□ふわり、とろりとしたオムレツの黄色□



 四本のマストがある大きな帆船の船べりから細長い板が突き出されていた。

 その板の先端には、何か細長いものが立っていて、それは縄によって吊るされているようだった。いや、吊るされている、というよりは引っ張り上げられている結果、立たされている、という表現の方が正確であるかもしれない。
 そしてその細長いものの隣には、一抱えもある黒くて丸いものがあり、それは太く短い鎖でがっちりと細長いものに固定されていた。

 ゾロは、その細長いものを引っ張りあげている縄を、千切り取ることができるかという視線で辿っていった。縄は一旦、マストの2番目の帆桁にかけられて、それから下に降ろされていた。そしてその縄の先端は、一人の女の手に握られている。
 浅黒い肌と美しい黒髪をもつ、美貌の女海軍は船べりに足をかけて、優雅なまでの微笑を浮かべ、ゴーイングメリー号を見下ろした。

「その手を離せ」

 すらりと刀を抜き放ち、恐ろしいまでの静かさで、ゾロはヌールに向かってそう言った。
 彼女の手の一本の縄が更に後少しでも引かれたら、ゾロは永久に”ぶん殴って言う事を聞かせる”対象を失うだろう。

「まあそう焦らないで。ここがあなたたちの死に場所になるんだから、もう少し見物していてもいいんじゃない?」

 少しも動じることなくヌールが言う。彼女の羽織った真っ白のコートの背中の正義の文字が、きつい潮の匂いのする風にたなびいた。

「死に場所だなんて勝手に決めんな!ていうかサンジ放せ!その縄はなせよっ」

 ルフィが真っ黒の瞳をまっすぐにヌールとサンジに向けて叫ぶ。
 サンジは既にルフィの声も聞こえていないらしい。聞こえていたとしても、反応する力すら残っていないと思われた。
 最早サンジは、”海の歌姫の首飾り(セイレーンチョーカー)”が首にかかっているからこそ立っていることができる状態にあるといって差し支えがないだろう。

「昔から海賊は絞首刑にするのが一般的だわ」

 右手に絡めた縄を見やってヌールが言う。

「殺した後は、死体を吊るして鳥の餌にするのも一般的ね。私の船に吊るすのもいいけどそれだと鳥さんと出会う機会も少ないから、あなたたちの船に吊るしてそこら辺を漂流させておきましょうか」

 ”海の歌姫の首飾り”と装飾過多な名前を付けられたそれは、所詮はただの縄だった。しかし、そのただの縄が、ひとたびヌールの手にかかれば、決して逃れられず、首を吊るされて殺され、その死体を完全に鳥に食われてからでないと取り外せない死の装飾品と化すのだ。

 ロビンとナミはごく僅かずつその立ち位置をずらしている。
 とにかく、サンジを取り戻さないことにはこちらからは手も足も出ないのだ。いくらルフィのスピードがあるからといって、いくらゾロの鋭い太刀筋があるからといって、いくらロビンがその手を咲かせることができるからといって、その攻撃が届く前には確実にサンジを殺される。

 それだけは避けなければならないのだ。

「ていうかお前俺の話きいてんのかよ!サンジをはなせ、はなせったら!!」

 メリーの船首の上で、ルフィは地団駄を踏む勢いでヌールに向かって言った。
 ロビンは、ヌールの死角になるようにごく僅か身体を動かし、ナミはそれを隠すようにロビンとヌールの間に立った。
 あとは、うまくルフィが時間稼ぎをしている間にヌールの隙を突くことができれば―――

「そこまでだ。動くな」

 ガチャリ、と複数の音がして、複数の銃口が一斉にゴーイングメリー号のクルーに向けられた。

「一歩でも動いてみろ。俺たちは海賊に容赦はしない」

 パスカルが低く厳かに宣言した。
 震え上がる足と、あげかけた悲鳴をかなり抑えることに失敗したウソップとチョッパーは、ぐるりと周囲を見渡して絶望の表情を浮かべた。ヌール配下の完全武装の海軍に、いつの間にか完璧に包囲されている。

