銀河英雄伝説 外伝           (月白―淡い藍色の空の向こう―)

T



漂白されたスクリーンはしばらく何も映し出さなかった。

真っ白な画面が数十秒続いた後、映像は途切れ、砂色の画面がザー、という音とともに現れた。

女性が、その立体テレビの電源をオフにした。

「ご立派なご最期でありました」

沈痛な表情で、ガイエスブルクと運命をともにしたカール=グスタフ=ケンプ上級大将の死を、ごくわずかの誤解の恐れもない言葉で伝えたエルネスト=メックリンガーはその女性のほうを向き直った。

「有能な方々を多く死なせてしまいました…」

女性は涙を見せずにそういったきり沈黙した。しばらく、旧式の時計が時を刻む音だけが部屋に流れる。

「…メックリンッガー提督、お願いがあるのですが聞いていただけますか」

行動の選択肢に困り果てていたメックリンガーは、女性がそういいながらずっと見つめている視線の先の一枚の写真に目を向けながら返答した。

「私でできることなら何なりと。ケンプ夫人」

視線の向こうでは、カール=グスタフ=ケンプ上級大将と、その女性、そして小さな男の子二人が新緑を背景にこぼれんばかりの笑顔をたたえてこちらをじっと見つめている。
メックリンガーは、それだけを見て取ると、写真から目をそむけた。

「ありがとうございます…どうか、どうかローエングラム候に、お口添えいただきたいと思います。カールの部下であった方たちに、寛大な処置がいただけますよう…カールの罪は、カールのみが負うものですから…」

一言一言に万感の思いが込められている。

芸術家としても世に知られ、有能な軍人としても万人に認められているメックリンガーは、その言葉に心臓をわしづかみにされたように感じた。古来、いったいどれほどの人間が、こうやって愛するものを戦場に朽ち果てさせねばならなかったのだろう。

ローエングラム候は、比類なき戦争の天才で、その彼のもとにいることは、大貴族どものもとにいるよりも生存率が高いことは自明の理であったが、それでも全員が生きて帰れるわけでないことは当然であった。

戦争とは、人殺しをするか、されるかの2つしかないのだから。

帝国芸術館で即興で詠んだ散文詩が「言葉の選び方、配置の仕方、表現の仕方、どれをとっても文句のつけようがない」と評された芸術家提督も、その女性に向けるべきどんな言葉も思いつくことができなかった。

「お約束します」

ただ短いその言葉を残して、メックリンガーはケンプに割り当てられていた官舎を逃げるように辞した。

あと1秒でも長くそこにいれば、耐え切れなくなった彼女が泣き出すのは目に見えていた。そして、メックリンガーはそんなときにどうすれば一番よいか、などというばかげた問題の解答を持っていなかった。

胸の中で大きな塊となった苦い思いをため息とともに吐き出してから、メックリンガーはその肩越しにもう一度その官舎を振り返った。

少しだけ開いた窓から、ケンプの幼い子供が、必死に母親を励ます声が聞こえてきた…

「ムッター、ムッター、なかないで。ぼくがかならず、ヤンってやつをやっつけてあげるよ」


U

 

 せまいベッドの上で、寝返りを打ったとたん、イリアス=リアは小さなくしゃみをした。そろそろ夜明けだろうか。東の空が明るい。
 ―いや、人口天体の中の夜明けなど所詮管理された照明の明るさに過ぎない。
 そう思い直し、彼はぎこちない動作で毛布をかぶりなおした。

 潜入はうまくいったのかもしれない。10%くらいは。

 昨日の言葉が忘れられない。

 「亡命者、だ?今時、こんな都合よく?」

 バグダッシュ中佐と呼ばれた男がいぶかしげに首をひねる。

 今にも壊れそうな宇宙船の中から、やはり今にも壊れそうな老人を先頭に、37名、老若男女取り揃え降りてきた集団を尋問したのは、当然情報部であった。

 「確かに都合のよい時期といわれると思っておった。―だが、わしらの体を見てくれ」

 そう言った壊れそうな老人が背中を見せると、声にならないざわめきが立ち上った。

 「…はじめてみたかね」

 その背中を充分に衆目にさらしたあと、壊れそうな動作でたくし上げたシャツを元に戻しながら老人はふり返った。

 「これはケロイドと呼ばれる火傷のあとさね。―今時、こんなものを背負っているのは、どこを探してもわしらくらいだろうがね」

 老人が口を閉ざすと、その後ろの集団が、それぞれ腕をまくったり、やはりシャツをたくし上げたりして、同じように焼け爛れたケロイドを外気にさらした。一番小さな子供―おそらく3歳にみたぬであろう幼児は、鼻とへそを結ぶ線を境に、ちょうど右半分がケロイドに覆われていた。栗色だったと思われる髪はちりぢりに焼け、瞳は虚空をさまよっている。

 「―わしらは、ヴェスターランドの生き残りじゃよ。寛大な処置をお願いする」

…ヴェスターランド。帝国貴族ブラウンシュヴァイク公により、生きたまま、200万人が熱核兵器の業火に焼かれた星。

 その固有名詞は帝国貴族がいかに愚かで、いかに勝手に振舞ってきたか、人類に瞬時に理解させるのに充分過ぎるキーワードであった。

 「しかし、ヴェスターランドを直接攻撃したブラウンシュヴァイク公はローエングラム公の手によって既に死に、帝国の実権を握っているのはそのローエングラム公だ。それなのに、どうして今危険を冒して亡命を選ぶのかね」

 バグダッシュはなおも老人に食い下がる。感情に流されて、とんでもない爆弾をイゼルローンに入れるわけにはいかない。

 ただ、そうはいっても老人の後ろには、弱々しい怪我人の集団しかおらず、徹底的に調べ上げられた壊れそうな宇宙船の中からも発見されたのはエネルギーカプセルを使い果たしたブラスターが三丁だけであった。工作員や、刺客が乗り込んでいたとしたら、彼らは蒸発したか、核融合炉に放り込まれたかのどちらかであった。

 「…ローエングラム公はわしらを彼の政治の道具に利用した…」

低い声で老人はようやく言葉をはきだした。

「彼は、わしらに適切な治療を与えようとした。働かなくとも死ぬまで困らん生活を送らせようとした。死んだものに対する贖罪のつもりだ。だが・…」

一気に言って老人は咳き込んだ。少し太めの50代と思われる女性が老人の背をさする。

「わしの妻とわしの娘夫婦、そして産まれたばかりの双子の孫は、一瞬のうちに蒸発した。妻は、公園の石段に腰をかけていた。散歩の途中だったんだろう、少し背中を丸めて。―妻の影だけが石段に焼きついていたよ。わしにはそれがすぐ妻だと分かった…」

今度は本当に壊れそうに激しい咳き込みが老人を襲っていた。バグダッシュはやむなく老人にいすをすすめた。

「妻を、娘を、息子を、孫を、殺したのは確かにブラウンシュヴァイク公だ。しかし、見殺しにしたのはほかならぬローエングラム公じゃよ」

弱っているであろうからだのどこからそれだけの憎悪が滲み出してくるのだろうか。静かな声の背景に隠された嵐を誰もが読み取ることができていた。

「…分かった。レベルFのIII地区に連れて行け。明日再度尋問を行う」

バグダッシュはそういって、37名の集団を収容施設に入れるよう命令した。

「偽装投降だとしてもよくもまあこれだけの代償を払ったもんだぜ…」

心のつぶやきを微塵も表情に出さず、壊れそうな老人をいたわりながら歩み去る集団を、バグダッシュは腕組みをしながらじっと見送った…


III


…少しうとうとしていたらしい。「起きろ!」という野太い声に身体を反応させ、イリアス=リアは上半身を起こした。

 部屋のあちこちで人の身体が起き上がるのが見える。時刻は9時30分を指していた。

「今から身体検査を行う。女はこの部屋に残れ。男は隣の部屋だ」

―未だ、捕虜扱いか―

イリアス=リアはため息をつきかけて、あわてて気を引き締めた。少しでも疑われる行為は絶対に避けなくてはならない。自分は、イリアス=リアである。ヴェスターランドで熱核兵器の洗礼を受けた一介の市民に過ぎない。そのことを決して忘れてはいけないのだ。

 その様子をバグダッシュは見逃さなかった。そばにいた兵士に小声で指示を与える。

「おい、あの儒子を監視しろ」
「あんな怪我人をですか」

兵士は上司の強い猜疑心に少し反発を感じているらしかった。目の前で苦しんでいる怪我人がなにをなせるとも思えない。

「いいから、おれの言うとおりにしろ」

強い口調で兵士を去らせてから、バグダッシュ自身も、用心がすぎるように感じていた。

 半死半生の怪我人たち。武器もまったく見当たらない老朽船。ケロイドが何よりの熱核兵器の洗礼を表している。言っていることはまったく筋がとおっているのだが…

 なににこれほど用心深くなっているのか、まだバグダッシュには自覚がなかった。しかし、その用心が正しいものであったことを、後で彼は思い知らされることになる…

 身体検査の最後尾に、イリアス=リアは上着もシャツも脱いで並んだ。

 胸から背中にかけてついたケロイドを自然となでさする。

「―これはひどい。なぜ人口皮膚移植を受けなかったのかね」

 壊れそうな老人の背中を一目見るなり、軍医はうめいた。
 老人は無言で軍医の前に立ったままである。

「このままでは背中全体が腐って大変なことになってしまう…今すぐにでも手術が必要だ」

軍医は、医療用携帯に手を伸ばした…が、その手は老人の声にさえぎられた。

「あなたの行為はありがたいが、わしは亡命がきちんと認められるまで絶対に治療は受けん。この傷はわしがヴェスターランドの生き残りであるという動かぬ証拠じゃ。この傷がなくなればわしがいくらヴェスターランドの名前を出したところで誰にも信じてもらえんだろう」
「・・・じゃあ要するに、同盟市民権が得られれば良いわけですね」

