これからそしてここから

悟浄が持ってきた話は悪くない話であった。

 それどころか、この町に流れ着いてきたばかりのどこの馬の骨かとも分からない八戒を、雇ってくれる、それもかなり破格の待遇で、というのだから、むしろすごくよい話というべきで――
「あの…」
 自分のことのように嬉しそうにそれを報告する悟浄に八戒は心底申し訳なさそうな顔をしながら、しかし、有無を言わさぬきっぱりした口調で、その話を断った。
「すごく、本当にありがたいお話なんですけど…
 …僕は、もう、先生はしたくないんです…」
 まさか、断られるとは思っても見なかった悟浄だが、その八戒の台詞にとある事実を思い出し、そこでなんとなく納得をしてしまった。わずかに「先生」の発音だけゆがんだ、苦しそうな八戒の台詞…
「…そっか。じゃあ仕方ないンじゃん?」
胸ポケットからくちゃくちゃになったハイライトの箱を取り出し、1本だけ残っていたその煙草に悟浄は火をつけ、紫煙を吐き出してからゆっくり言った。
「…すみません。せっかくのよい話を…あの、僕、明日仕事探しに行きますから…」
 悟浄の好意を結局は無にしてしまった八戒は、それでも、その意志だけは強固に貫くつもりのようで、職探し宣言を行っている。

 

 悟空の攻撃を受け、せっかく落ち着いたのに開いてしまった腹の傷口と、そしてそんなこととはまったくお構いなしに自ら抉り取ってしまった右目と、その2つの治療が未だ完璧なものではないことぐらい悟浄には分かっている。
 なにせ、あの土砂降りの雨の日に、血まみれで倒れていた八戒を自宅に抱えて帰り、全身の血と泥をぬぐい、はみ出ていた腸を医者に手伝わされておなかの中に無理やり戻したのは紛れもなく悟浄その人であるのだから。いくら同居人人口が多いとはいえ、自分の同居人の腸のヌードまで見たものは大して多くないだろう。

 ぽつり、ぽつり、と自分のことを話す八戒がいるのはいつもいつも雨の日だった。

 だから、悟浄には、すぐに八戒が「雨の日」を苦手としていることが理解できた。普段は、微笑を絶やさない八戒が、その微笑で他人を自分の領域に踏み込ませることを完全に拒絶していることはすぐに悟浄に知れた。なぜなら、悟浄は、人懐こそうな軽いノリで完璧に相手と自分との距離を測り、必要以上に近づいてくる手を叩き落してきたのだから…

 似ている。

 だから、死なせたくなかった。

 生きていくことがどれだけ八戒につらいものであっても、死ぬことで、失ってはいけなかったものを目の前で失ってしまったその恐ろしいまでの絶望と罪悪感から逃れられると分かっていても、悟浄は、八戒に生きてほしかったのだ。

 それは間違いなく自分のエゴ。

 禁忌の証とされるこの自分の紅い髪と瞳を「血の色」だといった八戒。そんな風に見える人間または妖怪が存在するとは思っても見なかった悟浄に、その深い碧の双眸は鮮烈な印象を残した。
 そして、あの日。市場で手に取ったパプリカを眺めているうちに突然現れた八戒に、あまりに自然に、あまりに当然に自宅で同居することをきめてしまった悟浄。
 八戒が基本的に「気をつかう人」だということはわかっていた。おそらく、同居をはじめれば悟浄が稼いでくる金をつかうことに恐ろしく神経をすり減らすだろうということは容易に予測ができた。体調が不完全なうちは無理やりにでもベッドに縛り付けて、少しからだが動かせるようになれば、何か八戒にできる楽で、実入りのいい仕事を見つけてくればいいことだ。
 だから悟浄は、もう少しで八戒が動けるようになる、この時期を選んで仕事を見つけてきた。八戒にだって心の準備は必要だろうし、どうもこの仕事はよくわからないが行き当たりばったりでできるものではなさそうだったからだ。
 しかし、八戒はこの仕事はしたくないという。
 

 