 勿論、包囲されるということが事前にわかっていたとしても、それは避けようがないことだった。あの単体で恐ろしく強い女海軍がサンジのそばにいる限り、こちらから動くわけにはいかなかったのだ。

「ハナハナの実のニコ・ロビンを確認いたしました!」
「ゴムゴムの実のモンキー・D・ルフィも確認いたしました!」
「こちらはかつて海賊狩りと異名をとったロロノア・ゾロです!」

 クルーを包囲している海軍が、手配書の束から賞金首の3人を確認する。

「その悪魔の実の能力者たちには銃はきかないわ」

 ヌールが右手の縄の端を左手の人差し指で弄びながら言った。

「あまり原始的なことはしたくはないけど…接近戦なら確実に負けてしまうし、仕方なくあれを使わせてもらうわ…パスカル!」
「はっ」

 敬礼を一つ残し、パスカルは自らが構えていた銃を降ろした。

「……”ヌール船長は皆殺しがお好き”か。女を殺してもてめぇの正義は揺るがねえのか」

 刀を抜いた状態からぴくりとも動くことのできなかったゾロが切り殺しそうな視線を向けながらヌールに言った。

「そうね。女だろうが何だろうが、海賊にはちがいないわ」

 少しもその視線に動じることなくヌールはさらりと言葉を返す。

「それよりロロノア・ゾロ。刀なんか構えてられたら怖くてしかたがないの。刀を置きなさい」

 一瞬ゾロの髪の毛が逆立ったかと錯覚するような殺気がゾロの全身を包んだ。しかし、今は素直にそれに従う他はない。このままヌールの言うことをききつづけていれば全員で仲良く地獄の門をくぐることになるだろうが、切り札が相手の手にある以上、無謀なことは慎むべきだった。
 切り札は使わなければ切り札にはならない。そして、その切り札を使うときが最初にして最後のチャンスなのだ。

「…死を前にした気分はどう?モンキー・D・ルフィ」

 きつい潮風に豊かな黒髪があおられた。ヌールは軽く髪を手で抑えながらぎりぎりと歯軋りするルフィを見下ろしてわざわざゆっくりという。

「ここは俺の死に場所じゃないからな。お前、素直にサンジはなしとかないと絶対後悔するぞ」
「……………………あははははははは!」

 ルフィのその台詞に数瞬の間目を丸くしていたヌールは、勢いよく笑い始めた。

「よくもまだそんな台詞が吐けるものね」
「なんとでもいえ!いいからサンジから手をはなせ!!」

 全身に怒気をみなぎらせてルフィが言う。
 この男は、自分が選んだクルーのことを誰よりも大切にするのだ、という場違いなことをやけにリアルにゾロは感じた。

「…私がこの縄をはなしたら、コックさんは気を失ったまま、手を縛られて、足枷と錘をつけられたまま海の底よ?」
「はなせっつってるだろ」
「このコックさんを殺したいの?」
「いいからはなせよ!」

 ヌールとルフィの会話は全く平行線を辿っている。ヌールは縄を握っていない左手を、美しい唇に当ててくすりと笑った。

「強情ね…でも…」

 ばしゃあん

「ルフィ…!」
「ロビン!!」

 派手な水音と共にルフィとロビンが甲板に崩れ落ちた。ナミとウソップが慌てて近づこうとして銃口に行動を制される。

「本当は海に落とした方が効果的なんでしょうけれど、それだと死んだかどうだかよくわからないし…簡易弾なのは仕方ないわ」

 大きな薄い布袋にに海水をたっぷりつめたものを、パスカルは投石器でルフィとロビンめがけて放ったのだ。
 海水につかったときのように力が抜けっぱなしというわけにはいかないが、海水をかぶったその瞬間、海に嫌われている能力者はその力が無力化する。


「最後のお願いを聞いてあげるわ」

 ヌールは極上の笑みを浮かべてはいつくばるルフィを見下ろして言った。

「ただし、あなたたちが死んでからね」

 パスカルの右手がさっと上がり、そしてその手はすばやく振り下ろされた。



 再び投石器から海水をつめた袋がロビンとルフィに襲いかかり、そして、麦わら海賊団に向けられていた銃口が、一斉に火を吹いた。








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2003年10月28日



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