背後から聞こえてきた声に、部屋の中にいた人間は不意をつかれ一斉に振り返った。

「お話は伺いました。ご老人。あなたは心置きなく軍医の治療を受けてください。私が、あなた方の身分を保証いたしましょう」

おさまりの悪い黒髪をかき回している穏やかな瞳の青年が入り口に立っていた。兵士たちの手があわてて敬礼の形をとる。

「失礼じゃが」

老人はその青年に向かい姿勢を正した。

「見たところ階級の高いお人のようだが、あなたにわしらの身分を保証していただいても、その上がどういうか分からない。お言葉はありがたいが…」

若すぎるその青年に対し、老人は疑念を抱かざるをえなかった。きっとこの青年にはたくさん上司がいて、その上司がまた何を言い出すか分かったものではない。

「そうお考えなのももっともです。ただ、この要塞内にいる同盟軍軍人の中に、ありがたいことに私の上司は含まれておりません。―私は、ヤン・ウェンリーと申します」

壊れかけていた宇宙船に乗っていた集団から驚愕のざわめきが起こった。ヤン・ウェンリー。イゼルローンを無血で奪い取った男。その男が…

「ご老人、私はあなたの身体がとても心配です。どうかすぐに治療を受けてください」
「かの高名なヤン・ウェンリー提督とはしらず、大変な失礼をいたしました…」
「いいんです、いいんです。とてもそうは見えないといつも言われていますから。それより早く…ヤマムラ軍医中佐!」

言葉の最後は軍医に向けられたものであった。ヤマムラは、先ほど取り出したままの医療用携帯を急いで持ち替え、今度こそ本当に手術の手配をした。

「いいか、おそらく全員手術が必要だ。―そう、17人、いや、女のほうも似たような状況に違いないから37人分の人工皮膚を…なに?無理でもなんでも用意しろ!このままじゃ全員火傷したところが壊疽を起こしてあっという間に死んじまうぞ!!分かったらさっさと用意しろ!キャゼルヌ少将に懇願して、少し緊急用の備蓄品を回してもらえ。11時から用意が出来次第、順次手術をとりおこなう…」


「甘いですな」

開口一番、バグダッシュはヤンにそう言った。

「君にはそういわれるだろうと思っていたよ」

判で押したような応答が続き、ヤンは黒ベレーを丸めながら言葉を返した。

「あの老人はともかく、この少年…イリアス=リアと名乗っていますが、どうも何か引っかかります。そう、あの集団からは少し浮いているような…」
「だけど武器は見つからず、死にかけの怪我人ばかりだったわけだからな」

ヤンは言葉を区切る。

「偽善的だと思うよ。私だって、どれだけあんなふうに人を殺してきたのだかわからない。スクリーンには映らないだけでね。―…だけど、私が行動の首尾一貫を追及するのと、目の前で死にかけている人を助けるのとではどちらを優先すべきか、私はもうきめているんだ」
「とにかく、彼らの怪我を治すのが先だ。事を起こそうにもあの身体じゃ何もできないだろう。―後は君の裁量に任せるよ」

バグダッシュの肩をぽんとたたいてヤンは歩み去った。その背中がすきだらけのことをバグダッシュは知っている。しかし、その背中を守るまったく隙のない存在があることもバグダッシュは分かっていた。

「よほど、あの坊やを信頼しているのかな?」

バグダッシュは気を引き締めた。あの坊や―ユリアン=ミンツは確かに世の中の誰よりもヤン=ウェンリ―を守るのに適している存在だ。しかし、だからといって危険分子を放置していては鼎の軽重を問われる。

―裏切り者。

 そう呼ばれることをバグダッシュは微塵も意に介さなかったが、自分がその存在であることは自分の立場を危うくしているということも分かっていた。行動によって自らの立場を強化していかなければならない。
 そう思ってバグダッシュはオフィスの窓の外をのぞいた。ちょうど何台もの医療用ヘリが手術につかう人工皮膚を持ってきたところであった。

「亡命者の、命を、救う、か・・・」

そうつぶやいて窓に背中を向けると、バグダッシュは、自分のデスクに向かって歩いていった。



IV


 人口皮膚移植によって、亡命者たちは一命を取り留めた。あの壊れそうだった老人も、一時は昏睡状態に陥ったが、回復軌道に乗っている。
 やはり、若さであろう。イリアス=リアは37名のうち真っ先に退院を告げられた。

「退院したらどうするの?」

 看護婦に聞かれ彼はこう答えた。

「ローゼン・リッターに入隊します」
「薔薇の騎士ねえ・・・」

小さなため息で言葉を区切ってから彼女はこう続けた。

「せっかく命が助かったのに、軍人になるの?」
「…僕は、復讐をしなければならないんです」

 看護婦に背を向け、窓の外を見ながらイリアス=リアは強い決意を口にした。
 荷物をまとめて退院していく彼を看護婦は無言で見送った。

 イリアス=リアは、彼にあてがわれた住居に向かって歩いていった。亡命者が自由に家探しをできるほど平和な状況ではなかったし、怪我人に自分で住むところを見つけろ、というのも酷な話だ。したがって、37名には同盟政府より斡旋された住居があてがわれた。―表向きは。

 その住居に足を踏み入れて、イリアス=リアは、さりげなく部屋のあちこちに目を配った。

―やっぱり―…

 口の中でつぶやいて、ベッドに足を投げ出す。

 そのベッドのパイプには、よく見なければ決してわからないよう、よく見ても一般人には到底見破ることができないであろう、ねじに擬した監視カメラが取り付けてあった。まだ、2・3箇所には取り付けられているだろう。盗聴器もついているに違いない。
 もちろん、37名が固まって住居をあてがわれたわけではない。それなりに近い場所ではあったが、巧妙に配置されたそれは、さりげなく同盟軍軍人の住居にはさまれていた。
 そんなに簡単には信用してもらえないのは当然のことである。イリアス=リアはありとあらゆる場所で心に甲冑を着けなければならなかった。
 最低限、3ヶ月は同盟に害を成す人間でないことを行動で証明する必要があった。同盟にとって有益な人間だと認めてもらえたらなおさら良いが、ことはそう簡単には運ばない。
 有益な人間だと認めさせるためには、空戦隊に入隊するのが一番早かった。うまれ付いた才能は、すべて空戦隊で発揮できる方向を向いていた。シミュレーションマシンで30分の間に5機おとしたこともある。しかし、その才能は、危険な才能であった。その天分の才―そこから、何がほころびていくのかわからない。
 だから彼は、ローゼンリッターに入隊を希望したのだ。ローゼンリッター、薔薇の騎士、帝国軍からの亡命者のみで構成された、白兵戦最強部隊…目をくらますにはこれ以上の部隊は考えつかなかった。
 彼は、目的を遂げるまでは誰かに疑われたり殺されたりするわけにはいかなかった。つかまることも許されなかった。すべてを自分で守り、すべてを自分で決意し、すべてを自分で行わなければならなかった。

―とにかく、入隊させてもらいに行かなければならないな。

 そう考えて、イリアス=リアは扉を開けた。その彼の目の前を、こげ茶色の髪に、所々赤のメッシュを入れた長髪が通り過ぎようとしていた。

「あら、お隣さん?もう引っ越してきたの?」

 買い物袋からフランスパンをのぞかせて、長髪の持ち主が話し掛けた。

「火傷治ってよかったわね。私の名前は、トゥナ=ブルームハルト。あなたと同じ亡命者よ。よろしくね」

 差し出された右手をぎこちなく握り返したイリアス=リアを面白そうに見つめているトゥナは、心の中でつぶやいた。

―バグダッシュ中佐の考えはもしかしたら少しだけ当たってるのかもしれない。この人、やっぱり、思いつめてる…―






 その後、なぜだかよくわからないまま、イリアスは、トゥナの家に呼ばれ、夕食をご馳走になることになってしまっていた。トゥナはまったく自分のペースにイリアスを巻き込み、煙に巻いた挙句、いつのまにか自宅のリビングにイリアスを座らせてしまっていたのだ。

「もうすぐ、おいしい夕食ができるわよ。病院の食事ばっかりでまずかったでしょう?」

 屈託なく微笑みかけるトゥナに毒気を抜かれたイリアスは、何も言えないまま不機嫌そうな顔を作ってソファに座りなおした。
 そんなイリアスの気配を背中越しに感じながら、トゥナはリズミカルにたまねぎを刻んでいく。そのまま、オリーブオイルを熱したフライパンに放り込み、細かく刻んだにんじんと、唐辛子をさらに加える。トマトをつぶしながら加え、ブイヨンの顆粒をトマトに溶け込ませる。そこでいったん火を止め、味を調えるために軽くこしょうを振る。キッチンには、トマトとオリーブオイルの芳香があふれていた。手際よく調理が進み、テーブルの上はいつのまにか食欲をそそる料理がきれいに並べられている。