「…悟浄、本当にごめんなさい。」
 ふと気がつけば、碧の双眸が自分を覗き込んでいる。黙ってしまった悟浄に不安になったのであろう、その表情に、悟浄は内心で特大の舌打ちをし、余計な気をまた使わせてしまったことに自己嫌悪を感じる。
 他人に気を使われることにはとにかく慣れていない。自分は誰かに気を使ってもらえるような存在ではないと言い切れるから。だから、八戒にはできるだけ気を使わせたくなかった。
「いンや?ぜんぜん気にすんなって。ま、仕事はクサルほどあるんだし?それより怪我人はしばらくおとなしく寝てろってことだろうな。」
「あの、悟浄、明日は僕―――。」
「いーのいーの、ここンところ、俺様無敵だから。美人さんに貢物の一つや二つ、よゆーでささげられるくらいにさ。」 そういって、ウィンクを一つ投げると、悟浄はそれ以上の八戒の反論を封じ込めた。
「とにかく、早く身体を直して、ウマい飯を食わせてくれると、それだけで俺としては大変おつりがくると思ってるんですケド?」
「…悟浄…」
 結局、悟浄にはすべて見透かされているのだ。
 気を使いすぎる自分の居心地が少しでも楽になるよう、そして自分の体につらくないよう、仕事を探してきてくれた。
 そして、それを拒絶する自分に怒りの表情を向けるでもなく、納得し、かけてくれるさりげない言葉。
 一瞬のうちに理解したであろう、自分が「先生」をやりたくない理由。
 ただ、失ってはいけなかったものを失ってしまった自分が、大切なものなどもう何もない自分が、どうしてここまで「先生」を拒絶するのか、少しだけ、八戒は戸惑いを感じていた。

「…先生、って仕事はね、悟浄、とてもやりがいがあって、とてもすばらしい仕事なんですよ…」
冷めてしまったコーヒーを取り替えながら八戒が言葉をつむぐ。悟浄は、ハイライトを口にくわえたまま、そんな八戒を見ていた。
「…僕たちみたいな孤児はね、学校になんてあんまりいけないじゃないですか。食べなきゃ生きていけないし、食べるためには働くしかないんだからあたりまえなんですけどね。」
僕たち、という複数表現に含まれるのはおそらく失ってはいけなかった彼の最愛の姉。―それに思い当たったとき、悟浄は微妙に心がゆれるのを感じた。
「でもね、学校なんてものは、きめられたことしかやっちゃいけないし、きめられたことしかできないんです。だから、例えば漢字を1回だけならってしばらく学校にこれなかった子供に、学校の先生はいきなり、『何でこんな簡単なものができないんだ!』って怒鳴りつけちゃうんですよ。その子が学校にこれなかった間に周囲の子供ははどんどん先に進んでるんですからね。」
そういって、マグカップから八戒はコーヒーを一口飲んだ。
「そんな些細なことで、その子は世界のすべてを否定されたように感じてしまう。周囲の子供たちは、その子が世界で一番馬鹿な子供だと思ってしまう。―――だって、先生がそういう風に教え込んでしまうんだから。
 …そんな子供たちを、僕はあずかっていたんです。」
未だ八戒が「悟能」であった頃、彼は彼の村のはずれの塾で働いていた、とそぼふる雨の日に聞いたことがある。だからこそ悟浄は八戒に合う仕事だと思って、この、塾の先生、という仕事を見つけてきたのだから。
「漢字なんて一つや二つかけなくったって世の中十分生きていける。でも、その子が失ってしまった世界を取り戻すためには、まず、漢字を書けるようにしなくちゃいけない。漢字が書けないまま、生きていける、なんていくら言ったってそれはその子にとって所詮奇麗事で、ぜんぜん自信を取り戻すなんてことできないんです。
…僕は、そんな子供たちに、世界を取り戻してほしい、って心底思っていました。自信を持って、生きていけるようになってほしい、って思っていました。
そして、半べそ書きながら、漢字の書き取りをしていた子供が、『せんせい!!!やっと分かったよ!』って、目を輝かせながら僕に飛びついてくるのが本当に好きでした。
子供の、きらきらしたまっすぐな瞳を、できるだけたくさん見ていたい、って思っていました。」
そうやって言葉をつむぐ八戒はひどく優しそうで、そしてひどく―悲しそうで。
両腕を組んであごを乗せながら、視線を少し悟浄からずらし、しゃべりつづける八戒を、悟浄は何も言わずに、ただ、黙って見ていた。
「花喃にね、ときどき苦笑交じりで聞かれました。『私と、子供たちと、どっちが大切なの?』って。
 子供たちがいないときは間違いなく何を置いても花喃が一番で、それ以外なんて絶対になかったんですけどね。
 でも、いざ、子供たちを目の前にしてそれを言い切れるかというと、僕にはそれは自信がなかった。
 ――――だって、子供の前では、子供が一番、じゃなくちゃ、いけなかったんですから。そうじゃなきゃ、子供は絶対に心を開いてはくれませんから。」
夢にうなされている八戒の口から何度か漏れた「カナン」という単語が、やはり彼の最愛の姉をさすことを悟浄はここで確認した。
「―――虫の知らせ、なんてあるわけないですよねえ。だって、僕は、そのときの僕にとって一番大切なものを相手にしていたんですから…」
ククッ、と自嘲の声が八戒ののどから漏れる。
そう、分かっていたのだ。花喃の危機を察知して家にかけ戻ることができなかった自分…その理由も、誰よりもはっきりと、八戒自身が分かっていた。
花喃が妖怪に拉致されたとき、八戒の一番は、花喃ではなかったのだから。
認めたくはなかった。子供が一番、などというのはただの偽善だと思っていた。
何よりもいとおしい、自分の半身。
お互いを失っては決して生きていけないと思っていたほど愛していた。―――双子の、姉。
―――だが、現実はどうだ?彼女を助けるために、村の半数を殺し、そしてまた百眼魔王の一族千人を皆殺しにした八戒は、生きている花喃を殺しに行ったようなものだった。
 八戒の目の前で、八戒が妖怪千人を惨殺した剣をぬきとり、泣きながら微笑んで、彼女は自分をかき切ってどこか遠いところへ行ってしまった。呼べど、叫べど、その瞳が二度と開かれることもなく、その口が自分の名前をつむぎだすことはなかった。

