切な人と一緒に過ごす―――

悟浄ははじめてその日の意味を悟ったかのように、何度も何度もその言葉を反芻してみた。

大切な人ってなんだろう。

大切な人って誰だろう。

疑問視がwhatからwhoに変わっていることに悟浄は気がつかなかった。

「あら、雨、強くなってきたわ」
女の一人が甲高い声を上げる。
「じゃー、俺、帰るわ」
悟浄が上着を引っ掛けて女たちに告げる。
「えー――、何でよ、悟浄。驚異的な短時間滞在記録じゃない」
「もっと楽しんでいきましょうよ」
しなだれかかる女たちをあしらいながら、悟浄が笑って告げる。
「もうすぐ雪になりそうじゃん、寒くなる前に帰るわ」
「ええー――、どうしたの、悟浄――」
「じゃあねー」
背中を向けたまま手を上げて、悟浄は店を後にした。



なぜだか分からないが、今日はこの部屋をおそろしくがらんとしたように感じている八戒は、相変わらずストーブの上でやかんが歌う声をぼんやりと聞いていた。
 寒い夜だ。足先からどんどん冷気がまとわりついてくる。
「この分じゃ雪になるんですかねえ」
八戒が窓の外を見てぽつりとつぶやく。しかし、願望を含んだそのつぶやきは一向に現実のものとはならず、先ほどまで激しくもならなかった雨は八戒が一人になったのを見計らったかのように急に音を立て始めた。

ざああああああ

 屋根に、窓に、木の幹に、雨粒がたたきつけられているのが聞こえる。

ざああああああ

 単調に繰り返されるその雨の音が部屋の中を浸食していく。やかんのうたう声も聞こえない。

ざああああああ

 雨音が耳についてはなれない。耳を通ってからだの中に入り、そしてまたその身体の中で同じく単調なリズムを刻む。

ざああああああ

 最後に、こうして意識して雨音を聞いたのは、まだ紅い瞳の同居人と出会う前。あの時はまだ自分は猪悟能で、そしてすでに―――――――――罪人であった。

 頭の中で何かがぱちんとはじけた。

 雷が鳴っていた。
 雨が激しくたたきつける嵐の夜だった。
 自分の目の前にあるものは片っ端から、刺し、抉り、切り裂いた。
 自分の後ろには、血で紅く塗装された床と、ただの物体となりはてた妖怪たちが転がっている。
 一段と激しくなった雨の音が耳鳴りのようにこだまする。
 そのまま地下室への階段を降りて、その先に見つけたものは―――――――――――――

「―――う…わあああああ」

痛い、痛い、痛い

頭が割れるように痛い。

右目の底からわいてくる痺れが徐々に頭を支配していく。
 右目を右手で抑え、ふらふらと八戒は立ち上がり、そしてその直後、床に崩れ落ちた。右目をおさえる右手は離せないまま、左手で意味もなく胸のあたりをかきむしる。

「…い…や…―――!」

 地下に足を踏み入れたとき愛しい人はまだ生きていた。自分の半身は確かにそこに存在し、そして自分の名を呼んだ。

 ―――それなのに、それなのに、それなのに。

 その地下牢から出るときに、彼女はもう彼女ではなかった。ただの物体だった。
 腹から血を大量に流し、泣きながら微笑んで―――――――

「…か…な、ん…」

 殺したのは自分。守れなかったのは自分。
 なにが君を愛している、だ。
 繰り返し陵辱され、その男の子供を腹の中に宿したまま、自分と顔を合わせることなど誇り高い彼女が許すはずもない。
 
 愛していた。
 ―――心の全てで。
 守りたかった。
 ―――他の誰よりも。

 しかし守るべき彼女は死に、守りきれなかった自分は生きている。自分だけのうのうと生き延びて、温かな笑顔を持つ同居人に暖かな感情をたくさんもらっている。
 こうなるべきだったのは彼女。
 誰かに愛され、その愛情で心を満たされるべきは―――

 ―――涙があふれてきた。

 泣いて死人が生き返るなら死ぬまで泣こう。
 わめいて命を交換できるなら死ぬまでわめこう。

 だが、そんなことが起こりうるわけはない。
 それでも涙は奥から奥からあふれ出て、右目を抑えたままの右手を濡らす。

 意味がない。

 死人は生き返らない。花喃はもどってこない。それなのに滑稽に涙を流しつづけている自分。
 残されたのはたった一つ。時を刻むことのなくなった、最後の時間を示したままの懐中時計。
 髪の毛一筋残すことなく彼女はこの世から消えてなくなった。

 彼女の全てを失った。
 自分の全てを失った。

 忘れてはいけない。彼女の、髪を、声を、瞳を、指を、守れなかった自分を。
 光をほとんど失った役立たずの右目からも涙はとめどなくあふれてくる。意味がないのに、贖罪にもならないのい、許しが請えるわけでもないのに。涙はあふれてとまらない。

 後悔などできる権利もないのに。とんだ喜劇だ。
 くっ、くっ、とのどの奥で笑って八戒は涙を流しながら笑いつづけた。


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