「さあ、手を洗って、食事にしましょう。洗面所はあっちよ」

 ご丁寧にタオルまで渡されて、イリアスはしぶしぶ洗面所に向かった。つい3時間前にはじめてあったばかりのこの亡命者である少女が、なぜ自分にかかわって来るのかまったく理解できなかった。罠か、とも思ってみたが、目の前の少女からはおよそ邪気が感じられなかった。16歳前後と思われる、自分よりは年下であるだろう彼女が、いったいどんな罠を仕掛けて待っているのだろう?―もちろん、そんなことは自分の勝手な思い込みであるかもしれない。まったく無邪気な顔をしていて、実はスパイだということは珍しいことではない。何にせよ、警戒をするに越したことはなかった。

「食べましょうよ、いただきまーす!」

 洗面所からもどってきたイリアスを待ちかねたようにトゥナが手を胸の前で合わせる。東洋式、といわれる食べ方だ、と思って、イリアスは彼女の向かいの席に腰を下ろした。
 実際、料理はとてもおいしかった。トマトソースで煮込んだヤリイカ、焼きたてのフォカチオ、マッシュポテトのサラダ、そしておいしい紅茶。―イリアスはそれほど紅茶が好きではなかったが、この紅茶ならいくらでも飲めると思った―トマトソースひとさじも残さず、きれいに平らげられたお皿を前に、トゥナは満足げな笑みを浮かべた。

「どう、私の料理。お口に合ったかしら?」
「…うん、おいしかった。ありがとう」

 素直に感謝の言葉が口を突いて出た。おいしい食事は、心を豊かにするというのはいつの時代でも永遠の真実である。

「ねえ、私のこと聞かないのね」

 紅茶を淹れなおしながら、トゥナはイリアスに尋ねた。みる人が見たら、彼女の紅茶を入れる腕前が、ユリアン=ミンツのそれと、大差ないほどの名人芸だということが即わかるであろう、見事な手さばきである。

「…聞いても、仕方ないから」
「あら、どうして?」

 うかつな発言にイリアスは内心冷や汗をかいた。どこかで心のたがが緩んでいたに違いない。聞いても仕方ない…それは彼の本心であった。復讐を遂げることだけが、それが彼のただ一つの願いであり、望みであり、生きる希望であった。それだけに彼は心のすべてをささげていた。他人が入り込む余裕などあるはずがなかった。

「あなたってなんだか不思議なひとね。―何かこう、いつも思いつめている」
「いつも、だなんて、君に会ったのは今日が初めてだよ」
「まー、そうなんだけどね―…」

 あなたにとってはね、トゥナはそう小さくつぶやいて、再びイリアスの顔を眺めていた。

 あなたは知らないでしょうけれど、私の家の隣にやってくる、帝国からの亡命者。バグダッシュ中佐は、あなたの何かを感じ取って、特別に監視を強化した…あなたが手術を受けたあと、麻酔から覚めた後、集中治療室から出たあと、一般病棟に移ったあと、ことあるごとに私は、あなたを観察してきた。
 いつもいつもいつもこころと身体に見えない壁を取り付けて、あなたは一人で思いつめている。
 その壁が何のために取り付けられているのか、その壁の向こうにあるものはいったい何か、危険な芽は少しでも早いうちに摘み取らなければならない。

「こんな美女が部屋にあなたを招待したの、光栄なことだとは思わない?」
「光栄だと思ってるよ」

 わざわざ話が続かないような言葉を選んでいるイリアスをやはり面白そうに眺めながら、トゥナはあちらこちらから彼に切り込んでいく。イリアスとしても、彼女の相手をする必要はないのだが、巧妙に引き止められて、未だ席を立てずにいた。

「あなた、ヴェスターランドから来たんでしょう。ブラウンシュヴァイク公を憎んでる?」
「…もちろんだ」
「殺したいほど?」
「殺したいほど」
「でも、彼はとっくに死んでしまったわ」
「…ああ、だから生き残ってしまった僕たちは、ローエングラム公を憎むしかなかったのさ」

 深い絶望の影が見えるその言葉の隙間に、わずかな違和感をトゥナは感じ取っていた。ローエングラム公を、憎んでいるという彼の言葉に。



VI


「薔薇の騎士に入隊したいといってるのはおまえか」

 守衛に1回、受付で1回、2階の入り口に立っていた警備兵に1回、部屋の扉の前の警備兵に2回(これは二人いたからだ)同じことを聞かれ、同じ返事を繰り返してきたイリアス=リアはいいかげんうんざりしながらも、目の前の大佐の階級をつけた男に、できる限り丁寧な口調で答えた。

「はい。ぜひ入隊させていただきたくお訪ねした次第です」

 麦わらのような髪を少し伸ばしたその男は、一瞥をくれたきり、自分のほうを向こうともしてくれない。

「僕は、いや私は、帝国からの亡命者です。同盟軍で一番亡命者を受け入れてくれるのはこの部隊だとお伺いしています」
「そりゃ、おれたちは帝国からの亡命者集団だからな」

 麦わらの髪の男のとなりに立っていた恐ろしく図体の大きな男が、嘲笑混じりに言葉を吐き出す。律儀に身分証を胸に着けていたため、イリアス=リアはその男の姓を見て取れた。―ゼフリン少尉、という名前を確認し、めげずにいるフリをして、イリアス=リアは言葉を続けた。

「私はどうしても、この部隊に入れていただかないといけないのです。そうでなければ、命の危険を冒して同盟まで亡命してきた意味がありません」
「―復讐のために、わざわざ危険を冒して亡命し、そして見事復讐を成し遂げる、か。泣かせる話だな」

 麦わらの髪の男が、まだあさっての方向を向いたまま、熱のない声でイリアス=リアの言葉の裏を読み上げて見せた。―これくらいの反応は、予測された範囲の中であった。薔薇の騎士、その部隊の性格ゆえ、帝国軍からも、そして同盟軍からも、畏怖され、時には(それどころか始終)疎まれる存在。そんな中で彼らは、帝国、同盟、両軍に、自分たちの部隊の存在意義を常に知らしめておかなければならない。誰からも侮られることなく。

 ―そのためには、当然排他的集団になってしまうのは自明の理であった。自分たちの部隊の存在を揺るがすような異分子は、受け入れられない。そうでなければ自分たちが滅ばされてしまう…

「そのとおりです。見事復讐を成し遂げなければ泣かせる話は完結しません」

 反論されるとは思っていなかったらしく、麦わらの髪の男はようやく顔だけイリアス=リアのほうを向いた。

「お願いです。リンツ大佐。私に、復讐の機会を下さい」
「…おまえが、復讐をするのはおまえの勝手だ。おれたちを利用するとはいい度胸だ」
「なんと言われようと、私はこの考えを改めるつもりはありません。どうしても、入隊をさせていただかないと、私にとっては何もはじまらないのです」

 真摯な訴えを聞くために、カスパー=リンツは、麦わらの髪の男は、イリアス=リアを向き直った。

 この機会を逃せば、イリアスの訴えは永遠に闇に葬られるだけであろう。どうしてもこのカスパー=リンツ、第14代薔薇の騎士連隊長の心を動かさなければならない。

「もう既にご存知かと思います。私たちが亡命してきた当初、私たちは誰一人としてケロイドの治療をしていませんでした。―もちろん、私たちがヴェスターランドの生き残りだということを証明するため、というのが一つ。もう一つは、この傷を見るたびに、自分の目的を忘れずにすむからなのです。
 ―私の父は、一瞬のうちに蒸発しました。影すら、残りませんでした。そして、そんな父の姿など、帝国のほとんどすべての人々は知らないまま、あのローエングラム公を崇拝している…
 それなら、私が、ローエングラム公を打ち倒さなければならない。華麗さに目のくらんだ、民衆など当てにはできないのです…」

 熱弁を振るうイリアス=リアの言葉は、カスパー=リンツの心を強くノックするものであった。しかし、リンツもまた、彼の言葉に小さな違和感を覚えていた。ローエングラム公を倒す、というその言葉に。

「…立派な弁舌だ。それに扇動されない人間はなかなかいないだろうな」
「…リンツ大佐」

 ここで引き下がるわけには行かない。とにかく、このリンツの壁すら突破できなければ、薔薇の騎士の前連隊長、ワルター=フォン=シェーンコップの壁など、手をかけることすら許されないであろう。

「ならばおまえに聞こう。おまえは、復讐のために我々を利用するといったな」
「はい」
「それはそれでおまえの勝手だ。我々に危害を及ぼさない限り、おまえがのたれ死のうと、復讐を遂げようと知ったことではない」

 ざわめきが、リンツの周囲から立ち上った。これはつまり、間接的にイリアスの入隊を認めたということであろうか。
「しかし、我々は白兵戦の専門集団だ。分かっているな?」
「はい。もちろんです。だからこそ、私はローゼン・リッターに入隊を希望したのですから」
「『私にとっては、ローエングラム公をこの手で打ち倒すことだけが望みなのですから』だろう?ちがうか?」