だから、先生はもうできない。

先生、なんてやれるわけがない。

「―――だから、悟浄、ごめんなさい。僕にはもう、先生、なんて呼ばれる資格はないんです。」
 そういってまっすぐ悟浄を見つめたその視線は、ひどく透き通っていて、ひどく…辛そうで、そして、悟浄を飛び越えて、どこか遠い、遠いところを見ていた。
「ん―――、とさ。」
 それだけ言って、悟浄はその紅い髪をくしゃくしゃとかき回しかけて、つい先日短く切ってしまったばかりということを思い出し、それでも意地でくしゃくしゃかき回して、八戒のほうを見た。
「悪ィ、ヤなこと思い出させちまって。
―――でも、俺に、大切なこと言ってくれて――嬉しい、っての?悩み相談なんてガラじゃねーし、うっとーしーだけだったんだけど、なんか、八戒に言われると、嬉しい、気がする。」
 八戒は、その悟浄の言葉に、驚愕の表情を作った。そして、悟浄が向かいの椅子から立ち上がるのを目を大きく見開いたままで見つめる。
「だからさ、言いたくないことは無理に言わなくっていいし、言いたいことがあるなら遠慮しないでいってよ?
 それって同居生活を円滑に運営するルールでしょ?」
 そういって、笑いながら、八戒の肩をぽん、とたたいて悟浄が八戒の椅子の肘掛に座る。
 同情の色などかけらも浮かべない、ただ、八戒の言うことを黙って聞いてくれる悟浄。
 ―――いつのまにか、花喃に意識が飛んでいた自分を、そうやってここに引き戻してくれる―――
 絶対に他人には踏み込ませたくなかった領域にも、悟浄になら不思議に自分から手招きをしているように八戒には思えた。
 女好きで、酒好きで、稼ぎは博打で、掃除が嫌いで、洗濯も嫌いで、人懐っこそうなくせに決して他人に関心を向けたがらなくて、極めつけは、死にたがっていた自分をどうあっても死なせてくれない―――そんな悟浄に。

「…そうですね。悟浄。―――じゃあ、僕からも、同居生活を円滑に運営するルールの提案を一つ――」
「あ?」
「空き缶を、灰皿にしちゃいけませんよ、悟浄。いったい誰が中の吸殻を処分して、分別してるんだか分かってるんですか?」
「…スミマセン…」
「…次から、気をつけてくれればいいんですよ。」
そういって、八戒は笑顔を作った。
「僕、身体は多分もうすっかりいいです。明日から、僕がご飯、作りますよ。悟浄、何か食べたいものがあったらリクエストしてください。」
「…さばの味噌煮…」
「…案外、親父くさいものが好みなんですねえ。」
「…んだと、てめっ!」
「あーあー、怪我人虐待しないでくださ――い。」
くすくす笑いながら、振りかざされた悟浄の手を取って、八戒は、不意にその深い碧の双眸を悟浄の眼前に持ってくる。
「…悟浄、ありがとうございます。」
そう言って、悟浄がどんな顔をしているかすら見ずにするりと身を翻すと、八戒は椅子を立って、寝室へのドアを開けた。
「僕、もう、寝ますね…」
悟浄に背中を向けたまま八戒が言う。その肩が、わずかに震えていることを悟浄は目ざとく見つけた。ただ、それには気がつかないふりで、悟浄はおやすみの挨拶をした。
「オヤスミ。」
「…おやすみなさい。」
そのままパタン、とドアを閉じて、八戒が寝室へと消える。

 

 同居生活は、これからいくつもの紆余曲折を経ていくだろう。もしかしたら後先考えられないくらいに怒ることもあれば、思い切り笑いあえることもあるだろう。
 ―――…そして、もしかしたら、本当にもしかしたら、こうやって二人で生活をすることで、なにか、得られるものが、あるのかもしれない。今までどれだけ求めても得られなかったものが、得られることになるのかもしれない。

 期待しすぎてはきっと裏切られるだろう。

 ―――ただ、だれでも、であった時からこの人は親友になれる、だなんて分かるわけがない。

 少しずつ、少しずつ、今日のような時間を過ごすことができるのならば……

 

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