□アヒル男□



「何で逃がしたか、だって?」

 サンジは薄く笑って少しだけ頭を動かし、ヌールを見上げた。

「やばすぎる海軍の話を耳にした日にゃ―、そりゃ、誰でも仲間を逃がすだろ」

 右唇の端を上げてサンジは笑い、口の中にたまった血を、ヌールとは反対方向にぺっ、と吐き出した。

「俺は昔レストランで働いてたからな。レストランてのは噂話のたえねーところだ。海賊ときたら一人残さず殺し尽くす海軍の噂だって俺は知ってるぜ」
「おかしいわね。であった海賊は皆殺しにしているから、そんな噂は立つ余地がないはずなんだけれど」

 豊かな胸の下で腕組みをするのはこの女海軍の癖だ、とサンジは思った。面白そうにサンジを見下ろすヌールに向かって、サンジはまだ台詞を続ける。何かしゃべっていないと、あっという間に意識が飛んでいきそうだった。

「電伝虫と部下の少なさ、あとこの町に海軍が見当たらないってこととあんたの俊敏さでわかったよ。ヌール船長」

 そこでサンジは台詞を区切らざるをえなかった。げほ、ごほ、と激しい咳が続き、その咳が収まると、唇の端から血と胃液が混じった粘り気のある液体をサンジは一筋流れ落とした。

「そんなのでよく判断できたわね。そこまで私に関して詳しい噂が広まっているのなら、今度から海賊の殺し方をもっと考えるべきね」
「そうだな、俺が生き残ったら、無敵のヌール船長は浅黒い肌の美女でした、って噂流してやるよ」

 ぱあん、と勢いのいい音がその拷問部屋に響いた。サンジの人を食った台詞に、ヌールは平手打ちで対応したのだ。頚椎を捻挫するのではないかと思うほどの勢いに、平然とサンジはそれを受け流した。

「……海賊……」

 ヌールはもう頭を上げる気力もなくなったサンジの金色の髪を冷酷に見下ろして言った。

「罪もない老人や子供を、まるで狩と勘違いしたかのように殺してその数を競う海賊……」

 ヌールの低い声は、拷問部屋をじわじわと侵食した。サンジはそのヌールのいった言葉に全身を締め上げられるような錯覚を起こす。

「勿論、殺した後老人や子供だとばれると後々面倒だから、ばれないようにその顔はちゃんとつぶしてくれるわ」

 迫力を伴ったその声は微動だにしないヌールから冷徹な響きで聞こえてくる。

「殺した人間の数を水増しするために、耳をそぎ、鼻をそぎ、それを別人として申告する」
「女と見れば殴り、暴力で支配し、犯し、使い捨てる」
「一晩で50人の相手をさせられた挙句、腹を引き裂かれフカの餌にするなんてザラね」

 一気にそれだけまくし立てて、ヌールはいらいらとした表情で右手を口元に当て、爪を噛んだ。

「少し器量のいい女は監禁され、少しでも抵抗すればお仕置きと称してひどい目に合わされた」

 サンジはヌールの言葉を黙って聞いていた。もうとっくに意識が飛びそうになっていたが、口を開く気力もなくなっていた。気絶をすれば、更に地獄の拷問が待っているかと思うと、少しでも体力を温存しておくことが重要だと考えた。
 どうして、体力を温存しよう、と思ったかというところまでは、サンジは考えなかった。考えることが、疲労を伴っていた。

「船長の女としても認められなかった女は、船員の性欲処理に使われ、何人もの子供をうまされた―――」

 その子供の一人が、ヌールだったのだ、とサンジは思った。なるほど。海賊をここまで憎む道理も通っている。世間一般の善良な市民にとって、海賊とは災厄以外のなにものでもないというのは当然なのだから。

「…まあ、そんなことはどうでもいいわ。海賊をどうしてそこまで憎むのか、と聞かれたときにこの話はとっても有効よ。動機付けを必要とするときにはこの話は便利ですもの。
 ――――――で、さっきからだんまりを決め込んでる、っていうことは、当然吐く気はないわけね。仲間を逃がした理由も、逃がした先のことも」

 サンジは、わずかに頭を動かして、それでも皮肉っぽく笑い、かすれた声を無理矢理押し出した。

「毛頭」
「上等ね。その根性だけは見上げたものだわ。でも、それなら死んでもらうだけだけれど」

 ヌールは短剣をすらりと抜いた。わざわざサンジにもわかるようにゆっくりとそれを抜く動作は少しの無駄もなかった。少しの無駄もなく、その切っ先はサンジの急所を狙っていた。
 眉間、のど笛、心臓の上
 どこを狙っても最小限の動きでしかも一撃でやられる絶妙の位置に冷たく銀色の短剣が光っている。


 死ぬ、とはどういうことだろう、とサンジは思った。
 目の前に浅黒い美女と短剣という格好をした死がサンジを待ち構えている。
 どうせ死ぬなら体力を温存することもなかったな、と自嘲気味にサンジは笑った。そして、仲間を逃がすことができたことを心の底から喜んだ。


 昔、聞かされたように魂の国があるとするならば、死んだ後でもサンジの魂はナミを守ることができるだろう、とサンジは思った。ふわりふわり、とナミの周りを漂ってナミを守ればいい。死んでいるのだから最強だ。
 あのクソ毬藻ですら絶対自分のことは斬れないな、とサンジは思った。
 そんな最強の守り神としてナミについていることができるならさっさと死んでおけばよかった、と考えた。

 しかし。

 そこまで考えて、サンジはふと何かに引っかかったように思った。

 待てよ、斬れねー、っつーことは、スカスカなわけだから、俺は何にも触れないんじゃないのか?

 そう思った。そう思った直後から、それはその通りだとサンジはかなり納得した。最強も何も、何にも触れないのであれば、例えばあのマリモ頭が何か気に食わないことを言ってきたとしても、喧嘩すらできないのではないか、と思い当たった。
 それは許せない、とサンジは思い、そして次に、当然料理も作ることができない、ということを考えついた。


 最後に、ちゃんとしたメシを食わせたかったな。


 サンジは思った。

 お食事を作って差し上げたいのではなく、メシを作りたかった、とサンジは思った。

 どうも目前に迫った死のおかげで自分は錯乱しているのではないかとサンジは自らを分析した。
 メシを食わせたかったのは、気に食わないことを言ってくる確率が非常に高い、喧嘩したかった相手だと、サンジは頭の片隅で理解した。


 緑の頭
 三連のピアス
 白いジジシャツ
 緑の腹まき

 とんでもないファッションセンスの、世界最強以外全くもって目に入っていない、強い、強い心の持ち主の――――――


 ヌールの短剣が、サンジの頚動脈にぴたり、と当てられた。

 サンジは、残っている全身の力を振り絞って、もう一度、メシを作りたかったな、とつぶやいて目を閉じた。













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2003年9月23日



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