 リンツに台詞を先読みされて、イリアスは困惑した。そのとおりの言葉を続けようとしていたからであるが、再びそんなに簡単にリンツによまれてしまうような言動を取っただろうか。しかし、その困惑を微塵も顔に出さず、イリアスは、肯定の返事を返す。

「そのとおりです」

 …リンツは、自分のこころに覚えた疑惑がまた少し広がっていったことを自覚した。よく練られた台詞。誰にも疑われることがないだろう完璧な論理。しかし、それはリンツの予想の範囲内で行われている…

「成程。確かに我々の部隊は人殺しには最適の部隊だ。戦闘中ならいくら人を殺しても何も言われない。しかも、その相手がローエングラム公とくれば、同盟にとっては最高の殊勲だ。
 だが、一直線にローエングラム公に進めるわけではないぞ」

 そこで少し息をついて、リンツはなおも言葉を続けた。

「殺さなければ殺される。艦隊戦の砲手などとちがって、我々はこの手で相手を血の泥濘の中に叩き込まなければならない。―腕を切断されても、腹を切り裂かれて内臓をはみ出させながらも、トマホークを振りかざしてくる相手の頭を打ち砕かなければならない。
 当然、相手は何のうらみもない、ただの帝国軍の下っ端兵士だ。もしかしたら、帝国に住んでいたときの隣人かもしれない。恩師かもしれない。そして、そいつらがもしかしたら死にかけたときに、おまえに命乞いをするかもしれない。『お願いだから命だけは助けてくれ。おまえも元は帝国軍人だろう』とな。  それでもおまえは何の躊躇もなくその相手を殺すことができるか」

 顔の前で手を組み、リンツはイリアスを凝視しながら言葉を区切った。

 まったくそのとおりである。復讐の相手はたった一人である。しかし、その一人が只者ではない。軍の最高幹部。その前には打ち倒さなければならない「敵」は山ほどいるだろう。そしてその「敵」はイリアスに害成すものではないはずだ。顔も知らなければ名前も知らない相手がほとんどであろう。その人たちの人生を、自分の復讐のためだけに断ち切り、そしてまたイリアスと同じような子供を量産していくことになるであろう。
 なぜなら、そんな顔も知らなければ名前も知らない、何の恨みもない相手を殺さなければ、イリアスが目的を遂げる前に彼らに殺されてしまうだろうから。
 たとえそれが、親しい友人であっても、尊敬した先生であっても、イリアスは、間違いなく躊躇なく相手を殺す自信があった。イリアスにとって大切な、何より失いたくなかったものを、奪った人間に対する復讐は…

「もちろん、殺します。私は私の目的を遂げるためならば、手段は選びません」

 …所詮、戦争とはそういうものだ。憎しみが憎しみを呼び、大切なものを奪われた人間だけを量産する。相手をどれほど殺したからといって、大切なものは決して帰ってこない。誰かが、その憎しみの輪を断ち切らなければ、いつまでたっても戦争はなくならない。…しかし、イリアス=リアは、自分がその憎しみの輪を断ち切る人間になろうとは微塵も考えていなかった。そんなことは、不可能であった。自分にとっての一番輝いていた日々。幸せの中ですごした記憶は、うせることはなくても、増えることもなかった。

「…分かった。入隊を認めよう。明日9時に、準備をしてまたここに来い」

 喜びを隠し切れない一礼を残して、歩み去るイリアス=リアの背中を見ながら、ゼフリンはリンツに尋ねた。

「隊長、あんなやつを入隊させてしまってよかったんですか」
「…やつは、薔薇の騎士に入隊させておかなくてはならない。我々の手の内に置いておかなくてはいけない人物だ…」

 そう言ったきり、考えに沈むリンツの心の声と、同じことをゼフリンもまた考えていた。

 ―…手段を選ばないのであれば、帝国に残ってローエングラム公に近づき、彼一人をテロの対象としたほうが、よほど容易なのではないのだろうか…―



VII


「きいたわよ。薔薇の騎士に入隊を認められたんだってね。しかも、あの、リンツ隊長を説得して!」

 …どうしてこの少女は自分が家のドアに手をかけるのをはかったかのように隣から出てきて、自分に話し掛けえてくるのだろう…

 イリアス=リアは真剣に考えた。

「すごいじゃない、あなたって。リンツ隊長は甘い人ではないわ。よっぽどあなたの何かが気に入ったんでしょうね」

 それに、なぜここにこうやって情報が回っているのか。ローゼン・リッターのオフィスでのみ交わされた会話の内容を、どうやらこの少女は完全に知っているようである。

「お祝いをしなくちゃね。やっぱりオマール海老かなあ…」

 今日も、自分の家で夕食を取ることをまったく前提として話している彼女を前に、イリアス=リアは混乱してきた。
 本当に昨日、隣に引っ越してきただけの自分にこうも干渉してくる人間がいるとは、思ってもいなかった。ただ単にお人よしなのかもしれない。もしかしたらスパイなのかもしれない。どちらにせよ「自由惑星同盟に亡命を申請して、認められた」あとのイリアスのシナリオに、このような人間の存在はまったく考慮に入れられていなかった。
 当然、スパイの存在には十分すぎるほど留意していた。スパイと呼ばれる人間がどのようなものか、大体はわかっていたつもりである。自分の周りに近づいてくるであろう、スパイに対するシナリオはいくつも用意していた。しかし、こんな風に、あまりにあからさまに毎日近寄ってくる人間の存在は…

「予測できたほうが馬鹿か」

 …口の中でもごもごつぶやいて、イリアスはソファーに身体を沈めた。自分のシナリオですべてを判断してしまってはいけない。動揺が、必ずほころびを呼ぶ。自分の力の及ぶ範囲でなければ自分に予測が立たないのはあたりまえだ。自分の予測がすべて当たるなどと思っていては、目的を達することなどけしてできはしないだろう。

「…何か言った?」

 食欲を誘う、きのことしょうゆの混じったいい匂いをまとわりつかせながら、トゥナがこちらを振り返った。

「…なんでもない」
「人生、受け入れることが肝心よ」

 にっこり微笑んで、彼女はまたキッチンのほうを向き直った。青葱を刻むリズミカルな包丁の音が聞こえてくる。
 …何を、受け入れるというのだろう?なにものにもかえがたい、幸福な日々。父がいて、母がいて、そして幼い弟がいた。父は、大きくて、暖かで、そして誰よりも強かった。一瞬のうちに蒸発するような死に方をするような人ではけしてなかった。どんな戦いに出かけても、父は必ず帰ってきてた。―空戦隊でいたころから、死の深淵を面白そうに覗き込んでは帰ってくるような人だった―と母がいつも言っていた。その顔は誇らしげで、自分のことを語るように輝いていた。イリアスは、そんな母を見るのが大好きだった。

―そして、運命のその日―

 運命というのもおこがましい、神がいたとするならばそれは悪意をもって押し付けてよこしたとしか思えない、一片の通信文。…そして、疑いようのない、メックリンガー提督の言葉…

 父は、強かった。誰よりも強かった。空戦隊から艦隊指揮官に抜擢されること自体まれだが、父は、それをやってのけた上に、数々の武勲を自分の手でもぎ取り、ローエングラム公の幕僚として地位を固めてきたのだ。

 大敗し、ローエングラム公の常勝の伝説に傷をつけた―――

 父はおそらくそのことを悔やんで悔やんで、悔やみながら蒸発していったのだろう。魔術師、といわれる男の頭脳を予測し切れなかった自分を許せずに。
 父自身は魔術師と呼ばれる男に恨みなど一片も持たずに死んだに違いない。自分の力が及ばなかった、とそこはいっそ潔いくらいに割り切って、負けた自分を、多くの部下の命を守りきれなかった自分を、せめて、せめて、責めて…

 だが、自分はどうすればいい?

 幸福な時代を奪った男。この宇宙でただ一人の魔術師。

 大切なものを奪われてしまった自分のこの思いを、いったいどうすればよいのだろう?



―仕方ないよ、運命だから。人は、誰だって死ぬんだから。

 自分の中のもう一人の自分が、話し掛けてくる。

…そう、それはそのとおり。人は誰だって必ず死ぬ。しかし、その命を奪ったものがそこに存在しているとすれば…?

―今は、戦争中だよ、世の中に、そんな人なんてごまんといるよ。

…それだって、分かってる。何の憎しみもない人間が殺し合い、知らないうちに、まったく知らない誰かの大切なものを奪っていってしまう。だけど、…

―自分だけは特別?奪われた大切なものを取り戻す権利があると思っている?

…あの男がいなければ、大切なものを失わなかったのは確かだ。

―彼がいなくなっても、大切なものはもどってこないよ。

…じゃあ、どうするんだ?この気持ち、この感情!かけがえのないものを失って、なおへらへら笑って、忘れて生きてろ、って言うのか?!何をどうしたって、父は戻ってこない!母の笑顔も戻ってはこない!!!だから、何もするなって言うのか?無駄なことなんて何もするなというのか?

―また、君を殺そうとする人間が増えるよ。いつまでも、つながっていくよ。

…そこで殺されたらそれまでの人間だ。でも、僕はあの男を殺すまでは絶対に死なない。死ねないんだ。

―まだ、人を殺したことがないくせに。自分の体を傷つけて、ケロイドをつくっただけで、実際に人をその手にかけたことがないくせに。よく殺すだなんて簡単にいえるね。

…!

「…どうしたの、具合、悪いの?」

トゥナのこげ茶色の瞳が目の前にある。イリアスは、虚をつかれて、思わず立ち上がった。

「ずっと、怖い顔して黙ってるから…ご飯、できたよ。食べましょうよ」
「・・あ?あ、ああー」

 わかったようなわからないような返事をして、イリアスは、座りなおした。

「オマール海老のね、コキールを作ったのよ。お口に合うかしら」

 そこでふと我に返る。なぜ、自分はここに座って、彼女が料理を作るのを待っているのであろう。

「…悪いけど、今日は帰る」
「あら、どうしたの?」

 微笑みながら問い返す彼女に険しい視線を向けると、イリアスは上着を取り、玄関に向かった。

「せっかく夕食ができたのに。食べていけばいいのに」
「ごめん、君にそこまでしてもらう義理はないし」
「すごいいいようね。―――復讐を遂げるまでは、誰にも心を開かない?」
「―そう思うんならそう思っていてくれよ。それで僕はかまわないから」
「ふ――ん、それで、私のことをスパイだって疑ってるのね」

 …さりげなく落とされた爆弾は、イリアスの足を止めることに成功した。



VIII


「エル=ファシルでの訓練、無事終了いたしました」

 麦わらのような髪をしたカスパー=リンツの前で敬礼をして、ライナー=ブルームハルトは、そのこげ茶色の髪をかきあげながら帰還の挨拶をする。

「…おかしなのが一人入った」

 リンツがほんの少し深刻そうにブルームハルトに告げる。

「ま、新人教育はおまえさんの勤めだからな」

 デスクに座りっぱなしで行儀悪くベレー帽をぐるぐる回しながら、―明らかに、この要塞司令官の影響であるが―リンツが有無を言わせぬ視線をブルームハルトに投げつける。

「はあ…」

 リンツがそういって押し付けてきた新人のリストを脳裏に浮かべ、ブルームハルトはあきらめきった表情で命令を受領した。大体、リンツが不在のときは薔薇の騎士連隊連隊長代理を任されているブルームハルトをたった一人の新人教育に差し向けるなどという人的資源の浪費は許されざる暴挙である。
 普通の、新人教育係は、クラフトとクローネカーという立派に民間でも教師としてやっていけるであろう―確かに年に30回くらいは暴力問題を起こす可能性は否定できないが―人材が既に確保されていたのである。

 リンツが課した自分への無言の命令を、ブルームハルトは十分に承知していた。

 ――――監視せよ。

 ブルームハルト兄妹に監視されるとは幸せな男である。これがあの帝国のオーベルシュタイン上級大将であった利したならば、イリアスの監視され生活は最初の第一歩を踏み出すことすらかなわなかったであろう。

「…そんなに、監視の才能あるかな、俺って」

 口の中でぶつぶつ言いながら、オフィスで待っているというイリアス=リアのところへ、ブルームハルトは歩いていった。

「イリアス=リアとはおまえさんか」

 本人はシェーンコップを意識していったつもりではあるが、はっきり言って童顔のブルームハルトが重々しい口を聞く、という行為自体が無茶なのである。
 声をかけられた本人は緊張した面持ちをしながら振り返ったが、その表情は途中で微妙に変化した。
 自分の目の前に立つ若々しい青年が吐くような台詞ではない、といいたげであった。

「おれは、今日からしばらくおまえさんの上司になるライナー=ブルームハルトというものだ」

 そういってブルームハルトは右手を差し出した。
 イリアスは、ブルームハルトの少佐を示す階級証に驚きの表情を一瞬浮かべたあと、「よろしくお願いします」といって右手を差し出した。ごく軽く握られたであろうその手の握力に今度ははっきりと驚愕の表情を浮かべイリアスは、目の前のこげ茶色の瞳を見つめた。
 …どこかでみた、そのこげ茶色にイリアスはしばらく記憶の回廊をうろうろと歩き回っていた。

「――ま、妹が世話をしてやってるらしいけどな」

 逡巡しているイリアスに、面倒くさそうにブルームハルトは説明してやった。

「ブルームハルト、って姓はなかなかいないぜ。特に、この、同盟ではな」

 …普通姓を聞けば気づきそうなものを、説明してやるまでわからないというこの男にいったいどれだけの監視する価値があるというのだろう。リンツにしろ、バグダッシュにしろ、ブルームハルトには用心も度をすぎているような気がしてならなかった。
 しかし、そう思うブルームハルトの一方で、脳裏に危険信号を灯すブルームハルトも確かに存在した。目の前のイリアス=リアという男からは、強い復讐の意志と―――隠し切れない育ちのよさ―上品さ、がにじみ出ていた。
 ヴェスターランドは辺境の惑星である。辺境というものはえてして貧しいものだ。人々は生活するために、必死に成って働き、そして死んでいく。食う以外に使える金が手に入らないのだから当然である。だが、イリアス=リアはそのヴェスターランドから亡命してきた、というわりには気品がありすぎた。平民の名前をもつ、育ちのよいお坊ちゃま…バグダッシュがかんじたという違和感、何か、その集団からは浮いている、といったような、も、そこからきていると思われた。
 当然イリアスも、馬鹿でもなければ正体はなかなかばれないと思い込んでいるほどおめでたくもなかったので、その辺は十分注意していた。できる限り、平民らしく、貧乏らしく…―
 しかし、ブルームハルトの鋭敏な洞察力はそれをしっかり見抜いていた。
 朝起きれば、あたたかい朝食が彼を待っていた。幼年学校に通うときには専用の地上車が家の玄関から学校の玄関までを送り迎えしてくれた。何かを買うときに「並んだ」記憶もなかったし、外食するときはウェイターが椅子を引いてくれるようなところにしか行ったことがなかった。
 ブルームハルトの危険信号は完全に正しかったが、それを表情に微塵もだすことがなく、彼はイリアスを訓練センターへと連れて行った。
 装甲服を着せ、戦闘用ナイフを持たせると、ブルームハルトは自身は迷彩服に着替え、低重力野外訓練室へと階段を降りていった。
 イリアスは、慣れない(普通はいきなり装甲服を着せられるようなことはない)装甲服をガチャガチャいわせながら3重のドアを順にくぐっていった。くぐるたびに装甲服は軽くなるが身体もまた綿を踏んでいるかのように不安定に感じるようになった。

「まあ、最初だからな」

 ブルームハルトはそういって歩きにくそうにしているイリアスを振り返った。

「今からおまえに30分やる。1度でもいいからおれを殺してみろ」

 ブルームハルトは手に武器を持たず、ライフルもブラスターも下げてはいなかった。―――ゆるぎない自信。イリアスごときには決してやられないという―――それを見ただけでイリアスの心は戦慄を覚えた。
 しかし、イリアスはもともと低重力下の動きのほうこそ慣れていた。ぎこちなさを1分で解消すると目の前で腕組をしているブルームハルトめがけて戦闘用ナイフを突きつける。
 ハエでもかわすような身のこなしでブルームハルトはそのナイフを避ける。

「なんだ、おまえ、復讐復讐と大言壮語して、おれにこんなに簡単によけられてどうするんだ」

 イリアスは無言で2度、3度とナイフの突きを繰り返す。ブルームハルトはまるで動じた色を見せず腕組みすらとかないままだ。
 しかし、イリアスは微妙にナイフを突き出す角度を変えていた。ごくわずかにブルームハルトの左側に回るとそれまでとはまったくスピードの異なる突きをまっすぐブルームハルトの心臓めがけて突き出した。常人ならばおそらくその一突きで心臓を抉り取られたであろう一撃はしかし、腕組みすら解かないままのブルームハルトに軽くかわされた。

「意図が見えみえなんだよ」

 渾身の一撃をかわされつんのめったイリアスの装甲服の継ぎ目にブルームハルトの手刀が振り下ろされる。

「30分以内におれを殺せるようになるまでは勝手に自分で訓練することだな」

 ただの手刀の一撃で地面にはいつくばったイリアスにブルームハルトは一瞥もくれず、3重のドアをくぐりさっさと訓練センターを後にしてしまった。


IX


「意図はわからんがとにかく危険分子なことは間違いないわけか」

 薔薇の騎士のオフィス近くにあるバーで、後にローゼンリッターの歴代の連隊長の中でも最強を誇るとうたわれた3人――、シェーンコップ、リンツ、ブルームハルト、が酒を片手に、彼らが引き取った危険分子であるところのイリアス=リアについて討論をしていた。

「いいところのボンボンですよ。あれは」

 2杯の大ジョッキをあっという間に空にして、(なぜバーでビールなんか飲んでいるのか、というのは置いといて)ブルームハルトは告げた。

「シェーンコップ少将よりよっぽど、ですね」と付け加える。

 帝国騎士の貴族の称号を持つシェーンコップはお気に入りのバーボンをグラスに満たし、面白そうにブルームハルトに答えた。

「まあ、おまえさんがそうにらむなら、間違いなくそうだろう。問題は、そのいいとこのボンボンがなぜ危険を冒して、見事なケロイドをつけてまで亡命してきたか、だ」
「…復讐の意志は間違いないでしょう」

 リンツが、赤ワインを自分で自分のグラスに注ぎ、舌の上で転がしながらつぶやく。

「復讐心に軍服を着せて、少々品よくしてやったらやつが出来上がりますよ」
「…誰を相手の、復讐か、というところだな」

 シェーンコップの持つグラスの中で、氷がカラン、と音を立てた。

「ローエングラム公に対してではないな。本人はそういっているし、その理論も完璧ではあるが」
「いいとこのボンボンなら、いくらでもローエングラム公に近づくチャンスはあったでしょうからね」

 立て続けに大ジョッキをあおるブルームハルトは、別に酔った風でもなくリンツの言葉を補足した。

「…となると、やはり同盟か」

 シェーンコップがグラスを目の高さに掲げ、そばをとおる女性にウインクを投げかけながら言う。

「誰だかまったく検討つきませんな」

 恨まれる相手が多すぎて、と唇をゆがめてリンツが苦笑する。

「しかし、まあ、おれたちの仕事は、何はさておきヤン提督を守ることだからな。おれや、おまえさんたちが死のうが、イゼルローンがまた帝国軍の手に落ちようが大勢に影響は出ないが、ヤン提督はな」

 およそイゼルローン要塞防御指揮官の言葉とも思えないシェーンコップの言葉に、残り二人も熱心に賛同する。ただ、例えばこの場にアッテンボローなどが同席していたとすれば、そんな言葉は間違っても吐かれていない筈だ。ヤン=ウェンリ―を「守る」などという甘い言葉は死ぬほどこの男たちには似合わない。自分の身ぐらい自分で守れないやつが軍人をやっていること自体がおこがましい、と公言してはばからない彼らの唯一の例外が、ヤン=ウェンリ―であった。他の人間ならいくらのたれ死のうが、暗殺されようが彼らにとってまったくどうということはないだろうが、ヤン=ウェンリ―はまちがいなく、特別な存在であった。薔薇の騎士の存在意義を見事なまでに帝国、同盟両軍に知らしめたのは、ヤン=ウェンリ―その人であって、それ以外のなにものでもなかった。
 いつか、きっとヤン=ウェンリ―も死ぬときがくる。このお祭りにも終わりを告げるときがくるだろう。不老不死など微塵も信じていなければ、軍人などはやっていられない。
 しかし、このお祭りが終わる時期を少しでも遅らせることができるのならば、それはきっと面白い人生を送ることと同義語なのだ。飼いならされた豚でいるくらいなら、野生のままの狼としてのたれ死ぬほうがよっぽどましだ。

「MPなんぞはあてにならん。ユリアン坊やも今はフェザーンだ。
…なんせあの人が生きてないと、これから将来、面白くないからな」

シェーンコップの言葉の無言の間に、リンツとブルームハルトは同じ色をたたえた瞳で暗黙の了解を取り合った。

 ただの手刀の一撃で―ことさらブルームハルトが力を入れたわけではない―叩きのめされたまま転がっていたイリアスは、自分の頬を流れるものの感触で我にかえった。
 ブルームハルトの姿はそこからとっくに消えている。疑いようのない完敗であった。
 装甲服をつけず、武器すら持たない相手にかすり傷一つつけることもかなわず自分はこうして地面にはいつくばっている。

「復讐なんて、1万年早いってことか…」

 自嘲気味につぶやくイリアスの頬をまた何かが流れ落ちていった。

情けない、情けない、情けない。

 ケロイドをつけ、同盟に潜伏し、薔薇の騎士に入隊することもかなった。

 ここまであまりに自分の思惑通りにコトが進んでいったため、イリアスはそれを自分の才能と勘違いしてしまっていたようだ。
 これならすぐに、復讐を遂げることができる。母の悲しみを少しでも和らげることができる――――
 …少々浮かれ気味の頭を冷やすにはよい機会であったかもしれない。だが。

 情けない、悔しい、どうしようもなく…

 ヘルメットをつけたままほおを何かが流れていく感触にしばらく身をゆだねていたイリアスは、自嘲のため息を一つついた後、のそのそと起き上がり、戦闘用ナイフを地面に突き立てて、悔しさを表現した。
 そんな行為自体が未熟さをさらけ出すものだと分かってはいながらもイリアスは、頬を流れていくものを振り払うためにめちゃくちゃに戦闘用ナイフを振り回していた。





 …それから1週間、イリアスは薔薇の騎士のオフィスには朝と夕方顔を出してブルームハルトに挨拶をするだけで、あとは勝手に訓練施設で訓練を続けていた。
 あそこまで完璧に見事なまでの敗北を喫しながらも1週間まだ持っている、ということにブルームハルトは興味を抱いた。彼が押し付けられてきた胡散臭そうな新人リストに、「1週間たってもまだ薔薇の騎士に残っている馬鹿なやつ」の名前はめくってもめくっても滅多に発見することはできなかった。
 それなりに自分は強い、と自負を抱いて入ってきた鼻っ柱をへし折られ、周りの隊員からは冷酷な視線を投げつけられ、当の上司のブルームハルトもまったく何の指示も出してはくれない。オフィスに居場所があるわけでもなく、訓練施設でも当然邪険に扱われた。亡命してきたばかりで身も心も疲れきり、自らが除隊したいと申し出るのがほとんどの取る道であった。
 しかし、イリアスは何も言わずにその状況を受け入れている。

「あと何日持つか、だな」

 ブルームハルトは挨拶をしに入ってきたイリアスに適当なあいずちを返したあと、一人ごちた。

「まあ、1ヶ月持てば考えてやらんでもないがな」

 完全にイリアスの背中がドアの向こうに消えたあと、ブルームハルトはそう決めることにした。
 とにかく、監視が必要な人間であることには違いない。それならばいっそ、ブルームハルトのそばに置いたほうが楽には楽だ。

「トゥナでもなかなか落とせないんだからな。泣けるくらいの復讐心だね」

 その復讐の対象が一体誰なのか、彼の妹にも未だ確認することは困難なようだった。


 勝手に訓練をして、勝手に帰る。

 そんな生活をしばらく続けながらイリアスは考えずにはいられなかった。
 どうしたら、できるだけ早く薔薇の騎士の一員だと認めてもらえるのか?
 どうしたら、できるだけ早くあの魔術師の身辺に近づくことができるのか?

 自分はそれなりに強いと思っていた。低重力下の動きにはなれているはずであった。
 だが、そんなものは戦場の勇者相手には何の役にも立たなかった。
 恐ろしいまでに人殺しを重ねてきた相手…およそ普段のブルームハルト―童顔のくせにやけに深刻ぶりたがる―からは想像もできないが、間違いなく彼は「殺人犯」なのである。しかも、一人や二人ではない。戦場で彼に直接殺された人間は何人いるのか数えられたものではなかった。

 何度でも確認すべきことだが、戦争とは、殺すか、殺されるかのどちらかだけであるのだから。

 そうであるなら、自分は、この復讐を成し遂げるまで殺されるわけにはいかない。―――つまり、誰かを殺しつづけなければならない―――そんなあたりまえのことをなぜ自分はこう何度もくりかえし確認しなければ気がすまないのだろうか。自分は、あの母の悲しみを少しでも和らげるため、そしてこの自分の悲しみを少しでも癒すため、この復讐を遂げなければならないのだから。

 そんなことを思いながら、薔薇の騎士のオフィスの前を歩いていたイリアスの目に見慣れたこげ茶色の髪に赤いメッシュが飛び込んできた。
 同盟に亡命して間もないイリアスの目に見慣れた相手は、あるビルの目の前で腕組みをして立っていた。
 時刻は21時である。そのビルの前には、いつの時代にもいなくならない派手な刺青や派手な髪型や派手なチェーンを身にまとったごろつきどもがたむろしていた。
 そのごろつきどもを意に介するどころか、そいつらに向かい、「はい、道開けてねー、人が通るから」などと言ってのけるその相手をイリアスは少し驚いて見つめていた。そんなやつらと関わり合いになると多分まったくよくないことが起こりそうだ。
 ―――危なくなったら、助けるべきだろうか―――
 そんな風に思った自分にさらに驚いて、イリアスは驚いたままトゥナを見つめつづけていた。
 腕組みを解かないどちらかといえば華奢なトゥナがごろつきどもを牽制している。
 彼女より確実に1.5倍は身長があろうかという男たちに、決して物怖じをせず人が通る道をきちんと確保しているトゥナの横を14歳前後と思われる少年が通り過ぎていった。

「トゥナ先生、さようなら」
「さよ―ならv」

 語尾のハートマークが浮かんで見えるような弾んだ声でトゥナが返答する。
 その少年はぺこりと一礼したあと、トゥナのつくったごろつきどもの間の道をするするとぬけて小走りに走っていった。その背中にゆれるのは彼にとっては多少重そうなかばん。一体こんな時間にこんなところであんな子供が何をしているのだろう?イリアスは真剣に疑問に思った。

「トゥナ先生!」

 そばかすをのこした顔でレモンイエローの髪をなびかせた少女が近寄る。
 相変わらず腕組みをしたままのトゥナにまとわりつき、甘えるような仕草で二言、三言、会話を交わす。そして、やっぱり笑顔でトゥナに向かい手を振りながら去っていった。
 …とそこで、運悪くその少女がごろつきどもの一人にぶつかる。

「ご、ごめんなさい…」

 あわてて少女があやまるが、ごろつきどもは大挙してその少女の周りに寄ってきた。

「おじょーちゃん、どこに目えつけてんだよ」

 自分より明らかに弱い相手にわざわざ凄みを利かせて自分の力を誇示したがっている馬鹿なやつが少女に言葉を投げつける。
 ―――面倒なことにならないうちに、やつらを退散させるか―――
 イリアスはそう思って、少女のほうに歩いていこうとした。

「はいはい、ごめんなさいねー。ついうっかりぶつかっちゃったんだけど、許してあげてもらえるかなー」

 その声が聞こえてイリアスは足をとめた。見れば、トゥナがその少女を守るようにごろつきどもの間にわって入り、先ほどの馬鹿なやつを思い切りにらみつけながら言葉を発した。

「ほ―――、ぶつかってきたのはこいつだぜ」

 自分よりはるかに身長の低いトゥナを見下し下品に唇の端をめくりあげてその馬鹿なやつは言った。
 トゥナは相変わらずにらみつける視線をはずさない。
 イリアスはそんなトゥナの行動に心がざわついていることを自覚し、なぜそんな風に思うのか自分が理解できずにいらつき、ただ結局とりあえず目の前の状況をほおっておくことはできないと思い直すことにして、今度こそ足を踏みだした。

「―――おい、ちょっと待て」

 その声はごろつきどもの中からきこえた。

「…トゥナ先生か…?」
「…誰かと思えば。ミル。君、こんなところで何してんの?」

 相変わらず腕組みを解かないままトゥナは声を返した。

「先生、俺の名前覚えてくれてたんだ」
「忘れるわけないでしょう。心血注いで君の数学、私がみたんだから」

 そう言って笑ってミルと呼んだ男の前に近寄る。

「…何やってんの。自分より明らかに弱い小さな子供を恫喝してストレス発散?」
「何だ貴様は!」

 ごろつきどもの間から怒りの声があがる。殴りかかろうとするものもいた。

「―――待てよ」

 ミルが周りから立ち上る怒気を静止した。

「この人には、俺たちが束になってもかなわないぜ。行こう」
「なんだよ、ミル!怖気づいたのか!?」
「―――どうしても、って言うなら俺は無理にとめないけどな。やめといたほうが無難だろうよ」

 そう言って、くるりと背を向けて、ミルはその場を立ち去った。ごろつきどもが虚をつかれた表情でしばらく顔を見合わせたあと、あわててミルのあとを追う。とりあえず「覚えてろよ」という捨て台詞は忘れずに置いていったが。

「…トゥナ先生、ありがとう…」
「怖い思いをさせちゃったね。ごめんね」

 そこではじめてトゥナは腕組みを解き、その少女のレモンイエローの頭をぽんぽん、とたたいた。

「ううん、大丈夫。先生がいてくれたから」
「気をつけて帰んなさいよ」
「うん、先生、さようなら」

 レモンイエローの髪を揺らし、その少女が去っていってからトゥナはようやくビルの中に入っていった。
 イリアスは、自分が心配したことを思い切り馬鹿らしく思った。
 少し考えればわかることだ。
 亡命してきた少女だ。兄と二人暮しだ。
 後先考えずにけんかを吹っかけていれば亡命生活はそこですぐに幕を下ろすだろう。
 トゥナはきちんと計算し、勝てると思った相手だからこそあんな態度に出たのだろうから。

 まったく、どうかしている。

 自分は、復讐を遂げるために、そのためだけに亡命してきたのだ。

 そんなことをどうして何度も何度も自分に確認しなければいられないのだろう。



XI


「―――どうした?お前、トゥナと喧嘩でもしたのか?」

 薔薇の騎士のオフィスで、リンツは彼のもっとも信頼できる部下であるところのライナー=ブルームハルトの昼食を見て、素朴な疑問を口に出した。
 ついこの間、ブルームハルトが訓練を終えて帰ってきたばかりのエル=ファシルで、新兵の初歩的なミスによる弾薬庫爆発事故の後処理に追われまくり、気がつけばすでにあの胡散臭い新人を仮入隊させてから1ヶ月が過ぎていた。

 事故は、ブルームハルトが訓練を担当したグループではないグループの責任で起こったのだが、とにかく爆発物をすばやく取り扱える緊急部隊で、もっともエル=ファシルに近い集団として薔薇の騎士が選ばれてしまったのだ。イゼルローンからエル=ファシルまではどんなに急いでも3日はかかるというのに。
 その間、弾薬は燃えっぱなし、爆発のしっぱなしで放置されてしまうのだ。

「嫌がらせか?」

 シェーンコップはその命令をヤンが受領した時にその超光速通信が切られる前から大声を出して、国防委員会の通信官を鼻白ませた。

「念入りな嫌がらせだな。ここで部隊を出さなければヤン提督の立場が悪くなる。仕方なく我々を派遣すれば、薔薇の騎士といううざったい部隊も給料以上に働かせることができる。爆発物の事後処理におわれて誰かついでに死んでくれたらお上にとってこれほど都合のいいことはない」
「さすがですな。シェーンコップ少将。命令の否定的側面を切り取る力は他者の追随を許さないというところですな」

 シェーンコップの毒舌をムライの嫌味が切って捨てた。
 どのみち、シェーンコップに選択肢はないのだ。
 ヤンがこの命令を受領すると決めたのなら、それに従わなければならない。

「シェーンコップ少将、嫌な命令だけれど、まあ、悪いんだが薔薇の騎士を出してもらえないかな」

 ため息をついて、おさまりの悪い黒髪をかき回しながらヤンはシェーンコップを向き直って言った。
 もうすでにシェーンコップは薔薇の騎士の連隊長ではないのだから、ヤンはシェーンコップなど無視してそのままリンツに命令を下せばいいところを、ちゃんとシェーンコップを通すためにわざわざこんなところに、超光速通信の回路を開かせたのだろう。
 素直に受諾できる命令ではない。
 そんな任務は特殊部隊に任せておけばいいのだ。何故白兵戦の専門集団を技術的に困難な事故現場に投入しなければならないのか。
 未熟な技術は二次災害を必ず呼ぶ。
 おそらくこの任務でも何人かは必ず死者が出るだろう。

 それでもヤンにはこの命令を拒否することはできなかった。

 薔薇の騎士の次に、この事故の後処理をできそうな部隊は、数百光年の彼方にしかいなかった。

「…提督、あなたの命令だから我々は喜んでエル=ファシルに向かいましょう。そのことをお忘れなきよう―――」
「軍閥化の第一歩だな。トリューニヒト当たりがきいたら泣いて喜ぶだろうよ。ヤンを失脚させる材料ができた、ってね」
「…よくお分かりでいらっしゃる」

 シェーンコップは片唇を器用に上げてヤンのつぶやきにきっちり答えを返し、完璧な敬礼を一つ残して、司令官室を出て行った。
 そして、そこを出た瞬間、彼は精神のチャンネルを完全に切り替えた。

「いいか、ブルームハルトだけは今回の任務に同行させないように何とか理由を考えろ。やつには、やってもらわなければならない仕事があるんでな」

 自分の副官に命令を下して、自分は薔薇の騎士のオフィスに向かう。リンツを前にして、処理面での懸案事項を何点か話し合った後、ブルームハルトはあの胡散臭い新人の監視にここに残しておいた方がよいだろうという結論に達した。
 薔薇の騎士の大多数がイゼルローンを後にする。
 MPなんぞは何度も言うが役には立たない。
 あの新人が、活動をはじめるのには格好の機会だ。

「誰を狙っているかはしらんが、とにかく、ヤン提督だけは守らんといかん」

 めずらしく繰り返し確認するシェーンコップに、リンツは心の中で少し首をかしげた。ここまでシェーンコップがそれにこだわるということは、自分の敬愛するこの上官が、あの新人を、ヤン=ウェンリ―を狙った刺客と考えているということだろうか。
 灰色と茶色の中間の髪の毛を片手で撫で付けて、シェーンコップはそれ以上を語らなかった。


 おかしい。

 どうかしたのだろうか。

 ただ訓練に行って帰ってくるという単調な生活を続けていたイリアス=リアはここ数日の隣人の動向に戸惑いを隠せずにいられなかった。
 薔薇の騎士が大挙してエル=ファシルに動員されてしまっても、当然自分にはお呼びがかからない。
 何故だかよく分からないがブルームハルトだけは高級士官の中で一人イゼルローンに残って、がらんとした薔薇の騎士のオフィスを占領してよく分からない書き物をずっとしていた。
 こんなチャンスは滅多にない。
 ブルームハルトさえ攻略すれば、あの魔術師はその無防備な首筋をイリアスにさらしている。

 ――――なにが、ブルームハルト「さえ」だ。

 完膚なきまでに叩きのめされた記憶はまだイリアスの脳裏に新しすぎた。
 彼我の実力の差。

 その「さえ」の前の人物が、たった一人が、イリアスにはとてつもなく高い壁だった。

 いまはまだ早すぎる。
 焦って全てをなくすわけにはいかない。

 そう思った途端、隣人は全く姿をあらわさなくなってしまった。
 イリアスが部屋のドアを開けるのを見計らったかのように必ず出てきて、しつこく食事を勧めていた隣人は、ここ数日、気配すらも感じることがなかった。

 おかしい。

 どうかしたのだろうかなどと思う自分がおかしい。

 いったい自分は隣人の何を気にしているというのだろうか。
 兄の代わりに何らかの任務を負って、エル=ファシルに同行しているだけかもしれない。
 引っ越してきた隣人にもう興味を失っただけかもしれない。

   あのこげ茶色の髪に赤いメッシュの入った料理上手で世話好きの隣人の一体何に自分はこんなにこだわっているのだろう?




   ああ弟よ君を泣く
   君死にたもうことなかれ
   末に生まれし君なれば
   親の情けはまさりしも
   親は刃(やいば)を握らせて 
   人を殺せとおしえしや
   人を殺して死ねよとて
   二十四までを育てしや
          <<与謝野晶子「恋衣」 原文は文語だが、口語で表記>>



 …低いつぶやきがドアの外から聞こえてきた。
 イリアスは反射的に身を起こし、ドアを開けるために一直線に彼の部屋を横切った。



XII


 虚ろな顔をしてイリアスの部屋の前を横切ろうとしていた隣人は、イリアスが勢いよく自分の部屋のドアを開けた音に瞬間的に反応し、その虚ろな表情を一瞬で隠した。
 そして、肩で息をするイリアスのほうを向き直り、腰に手を当てて、「どうしたの?」ときいた。

「……いや、何でも、ない……」
「そう。連れて行ってもらえないからってふてくされてるのかと思っていたわ」

 腕組みをして横を向いてトゥナは少し笑い、そのまま手を振ってくるりと背を向けて歩いていった。

 何も言えずに、何も聞けずに、そのままトゥナを行かせてしまったイリアスは、そんなことになぜ自分がこだわっているのかさっぱり理解ができなかった。
 つい最近であったばかりの隣人が一体何をどうしようとそれは隣人の勝手である。
 しかし、ついこの間まで勝手に人の空間に割り込んできて、勝手に人のペースをぐちゃぐちゃにかき回して、さんざんまとわりついてきたのに、今度はまるっきり無視という手に出て、勝手に自分の心をこんなに乱れさせている。
 ――――だから、何か言ってやらないときがすまないんだよ――――
 という一言で、自分を納得させて、イリアスはトゥナの後を追うことにした。何か理由を見つけずにトゥナのあとを追うことは、なぜか、イリアスにはできなかったのだ…


 とはいえ、結局堂々と後を追うことができずに、こそこそと隠れて尾行している自分に気がついたとき、イリアスは盛大なため息をつくと同時に自嘲の笑みを浮かべ、半瞬後に自分を蹴飛ばしたくなった。
 何をやっているのだろうという疑問は先ほどから3000回は頭の中をぐるぐると回っている。

 自分は何のために同盟に亡命してきたのだ。

 敵を取るために、亡命してきたのだ。

 それ以外のことに時間をさくほど暇ではないのだ。全てをそれに捧げたとしても、あの黒髪の魔術師の前には高い高い壁がいくらでも存在していた。

 そんなことは分かっている。分かっているのに、イリアスはその歩みを止めることができなかった。その足は、自らの意思を持ったかのようにどんどんトゥナのあとを追いかけている。


 トゥナは花屋で花を買った。
 次に、おもちゃ屋で手のひらに乗るような小さな猫のぬいぐるみを買った。
 最後に、スタンドで水を買った。

 そして、繁華街からどんどん離れて歩いて行った。

 イゼルローンの地理に不案内なイリアスは、はぐれないようについていくのが精一杯だった。

 イリアスのことには気付いてない風にトゥナはどんどん街のはずれに歩いて行く。こげ茶色の髪の赤いメッシュを光に―――あくまで、人工太陽の光、ではあるが―――なびかせて、そこでいきなり歩みを止めた。
 緑色の小高い丘だった。眼下に繁華街を臨んでいる。
 そして、地面に埋め込まれているらしい石をそっと手のひらでなでて、トゥナはその前に腰を下ろした。

 そこは、間違いなく墓地であった。

 墓地には不似合いなほど緑の木々が繁り、陽光はたとえそれが人工太陽のものだとしてもきらきらと降り注いでトゥナを照らしていた。
 イリアスはまぶしくて思わず目の前に右手をかざしかけたが、何をまぶしいと思っているのか考えかけた瞬間羞恥に顔を真っ赤に染めて、そんなことをしようとした右手を左手で5回殴りつけた。


「バーンスタイン……」

 トゥナが低い声でおそらくその墓に入っている人物の名を呼んだ。
 墓の上から水をかけ、その石をそっと洗ったあと花を置いて、最後に猫のぬいぐるみを置いた。

「…あんなに、許さない、っていったでしょう」

 長いこげ茶色の髪が彼女の表情を覆い、イリアスからは彼女の顔がよく見えなかった。見えなかったが、僅かにふるえる語尾とその肩が、なんだかとても頼りなく見えて、とても小さく、華奢に見えて、イリアスは何もできない自分におろおろしてしまった。こんなところに突然出て行くわけには勿論いかない。

「…あんなに、私より先に死ぬのは許さない、っていったのに。勝手に死んじゃって私は置いてきぼりなのね」

 低くつぶやくトゥナの声だけがイリアスにとって彼女の心情を慮る唯一の手段であった。
 ……その続きを聞くのがなぜだかイリアスにはとても怖かった。
 しかし、聞かずにその場を逃げることもできなかった。
 彼女は、何か言おうとしている。
 墓に入っている人物に、何か言おうとしている。
 彼女にとってきっと、とてもとてもとても大切なその墓の――――――

 所有者の意思を先ほどから無視しっぱなしの両足は、まるでそこに根付いたかのように一歩もイリアスが動くことを許さなかった。

「好きだったら、私よりあとに死んでみせるんじゃなかったの……」

 隠しようのない嗚咽がトゥナの口から漏れた。


 人工的にコントロールされた雨雲が、いつの間にかその丘を包んで、針のような雨を降らせていた。
 イリアスは、呆然として、その場に座り込んだ。



XIII


「トゥナ」

 ライナー=ブルームハルトは生存する彼の唯一の血縁者である目の前の妹に向かって声をかけた。
 明日にはエル=ファシルに派遣されていた薔薇の騎士連隊が帰ってくる。そんな夕食の席だった。

「なあに、兄さん」

 フォカッチャ用のオリーブオイルと岩塩をしまいながら、トゥナは返事をする。

「何か出たか?」
「全然ダメ。兄さんこそどうなの」
「全然ダメだ。明らかに意図は見え透いているのに肝心なところが分からない」

 二人の兄妹に監視されている隣人の復讐の対象者はまだ明らかになっていない。
 薔薇の騎士が大挙していなくなったこの時期を狙って何らかの行動をおこすと考えていたライナー=ブルームハルトの思惑は完全に外れてしまった。
 全くおとなしくオフィスに出勤し、訓練場に移動し、訓練をして、オフィスに帰りの報告を入れた後はまったく自宅に閉じこもっているだけのイリアス=リアに二人は困惑を覚えていた。
 つけてある盗聴器の記録を見ても、パソコン、電話の通信記録にも何もまずいものはまじっていない。
 ヴェスターランドからの亡命者です、という言葉を一瞬信じさせるような模範的な亡命者っぷりである。

 バグダッシュやシェーンコップが危惧を覚える程、隣人の復讐の意図は明らかであったのだが、対象者が絞り込めないと対策も後手にまわってしまいがちだ。
 ヤン提督と考えるところが一番妥当ではあるのだが、結論を早めた挙句、誰か他の人間が暗殺されました、ではお話にならない。
 あれだけの復讐心を胸の奥底にしまいこんで振舞うのは余程の精神的強靭さが必要だ。

 たった一人。誰ともコミュニケーションできない孤独。
 くじけそうになる時にはその復讐対象者への思いをぶつけるだろうのにそれすらもできず。
 当然家族の写真など一切身辺にはおかれていない。

「まあ、呆れるくらい強い奴だな」
「兄さんが鍛えたら身体的にももっと強くなるんじゃない?」

 身体的に強くなってもらうと暗殺の成功率が高まってしまうのでそれはそれで困ってしまうのだが、ここまでボロを出さない相手だとすると、取り込んで懐柔する以外に方法はないように思われた。

「それで、薔薇の騎士の一員として認めるわけね」
「どうせ泳がせるなら近くで泳がせておいた方がいい」

 トゥナが淹れてくれた食後の紅茶は柑橘系のさわやかな香りがしていた。それを一口啜って彼は結論付ける。

「少しでもおかしな動きを見せれば、『戦闘中の事故』で死んでもらうだけのことだからな」

 無言で兄の言葉をかみ締めたような表情で、トゥナは赤いメッシュの入った髪を揺らし、自分の分の紅茶の水面に広がる波紋をじっと見つめていた。


 何もできなかった。

 というより、何もする気が起きなかった。

 イリアス=リアはベッドの上にごろんと横になって真っ白の天井をじっと見つめていた。
 復讐のためにここにきた。
 かなりいい線いっている。

 それなのに。

 突然、何かが切れたようにイリアスは考えることをやめてしまった。
 あの日。
 ずぶぬれになりながら見た、お節介な隣人の瞳から零れ落ちる涙を。


 殺された、どう考えても戦死した誰かに対して彼女は静かに泣いていた。


 戦争はこうやって誰かを泣かせるのだ。
 自分が誰かを殺せば、その影で誰かが泣いているのだ。


 それを覚悟して復讐のためだけにここへやってきたというのに。
 そんな覚悟などとうにできているはずだったのに。







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